はてなキーワード: 1989年とは
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。
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株式会社カルチャーブレーン(CULTURE BRAIN INC.)は、主にコンピュータゲームを製造、販売している会社。1980年10月5日設立。
本社は東京都葛飾区宝町2丁目30番16号。東京事業部および第二本社(登記上本店)は東京都江東区亀戸3丁目47番17号。
代表作に飛龍の拳シリーズ、スーパーチャイニーズシリーズ、ウルトラベースボールシリーズなどがある。
目次
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* 1 主な開発タイトル
o 1.1 アーケード
o 1.2 ファミリーコンピュータ
o 1.3 スーパーファミコン
o 1.4 プレイステーション
o 1.5 セガサターン
o 1.6 NINTENDO64
o 1.7 ゲームボーイ
o 1.8 ゲームボーイカラー
o 1.9 ゲームボーイアドバンス
o 1.10 ニンテンドーDS
* 2 関連項目
* 3 外部リンク
主な開発タイトル
* 飛龍の拳スペシャル ファイティングウォーズ(1991年6月21日)
* 飛龍の拳S ゴールデンファイター(1992年7月31日)
* 飛龍の拳S ゴールデンファイター ハイパーバージョン(1992年12月11日)
* スーパーチャイニーズワールド2(1993年10月29日)
* スーパーチャイニーズワールド3(1995年12月22日)
* コンピュータ脳力解析ウルトラ馬券(1995年5月26日)
* 動物キャラナビ占い2 個性心理学+恋愛占いパズル(2003年9月18日)
* プロ麻雀「兵」シリーズ 女流雀士に挑戦??私たちに挑戦してネ!!??(1999年11月2日)
* 忍たま乱太郎64 ゲームギャラリー(2000年4月21日)
* スーパーチャイニーズランド1・2・3(1996年9月13日)
* スーパーチャイニーズファイターGB(1996年12月28日)
* 忍たま乱太郎GB えあわせチャレンジパズル(1998年6月19日)
* スーパーチャイニーズファイターEX(1999年12月24日)
* 女流雀士に挑戦GB ??私達に挑戦してネ!??(1999年12月17日)
* ハムスター物語GB+マジハームの魔法少女(2002年8月9日)
* フェレット物語 ディア・マイ・フェレット(2000年4月28日)
* 「アカギ」 ??闘牌伝説/闇に舞い降りた天才??(2006年3月3日)
* おしゃれプリンセス2+動物キャラナビ占い個性心理学(2002年12月20日)
* かわいいペット!ゲームギャラリー(2003年9月26日)
* かわいいペット!ゲームギャラリー2(2004年12月17日)
* 仔犬といっしょ! ??愛情物語??(2003年8月1日)
* 昆虫の森の大冒険 ??ふしぎな世界の住人達??(2005年8月11日)
* スーパーチャイニーズ1・2 アドバンス(2004年6月24日)
* スウィートメルヘンのケーキ屋さん+動物キャラナビ占い個性心理学(2002年11月1日)
* ツインシリーズVol.1 めざせデビュー! ファッションデザイナー物語 / かわいいペットゲームギャラリー2(2004年8月12日)
* ツインシリーズVol.2 おしゃれプリンセス4 / 恋愛占い大作戦(2004年10月22日)
* ツインシリーズVol.3 昆虫モンスター(ムシモン) / スーチャイラビリンス(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.4 ハムハムモンスターズEX / ファンタジーパズル ハムスター物語魔法の迷宮1+2(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.5 わんわん名探偵EX / 魔法の国のケーキ屋さん物語(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.6 わんにゃんアイドル学園 / 仔犬といっしょスペシャル(2004年12月10日)
* ツインパズル「1.きせかえわんこEX 2.レインボーマジック2」(2004年12月17日)
* ハムスター物語3EX、4、スペシャル(2003年11月28日)
* 魔女っ子クリームちゃんのごっこシリーズ(1)「わんにゃんアイドル学園」(2003年12月26日)
* 魔女っ子クリームちゃんのごっこシリーズ(2)「きせかえエンジェル」(2004年3月25日)
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阿迦手観屋夢之助 (あかでみや ゆめのすけ)は、日本のゲームクリエイター。カルチャーブレーンのプロデューサーである。現在、公式には本名などを明かしていないが、カルチャーブレーンの代表取締役である田中幸男と同一人物である。(過去にゲーム誌等で「田中幸男」として取材記事が掲載されたことがある)
