「「叫び」」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 「叫び」とは

2023-06-29

弱者男性

「わざわざ語るべきものかどうか」というノイホイの話も正直わかって、この話はてブで出始めたちょい後から「ん....?」てなったのはある

要素分解して性別とか収入とか非モテとかマチズモとか公共エロとかある程度別の横割りで話せばいいのに、

なんかそれぞれ謎につまみ喰いした分割の人物像の話してるから、皆思い描いてる人間が違いすぎて話がどこにもいってない感ある。

納得できる「叫び」から「それ単に嫌なやつの話では...」まで色々すぎて、皆それぞれ全然別のやつの話してる。

で、もちろん返しも「弱者女性可視化されない」とかになってそっちも皆思い描いているものが違くてわやくちゃなイメージ

2021-02-12

ムンク「叫び」は叫んでるんじゃなくて叫びに耳を塞いでいる

作った日弁連もどうかと思うし誰も分かってないのが最高

2020-07-28

少年の話で「嘘」をついているのは、狼少年ではない

少年の嘘は「無邪気に」ついたことだけが悪いと思うんです。

それだけなのに、本当にそれだけなのに、なぜ狼少年は最終的に死ななくてはいけなかったんですか?

少年の話は、以下のような教訓話として知られています

少年は「狼が来たぞ~」と何度も嘘をつきます

そのたびに、村人たちは大勢で駆けつけてきました。

しかし、村人たちは少年だんだんと信用しなくなり、誰もその嘘に騙されなくなりました。

そしてある日、とうとう本当に狼がやって来てしまます

それを知った少年は「狼が来たぞ~」と必死叫びますが、誰も助けには来てくれません。

そのまま少年は狼に食い殺されてしまいました。

しかし、この話は道徳話としては不完全であり、そもそも合理性に欠けています

まり、嘘を諌めるこの話自体がひそかに「嘘」をついているわけです。

この増田では、狼少年の話の不完全な点と「嘘」を指摘し、より正しい「狼少年の話」の構成を試みます

あと、見かけ上の問題ですが、狼少年の話が持つ嘘はカギ括弧付き(「嘘」)、本増田構成する正しい狼少年の話もカギ括弧付き(「狼少年の話」)で標記します。

まず、指摘事項は以下の3点です。

少年は、村人を無視すれば、一人だけ助かることができた。

災害は早く情報を得て、早く避難した者が助かります

少年には叫ぶ余裕があり、不意をつかれたわけではないので、木に登るなり池に飛び込むなりの逃げ方があったはずです。

一方で、その「災害情報」を無視した村人が助かっているのは合理的に欠け、その点が嘘つきを悪者にするための苦しい「嘘」だと言えます

その時間、外に出ていた村人も居るはずで、村人が誰一人として被害を受けていないということはあり得ないはずです。

少年死ぬことで、狼少年反省行動を表現できていない。

先にも書きましたが、無邪気な嘘の代償が本人の死というのは現実比喩として正しいのでしょうか?

詐欺罪を考えてみれば、それは罪状的にも「嘘」であり、死という重すぎる罪状合理性に欠けてますよね。

そして、狼少年はそれを機に改心できたとしても、死んでしまってはその気持ちを行動として表現することができません。

そこに教訓話としての瑕疵があります

ヒーロー物の悪人死ぬのを見て視聴者自身反省を抱かないように、狼少年が死んでしまっては聞く側の反省は促されません。

村人の過失に触れておらず、村人はその罪を負っていない。

村人は嘘が悪いことだと忠告し、狼少年の嘘を辞めさせなかったという過失を犯しています

訓話としては、これに対しても反省を促すために、村人にも狼少年同様の罪を背負わせるのが正しいはずです。

ならば、なぜ村人の罪が描かれないのか?

