2013-08-21

父親との関係

最悪でもないし、どん底というわけでもないけど、どこかに吐きたかったこと。

誰かの暇つぶしになったらいいな。

一番覚えてること。小学2年生ぐらいの時に暴力を振られたこと。

ある日の夜ご飯、ある野菜がどうしても食べれなくて、私は食卓で「これキラーイ」と言った。

食べ終わった後、私はクッションの上でゴロゴロしてた。

そしたら父が、寝転がっている私の上に覆いかぶさった。私は遊んでくれているのだと思い、うきゃきゃと喜んだ。父も、笑ってた。

でも逃れようとしても、そこから出ることができなかった。じゃれてるとは言えないほどの力だった。

「あれ、おかしいな?」と思った。なんで離してくれないんだろう?

振り向くと父は無表情で、無言で、私を縛り付けていた。

「なんだかこれはやばいやつだ」と幼い脳が察知して、本気でもがいた。そしたらスルッと抜けた。

そしたら母が「パパにごめんなさいと言いなさい!!」と、凄まじい形相で言った。

父が何に対して怒っているのか検討もつかなかった。でも「ごめんなさい」と何度も言った。喚いた。

父が私に迫ってきたので、怖くてとりあえず逃げた。そしたら父は「ゴルァァァアアア」と怒鳴りながら椅子を頭の上にまで持ち上げて私を追った。

必死で逃げたけど、部屋が広いわけじゃなかったから簡単に追い詰められた。

行き止まりの場で崩れ落ちる私。そこから見上げた、少し逆光の当たった父の殺気立った表情。振りかざす腕。

当時の私は、本当に殺されると思った。死ぬだって思った。

父が私に椅子を投げつけようとした瞬間、母が父を押さえつけた。

「◯◯ちゃん、部屋に戻って!!」母の声で我に返った。

「ごめんなさい!ごめんなさい!」と必死に謝る母を背に、今までにない速さで階段を駆け上がった。

部屋のドアをすぐさま閉めて毛布の中に包まって隠れた(つもりだった)。でも見つかったら今度こそ殺されると思った。

心臓バクバクで、息も絶え絶えで。たまに毛布の間から目を出して外の様子を伺って。でもしばらく経っても父が上がってくる気配はなかった。

その後の記憶はない。

今、大人になってこの記憶を振り返ると、あの人は言葉で叱ればよかったのにと思う。

できれば叱らず、「なんで好き嫌いをすることが良くないなのか」を教えるぐらいでよかったのに。

なぜ、ここまで大げさなことをしたのだろう?

あの人はほとんど喋らない。なのに突然怒り出す。どうでもいいことでブチ切れる。

「父が怒った時はテーブルから離れなさい」と母から教えてもらったことがある。

そしたらテーブルをひっくり返されても、割れガラスで怪我をしなくて済む、と。

でも覚えてる。私の好きなご飯が床に落とされたことを。私が使っていたコップが割れたことを。

それを傍観したらご飯は中断され、2階に上がりベッドで眠る

母は定期的に怒られていた。ベッドで寝たふりをしても怒鳴り声が聞こえた。家が揺れた。

壁にはいしか穴が開いていた。父が怒った時に殴って開けた穴。風呂のドアも割れガムテープが貼られていた。

日々目にするものだったので精神的に参った。難しいことは考えられない年齢だったけど、それでもイヤな気持ちはずっとあった。

これが小学2年生までの記憶

この程度でも大分つらい思い出なのに、ガチ暴力振られてる人なんて私よりも恐怖を感じてるわけで、そう思うと可哀想でならない。

こんなん言ったらキリがないけど、なんで人に危害を加えるような子供じみた大人が蔓延っているんだろう、と。

もし私が相当悪いことをして、だから体罰を受けるんだったらまだ納得できるんだけど。

好き嫌い、そんなにダメだった?

小さい頃は疑問に思わなかったけど、今思うとオカシイと思うこと。

父がこぼした食べ物や落とした物は母が拾ってくれるまで待つ。父はありがとうも言わない。

確かに仕事って大変だろうし、稼いでもらってる身だけど。父って王様なの?母って奴隷なの?結婚ってそういうものなの?

母は離婚も別居もするつもりがなかった。何度か理由を問い詰めたことはあるけど、「しょうがないよ」の一点張りだった。

父が帰ってくるのを恐れる日々、母や私が怒鳴られる日々、家が荒らされる日々。

そういうのが私の日常だった。どん底じゃないけど、平凡な家庭とは程遠かった。

父に留学を強いられた時、私は留学したくないと主張した。日本にいなきゃいけない理由があったからなんだけど、長くなるからそれはまた別の話。

父は理由も聞かず、私の腕を掴んで私を家から放り出した。17歳の時かなあ。

しばらく玄関で待ったけど、尿意を催したのでパジャマ姿で枕を持ったまま夜を彷徨った。人、結構たから恥ずかしかった。

帰ってきたら「どこ行ってたんだ」と怒られた。いや、追い出したのあなたでしょ。トイレ行かせてよ。

受ける大学の選択の期限が迫った時、もう一度勇気を出して話し合った。

そしたら今度はテーブルとソファと棚がひっくり返った。皿を床に投げつけまくったから、床はガラスの破片だらけだった。ドラマみたいな光景だった。

今思えば、沢山写メってツイッターうpすれば良かったなんて思う。その時ツイッターが繁盛してればよかったのに。

まあ、そうしたところで離婚が成立するとか父が逮捕されるわけでもないんだけど。

DV相談的な無料電話相談しても何も解決しないしね。あれ、なんのためにあるんだろうね。

でも1枚だけ隠し撮りした。当時の携帯カメラの画質がそんなによくなかったから何のこっちゃ分からない写真だけど。

そんで話は戻って、留学するぐらいなら私は死にたかたから、論争があって以来、私は勉強するのをやめた。

授業もサボった。校長先生に父のことを相談した上で、公認で。どうせ学校でもいじめられててぼっちだったので、私がいなくなったとこで誰も困らなかった。

なんだかんだあって、第一志望の日本のまともな大学に受かって私は喜んだ。けど父が喜ぶはずもなく。紙、破られた。トイレで。

そんで外国大学にも受かってしまった。父は喜んだ。私は泣いた。

これほど嬉しくない大学合格ってあるのかなあ、って思った。留学することになったら自殺するって心に決めてたから。

まあ留学する前に命の恩人と出会っちゃったもんだから、今もなんだかんだ生きてるんだけど。それはまた別の話で。

でもその命の恩人と知り合いというわけでもないし、もう未練がないので、高3の時からいつ死んでもOK!という状態。

から事件や事故病気がこっちに来ることを祈っています病気になっても後遺症ができても日本にいられるなら幸せなので。

そのくらい私にとって海外地獄だったので。これもまた別の話ね。

日本に帰ってきても父とは会話しない。したら大抵テーブルひっくり返るから。ご飯もお皿ももったいないしね。

また大学卒業する頃になったら、また家が荒れるんだと思う。大学院の進路か、就職先か、どちらにせよ。それが今の不安

  • 私は食卓で「これキラーイ」と言った。 私は童貞で、に見えた。 疲れてるのかな。

  • でも経済的に支援してもらってるわけでしょ。 なんかモヤモヤした。 本気で許せないなら完全に縁を切ればいいのに。 それにそのお父さん、物には当たってるけど人に対しては暴力ふ...

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