ゲームソフト「シェラザード」、「ベースボールシミュレータ」はアメリカ『ゲームプレイヤーズガイド』『EMG』にて1989年、1990年に国際賞(を自称しているが、単なるアメリカの一雑誌の賞に過ぎない)を受賞したが、それ以後目立ったヒット作はない。2008年度新卒採用にも自称国際賞受賞歴を掲げるほどの名誉だったらしい。
ゲーム以外にも映像・TVCMプランナー・雑誌編集長・広告アートディレクター・イベントプロデューサー・インテリアデザイナーとして国際的に活躍する「マルチクリエーターのパイオニア」を自称するが、ゲーム以外では具体的にどういったプロジェクトに携わったのかは一切不明。かつては同社が運営していた専門学校であるカルチャーブレーン専門学院にて教鞭をふるっていたこともあった。
近年ではゲームボーイアドバンスでの開発に専念していたが、おしゃれに恋してでニンテンドーDSに参入した。作品としては大手ソフトハウスのオマージュ作品が中心となっている。開発費の高騰が続くゲーム業界において中小ソフトハウスが生き残る術を提示しているとも言える。
また麻雀に造詣が深く、プロ麻雀「兵」シリーズはかつてはマルチハードで展開していたほか、近年ではアカギのゲーム版も制作している。
なお、氏やカルチャーブレーンにとって不利になることをネット上に記載すると、おおよそ会社代表の名義で送ってくるとは思えないような文体で削除を求められるため、注意が必要である。
http://anond.hatelabo.jp/20070722053313
元 Excel 設計チームの Joel Spolsky 氏はこう書いている。
広く書かれていることだが、生産的な利益は、知識労働者に空間と静かさとプライバシーを与えることによってもたらされる。古典的なソフトウェア管理の本「ピープルウェア」はこれらの生産性が広範囲に渡ることを述べている。
ここに問題がある。我々はみな知識労働者が「すらすらできる」状態のとき、"in the zone"(自分の中に入った状態)としても知られているが、完全に仕事に集中していて周りの環境から遮断されてしているときにベストの仕事をできるということを知っている完全に集中している間に、時間を忘れて素晴らしいものを作り上げるのだ。これが、生産的な仕事をやりとげる時だ。ライター・プログラマ・科学者、そして野球選手さえもが、完全に集中した状態について語ることができるだろう。
問題は、「集中する」ことは簡単ではないということだ。計ってみるならば、最高の生産性の状態で仕事を始めるまでに平均15分かかるようだ。時には、疲れているときやその日にすでに沢山の生産的な仕事をしてしまったときには、集中することすらできず、残りの就業時間をぶらぶらしたりウェブサイトをみたり、テトリスで遊んだりしてすごすことすらある。
もうひとつ、集中した状態から覚まされることがとてもた易いことだ、という問題がある。騒音、電話のなる音、昼食、コーヒーのためにスターバックスまで5分のドライブ、そして同僚による割り込み、特に同僚による割り込みが問題だが、これらのことはすべて君を集中から覚ますものだ。同僚が君に質問すると1分間の割り込みが入る。しかしそのことで、君は集中が途切れ、再び生産的な状態に入るまで30分を要し、君の全体の生産性にとっては深刻な問題となる。もし君がカフェイン中毒のドットコム企業のやつらが作りたがる、騒々しい牛の囲い場のような環境にあって、営業担当者がプログラマの隣りで電話に向かって叫んでいるとしたら、君の生産性は落ち込むだろう。というのも、そんな環境では知識労働者は次から次へと割り込まれ、決して集中することができないからだ。
プログラマについていうと、この問題は特に厄介だ。プログラマの生産性というのは、細々した沢山のことをちょっとずつ記憶しながら同時に操ることができるかどうかにかかっているからだ。いかなる時に割り込みが入っても、そういった細かいことがクラッシュする。仕事に戻ったとき、君は細かいこと(使っているローカル変数の名前や検索アルゴリズムのどこまでを終えたかなど)を思い出せないだろう。そして、そういったことを思い出すことからやり直して、そのために元のスピードに戻るまでには多くの時間がかかる。
ここに簡単な計算式がある。いいかい、(これまで書いてきたように)あるプログラマの邪魔をしたとすると、たとえそれが1分間でも実際には15分間の生産力を吹き飛ばしたことになる。例えば、ここに二人のプログラマがいるとしよう。ジェフとマットだ。典型的なディルバート式の囲いの中に隣り合わせで座っている。(訳註:ディルバートは、1989年よりアメリカの新聞各紙で連載されたコミックの主人公。うだつのあがらない係長で、彼の働くオフィスはキュービクルと呼ばれる一人ずつのパーティションに区切られている。)マットはstrcpyのUNICODEバージョンの関数名が思い出せない。マットは関数名を30秒かけて自分で探すこともできるし、15秒かけてジェフに聞くこともできる。ジェフは隣りに座っているから、ジェフにたずねる。ジェフは注意を逸らされ、15分の生産を失う。(マットの15秒を節約するために、だ。)
さて、二人を壁とドアで区切られた別々の部屋に引越しさせるとしよう。そうするとマットは関数名を忘れたときにはやはり30秒かけて自分で探すか、今や45秒かかり立ち上がることも必要となったが、(プログラマの平均的運動能力からいってこれは簡単なことではない)ジェフに聞くこともできる。立ち上がりたくないので、マットは自分で調べる。マットは30秒の生産を失うが、ジェフの15分は節約できた。ハハハ!