それは、この話を作り、語るであろう大人の罪を描かないための「嘘」なのです。

まり反省するのは狼少年表象される子供たちだけでよいという「嘘」が含まれているわけです。

(狼少年の話には、少年でなく羊が殺されるバージョンの話もあるわけですが、どちらにしろ大人の罪を描かない点において「嘘」であるわけです。)

こんなに不完全で「嘘」つきのストーリーが、嘘に対する正しい教訓話になるはずがありません。

上記の3つの縛りを守るには、

  • 少年ちゃんと助かった上で、
  • 村人が被った罪を見て、
  • 何らかの反省行動を取ろうとする

というストーリーであるべきです。

よって、正しい「狼少年の話」は例えば、以下のように表現することができます

少年は「狼が来たぞ~」と何度も嘘をつきます

そのたびに、村人たちは大勢で駆けつけてきました。

しかし、村人たちは少年だんだんと信用しなくなり、誰もその嘘に騙されなくなりました。

そしてある日、とうとう本当に狼がやって来てしまます

それを知った少年は一人だけ逃げることもできましたが、今までの嘘を反省する思いから「狼が来たぞ~」と必死叫びます

しかし、村人たちは誰も聞く耳を持とうとしません。

仕方なく、少年は村人たちを見捨て、狼が来たのと反対方向の高台へと命からがら逃げだしました。

そこからは、聞く耳を待たなかった村人たちの何人かが狼に食い殺されてしまう様子が見えました。

狼の去った後、少年は村人たちに自分の嘘を謝ろうと思いました。

いかがでしょうか。

訓話として、だいぶ合理的になったのではないでしょうか。

そして、この改良版のストーリーを見ると、既存の狼少年の話に含まれる最大の欠陥が見えてきます

改良版では話の構成を変えたので理解してもらえると思いますが、狼少年が狼をみつけて叫ぶ最後の「狼が来たぞ~」は、自分が助かるためでなく、村人を助けるための叫びだったのです。

だって、狼少年は村人を無視すれば、一人だけ助かることができたわけでしょう?

それでなお、村人に向かって叫んでいるのは、自分の命を危険さらしてでも、村人を助けようとした意志があった以外に理由が考えられません。

そして、この真実は私が改良した「狼少年の話」だけに限った話ではありません。前提は全く同じですから既存の狼少年の話でも狼少年は同じ感情で「狼が来たぞ~」と叫んだはずです。

ただ、既存の狼少年の話ではその感情をはっきりと描いていない。そのことこそ、教訓話としての最大の欠陥です。一番大事な狼少年自身の改心をわざと無視させる構造になっているのです。

もっと強めに言うなら、最後の「狼が来たぞ~」という必死叫びは、一人だけなら安全に助かることができた狼少年の、自分の命を危険さらした改心のための叫びだったんです。

少年は既に改心を示していたんですよ!

村人に助けを求めていたわけではなく、村人を必死に助けようとしていたんですよ!

なのになんで村人はその改心を無視するんですか!

こう考えれば、無邪気なだけの狼少年を死という釣り合わない運命から救ってあげたくなる私の気持ちもわかるでしょう?

まとめ

まとめると、狼少年の話における最大の欠陥は、既に「叫び」として現れている狼少年の改心をはっきりと読み取らせることができない構成の悪さにあります

そしてそれは、僕のような嘘つきが改心を目指す上では耐えられないことなんです。

少年の改心への悲しみを、村人も語り手も聞き手無視して踏みにじっているという点で、「既存の狼少年の話は絶対に間違っている!」と、狼少年気持ちがわかる僕も呼応して「叫ば」ざるを得ないのです。

そうです。これこそが、この話を書きたい本当のモチベーションでした。

ひそかな「嘘」に覆われた既存の狼少年の話の落ち方では、この話を身近に感じる僕にとって「改心しても死ぬんなら、死ぬまで『村人』に嘘をつき続けてやる!」と、全く救いがないのです。

僕のような嘘つきに改心の余地を与えるには、どうしても狼少年の話の「嘘」を暴き、真実を「叫ぶ」必要があったのです。

 

では、「狼少年の話」が示す本当の教訓は何かを書いて、話を締めましょう。

それはよく知られたように、嘘をついてはダメということではないのです。

しろそれは逆に、嘘をつく責任自覚するといったことになるでしょう。

なぜなら、狼少年が責めを受けるべきなのは、嘘をついたこ自体ではなく、正しい嘘をつけなかったことだからです。

もし「狼が来たぞ~」の嘘が村人から信用されていないと知っていれば、もっと大きな嘘をついて気を引くという手段があったはずです。

例えば、「王さまが来たぞ~」という嘘をついたのなら、それを無視することによるリスクに耐えられず、村人の誰かが顔を出してくれたはずです。

そうしたら、今度こそ狼の存在を目の前に提示することができ、村人の被害は防げたはずでしょう?

