はてなキーワード: 音痴とは
音痴にも二種類あってさ。
雑に言うと、耳に問題があるのと、喉に問題があるのなんだよ。
喉のやつは正確に音程を聞き取れてるけど、発声が不慣れなせいで音痴になってるから、歌うことを続けてれば確実に上達する。
お手本データが頭の中に入っているから、それを上手く再現できるようにしていくだけなんだ。
最初から歌が上手い奴っていうのも居るには居るが、たいていはこの種類の音痴からスタートして徐々に上手くなっていったパターン。
ただ耳のやつはダメだ。何年カラオケ行ってもかけらも進歩しない。
歌手が歌うお手本を聞いている段階で違うように聞こえてるから、違うように歌ってしまうのも当たり前のことだ。
コミュニケーションがヘタクソなのにも二種類ある。
よくある「コミュニケーションが苦手だったけど、なんだかんだで友達が出来ました」話っていうのは、アウトプットに問題があるパターン。
楽しいと感じているときでも無表情だったり、普通に話しかけたつもりなのにケンカを売っているような口調になったり。
表現したい感情が、不慣れなせいで正しく伝えられない。これは練習すれば直る。
とにかくたくさんアウトプットし、たくさんの人と関わることで、感情を誤解のないよう伝えられるようになる。
でもインプットに問題があるパターン。これはどうしようもない。
相手が何を言わんとしているのかどう感じているのかと全く理解できず、的外れなことをアウトプットしてドン引きされてしまう。
これは自分でも極論だと思うし、どこかがおかしいのは確かだと思うのだが、どこがおかしいのかよくわからないし、人文系音痴の俺には適切な文献を探すことすらできなかったので、誰かが教えてくれることを期待してここに書く。
これを書くきっかけは赤木氏のブログ記事「アグネスは子供の権利をないがしろしている」( http://blog.livedoor.jp/shimanekoblog/archives/1410043.html )とそれにまつわるtwitter上での議論「13歳のセックスする権利」( http://togetter.com/li/28748 )、およびそのブクマを見て違和感を覚えたことだ。。見ればおわかりの通り赤木氏は、フェミ系とおぼしき人を中心に徹底的に叩かれており、同情的な意見はほぼ皆無に見える。確かに赤木氏の言っていることは極論であると私も思う。しかしそれを批判している人にもどうしても違和感を覚えざるを得ないのだ。
赤木氏を批判する側の言うとおり、13歳は性的主体として未熟すぎ、自己責任の原則を適用するのは無茶だと思う。つまり、13歳を性的主体として考えるべきではないのだろう。
しかしながら13歳という年齢は十分性欲もある年齢だ。とすれば、放置しておけばいきさつはどうあれ現実の行動に走ってしまう子供達はいる。それも、同年代同士の恋愛の帰結というような、13歳という年齢を考慮に入れなければ非難することが難しいような経緯のあげくということもあり得る。
これにはどう対処すべきなのだろうか。大人の視線で言えば、ともかく13歳が性行動をすべきではないということになろう。となれば、純潔道徳を推進するというのが論理的に正しい帰結のように思えてしまう。
しかしながら、「純潔」の「じ」の字でも口にしようものならこれまた、赤木氏以上の勢いで血祭りに挙げられることは間違いないのだ。
だとするといったい、この年代の子供をどう扱うべきなのだろうか。世間の良識がどのあたりにあるのか、本気でわかりかねている。
実際俺自身が中高生だった頃は、自分自身を純潔思想で染め上げていた。誤解しないで欲しいのだが、私は何らかの宗教の熱心な信者などでは全くない。単に「責任が取れないことはすべきではない、従って未成年は純潔たるべし」と思っていただけなのだ。そして奥手な男子校生としては、自分が「過激思想」を持っていると気づく余地もなかったし、それで現実とのギャップに何の問題も起こらなかった。
