狭い門から入りなさい。
滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。
それを見いだす者は少ない。
通用口を探しているのだろう…
「過狩り狩り」という「良質なマイナー作品」を、「鬼滅の刃」という「大衆の心をわしづかみにする超メジャーエンターテインメント」へと飛躍させたものは、いったい何だったのか。
私は以前の記事で、「鬼滅の刃」がもたらす感動には、ナショナリズムのもたらす高揚感と共通するものがある、と指摘した。社会学者の大澤真幸さんによれば「国民=ネーション」という共同体が、「われわれという一体感=ナショナリズム」を持つためには、「我々の死者」という存在が必要になる。
「かつて自分たちのために力を尽くし、死んでいった人々=『我々の死者』がいた。自分たちもその思いを引き継いでみんなのために力を尽くし、後の世代へと引き継いでいく」という時空を超えた連帯感、「我々の死者」の連鎖こそがナショナリズムの本質なのだ。
「みんなのお陰で命を守れた」「ありがとう最期まで戦ってくれて 自分ではない誰かの為(ため)に」「君たちのような立派な人に いつかきっと俺もなりたい」
「みんなのために戦って命を捨てた『我々の死者』たちを決して裏切らない。彼らの犠牲を無駄にはしない」という思いの連鎖、絆の連鎖こそが「鬼滅の刃」のメインテーマ(主題)であり、それは作品の中で繰り返し、繰り返し、変奏される。
そもそもちゃんと日本語が読めてないな~ってところから始まるがそれ以前に、
そうやって自分の価値観がすべて正しいと思い込む姿勢がポリコレが煙たがられる原因であり、
その結果としてポリコレが進まないということを自覚したほうがいいよ
ま、無理だろうけど
有名人じゃん、よかったじゃん!