パソコンに詳しい人は、普段から「 Windows のことはわかりません( Linux 専門です)」と云っておいた方がいいかもしれない。 Linux なんて触ったことさえなくともね。
ひとつは、絵の美麗さ。
ひとつは、動きのよさ。
「絵の美麗さ」とは、いうまでもなく一枚一枚の絵の美しさ。本来は、レイアウトなども含めて絵としての完成度が測られるべきだが、最近では、キャラクターが可愛く描けているかどうかに重きがおかれる傾向がある。
しかしながら、アニメは構造上、多くの人間によって描かれるため、描き手の能力や個性によって絵柄がブレることになる。そのため、作画監督という役職を置くことで、1話単位での絵柄の(できるかぎりの)統一を図っているのが実態。
場合によっては、さらに“総作画監督”という全話にわたって絵柄を管理する役職を設けることもある。
「動きのよさ」とは、動画=動く絵としての心地よさ。細かい表情や、仕草、あるいは派手なアクションなど。この動かし方やタイミングはアニメーターとしての技術力が最も現れる部分であり、個性がはっきりと出ることになる。“動き”は、キャラの演技や画面演出の幅の広さにつながる重要なポイントとなる。
かつて、80年代後半のアニメーターブームにおいては、様々な作品中でアニメーターが見せる個性的な“動き”にファンが注目し、スターアニメーターと呼ばれるアニメーターが何人も誕生した。
その時代に詳しくない人にも解りやすい例としては、金田伊功の「金田エフェクト」(オーラや稲光、またはその残像などが、画面内で激しく動き回る効果)や、板野一郎の「板野サーカス」(ミサイルや戦闘機が、縦横無尽に追いかけっこをするように動く、メカアニメの定番表現。納豆ミサイルとも)がある。
ちなみに、上記のような“動き”の表現は、アニメーター達の間で模倣、継承され、さらに新しい表現を生んできた。スタジオ内の師弟関係によって、動きだけでなく、絵柄も継承されることがあった。アニメーター単位ではなく、スタジオ単位で担当作品を認識するケースも見られる。
作画監督というシステムも、過去においては縛りの厳しいものではなく、作画監督ごとの個性が大きくでている作品も少なくない。『美少女戦士セーラームーン』はキャラ絵の可愛さに重きを置いているイメージがあるが、実際には作画監督の個性が強くでていた作品の代表例といえる。
アニメーターの個性を楽しむ、という面では、過去には『機甲戦記ドラグナー』において大張正巳による(設定とは異なった)有機的なラインで描かれるメカをそのまま登場させるオープニング(特別に本編に登場した回もある)や、『天空戦記シュラト』での菊池通隆による作画監督回(本来のキャラデザは奥田万つ里だが、当時『超音戦士ボーグマン』で人気が集中した菊池が特別に起用された)など、作画の個性がファンサービスとされたこともあった。
最近でも、『創聖のアクエリオン』におけるうつのみや理、『ギガンティック・フォーミュラ』での薮野浩二(本編)と門之園恵美(原案・ED)といったアニメーターの個性を全面に出した演出、遊びが見られるが、若いアニメファンから「作画崩壊」と揶揄され、拒絶されるケースが多くおもわれる。『天元突破グレンラガン』#4も、キャラクターの感情をさりげない動きで巧みに表現する小林治(『BECK』監督)の個性が全面に出ていることで、過去3話と比較するファンに拒絶されている。
ちなみに、「作画崩壊」というのは本来、制作工程の管理ミスなどにより「動かない」「絵がヘタ」「色がついてない」等の“未完成”状態のアニメが放映、上映されてしまうことを指していた。1989年の『天空戦記シュラト』アスラ神軍編に始まり、1998年「ヤシガニ」の語源となった『ロスト・ユニバース』、1999年に未完成のまま劇場公開され波紋を呼んだ『ガンドレス』と、過去数度にわたり「作画崩壊」は発生している。アニメバブルによる製作本数の増加、海外発注の増加によるクオリティコントロールの困難など、様々な理由があるが、最近では海外スタジオとの作業ノウハウも蓄積されているので、トラブルになるケースは減少したが、国内の動画スタッフ空洞化という新たな問題も抱えている。