ショックを受けたのは大学入学以降で、周囲が何の疑問も持たずに「恋人がいれば肉体関係になるのが当然」という価値観で行動しているのが理解できなかった。完璧な避妊法なんてないのに、みんな誰もかれも、いざとなれば大学中退して子供を養う覚悟が据わっているともとても思えなかったからだ。もちろん、全員が俺のように考えないのが間違っているとまでは思わなかったが、俺のような考えが「極論」として一笑に付され、何の検討にも値しないかのように扱われたことはショックだった。今の感覚で言えば、うっかりシー・シェパードの本部に紛れ込んでしまったらこのような気分になるだろうか、それほど絶望的な孤立を感じた。
その後周囲と話していて、そのあたりの感覚は高校以前の段階で確定してしまっていることがわかった。つまり、世の常識は良くも悪しくも、「中高生の少なくとも一部は性的主体として認められるべし」なのだ。
そこで俺はますます混乱してしまった。当時、児童ポルノ論議が始まった頃だった。つまり世間様の言っていることは「中高生は性的主体」だが「中高生を性的客体にすることは児童虐待」なのだ。まるでわけがわからなかった。
現在は自分が社会人となっているので「純潔」云々を自分の問題として真剣に悩む必要はなくなったが、それでも未だにこの件はわけがわからない。
こんなことを考えるのは俺だけなのだろうか。だとしたら俺の何がおかしいのだろう。ショックを受けてから十年以上経ったが、未だにまるで見当もつかない。
どこかで見たアメリカンジョークをご紹介する。
深夜パトロール中の警官、路上駐車を見つけ、取り締まるべく近寄っていった。念のためと中を覗くと、そこにいたのは若い男女。これはお邪魔だったかと回れ右をしかけたが、ふと気づいた。この二人、見つめ合うでもなくただひたすら時計を見つめているのだ。
警官、思わず声を掛ける。「君たち、何をしているんだね」
男が答えた。「日付が変わって彼女が18歳になるのを待ってるんですよ」
これがジョークとして成立すること自体、現行法体系における児童ポルノ・児童性愛の定義に無理があることを表しているのではないか。現行法の定義で児童ポルノ・児童性愛として人の道にもとる悪と処断されてしまうものの中には、実際には問題がほとんどないものがあるからこそ、このようなジョークが成り立つわけなのだから。つまり、現行の児童ポルノ・児童性愛の定義は、「百人の罪人を見逃すとも、一人の冤罪を出さない」という現代法の精神と矛盾を来しているということなのだ。それがなぜか、自分が児童性愛者と名指されたくないためなのか、誰もが「王様の衣装が見えないやつは非国民」だと心から信じている振りをしているように思えてならない。
そもそも、児童ポルノ規制の議論をするのであればこのあたりをまず議論しておかなければ、ただの偽善家同士の争いにしかならないのではないか。中高生を性的主体として認めるのであれば、買売春の主体と認めないとしても、中高生を性の対象にすること自体はともかく罪悪ではないということになる(でなければそもそも中高生時代の俺自身を含む、ほとんどすべての人が憎むべき児童性愛者であったことになってしまう)。盗品を買うことが盗みをすること以上に罪悪になり得ないのと同様、「若気の至り」の記録を蒐集すること自体を人の道にもとる悪として断罪することは明らかに行き過ぎであり、単純所持を微罪以上のものとして処罰することには根拠がなくなるだろう。
実際憶測だが、児童ポルノの多くは「被害児童」の買春の結果として撮影されているのではないだろうか。その「被害児童」が本当に全面的な同情に値するのだろうか?少なくとも、当事者を性的主体として少しでも認めない、即ち純潔教育を否定するのであれば、本人が「児童ポルノ製造」に多少なりとも「主体的に」荷担していることは確実なのだ。その種の児童を売春した者、あるいはその記録を蒐集した者の罪は、どう考えても成人に対する強姦や強制猥褻といった典型的な性犯罪に比べてはるかに軽いものとしなければ理屈が通らないだろう。
つまるところ、純潔思想を肯定して、「18歳未満の児童には何人たりとも指一本触れてはならぬ」とする覚悟なく、児童ポルノのあらゆる「被害児童」を純粋無垢の「被害者」として押し切る思想はどこかでその種の「いいところ取り」をしているとしか言いようがないのだ。だからこそ、この議論は宗教論争のようになってしまって、いつまでも収拾がつかないのではないか。
とはいえ、だったらどうすればよいのかと問われても、このような事情でなかなか解決策が私にはわからないのだが。
