はてなキーワード: 政治運動とは
創作のBLや百合が好き/嫌いだからって、現実に存在する同性愛が好き/嫌いという訳ではないよ。両者は原則的に独立。
日本の同人表現世界は現実の描写というより、欲望のファンタジーの描写に特化したから。欲望を描くことには長けているが、「表現は現実の描写でなければならない」という人には常に誤解される。
あなたのように「BLや百合が好きな人は現実に存在する同性愛を政治的にどうこうしようとするはずだ」「ロリペドが好きな人は小児への性的虐待の支持者だ」とはならないんだよね。それは政治運動には都合が悪いけど、やむをえない。それはそういうものだから。
一応時代の淘汰をくぐってるからよ。
わりかしよかったものが残ってるわけ。
あと伝統が100年てのはさすがに舐めすぎだね。
町並みで言っても何百年。
日本の町並みは割りと歴史に敬意を払わない方だからヨーロッパなんかもっとすごい。
「死に対して何のセレモニーもしない」って人は少ない。
これは人間の自然な感情であって、そういうのの積み重ねが伝統だと思う。
たまにそういうのすら否定しよう無くしてしまおうと言う「革新」が現れて
ようするにカルトなんだけど、新興宗教だとか新思想の顔をとる。
一時期大きな顔をした左翼なんてのは「宗教は一切やめろー」なんつってたが
彼等の論拠は非常に浅はかな合理性だったわけ。
誰でも中学生の時に考える、「大人みんなが大事にしてるけどこれって無駄じゃん!」という思い付き。
「大多数が長年やってきたってことはどういうことだ?」と思い至るほどの慎重な思考や謙虚な見方もなくて、
かわりに「自分だけは凡人どもから飛翔したことを考えられるに違いない」といううかつな万能感だけがある。
彼等の隠し切れない自信過剰や自己愛、他人を見下したいという未熟な自意識が露出してるからでさ。
別に頭が良くもないのに自分は頭がいいと信じ込みたいって人が多い。
こういう人がよく考えずに広い相談もせずにものを壊しました、焼きました、殺しました、
っていうのがカルトの興亡にはよくある。
伝統は万能でも絶対でもないけど、とりあえず多くの人の間でセレクションを受けてるから
カシコイつもりの少数の傲慢バカの思い付きよりはベターであることがほとんど。
というかまあ
なんか伝統や保守を憎んでるような匂いがするもの、敬意が全く感じられないもの、
よく考えてないことが明らかだし、
人によっちゃただの個人的ルサンチマンを政治運動に仮託してたりする(これがいっぱいいる!)。
進取の心は勿論大事だけども
昨日、フジテレビ系列のニュースJAPANを薄ぼんやり観てたら、「ネットの影響力が拡大していますが……」と話を振られた解説委員のナントカさんが全力でかみ合ってない話をしていたのでツッコんでみる。
例えば、オバマ大統領は選挙運動にネットも使ったが、彼の魅力は演説の上手さにある。
日本でもスピーチで自分をアピールできるように、早くからそういう教育をすべきだ。
とかなんとか。
何が的外れかというと、「スピーチ」は「コンテンツ(内容)」で、「インターネット」は「メディア(媒体)」なのに、同列で語ってしまっていること。
というか、尖閣諸島問題で、動画が流出って散々やってたじゃん。
インターネットはただの媒体で、そこに盛り込むコンテンツは、文字情報でもいいし、静止画でもいいし、動画でもいい。(古代ローマの文書を収録したデータベースだってある。パピルス文書の画像だって見られるのだ)。
「インターネットの影響力が拡大している」というのは、「誰でも発信者になれる」というメディアの特性について意見を述べて欲しかったのであって、そこに盛り込むコンテンツの好みなんて聞いてない。
それなのに、この解説委員のナントカさんは、「ファミコンもいいけど外で遊ぼう!」みたいな的外れな意見をドヤ顔で延々と述べてしまっていた。
新しいメディアの登場と普及、という現象は過去にも起きていて、1920年代ころから、「映画」「ラジオ」「テレビ」の順で普及していった。
前後関係は分かんないけど、「蓄音機」「レコード」「テープレコーダー」もある。
これらの過去の「新しいメディア」の特徴は、メディア(媒体)と、そこに乗せて運ばれるコンテンツ(内容)が、だいたい一対一対応していたことだ。
だから、「テレビの普及」は、「動画の普及」と言い換えても、そんなに間違いではない。
"video kills radiostar"ではないが、「テレビが普及したので、これからは音声だけじゃなく身なりにも気を使わないといけませんね」というのは正しいのだ。
デジタル化してしまえば、文字情報も、音声も、動画も、すべて同じように配信できてしまう。
これが、大昔(なぜか1920年代より昔に感じる)「デジタル時代の到来」だ何だと騒がれていたことの、そもそもの本質ではないのか。