まり、狼少年の嘘は初めてみんなを救えたはずでしょう?

いささかロマンチックな話ですが。

から、狼少年が本当に反省するべき点は、いち早く危険を知ったのに、肝心なときに正しい嘘がつけず、犠牲者を出してしまたこなんです。

それはさらに言うなら、無邪気な嘘(狼が来たぞ~)で満足して、人を納得させる嘘をつくための練習を怠ってきたことこそ反省するべきなんです。

世の中においても、それこそ嘘を交えてでも、とっさに説明する能力はとても大事ものなんですから

その証拠が、既存の狼少年の話というよく知られた「嘘」だというのは本当に皮肉な話ですけどね。

このように、上の3つの縛りから考えていけば、既存の狼少年の話とは全く正反対の教訓が「嘘」なしに得られるはずなんです。

いや、既存の狼少年の話が、嘘を責めるようなストーリーを持ちながらも自身が隠れた「嘘」で覆われているという矛盾を責めてるわけじゃありません。

そんなことは、狼少年らしく嘘つきである僕に許されたことではありませんし、もう一度繰り返しますが、嘘をつくこと自体は決して悪いことではないんです。

ただ、既存の狼少年の話が、狼少年自身と同じく「無邪気に」嘘をついていることがいけないと気づいたわけです。

まり、嘘は悪だと認識させてしまう無邪気な「嘘」で、その聞き手に嘘をつく責任生産者責任)を自覚させないことこそ本当に悪いことなんです。

それは、むしろ村人を助けるような正しい嘘を妨げる行為なのです。

そして、嘘をつく責任自覚させないと、世の中の人に「無邪気に」しか嘘をつけず、肝心なときに嘘をつけない狼少年の僕がまた一人育ってしまうんです。

そう、以上のように合理的に考えれば、村人を犠牲にして助かってしまった狼少年の僕にも、正しい嘘のつき方を予め教えておけば、村人はみんな助かったわけです。

そして、生きて正しい嘘をついてこそ、かつて狼少年であった僕にも、責任のない「無邪気な」嘘から反省し、改心するチャンスは必ず巡って来るはずなんです。僕は無邪気であったことを反省するのです。

2019-02-22

anond:20190222180728

A(絵とタイトルと作者が認知されてそう)

ダ・ヴィンチモナリザ

ダ・ヴィンチ最後の晩餐

ムンク「叫び」

ピカソゲルニカ

B(絵とタイトルもしくは絵と作者のどっちかは認知されてそう)

ミケランジェロアダムの創造」「最後の審判

ラファエロアテネの学堂

ボッティチェリビーナスの誕生

フェルメール真珠の耳飾りの少女

ピカソ「泣く女」

ダリ記憶固執

ゴッホ「星月夜」

ゴッホ自画像」(ただし自画像同士の区別はつかない)

ゴッホひまわり」(ただしひまわり同士の区別はつかない)

ミレー「落ち穂拾い」

クリムト接吻

ミュシャ黄道十二宮

葛飾北斎神奈川沖浪裏」「凱風快晴」(タイトルは「富嶽三十六景」として認知

歌川広重東海道五十三次」(ただしそれぞれの区別はつかない)

菱川師宣見返り美人

東洲斎写楽三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」

C(絵は認知されてそう)

レンブラント夜警

ヴェラスケス「ラス・メニーナス

ドラクロワ民衆を導く自由の女神

ルノワールムーラン・ド・ラ・ギャレット

モネ日傘の女」

モネ「印象・日の出

マネオランピア

マネ「草上の昼食」

ドガ「踊りの花形

フラゴナール「ぶらんこ」

ゴヤ「裸のマハ」

ゴヤ「我が子を食らうサトゥルヌス」

エヴァレット・ミレーオフィーリア」

2019-02-09

断末魔叫び」を「断末魔」と省略するのはやめましょうよ

ムンク「叫び」を「ムンク」と呼んでも通じそうな現代

2018-08-22

anond:20180822132318

莫迦か。ムンクっていうのはあの橋が架かってる川のことだよ。そして、叫んでいるように見える人は叫んでいるのではなく実際には人を呼んでいるんだよ。

それを「叫び」って表現しているに過ぎない。

 
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