元増田です。言いたいことはわかったつもりですが、そういう話をしているつもりではありません。
つまり、現在のところ、火力発電や原子力発電の方が、発電所設置のエネルギー、資源と燃料費、運用費を含めても、効率が良いのです。
別にこれを否定したつもりはありませんし、火力発電所や原子力発電所を全部太陽光に置き換えろなんて言ったつもりもありません。
そうではなくて、隊長が言うみたいに「太陽電池なんて造れば造るだけ無駄、エネルギーをどぶに捨てているようなものだ」というのは誤りだ、というごく弱い主張をしているにすぎず、別に今すぐ太陽光発電が全てを解決するなんて思っていません。ですのでそういうことを言われても困ります。
だいいち、昼間しか発電できない太陽光だけで電気をまかなうのはほとんど無理(揚水発電所のようなものを超大規模に造るとかできれば別だが)です。ただ、現状ではベースロードが原子力のところ、電力需要の高い昼間は火力で調整しているわけで、そのかなりの部分を太陽光で置き換えられることはCO2削減の観点からは有効だろう、とかそういう話にはなってくると思います。そういうことを一つ一つ視野に入れて計画を立てて実行していくことが必要だという話です。
15歳から20歳くらいまで、私は自分のコンプレックスにより精神的に完全に引きこもって過ごしてきました。18歳から、一人暮らしをしたので、物理的にも半ひきこもりになってしまいました。15歳くらいから20歳くらいまでの思い出はほとんどなく、部活、恋愛、人間関係、勉強、バイトなど、同世代の人たちがしていたであろうことをした憶えは特にありません。
20歳くらいのとき、それまでピーク時には週に三回ほどあったパニック発作も、落ち着いてきたこともあって、もう一度生きてみようと思い、バイトをしてみることにしました。そのバイトはかなりフレキシブルなバイトで、行きたい日に行って、社員さんのお手伝いをすればいい、といったものでした。これが私には良かったんだと思います。
誰かのちょっとした言葉で傷ついて、一ヶ月間ほどバイトに行かなかったりしても、クビになることなどなく、また気が向いたら行けばよかったからです。最初の頃は、ほんとうに、バイト先の人の単純な質問や挨拶にもまともに答えることが出来ませんでしたが、それでも、「病院に行ってるんだ、人に慣れるために行っているんだ」と自分を励ましつつ、行っていました。
バイトで一番辛かったのは、同年代の、かわいく、賢く、明るく、生き生きとした女の子たちの存在でした。自分とは対極の彼女たちの存在は、自分のコンプレックスを絶えず刺激してきて、本当に、彼女たちと接した後は、ぐったりとなってしまいました。
このバイトの関係で、接客のお手伝いをすることになったときのことです。あまりの私の接客のまずさに、社員さんが爆笑して、それをバイトの皆の前で、真似したのです。私はあまりの衝撃に絶句し、そのときは何が起こったのかもよく理解できず、呆然としてしまいました。私はもとより吃音で、社員さんにからかわれてからさらに言葉に詰まって接客をするはめになったのですが、まさか、そんな吃音という私の致命的な欠点を、本人の目の前で、しかも大勢のバイトの子たちの前で真似されて、爆笑されて・・・・。電車の中で、本で顔を隠しながら、泣いて帰った思い出があります。
あのようなことがあった以上、皆は私のことをひどくみっともなく情けないやつだと思っているに違いない、と思いながらも、いつかは人に慣れなくてはいけないという思いから「病院に行っているんだ」と自分を言い聞かせて、引き続きそのバイトに行っていました。
バイトを始めて半年ほど経った私の誕生日のことです。バイト仲間のある女の子から、メールが来ました。「あたし、Kのこと、ほんとに好きなの。これからも仲良くしてね」その子は私がバイトを始めたときからいた子だったので、私のみっともない姿を誰よりも知っている子だったのに・・。私はそれまで、もとよりあきらめているためか、友達をつくろうとか、人から好かれようという願望が希薄で、その子のことも好きでもなんでもなかったのですが、そういったメールをもらったことで、人に対して、好意というものが、少しずつ自然と持てるようになりました。また、その子に好かれているという自信からか、その子にだんだんと自分からも接していけるようになってきました。どれだけみっともない自分を見られても、それは人が私を嫌う要因にはなり得ない、ということ、もしかしたら世間では当たり前のことかもしれませんが、そのことを学びました。