あのころ、一通り大騒ぎをしたはずなのに、この解説委員のオッチャンはきれいさっぱり忘れて、インターネットを文字情報主体のコンテンツと一対一で結びつけようとしている。
せいぜい、「2ちゃんねる」とか「ブログ」とか、ひょっとしたら「ツイッター」くらいしかイメージできていないのだろう。
そんなわけで、このオッチャンは恐ろしく不勉強で、過去の経験すら忘れ、メディアとコンテンツの区別という基本的なことも出来ていない。
そのため、「ネットよりスピーチ」という的外れな話題で時間をつぶしてしまった。
しかも、そのことに気づくチャンスは、ちゃんと番組を観ていれば、それなりにあったはずなのだ。
この質問の前のニュースでは、色々な国で、若者や庶民の不満がネットを通じて共有され、政治運動につながっているという話をやっていた。
つまり、「無名の人々が双方向性のメディアで意見を交換し合い、結合していく」という、まさにインターネットというメディアに特徴的な現象を話題にしていた。
彼の主張は、この直前のニュースとすら、噛み合っていない。
オッチャンは、「スピーチも大切だ」という。
オバマさんは、大統領候補だったから、そのスピーチを多くの人が聞いたのだ。
聞いてもらえなければ、スピーチの上手い下手なんて関係ない。
普通の人のスピーチが問題になるのは、顔の見える範囲、せいぜいが会社のプレゼン程度だろう。
そういう意味ではスピーチ能力は重要なのだが、そういう話は誰もしていない。
そこで「スピーチ」がどういう位置を占めるかを論じないと意味がない。
ここでは、コンテンツ同士の優劣が問題になる。
受け取るのにコスト(手間)はかからないが情報量の少ない「テキスト」と、コストはかかるが情報量の多い「スピーチ(動画)」が対比されなければおかしい。
インターネットで政治運動を繰り広げている人々は、無名だからこそ、「テキスト」で意見を交換する。
しかし、例えばグループのリーダーとして、知名度が上がれば、「スピーチ」を再生してもらえるようになる。
また、集会などを開けば、「スピーチ」が会合の中心になるだろう。
そのときのために、スピーチ能力も磨いておかなければならない。
というのなら、まだ分からなくもない。
しかし、このオッチャンの言ってるのは、そういうことじゃない。
専制国家で、政治に不満のある人々がインターネットを通じて意見を交換している。
そこでオッチャンは言う。
「たしかにインターネットも大事だけど、スピーチも大切だ。そこで、日本人もスピーチ能力を磨いて……」
どうしろと言うんだ。
僕が中共政府の民族政策を素晴らしいスピーチで批判したら、それが中国の民主化に繋がるとでもいうのか。
そもそも、僕のスピーチは、どういうメディアで聴き手の元に届けられるのか?
彼の解説は、ガンダムオタクが、「最近はアニメ増えてるね」と言われて、「でもガンダムの最新作の評判はね……!」と聞かれてもいないことを語り出すのと同じ構図になっている。
要するに、彼の思うところの「インターネッツ」(たぶん掲示板とか)の影響力を過少評価したくてたまらなくって、インターネットについて話を振られた瞬間、もうそういうことしか話せなくなってしまったんだと思う。
まぁそれはそれとして、要は変わることは期待してないわけだな。なるほど。
結局、今の日本の現状で個人レベルで見た一番いい戦略は「自助努力」なんだよね。
とりあえず、東大まで駆け上がってそこから先転ばなければ、まだ個人レベルで成功はできる。だから、一定以上の有能な層は
個人で夢を見ても社会に夢はみない。こうなってしまった元凶は「日本が」っていうより、前の世代の大失敗なんだろうね。
「政治運動」ってもの自体に若者が夢を見なくなった。まぁ、確かにそっちの方が簡単だし採算があうんだからしょうがないけど。
でも、それってやっぱ寂しいんだよなぁ。
結局人口構成で利益の相反する集団に劣る数しかない以上、段々と追い詰められていくのは明確だし。
民主主義的手続きで勝てないのであれば、今こそホントに暴動も含めた政治運動しかないんだよ。
いまからツイートするのは、ぼくが「政治的アクション・政治的言論」に関して原則とすべき、と考えていることです。それは政治的事件や政策への批判、なんらかの提案、具体的な行動、等々、政治に関する関わりのすべてを含む政治的アクションを起こすにあたって、 守るべきことと考えているものです。
・「批判」は「対案」を抱いて臨むべし……政治的問題を批判する時、単なる批判ではなく、なんらかの 「対案」を抱いてからあたるべきです。「××の〇〇という政策は愚か」ではなく「××の〇〇という政策で、△△は評価に値するが、□□は▲▲へ代替すべき」という語法で語るべきです。
・「対案」は「原理的」「現実的」「応急」「思いつき」のいずれでも良し……政治的問題に「正解」はありません。ただ「最適解」が存在するだけです。必要なのは、「最適解」に至る材料を提出することです。「言わない」ことがいちばんまずいのです。なぜ、 批判だけするのか。
