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はてなキーワード: 疎外論とは

2023-01-24

anond:20230124111001

それは「疎外論」であって、「マルクス疎外論」じゃないんだよ

疎外って、少なくともヘーゲルフォイエルバッハマルクスで分けて考えるべきなんだよ

マルクスという名前を持ってくるなら、マルクス疎外論じゃないといけない

資本関係言及しないと

Wikipediaですら「疎外」と「マルクス疎外論」を分けてページを作ってるぐらいだ

それくらい別もんなんだよ

簡単に言えば「言葉の使い方が雑すぎて素人ってすぐ分かる」ってやつだよ

ITでも「パソコンメモリ容量は256Gは必要」って言われたら「いやそれストレージのこと?」ってツッコミが入るはず

その言葉遣いだけでその人の理解度が分かるんだよ

anond:20230124105125

類似してないんだって

疎外論資本主義の話

でもお金財産持っている人間モテるのは太古の昔からなんだよ

マルクス疎外論我田引水引用してるから、有り得んよこんな話って苦笑してしま

陰謀論ってこうやって生まれるんだろうなって

マルクス信者共産主義者ってこうやって生まれるんだなってよく分かるよ

anond:20230124104404

そりゃ誰だってマルクス婚活のことを意識して、疎外論を書いたわけじゃないことくらい、承知のことだろうさ。

記事あくまでも、婚活の厳しい現実に、疎外論との類似性見出したってだけじゃないかな。

婚活マルクス疎外論は全く関係がない

婚活マルクス疎外論を絡めた記事話題になってたけどさ

はっきり言って、婚活マルクス疎外論関係ないんだよ

マルクスわかってるやつがブクマカに皆無なのがよく分かる

せめて資本論と経哲草稿と共産党宣言くらいは読んでるんだろうな?

解説本じゃなくてさ

マルクス疎外論って、資本主義における労働疎外の話なんだよ

本来労働は喜びなんだが、資本によって労働の喜びが失われるって話なんだ

そこから人間疎外という話になる

資本支配されることによって、人間らしさが奪われるという話なんだ

これが唯物史観(物によって人間が動かされている)なんだよ

から資本主義をやめて生産物労働者の手に取り戻し、人間らしさを取り戻そうという話になる

そこで婚活の話。

婚活って資本主義関係あるのか?

かに収入によって選ばれないひとも出てくるが、そんなの資本主義以前からだろ?

古代でも中世でもそんなの当たり前だったんじゃないの?

金持ってるやつ、地位が高いやつ、見た目がいいやつ、若いやつが有利なのはずっと昔から変わらんのよ

資本主義関係なくないか

マルクスの本をちゃんと読んでないから、我流マルクスの話を婚活に絡めてしまうんだよ

ちょっと考えれば分かることだよ

自分大学経済学部だったから多少マルクス学んだだけで、そこまで詳しくはないけどさ

こんな雑な話に納得してしまうのは本当に程度が低いとしか思えないよ

https://anond.hatelabo.jp/20230124090359




追記

こういう増田は伸びない。面白くない話だからもっと煽らないと食いつかないんだよなぁ…

2018-10-02

同感だし、マルクス疎外論から人類テーマだ。

上手くやろうと試みているんだけど、意外と解決は難しい。。。

2010-11-03

http://anond.hatelabo.jp/20101103122728

たしか「ニッポン知識人」という本で廣松渉の項を説明するのに疎外論ウンコでやってた記憶がおぼろげながらにある。

2009-10-18

新左翼という日本にのみ生息したカルト

書評:「新左翼ロスジェネ

http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-488C-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E8%8B%B1%E7%94%9F/dp/408720488X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1255857512&sr=1-1

いつの時代にも青春に特有の不安や「自分探し」があるのではないか。世間でいうほど絶対的貧困状態に置かれた若者は多くない(フリーターは被扶養者であることが多い)。かつての新左翼政治運動としてはナンセンスで、全共闘マルクス主義というよりアナーキズムに近かった。60年安保も、学生エリート意識による「集団的なストレス発散」だった。

こういう若者不安を食い物にする連中はいつの時代にもいるもので、著者が企画した対談で『蟹工船』ブームを起こした雨宮処凜やモリタクなどの「貧困ビジネス」は、ちょっとした成長産業だ。しかしかつての新左翼原理などと同様、こういうカルトは何も解決しない。ただ新左翼日本の高度成長の最中にそれを批判する見当違いのお遊びにすぎなかったが、いまロスジェネの直面しているのは日本社会の本物の病だ。

ところが雨宮モリタク的な貧困ビジネスは、彼らに迎合して再分配によって問題が解決するかのような幻想を振りまく。NHKの「クローズアップ現代」で「“助けて”と言えない30代」という番組が今年最高の視聴率を記録したそうだが、メディアにとっても貧困自分探しはおいしいビジネスだ。しかし若者孤立させているのが「新自由主義」による「自己責任」論だとかいうのは、お門違いもいいところだ。それはかつて新左翼が「日帝」とか「独占資本」などの藁人形を相手に闘ったのと同じである。

思えば「アプレゲール」が実存主義を語り、全共闘疎外論を語ったのも、自分探しバリエーションだったのかもしれない。最近哲学ネタもつきたので、社会学がお手軽な不安理論武装になっているようだ。こうした意匠は時代とともに変わるもので、経済成長で解決するわけではない。雨宮的なアジテーションは、『しがみつかない生き方』みたいな人生論と大差ないのだろう。本書がこの点を指摘したのはおもしろいが、中身は二次資料の切り貼りで読む価値はない。

2009-05-05

http://anond.hatelabo.jp/20090505070439

自分からの疎外」という言葉がさらっと出て来るあたり、ちゃんと勉強してるように見える。疎外論の基本だよね。

2008-06-20

みーんな疎外中。

 長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。

疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。

 なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。

 じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。

「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」

「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」

「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」

「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」

「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」

「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」

「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」

「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」

「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」

「その人を手当てすりゃいいじゃん」

 ……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。

「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。

 例えば教育。そもそも公教育制度って、政治社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像国民保証する」ことにあるわけです。

 だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。

 警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。

 他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列未来投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。

 だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?

 いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級リングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級リングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。

 だから、庵野監督大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)

 なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。

 ポルポト文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。

 ……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。

疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェ運命愛もちょっと似てるかも。

 ……でもこれって、

「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」

という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論ポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女ジジイ

 ……この「反疎外論シリーズ、いろいろ応用がききそうだな。

 例えば、

「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」

「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずく正義押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」

とか、

「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」

「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」

「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」

ライダーは二人も要らない」

「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」

貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」

「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」

(去っていくザビーゼクター

「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」

(半年後)

「もう疎外論も物象化論もないんだよ。影山、俺と一緒に転向しよう……。天道、おまえはいいよなあ、どうせ俺なんか」

とか。

 
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