上記のような理由から、アニメーターブームを経験している様なファン(30代??)はアニメーターの個性に対して寛容、あるいは好意的な態度をとることが多い。
しかしながら、現在の「萌えブーム」の中核をなすギャルゲー、ラノベ世代の若いアニメファンにとって、アニメ映像のクオリティの基準は“絵の美麗さ”“キャラクターの一貫性”にあることが多い。これは、ギャルゲーやライトノベルがアニメーションとは異なり、原画家、イラストレーターといった、比較的少人数のスタッフによって描かれることから、絵柄のブレが発生しないメディアであるということも、大きな要因であると思われる。
また、メディアミックスを通じて、複数のメディアで横断的に作品、キャラクターを消費することが普通になっているため、キャラクターの一貫性を維持するということは、ファン活動そのものを維持することに直結する。ゆえに、いちばんわかりやすい、ビジュアルとしてのキャラクターの一貫性が強く求められているのではないか。
このことは、『ぱにぽにだっしゅ!』では好評だった新房昭之が、そのままのスタイルで手がけた『ネギま?!』が原作ファンからブーイングをくらうことになったケースにも見て取れる。
今回『グレンラガン』がブーイングの対象になっているガイナックスは、本質的にはアニメーターの個性や動かす技術による部分が大きいスタジオであるので(決して、エヴァとパチンコでお金を稼ぐのが本質ではない、と思いたい)、今回のように作画監督、原画の個性が顕著に現れることは、意外ではない。
最近では、アニメーターブームの中核を担っていたような人々が、監督クラスになって作品を作っているので、こういった遊びが復活するのも不思議ではなく、動く絵を愛するアニメファンとしては、どうか表面的なキャラ絵だけではなく、広い意味でのアニメをみる楽しさ、アニメの気持ちよさを知ってもらいたいなあと思って、このような駄文を長々と書き綴ってしまいました。
決して、俺達はお前達とちがって芸術が解る眼を持っているんだぜ!と言っているわけではないんです。ほんとに。
私は、この4月から高3になる高校生だ。1989年生まれ。ゆとり世代ど真ん中である。尤も、ゆとり教育がそれ以前の教育とどのように異なり、またそもそもそれが何であるのかを正確に把握していない。ご存知の方がいたら教えてもらいたいぐらいだ。
結論から、始めよう。これからの文章は、一般論のように書かれるが、私の個人的な印象であり同世代の学生一般に適応できるものではないことをここで断っておく。
馬鹿だ。博識にして日本中の人が、知っている。どうして、それを知っているのかという疑問を拭えない(学力低下を肌身で感じる機会のある人間とはどのような人種なのだろう?)が、私もそれを実感する。私は、小中と国立の学校に通っていた。折に触れて、私の同級生達が如何に知識に欠け思考力を持たないかを実感してきた。子供というものは知識を、思考力を持たないものであり、それを得るために教育をうける。全くだ。さて、うろ覚えだが次のような話が聞いた事がある。
小学校の理科の授業でアリを観察させ、そのスケッチを描かせた。すると児童たちは、4本しか足のないアリや体が2つにわかれているアリ、大きな羽をもつアリ、さらにはリボンをつけ2足歩行するアリを描いた。
理科の授業がある時点で小学校3年生以上であることは確実だ。これはどういうことであろう?アリの体の構造に関する知識の欠如だろうか?否、スケッチという行為はつまり観察する技能に他ならない。始めて見るものを見ても正確なスケッチを行う能力が求められる。((頼むからここで「自分が小さい頃は、外で遊んでアリを観察していた」なんて間抜けなことを言わないでもらいたい。教育に全ての責任を押しつけた議論を行うつもりだし、また「誰もがやるべきこと」が行われていない以上それを補うのが教育の目的である。))何を見るのか、見るとはどういうことか、それを教えるのが最も基礎的で根本的なものであり、教育で最初に教えられるべきものなのだ。小学校に行き教育を初めてうける子供は、建前上何一つ知らない。何一つ知らない子供に、ものの見方を、考えるという技能を、算数という概念を、社会の存在を教えるのが本当の基礎教育であろう。さて、私はそれを受けた事がない。「のびのびと個性をのばす」教育の弊害だ。プールで溺れている生徒に「立ち泳ぎ上手だね」と言う教師の冗句に端的に表されている。