・ぼくたちが「批判」だけして、「対案」を出さないのは、自分もまた「正解」を知らない、と思って いるからです。「どこかに正解がある」と学校教育は教えます。けれど、政治的イッシューに「正解」などないのです。だからこそ、なんでも「言ってみる」べきなのです。
・「自分の意見」は変わるべし…「対案」として「自分の意見」を提出しても、固執する必要はありません。というか、よりましな意見を目にしたら、「即座に変える」べきだとぼくは考えます。なぜなら、「対案」もまた「叩き台」にすぎないからです。一人より 複数の智恵を参考にすべきです。
・「対立する相手」の意見にこそ耳をかたむけるべし…もっとも本質的な批判は、対立者からのものです。だから、その意見にこそ耳をかたむけなければなりません。同調者や支持者の意見は、耳に優しいものですが、自分の「対案」を、「よりまし」にする力にはならないからです。
・「寛容」をもって臨むべし……「対立」する意見を持つ「対立者」を「敵」と考えてはなりません。 「対立者」もまた、同じこの共同体を構成する、かけがえのない成員なのですから。だから、「非国民」「売国奴」「愚か者」のような言葉を決して使ってはなりません。
ぼくがこのような原則を採用している理由は、60年代から70年にかけて、政治運動に参加していた時、この原則を採用できず、悲惨な結果を招いたことがあったからです。以後、ぼくは、これらを守るべき原則と考えるようになったのです。
CNN http://edition.cnn.com/2010/WORLD/asiapcf/10/02/japan.anti.china.protest/index.html
とWSJ http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704419504575527664218726440.html
とAFP http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5hNfgT_yOUO0w_vVwz170-98KfWlg?docId=CNG.7bb3329fbab3923d23b175eda2b0410f.6a1
が記事にしていた。
日本の暴力団や右翼団体は在日朝鮮人が主体となっていて、政治的な主張は金集めの建前でしか無い。
しかし、少数では有るが、政治的な主張が本音の団体も、存在する。今回渋谷を始めとして、日本の各地で集会とデモを行ったのは、そういうグループだ。
福岡で、中国からの観光客を乗せたバスを進路妨害して、旅行代理店からみかじめ料をせしめ取ろうとした街宣右翼とは違い、集会の許可や道路使用の許可をとって反民主党デモを行ったという話である。
今回は規模が小さかったようである。しかし、中国漁船の乱暴狼藉を記録したビデオの公開があれば、もう一荒れくるであろう。公開しなければしないで、日本政府の主張は嘘であると中国は攻勢に出てくる事になる。
サヨク学生や会社がらみの賃上げデモであれば、学生組織や会社組織といった後ろ盾の意思で行われる政治運動だが、右よりの思想でのデモや集会は、そういった後ろ盾が無い状態での運動という事であり、国民自身の自発的な行動と言える。
この手の右派デモが、日比谷公園で集合し、霞ヶ関を経て永田町という、サヨクデモのパレードコースに進出するのは、いつ頃になるのだろう。隼町交差点が封鎖されて、学生運動時代を思い出した民主党議員や大臣が、民主党本部ビルから石や火炎瓶を投下しているなんて事になると面白いのだが。
http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20100118/1263799034
「日本の韓国統治は善政か否か」問題で久しぶりに面白いエントリーを読んだ。正直、日本の韓国統治は悪だ、という議論は感情論ばかりが横行するので辟易していたのだが、こういう数字に基づいたエントリーが出てくるとちゃんと議論になる。実際、コメント欄でも、すれ違いはあるものの真っ当な議論になっているように思う。
でもさ、『ちゃんと学術的に認められた歴史書を読み直されるよう、お勧めいたします。』って書くならさ、もう一歩踏み込んでもいいと思うんだ。学問の主戦場たる英語の論文の数々に。ここ20年間、様々な定性定量分析が積み重ねられてるのに、それを無視するなんて余りにももったいない。
結局、日本も韓国もこの件ではバリバリの当事者な訳で、どうしたって中立的な議論は出来ない。純粋に学術的に中立的な議論をしても、その裏の政治的思惑を勘ぐられるのがオチだ。なら、第三者たる欧米の、それも世界最高峰の大学で教鞭を執る学者の議論を参照することは決して無意味な事じゃないはずだ。
