90年代~00年代の個人主義は、それこそスタンドアロンコンプレックスと言いたくなるような、個人の自意識が、幸福も成果も責任もすべて引き受けられるとするものだった。でも、人間は物理的にも心理的にも一人では生き続けられない。ここまで利便性が高くなっても、だ。だからそれは間違っていた。
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個人で完結しようとする個人は、老後までその個人として完結できる可能性は、ある。だが、このイデオロギーは子子孫孫を増やして繁殖するには適さないイデオロギーだから、世代を経るごとに減っていく。繁殖するのは、そのようなイデオロギーを強くは信奉していない者達とその子孫と思われる。
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私が地方出身の未文明人であるせいか、それとも無自覚に内面化してしまっているせいか、個人主義が何なのかよくわからない。それは具体的に誰が言い出したことでどのような思想なのか。小此木-土居-和田みたいな精神科医の一派が西洋的な個人主義とか言っているらしいが、アメリカはタウンシップの国だったし、ヨーロッパもカトリックは集団宗教であり共産主義は共同主義だ。ロマラブ幻想を輸出しまくったのも西洋である。スタンドアロンな個人主義「者」というのもよくわからないが、ニューヨークとかで知的でクールで容姿端麗でばりばり稼いでる感じの人たちのことだろうか。
私が子供時代に一番多く過ごした町はヤンキー街のさらに奥、そもそも無人だった山を削り原っぱを焼き払ったような土地で、寺も神社も無い祭りもない、元々共同体が存在したことがないような町だったが、「友人・恋人・家庭は何よりも大事。それなくして幸福無し」というイデオロギーが支配していた。金も宗教も共同体も無いからそれしか頼れることがないからかもしれないとも思えるが、間違いなくTVを中心にその他のメディアもそういうイデオロギーをまき散らしていたとも記憶している。スタンドアロンな個人主義なんて「個性」なんかと同じで、バブルに沸く東京で一瞬だけ流行ったものを評論家や精神科医が拡大視しただけのものじゃないだろうか。もしスタンドアロンな個人主義が支配的だったなら、非モテだのコミュ障だのに悩む人間などいなかったし、わざわざスタンドアロンでも満足しようという思想を捻出する必要もなかった。温かい共同体を夢想する孤独なネトウヨが増殖することも無かっただろう。
これからどういう遺伝子・イデオロギーが淘汰されていくのか見立ても曖昧にみえる。具体的にどういう層が繁殖すると想定しているのだろう。わが町(市)は少子化が進んでいるがヤンキーが多い。ヤンキーが多い(かつては早婚が多かった)にも関わらず少子化なのか、ヤンキーが多い(低所得)がゆえに少子化なのか、考えても仕方なさそうである。少子化は全国的なものだからだ。わが町特有の問題でもヤンキー特有の問題でも無さそうに見える。オタクやサブカルの問題でも無いだろう。この草食時代、オタクが恋愛しない理由を分析したところで特有の自己愛形式なんて出てきはしない。
fromdusktildawnさんの2026年試験管内の、精子と卵子の繁殖行動と淘汰
この記事が書かれたのが2006年であり今は2016年の終わり、2026年との中間である。スタンドアロンな個人主義者にはどのような淘汰圧がかかっているのだろうか。
元記事のid:fromdusktildawn氏の説とid:p_shirokuma氏による他の淘汰に関する記事と合わせて考えると「性淘汰を経た、容姿とコミュニケーション能力に優れた男性」且つ「グローバル資本主義を勝ち抜いた抜群の頭脳を持った稼げる少数の男性」が事実上の一夫多妻を形成することで少子化傾向が改善され“新しくて賢い人間”へとevolutionしていくという主張のようだ。おや、“新しくて賢い人間”、私が想定する「スタンドアロンな個人主義者」(ニューヨークとかで知的でクールで容姿端麗でばりばり稼いでる感じの人たち)そのものではないか。