それから、他のバイトもするようになり、人や社会は自分が思っているよりも優しく、穏やかで、受け入れやすいものなのだと思えるようになりました。
私が、この体験談を通じて言いたかったことは「ま、あまり気にすんな!!」と言うことです。みっともなくても、恥ずかしい奴でも、挙動不審でも、世間はあなたの人格まで否定したりはしないし、別にみっともなくても、能力的に劣っていても、社会に出て行っていいのです。「私のような者は社会に出ては皆に迷惑をかけるだけだ・・」と思い悩んで、ひきこもらないこと!!あなたがどうであろうが、社会に出て行けばいいのです。迷惑もかければいいのです。一度や二度の迷惑で、アウトキャストにされるようなら、もう世の中の大多数の人は、引きこもっています。でも、そうじゃないでしょう? みんな、迷惑をかけて、でも、それでも生きていっているのです。傷ついても、人は生きていけるし、迷惑をかけても、次のときに気をつければいいだけの話です。
私の生きた道というテーマでしたが、私なりのひきこもり『脱出記』を書いてみました。
ひきこもりの体験記は、皆と似たり寄ったりだからです。吃音の悩み、極度の強迫観念、能力コンプレックスなどから、幻聴、幻覚、はてはパニック発作になり、どうしようにもどうしようもない状態でした。
今では、ある程度までは開き直っています。のびただってあんなにバカでどうしようもないのに、それでも一人の人間として生きていっています(笑)。ジャイアンはどうしようもない音痴だし、スネオはうそつきだし、静香ちゃんはバイオリンが下手で、出来杉君は面白みに欠けるのに、それでも皆、フツーに生きていっています。
絵が描きたいのに、ヘタなのでどうしよう、って悩んでる人へのアドバイスだけど、見方を変えると、これって例えば「カラオケで歌いたいけどヘタ」っていうのと一緒だと思った。
ありがちな悩みとしては「音痴・音が外れる」・「自分の歌い方がなんかキモい」ってのがあると思うけど、つまり「歌のエッセンスを吸収・理解してない」って事だから、そこをまず、自分の自意識というか潜在意識の中に刷り込む、という作業が必要になってくる。
よく言われるのは「バケツをかぶって歌う」という方法で、つまり『自分の喋る・歌う声を、自分の意識で「ちゃんと」認識する』ための回路を、自分の脳味噌の中に作りあげるための作業だ。バケツをかぶるのはさすがに恥ずかしい、という人は、右でも左でもいいから、自分のしゃべった声を片方の耳でよく聞こえるように、片手で『耳を大きくするような』感じで覆うといい。お勧めは、左耳(感情をつかさどる右脳と直結してるから、というのがその理由らしいけど)。
それができたら今度は、「自分の歌った声をまず録音し、再生して自分の耳で聞いてみる」というプロセスを経験してみる。『自分の行動を客観的に捉える』という作業で、大概の人はここで「自分の声のキモさ」というものに悶絶するようだ。つまりそれだけ、普段は自分の声や喋り方について、無頓着というか、意識して発声している人が少ない、ということ。
そこで目(?)をそむけず、どこがどうおかしいのかって事を、きっちり意識する。上手くなりたいのなら、一連の歌声の中で、自分で気づいた点について、ノートを付けてみるといい。
本当はここで、楽譜が読める(音階を視覚的に認識・置き換える)だけの知識があればいいんだけど、それは特に無くてもかまわないと思う。歌詞カードの部分に「ここで一瞬、タメを作る」とかメモを書く程度でも、とにかく「歌う際に、歌詞で気をつけるべき部分」を自覚的に理解しておく。
あと、「俺、滑舌が悪くて、何言ってるのか分からないってよく言われるんだよね」って人もいると思うけど、そこらへんは「お年寄りの人に、大声で、ハッキリ・ゆっくり語りかける」つもりで、歌詞を読み上げる練習をやってみると、あんがいと解消が早い、と思う...