それに、10年前と違って、我々はほぼ自由にこれらの議論にアクセスできる。Google Scholarで”Japan Korea colonization”を検索してみるだけでいい。10回くらいクリックすれば議論の形はある程度つかめてしまう。いい時代になったもんだ。
で、2時間ほど仕事をさぼって論文を流し読みした結論。それは、
ということ。ついでに言うと、欧米の開発経済学者と何度か話した時も、この結論をある種自明のように語っていたので、現在でもこのコンセンサスは有効であるように思う。私自身は門外漢なので断言は出来ないが。
日本の植民地政策の総論として、大体平均的な見解になっているのは、Bluce Cumings(シカゴ大教授)の以下の下りだと思う。
エトウ教授は日本の悪徳はヨーロッパの植民者のそれと何ら変わるところがなかった、と述べている。それは正しいのかもしれないが、一方でその美徳はヨーロッパ人のそれとは全く異なっていた。日本人には、信じるに足る「自らを正当化する神話」は存在しない。少なくとも何人かのフィリピン人は、アメリカの植民地主義は独立というゴールへと至るための良き教師であると信じていたが、日本は良き教師ではなかった。少なくとも幾人かはイギリスはインドにとって自由民主主義の良き模範であったと信じているが、日本は良き模範でもなかった。日本がもたらした美徳の数々は、倫理的には(philosophically)正当化するのは難しいが、実際的には(practically)容易に受け入れられるものだ:軍事的成功、強力な国権の運用、急速な経済発展、そして近代的な工業セクター。それゆえ、1945年に韓国人達は日本の植民地主義に対する全面的な拒絶を唱えて解放を謳歌したが、その一方で日本がもたらした様々な影響からは抜け出すことが出来ないという、二律背反に直面することになったのである。
ちなみに、このCumings教授は北朝鮮よりの言動が過ぎると批判を受けているくらいであって(英語のWikipedia参照)、決して日本よりのスタンスを取っているわけではない。むしろ、日本の植民地政策は朝鮮が政治的に分断される一因となったと書いている(人となりの雰囲気はこの辺りのブログで分かるかもしれない。http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20090208/1234060826)。それでもなお、36年間の日本の経済政策については、むしろ肯定的な言及が多い。日本の植民地政策についての興味深い言及もあるので、興味のある人は以下のリンクを読んでみると良いだろう。英語は平易なので、特に苦労なく読めるはずだ。
B. Cumings (1984), “The legacy of Japanese colonialism in Korea”, RH Myers and MR Peattie eds., The Japanese Colonial Empire: 1895-1945, Princeton UP.
http://brightrising.com/pdf211/week10/Bruce%20Cumings%20%27The%20Legacy%20of%20Japanese%20Colonialism%20in%20Korea%27%20-The%20Japanese%20Colonial%20Empire-%20p.%20478-496.pdf
似たような議論としては、
LG Reynolds (1983), “The Spread of Economic Growth to the Third World: 1850-1980”, Journal of Economic Literature.
G-W Shin (1998), “Agrarian Conflict and the origins of Korean Capitalism”, American Journal of Sociology.
CJ Eckert (1991), Offspring of Empire, U of Washington Press
などがまとまっている(最後のは読んでないが)ので、興味のある人は参照して欲しい。Google scholarで検索すれば他にも沢山出てくる。個人的にはReynoldsが俯瞰的にまとめていて良いと思う(アクセス権がないと入手が困難だが)。
さて、ここからが本題だ。欧米の碩学達はなぜ「日本の植民地政策は有益であった」と結論づけたのだろう。正直、上のリンクを読みやがれの一言で済ませてしまっても良いのだが、一連の議論がある程度まとまっている論文を見つけたので、以下で抄訳してみたい。プリンストン大学のAtul Kohli教授の論文なのだが、まず彼は94年に「日本の植民地政策は、戦後の韓国の経済発展に重要な貢献を成した」という論文を発表したのだが、これにS. Haggard(UCサンディエゴ校)、D.Kang(ダートマスカレッジ)、C-I Moon(延世大学)の3人が「いやいや日本の影響なんてたいしたことないから」という反論論文(以下HKM)を寄稿した。これに対して更に「いや、君たちの言うことはおかしい」という再反論をKohliが行った、という流れになっている。この最後の再反論の論文が短くまとまっていて論点も明確なので、これを取り上げてみることにしよう。