例えば、2chを見てもらおうか。あるいははてなブックマークのコメントでも良いだろう。「ゆとり世代」に対し半ば冗談で軽蔑し、見下すような発言が多く見られる。マスメディアは学力診断の結果を古いものと比べて、学力低下を嘆く。知識人は、ゆとり世代が社会の中核を担うようになると日本に未来はないという。多かれ少なかれ潜在的にゆとり世代は自身の受けた教育にコンプレックスを抱いている。
さて、教育とは受動的なものだ。ゆとり世代は好き好んでゆとり教育を受けたのではない。ゆとり世代は「大人達が勝手に決めた『ゆとり教育』を受けた自分たちは、それを理由に馬鹿にされ、また『ゆとり世代のせいで日本に未来はない』などと騒がれる」と認識している。自分たちは悪くないのに、あんな言われようだ。
失敗したゆとり教育は、ゆとり世代の破壊的な無能さで以て表現され、大騒ぎされる。頭が壊れたゆとりが日本の総レベルダウンを巻き起こしているらしい。さて、ゆとりにできる抵抗あるいは復讐とは何であろうか?
- 元々は材木商である「佐久間屋」に由来して「佐久間町」と言う地名であった。材木商は大火のたびに莫大な利益を上げており、火除けの町秋葉原らしい縁起である。現在でも秋葉原駅東側に「神田佐久間町」、「神田佐久間河岸」という地名が残っている。
- 後にこの地に勧請される「鎮火社」を人々が秋葉社と呼んだことから秋葉原(あきばはら、あきばっぱら)と呼ばれるようになる(上記参照)。
- 1888年 - 秋葉社が松が谷に移転。
- 1890年 - 日本鉄道の鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長。当初は旅客の扱いは無く、秋葉原貨物取扱所として駅の南を東西に流れる神田川から駅東側に割り堀を引いて水上貨物輸送への窓口となっていた。駅名をつけたとき「あきはばら」と誤植されるが訂正されずに今に至る。
- 明治中期から大正時代にかけ、秋葉原周辺は鉄道・都電など交通の便が良く、そのため、特に卸売業が発達し、秋葉原駅近辺に青果市場も開かれた。
- 1925年 - 秋葉原駅~東京駅間の開業により東北本線が東京駅まで開通。
- 1932年 - 御茶ノ水駅~両国駅間が開業し、秋葉原は乗換駅になった。
- 1935年 - 神田青果市場が設置される。
- 1936年 - 鉄道博物館(のちの交通博物館)が東京駅から中央本線万世橋駅(のちに廃止)の駅構内に移転する。
- 戦前から戦後にかけて - 地下鉄(銀座線)・都電・国電と付近で多くの鉄道・軌道路線が立体交差をしていたことから、鉄道・交通に関する子供向け絵本に、未来都市の象徴として秋葉原が描かれることがあった。
- 1945年の第二次世界大戦後 - 神田地区の闇市で当初電機学校(現在の東京電機大学)の学生のために販売していた真空管やラジオ部品など電子部品の店舗が総武本線ガード下に集まって、今日の電気街の基になった。
- 1960年代 - 高度成長と連動する形で、テレビや洗濯機、冷蔵庫など家電製品の販売店が多くなり、大阪日本橋のでんでんタウンと並んで日本有数の電気街の地位を築く。
- 1980年代 - ファミコンの普及に伴って、各種コンピューターゲームソフトを扱う店が増え始め、ゲーム関連の専門店も登場する。
- 1989年 - 神田青果市場が大田区(大田市場)へ移転。跡地は駅前広場・駐車場を経て現在の秋葉原UDXビル・秋葉原クロスフィールドとなる。
- 1990年代 - 家電製品の郊外型量販チェーンストアの台頭で、家電売り上げが減少。その種の電化製品販売を縮小してパソコン及び関連商品を扱う店が増える。
- 1994年頃 - パソコンパーツ(いわゆる「自作PC」の部品)を扱う店舗が増え始める。