あと、カラオケがうまくなるには、歌手の歌い方のモノマネをするのが有効だ、っていうのはよく言われる話だけど、声のトーンをたんに真似るだけじゃなく、例えば「歌手の表情や姿勢」まで真似てみるというのは、本当に有効。だから歌を聴くだけじゃなく、できればPVとかで歌手の細かいしぐさの格好まで徹底的に真似るのも、いいと思う。
それから、たまには目をつぶって「耳に神経を集中させて歌声を聞いて」みて、歌ってる人がどういうアクションをしてるのかを、想像してみる。なーんとなく曲を聞くんじゃなくて、「歌い手の表情を想像」できるように、意識を高めて聞いてみる。そうすると、真似る対象のイメージがすっと頭に浮かぶ→あとはそれを真似て歌う、というプロセスが自然に出来るから、そうなれば歌う事はぜんぜん苦じゃ無くなる。
それができたら、今度は筋トレに相当する「ボイストレーニング」も、簡単なものでいいから並行してやってみるべき。歌う際に腹筋を使える(腹式呼吸)のと使わないのとでは、それこそ雲泥の差がつくし。
ここで高音や低音の部分の声が出ない、という悩みについてなら、高音部分はファルセットというか裏声を使えるならそれで誤魔化す方法もある。低音の場合だと、多少は体格の問題が出てくるけど、秋川雅史(「千の風になって」の人)のような感じで、腕を広げたりして姿勢を変えると出易くなる、気がする。ま、このあたりは、興味があるなら専門家にちゃんとした指導を受けたほうが早いよ。
もちろん、絵が上手く描けなくて悩む人よりは、歌が上手く歌えなくて苦に思う人って、タイプとしては少ないとは予想する(絵が下手なのは見てすぐ分かる事だし)けど、苦痛に思ったりしながら歌の練習をするっていうのは、やっぱり間違ってると思う。だって、気持ちよく歌うことって、単純に楽しいじゃん。上手く歌えたら、かっこいいじゃん。
でもよく、芸能人カラオケ大会とかの番組で、ブサイク芸人が酷評されたりする場面もあるけど、あんなのは無視していいと思う。ジャイアンリサイタルじゃない限り、誰かが歌う事が他人から非難される事って、あまり無いはず、だし。
それと、英語の歌を歌いたいなら、もちろん原曲を何度も聞き込むのは大事なことだけど、簡単な英会話や文法も勉強するとさらにいい。もっともここらへんは、歌える人にとっては「何を今さら」な事かもしれないけど、歌詞の内容を熟知したうえで歌うのと、そうでないのとで、これまた曲の深みがぜんぜん違ってくるのは、言うまでも無いよね。
健闘を祈る。
しかも職場の、別の部署の、年上の皆様(つまり、さほど仲良くない人々)と。
30年生きて来たけれど、増田はかれこれ4〜5回ほどしかカラオケに行ったことがない。高校時代、初めて行った時はマイク回されても1回も歌わなかった(歌えなかった)
仕事柄、カラオケに行く機会が本当は多い筈なのだが、よっぽど近しい友人とでないと歌えないし、仲いい友人から誘われても、なんやかんやと理由をつけちゃ断って来た。が、昨日は「もう、どーでもいいや」と思って勇気を出して参加してみた。
カラオケ嫌いな理由のひとつに、「いまどきの歌を知らない(かといって懐メロも知らない)」ってのがあった。レパートリーが異常に少ない。小学生時代、まだカラオケを知らない頃に口ずさんでいたドラマの主題歌とかならかろうじて歌える(可能性がある)のだが、同年代と行くと「古い・・・」「・・・なんでその選曲なんだ?」「その歌手、好きだったっけ?」と突っ込まれるほど一貫性がまったくなし。だが今回、増田以外は40〜50台の男女バラバラなメンツであったため「おそらく増田さんは我々にもわかりそうなものを選んで歌ってるのだろう」と好意的な解釈をしてくれてた・・・ような雰囲気だった。参加者が5人だったので、レパートリーが少なくても時間が持ったことも幸いだった。途中で理由つけて早退しようと企んでいたのだが、なんだかんだでお開きとなるまで3時間同席してしまった。これまでは友人と行っても「あ、終電なんで」とか言って1曲歌って早退が定番だったのに。