HKMではKohli論文に対して4点の反論を試みている。まず、日本統治下での韓国の経済成長と、終戦後の韓国の経済成長とを過大評価しているという点。『私の原論文では、主によく知られたS-C Suh (1978)のデータに基づいて、植民地時代の米の生産量は年率2%相当の伸びを示しており、その相当量が土地1単位辺りの収量の増加によると議論している。生産性の向上は、日本政府による計画的な灌漑、品種改良と肥料の使用を反映したものだ。
日本の行動が利己的なものであって、多くの韓国人はこれらの植民政策の恩恵を受けていなかったという不快な事実に関係なく、安定的で近代的な農業生産の成長は植民地主義の歴史の中でほぼ無類の成果であった。この経験は韓国を他のアジア諸国(除日台)から一線を画す存在にした。そして、この経験はその後の韓国の経済成長へ貢献する一要素となったことは間違いない。』
HKMはこれに反論を試みているが、『HKM自身が提示した資料によれば、1911年から38年までの植民下の韓国の農業成長は3.17%増加しており、私の提示した数字よりも更に高い。』Dehliはなぜ彼らはこの事実をちゃんと議論しないのかと指摘した上で、もう少し細かい議論をしている。さらに他の研究を引いて、Myers and Yamada (1984)は1920年から40年までの農業生産の伸びを年率1.15%、S-C Suh (1978)は穀物生産が25年間で45%、米は30年間で100%増加したと推計しており、『これらのデータを前にして、植民政策下の韓国の農業生産と米の生産が植民経済の基準から言ってかなりの増加を示したことを誰が疑うのだろうか?』と問うている。
『より重要なのは、これらの、特に米の生産の成長の源泉は何かと言うことだ。Suh (1978)とMyers and Yamada (1984)の双方が、この時期に耕地の大幅な拡大や、農業への労働者の大量投入は見られないと指摘している。これらが強く示唆するのは生産性の向上である。HKMは生産性の向上はあくまで緩やかなものに過ぎなかったと主張するが、30年間で60%もの生産性の向上(Suh, 1978)を緩やかと表現するのは不可能だ。籾付米の栽培パターンの変化は韓国農業に“生物学的革命”が起こったことを示している:品種改良された種籾を使用する水田は倍に増え、肥料の投入量は10倍になり、灌漑された農地は年率10%近いスピードで拡大し続けた(Suh, 1978, Myers and Yamada, 1894, Ishikawa, 1967)。
これらの改善は明治時代の農地革命の日本から韓国への計画的な普及の成果(Suh, 1978, Myers and Yamada, 1984)であった。日本の植民地政府の韓国農業改革の努力によって、“近代的な農業革命が開始され”、日本や台湾と同様に、“これはアジアにおける近代農業改革の端緒となったと言って良いだろう”(Myers and Yamada, 1984)。更に、他の研究者達が指摘するように、この革命は終戦後も引き続き行われた。これでもなお、「ユニークな植民地の運営は大戦後の韓国の経済発展への足がかりとなった」ことを否定することが出来るのだろうか?』
日本の工業政策の影響については、『HKMは3つの伝統的な-そしてあまり説得的ではない-理由から反論している。曰く、工業部門は殆ど日本人が所有していた。曰く、その殆どは北朝鮮に位置していて韓国の経済発展には関係ない。曰く、どちらにせよ、朝鮮戦争であらかた破壊されたので関係ない。
日本人への所有権の集中という最初のポイントは説得的とは言えない。韓国の1965年以降の経済成長においても、企業の所有権はかなり集中していた。こっちは問題ではないとでも?日本の資本について言えば、「外国資本ニ支配サレタ工業化ハ真ノ工業化トハ言エナイ」的な議論は、既に説得力を失って久しい。第2に、工業資本が朝鮮戦争で破壊されたという点は私が原論文で指摘済みの点である。繰り返すが、当時の工業資本の約半数は南朝鮮にあったのである。さらに、南朝鮮にあったのは繊維工場のような軽工業資本であって、北の重工業に比べて輸出産業としては離陸しやすかったはずである。』