- 1990年代後半 - コンピューターゲームの中で、美少女やアニメを扱ったものに人気が特化していき、秋葉系・オタクといわれる存在が注目されはじめる。
- 1997年7月 - 秋葉原駅前広場を会場にコンピュータ関連展示会「インターネットショーin秋葉原」が開催される。以後2001年まで毎年開催され、1999年からは「AKIBAX」の愛称がつけられるなど、秋葉原の夏の一大イベントとなる。
- 2000年頃 - メーカー製コンピュータの販売が縮小し、代わってアニメ・同人誌系などの店舗、いわゆる「オタクショップ」が増える。
- 2002年頃 - 秋葉原駅電気街口周辺にアダルト関連グッズ(AV・おとなのおもちゃなど)を販売する、いわゆるアダルトショップが進出。
- 2002年6月 - 安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例(通称千代田区環境保護条例)が制定。秋葉原のほぼ全域が路上禁煙地区に指定された。
- 2005年8月24日 - つくばエクスプレス秋葉原駅が開業。同時に、同駅東側に車寄せや駅前広場も整備された。
- 2005年9月16日 - 秋葉原駅構内の、旧貨物駅跡地にヨドバシカメラマルチメディアAkiba・タワーレコード秋葉原店が開店。
- 2006年3月9日 - 神田市場の跡地に秋葉原UDXビルが開業。秋葉原クロスフィールドがグランドオープン。
- 2006年5月14日 - 交通博物館が閉館。博物館は2007年、さいたま市に鉄道博物館と改称して移転予定。跡地の今後は未定。
- 2006年6月2日 - 仮称TX秋葉原駅開発ビルが着工。阪急電鉄がつくばエクスプレスから同社の駅周辺の用地を借り受けて建設・運営するターミナルビルである。2008年4月に開業予定。阪急系列のホテルremmがテナントとして入店予定。
- 2006年10月16日 - 都内で初めての区営有料トイレがJR秋葉原駅にオープンした。
- 2006年12月22日 - 2002年以降休止していたAKIBAXが「AKIBAX2006」として復活開催。
- 2006年12月31日 - JR駅ビルにあったアキハバラデパートが閉店。
上野千鶴子 そうね(と『ペンギンクラブ』を覗き込む)、これって少年マンガというより少女マンガの絵よね。大塚英志くんが言っているんだけど、少女って「使用禁止のボディを持った女の子」のことでしょ。ここにあるのはみんなかわいい女の子の絵ばかりで、成熟したセクシーな女っていうのはひとつもないでしょ。この「かわいい」ってのがキーワードなのよね。これを描いてる男の子も、きっと「かわいい」少女の側にいたいのね。
彼らは男であるということをもてあましてしまってる。もっと言うと、「男になんかなりたくない」と思ってるんじゃないかな。とっても痛ましいよね
――痛ましい?
上野 こういう男の子たちって、男であるということに深く傷ついているんじゃないかな。だからセクシーな女じゃなくて、「かわいい」女の子しか描けない。
少女マンガって「少女のままでいたい」「成熟した女になんかなりたくない」っていうメッセージでしょ。そういう世界でしか生きられない男の子たちも、同じように「大人の男になんかなりたくない」って叫んでるのよ。
――この投稿欄を見ると、女の子のイラストの隣に丸文字でメッセージが書いてあって、この女の子って彼らの自画像なんじゃないかっていう気もするんですが。
上野 フロイトによると、人間には二種類の欲求があるの。こんなところで、フロイトなんて使いたくないけど(笑)。そのひとつが、対象化要求。相手を所有したいという要求なんだけど、でも、こんなに目の大きい女の子が現実にいるはずないじゃない(笑)。もうひとつが同一化欲求。その人自身になりたいと思うわけだから、その場合はこのイラストの女の子が、この絵を描いた男の子の自画像ということになるんだけど、それだって不可能だよね。それに性転換でもしないかぎり少女の世界からは拒絶されている。だから彼らは、永久に自分の欲求を実現できない。
最近だと2004年の「悟りを開いた人」ブームとかあったけど。
追記:このエントリー書いたのは私.by tenkyoin