幹事だった先輩(子持ち)は昔のアイドルソングや子供の好きなアニメの歌を歌っていたし、最年長の部長は陽水からはじまり、何語かわからない歌を連続しまくり。「しばり」もないおかげで、人目を気にせず自分も結構適当な曲をマイペースで選べた。
カラオケ嫌いな理由のふたつ目に、音痴なことがある。でも、テレビで「カラオケ大好きタレント」がたまに歌ってるのを見ると「あれ?こんなによくカラオケ行ってる人たちなのに、歌ひどくないか?」と思うことが度々あり、これも、勇気を出すきっかけとなったかも。増田は歌う経験が少ないこともあって音域が狭く、自分の声を思うようにコントロールできないのであるが、別に「音程」や「リズム」を知らないわけではないので、歌いながらズレの修正は可能だった。初めて歌う曲も、自分の音域に合いそうなものをカンで選べた。おかげで、初めて歌ってみた数曲も、「こりゃ次回持ち歌にできるかな?」と自己評価できるぐらいには歌えた。「歌が上手い」と評判の主任さんも、本業歌手でないから当然うまく声が出し切れなかったり、ちょこっと外すこともあった。それを聞いていると、「そーか、適当でもいいんだよね〜」とかまえずに参加できた気がする。
なお、今回の成功の一番の要因だが、アルコール入れてたことかもしれない。増田はアルコールに弱いのだが、部屋に入ってから空きっ腹にビールをかけつけ3杯いった。「酔っちゃいました〜あはは〜」といかにも酔っぱらった雰囲気を醸し出していたので、他人の目線も自分の恥ずかしさも気にせずいられたと思う。ま、実際酔ってたけど。
嫌い嫌いといっても職業柄、カラオケに行けたほうがよいのだし、歌うことはストレス解消にもなる。これを機に、いやがらずにもう少し踏み出してみようかなと思った。
・一度振り返ってみるのも悪くないよね
NHKのマスメディア討論と同時刻に放送する企画はネットを嫌煙している人達でさえも何らかの形で小耳に挟んだことだろう。それだけこの企画はインパクトがあった。
公共放送と呼ばれるNHKが本格的にネットをどう利用していくのか討論するのだからネットを毛嫌いしている頑固者でも一度は興味を持つものだ。多くのメディア関係者もNHKと同時にUSTの放送を視聴していた。一般人であってもNHKの番組欄をみてネットはよくわからないが興味はあるという人が視聴していたことも事実だろう。
その中に私の家族も含まれていた。
NHKで既存メディアに関する放送があると聞いてお茶の間で見ていた。私はUSTの放送にも興味があったのでテレビの横に家族全員が見られるようパソコンを設置した。ネット界隈の著名人がツイッターの意見を取り入れてNHKで行われる淡い討論をどう料理するのか興味があったし、またネットを利用しない家族もネットを作ってきた人がどういう考えを持つのか興味があったそうだ。本来は一人で見るつもりだったが、機械音痴ながら少なからずネットに興味を持っている家族にも見せた。
途中から「○○○」という発言で母は唖然とし「○○」の連発で親父が切れて「パソコンを切れ!」と顔が真っ赤になり、ぶつくさ言いながら居間から出て行ってしまった。家族騒然。ネットを何も知らない者にとって煮え湯を飲まされる形になってしまった。
その言動こそが持ち味だといって笑う者もいたが、それこそネットの暗い面だろう。多面的であるネット放送、そもそも「ダダ漏れ」というコンセプトのもとで放送され、このメンツならば予想されるであろうことだから見せるなだとか、家族に見せること自体が根本的に間違いだという意見もあるだろうし、こういった予測不可能な事故が今後出る恐れもある。私自身反省することは多々あった。以後見せることは金輪際ないだろう。