Kohliは、更に反論として、脱植民地運動と朝鮮戦争の破壊からの急速な回復は、韓国人が近代工業を運営した経験があったからこそであること、(2) 工業資本が戦争で破壊されたのは事実としても、知識は消え去らないこと、近年のRomer (1993)などの内省的成長理論においても知識の重要性が強調されていること、などから、日本の植民地時代の「正の遺産」は韓国の経済発展に寄与したとしている。
政治プロセスの話をしているのだが、「てめーの読み違いだよ」という話なので省略。
『主にEckert (1991)の重要な著作に依って、私は原論文で日本の植民地主義が韓国で資本主義が孵化するためのフレームワークを構築した、と論じた。』『HKMはEckertはある特定の例しか研究しておらず、日本の植民地政策の影響がなかったとしても、韓国固有の資本主義がいずれ芽生えたはずだ、と主張している。』
これに対する反論として、Kohliは3点の反論を挙げている。(1) Eckert (1991)の“韓国の資本主義は日本の統治の下で、日本の公式な承認(official Japanese blessing)をもって花開いた”という議論は依然として受け入れられており、仮に例証の少なさが問題だとしても、多くの研究者がいくつもの例証を発見しつつある(例えば、Ho Su Yolの研究によれば、韓国の企業家の数と、韓国人所有の企業の規模は、1930年代に共に増加している。(2) 歴史にifはありません。 (3) 『確かに、植民政府は利己的な動機で動いていた。確かに、多くの企業は日本人に所有されていた。しかしそれでも、その政府で、企業で、多くの韓国人が働いていた。そして、その過程で日本式の資本主義はゆっくりと、しかし確実に韓国に根付いていった。更に言えば、多くの韓国人起業家がそのビジネスをスタートさせたのはこの時期なのだ (Eckert, 1991)。確かに、有力な財閥企業の多くは大戦後に設立されている。しかし、資本主義というのはある日突然芽生えるものではない。多くの財閥企業(現代、三星、Lucky Starなど)の創業者達が最初に事業を興したのは植民地時代なのである。』
最後に、日本政府による朝鮮人労働者の使役の問題について。『私は原論文で、韓国での日本人は、きわめて抑圧的でそして日本自身のそれによく似た労使関係の構築に寄与した、と主張した。マネージャー達は若い韓国人を雇い、OJTを施し、愛社精神を植え付け、とんでもない長時間労働を要求し、そして国家権力を後ろ盾として労働組合や政治的な活動を禁じた。さらに、“サンポ”システムで「産業愛国クラブ(industrial patriotism clubs)」を組織して経営者と労働運動のリーダー達を同じクラブの一員とし、彼ら労働運動のリーダー達を経営者が雇い挙げる仕組みを作り上げた。この厳格なアメとムチのシステムは日本人経営者に「生産性上昇よりも低い賃金アップ」という恩恵をもたらしただけでなく、政治運動を無視して生産性向上に集中させることを可能にした。この仕組みは韓国政府に受け継がれ、その高度成長期まではこの仕組みは維持された。』
以下結論が続くが省略する。残念ながら、この論文は大学関係者以外はアクセス権がないので、興味のある方は大学図書館で以下を当たって欲しい。
A Kohli, (1994), “Where do high growth political economics come from?”, World Development.
S Haggard, D Kang, CI Moon (1997), “Japanese colonialism and Korean development: a critique”, World Development
A Kohli, (1997), “Japanese colonialism and Korean development: a reply”, World Development.
念のために書くが、別に権威ある意見が全てだと言っているわけではない。自分の足でデータを探して考えるのはとても大切なこと。でも、それだけではたどり着けない議論というのがあることも分かってもらえればありがたい。上で紹介したKohliは帝国主義と経済発展が専門分野で、日々そんなことばかり議論する毎日を送っているはずだ。そういう人たちがたどり着いた「日本の植民地政策にはありきたりのvices(悪徳)と、ユニークなvirtues(美徳)がある」という結論には、それだけの重みがあると私は思う。
ふと思ったのですが、鳩山内閣とは「日本人にとっての通過儀礼(イニシエーション)」なのではないでしょうか?
思い出していただきたいのは、麻生政権時代の話です。あの時、私たちはなにかモヤモヤとしたものの中にいたような感覚を感じていたのではないかということです。自分自身に不確定感を感じており、自暴自棄な部分があったり、八方ふさがり感を感じていたり、手応えの無い生を生きている様な感覚を感じていたのではないでしょうか?