司会の津田さんは何とか舵を取ろうとする意識が見えていただけに残念でならない。全員が何らかのトップを走っている人たちだ。手綱を握るのはさぞ難しかっただろう、彼の苦労をねぎらいたい。あの状況下ではグダグダは避けられなかったのかもしれない。ひとくくりにネット放送がグダグダだと言って目くじらを立てるつもりは毛頭ない。しっかりと構成に基づいて放送されている方もいるし、グダグダ感がよい味を出している放送も存在するからだ。
しかし今回の企画自体とてもおもしろくまた同時刻で同じ課題についての放送であることから、既存メディアとネットメディアの考え方の差を一般人に広く見てもらう機会もあっただけにこのグダグダはとても惜しい気がした。マスメディアがネットをどういう風に利用するのかと、一般層にとってもネットを認知する機会であればこそ、ネットでどういうやりとりをしているのかを見てもらう良い機会でもあったのだ。
以前にも東浩紀氏が司会の「ベーシックインカム」についてニコニコ動画で放送していたが、暴言を吐かないまでも、声の大きい者が延々としゃべり続けるような状況だった。もちろん内容はおもしろかったのだが、せっかく多くの専門家や著名人を迎えて行う放送なのだから色々な意見が聞きたかった。似たような状況で続けざまにグダグダになっているのはとても残念でならない。
自室に戻って第二部を視聴したが、とてもおもしろかった。また次回もやってほしい。その気持ちがあればこそ感想を書くに至った。
適度にやるという趣旨だったかもしれない今回のUST討論だが、厳格なNHKの放送枠にあわせるとどうしても全体のカラーをNHKにあわす人間もいたことだろう。同時刻に流していると厳格なNHKのイメージに対し、罵詈雑言、酒を飲みながらヤジを飛ばしているというイメージを視聴者に植え付けてしまった。
ネットが罵詈雑言のグダグダしただけの世界だと思われてしまうのが残念でならない。ネットは勝手にやっていくからレガシーメディアは勝手に滅んでくれていいということで投げるなら何も言えないが、一般大衆により深く浸透してもらうためにはいろいろな意見を聞き、討論させるがことが必要だ。進行がぐらついてしまうような大きな声が勝つ討論ではそもそも既存メディアにすら太刀打ちできない。
ネットは近所の公園でたむろしている不良のたまり場として見られることだろう。最近になってNHKラジオではツイッターの投稿を募集し始めている番組もあるのだが、たまにツイートを読むときにかったるい間延びした読み方をされることがある。ネットスターの投稿でも似たようなことがおきている。感情を込めて読み上げる必要があるのだろうが意外とネットからの投稿は間延びした読み方が目立つ。ネットから遠いと自堕落な人物像を想像してしまうのだろうか。これが既存メディア側から見たネットの人達(住人)に対するイメージといえるのかもしれない。ネットと既存メディアの対立構造として想像している者も少なからずいる。
厳格に枠を作ってしまってはネットの優位性はなくなるという懸念はあるかもしれないが、有意義になるはずの放送をグダグダにしてしまうのは勿体無い気がする。既存メディアの強みは良い意味で時間枠に手綱が握られている。時間や政治的な制約を出演者自身が意識していることも討論の進行を制御しやすい要因になっている。
ネットメディアは言いたいことがある程度自由に発言できる代わりにグダグダを毎度の事と許していないだろうか。今回の放送は対比する場として認識している人間もいた。NHKの議論の質が低い、根本的にズレているという声もあったと思うが、裏マスメディア前半部分の有様を見かねて退席した視聴者はどう見てもNHKに軍配を上げることだろう。
グダグダを前提にするならばこの時間帯は避けるべきだったのかもしれない。既存メディアが理解を示そうと討論をする放送なら今回USTの放送に興味がわくことは想像に難しくない。ハッシュタグを両方付加してツイートする者もいた。そこから興味を持ってUSTにアクセスした視聴者もいただろう。