つまり、あのまま、自民党政治なり、麻生政権が続いていたとしたら、私たちは、自分たちが溶けてなくなるような感覚に襲われていたのではないかということです。
戦後民主主義というマッカーサーの誘導通り、生きている事にリアリティのない、夢見がちな子供こそが日本人であるということを日本人自身が真面目に実行してしまい、日本人の精神年齢は永遠の12歳に閉じ込められてしまいました。つまり、団塊世代を含めて、子供が多数派になってしまったという現実があると思います。
そして、その結果として、野党が多数派となり、鳩山内閣になったという訳です。
今までは、誰かが(この場合、自民党が)、親のように国民の面倒を見てくれましたから、親に子供が不満をぶつけるように、国民も野党もマスコミも外部からヤジを飛ばしていれば、責任を果たした気分になっていました。しかし、いざ、自分が権力を持ってみると何も出来ていないのが現実としてあります。
鳩山首相というのは、今まで、外部にいた国民や野党やマスコミが……外部にいた人間が、鏡に映った場合にどう見えるかという事の体現者です。彼を無能、正常な精神状態でない、歪んだ笑顔が醜い(そこまで言ってませんね)と責め立てた所で、それは結局、国民自身が自分自身を批判していると言える事が出来るのではないでしょうか。
ですので、結果的にであれ、どうであれ、鳩山内閣とは「日本人にとっての通過儀礼(イニシエーション)」として機能してしまっているというのが実情でしょう。
以前、こんな記事を見ました。
「三国志の中で誰になりたいか?」という記事です。中国では狭義心に富む「関羽」が人気でした。アメリカでは有能で策謀謀略に長けた「曹操」が人気でした。日本では天才軍師の「諸葛孔明」が人気でした。
これが何を表しているかというと、自分の立ちたい立ち位置を表しているのではないでしょうか。
つまり、「トップに立たずに、冴えたアドバイスをする「知恵袋」として活躍したい」というのが日本人の心情な訳です。
これがそのまま、日本人の野党体質に繋がっているのではないかと思います。
例えば、ある社会学者があるジャーナリストをなぜ、実際に著名人をどんどん引き連れて政治工作しないのか?と責め立てる訳です。ジャーナリストは「自分がやりたいことをやりたい」と答えていましたが、要するに、誰も当事者にはなりたくないのです。その社会学者も、孔明的な立ち位置に立ちたくてそんな事を言ったのでしょう。でも、責任は取りたくない訳です。ジャーナリストにしても政治運動の当事者になる事は「やりたい事リスト」の中に入っていない訳です。やはり、孔明的な立ち位置でやっていきたい訳です(その点、勝間女史を悪く言う人がいますが、そういう人達のサバイブ能力は、彼女以下であることは間違いないと思います)。
結局、政治の当事者ではなかった自民党時代の民主党も、国民も、マスコミも、(当事者からすると無責任な)冴えたアドバイスをしたい訳です。何か偉そうな事を言いたい訳です。その欲望が中心にあったのだと思います。
しかし、鳩山内閣とは「日本人にとっての通過儀礼(イニシエーション)」は、日本人をことごとく死地へ向かわせ、容赦なく、当事者にしてしまうでしょう。逃げ切れると考えている団塊世代も例外ではありません。財産に対する猜疑心に否まされ、孤独死してしまう人も多いのではないかと思います。そして、実際、氷河期より就職事情は厳しいですし、経済的な脱出口は見つかっていません。また、ご存じの通り、外交も迷走しています。
多分、日本人がこの通過儀礼を無事乗り切るかは分かりませんが(最悪、中国の植民地だと思っています。もっとも、チベットのように民族浄化されるかも知れませんが)、ある種の諦観と、自身しか当てにならないというサバイブ能力を持たざるを得なくなるでしょう。
レイプ問題を熱く議論するのは結構ですが、現実問題として、全ての男を隔離されている日本より、女性が鉄砲を持ち迷彩服で町中を歩く日本の方がリアリティがあるのではないでしょうか?(現に、アフリカでは似た様な状態の国もあるらしいですし。そして、残念ながら、非常に残念ながら、日本のレイプ発生率は低いのです。いずれにせよ移民は増えると思いますが、容赦なくレイプ発生率もグローバルスタンダードに近づくでしょう)
そして、そして、そして、そんな困難の時代を生きるあなたに、格好の情報があります!
働く必要なし!面倒なパソコン作業なし!たった10分の仕掛けを初回の3回行うだけで、破格の収入の嵐が襲う!
批判するなら批判対象に見合った批判の仕方というものがあるだろうと言ってるだけだ。ヤフーニュースや2ちゃんに馬鹿がいる、レベルの根拠しかないなら、それに見合った批判でいいんで、大騒ぎする必然性まではないんだよ。
ネットで馬鹿が多いならネットで批判するのがそれに見合った批判じゃないのか?別に関係ない人のところにまでスパムやら送ったわけでもない。どのあたりが見合ってない批判だと思ってるのかわからない、わからせる気もないだろうが。
あと何を根拠に大騒ぎといってるのかまったく理解できない。はてなの一部でいくつか記事かかれてブックマークがついたぐらいで別に法改正とか伴った政治運動でもないし大騒ぎというのは大げさすぎだろう。
最後は、自分たちが正しいんだから、お前は黙っておけってわけか。
おいおい曲解するなよ。もし「馬鹿は放置しろ」というお前の考えが正しいなら、黙るのが正しいといってるだけで、こっちは「馬鹿は放置しろ」というお前の考えは正しいとは思ってないし、当然黙るべきといいたいわけでもない。反語とか皮肉ぐらい理解してくれ。
なんかまだ勘違いされてるようだが、このツリーで書いたのは「率先して行ってる人」を対象としたものじゃないよ。あんたのように直接やらないけど、そういう風潮に加担しちゃってる卑怯者への批判がメイン。
うーん、この元増田が嫌いなんだけど友人のために書いてみる。
うまく説明できないけど、あらゆるイデオロギーは人を不幸にすることを認識することかなあ。
たとえば右翼の人っているじゃん?
彼らは自分が信じるものを他人に押し付けることに使命を感じている。
でも、そんなのはどうでもいいことなんですよ。
自分が死ぬときにそんなことはなんの足しにもならない。
そういうのと哲学的な悩みってのは一緒なんです。
悩むことは悩むっていうことで既に人生の時間を使ってしまっている。
もしも右翼とか宗教者とか政治運動をやっている人をアホだと思うなら、
哲学的な悩みを持っている人も同様にアホなんです。
オレたちはもう既に「生きてしまっている」んです。
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死後について考えることはかなり意味がないんだけど、それと似ている。
オレたちの人生ってのは死ぬまでです。
死んでしまったらその先はない。
死んだ後のことがあるように考えることがあるよね?
それってのは幻想なんですよ。
人間のすべての思考は生きている間の基準で出来ている。
だから本来、適用できないはずの死んだ後の段階についてもそれらを適用しようとしてしまう。
でもそれは間違いなんですよ。
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自分に意味があるとすると、それは他人が自分に対して持つ意味ってことです。
他人から必要とされれば自分の存在意義が発生する。
一番簡単なのは困っている他人を助けることです。
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持っている金を捨てて、毎日生きるだけで精一杯になれば悩みは消える。
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自分の存在意義について悩むってのは、例えば家族のペットやアイドルとして育てられていたケースがある。
そういう人は大人になるときに家族から離れると、存在価値がわからなくなって悩むことがある。
親と自分の位置関係の見直しがどこかで必要かもしれない。
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-488C-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E8%8B%B1%E7%94%9F/dp/408720488X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1255857512&sr=1-1
いつの時代にも青春に特有の不安や「自分探し」があるのではないか。世間でいうほど絶対的貧困状態に置かれた若者は多くない(フリーターは被扶養者であることが多い)。かつての新左翼も政治運動としてはナンセンスで、全共闘はマルクス主義というよりアナーキズムに近かった。60年安保も、学生のエリート意識による「集団的なストレス発散」だった。
こういう若者の不安を食い物にする連中はいつの時代にもいるもので、著者が企画した対談で『蟹工船』ブームを起こした雨宮処凜やモリタクなどの「貧困ビジネス」は、ちょっとした成長産業だ。しかしかつての新左翼や原理などと同様、こういうカルトは何も解決しない。ただ新左翼は日本の高度成長の最中にそれを批判する見当違いのお遊びにすぎなかったが、いまロスジェネの直面しているのは日本社会の本物の病だ。
ところが雨宮・モリタク的な貧困ビジネスは、彼らに迎合して再分配によって問題が解決するかのような幻想を振りまく。NHKの「クローズアップ現代」で「“助けて”と言えない30代」という番組が今年最高の視聴率を記録したそうだが、メディアにとっても貧困や自分探しはおいしいビジネスだ。しかし若者を孤立させているのが「新自由主義」による「自己責任」論だとかいうのは、お門違いもいいところだ。それはかつて新左翼が「日帝」とか「独占資本」などの藁人形を相手に闘ったのと同じである。
思えば「アプレゲール」が実存主義を語り、全共闘が疎外論を語ったのも、自分探しのバリエーションだったのかもしれない。最近は哲学ネタもつきたので、社会学がお手軽な不安の理論武装になっているようだ。こうした意匠は時代とともに変わるもので、経済成長で解決するわけではない。雨宮的なアジテーションは、『しがみつかない生き方』みたいな人生論と大差ないのだろう。本書がこの点を指摘したのはおもしろいが、中身は二次資料の切り貼りで読む価値はない。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090723/1248279927
こりゃどう見ても地下猫の曲解だろ。
NaokiTakahashi 2009/07/23 09:17
>「人権に紐は付かない」というのは、「言論の自由は社会的に有用性を証明できる言論のためのものだ」とか、「表現の自由を主張するなら●●の政治運動にコミットせよ」とかの、表現の自由が保護する対象を暗黙に政治的に都合のよい範囲に制限しようとしたり、抱き合わせで特定政治思想への恭順を押し付ける言説のこと
この言説のどこに理解できない部分があるの?>id:tikani_nemuru_M
>tikani_nemuru_M 2009/07/23 19:07
>>NaokiTakahashi
>すこしでもいいからかんがえてごらん
対話を拒否し勝利宣言とは地下猫も墜ちたな・・・
というか、議論の勝利だけを必死で考えてるうちに自分の主張がなくなっちゃってるじゃんw
他は見てないが、これに関してはあなたが正しい>id:NaokiTakahashi