切込隊長が放送する前にブログでこのことを心配されていた。(参照↓)
・ NHKが昔からtwitterを使っていたわけではなく、今回試験的なもんだろうと思います。
・ twitterは従来の放送のあり方に敵対するものではなく、共存していくための試行錯誤の時間を放送側に与えるべきです。
・ たぶん、USTでの裏番組の放送は、相当グダグダで汚い野次が飛び交う内容も含まれるでしょう… それが、twitterのレベルと思われるのはよろしくないかとも思います。
・ ネットの側からすれば、既存マスコミを敵視したい衝動は理解しますが、相手も人間であり、配慮すべき対象です。
・ twitterが革命的だと信じるのは自由ですが、ネット過激派の巣窟と判断されかねない方法は採るべきではないという考えです。
引用:http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/03/nhk-589c.html]
次回、新たに放送の企画を考えるのであれば、たまにはネットのイメージを多少でも向上するようなセッティングをすることも必要ではないか。勿論たまには、だ。それが出演者が「窮屈だ」と感じ、無視するようであればネットはいつまでも独特の世界に埋没してしまうのではないかと危惧の念を抱く。ネットを嫌悪している老害が時間とともに完全に死滅することを望んでいるのならば、やがて現在ネットに親しんでいる者達もいつか時代が変わったとき、逆の立場になる可能性があることも頭の隅に置いてほしい。年齢の事ではなく、考え方の世代間の齟齬を無闇に切り離して考えるのは乱暴といえる。
既存メディアがなかなかネットの見解を喋らせてくれないのは暴走や炎上といったリスクを恐れていることも一つの要因だろう。既存メディアはネットを蔑視から脅威の対象に変わりおそるおそる歩み寄りを見せようとしている。この時期をうまく利用し、ナイフに怯える少年達に安全な使い方を示唆するように、ネット上の楽しさや奥の深さを理解させることができれば、多少なり既存メディアの著名人達がネットに流れてくることもあるだろうし、ネットに関するテレビ放送の姿勢が変わってくる。新しい技術もスムーズに受け入れられることだろう。
視聴者の意見がダイレクトに流れてくることを認識してもらえれば、著名人も迂闊なことがいえないと判断し、勉強するようになる。法案の抗議文書をいくらEメールで送付したところで国民の声として認識されないのもネットが生活に根ざし始めていることを理解していない者が多いことを示している。ネットは生きた人間が使っていると理解させる。その流れが「開かれたメディア」の一歩と思う。
そういう状況になって初めて「開かれたメディアではごまかせない」と捨て台詞を吐き、既存メディアに逃げ帰っていく者達を安心して見送ることが出来るのではないだろうか。いま誰にでも門戸を開かれているようで、まだまだ人を選んでいるのが現状だ。空論だと言い切ってしまう前に一度やってみる価値はあると思うし、ネットのコミュニケーションが多様化してきたのだから既存メディアが理解できる様式が一つぐらいあってもいいだろう。まずネットが2ちゃんねるだけの文化という誤解を解くことが必要だ。
ネットは多様性があり、しかも誰でも放送を選ぶことが出来るのだから放っておけば見えざる手のごとく、いずれ淘汰・最適化されるだろうなど安易に他人任せにするのはよくない。アルファブロガーという言葉が流布されているとおり、匿名だけがネットではなく率先して引っ張っていく人間がいる以上、発言の影響力は大きい。こういったネットを先導してきた者たちが一度はネクタイを締めてキメ顔でやってみるのも別のアプローチとしておもしろい宣伝になる。たとえテレビでは多くを語れない制約があったとしても、ネット側から歩み寄りを示す方法はいくらでもあるのだ。
前を向き続ける姿勢は評価できるが、ネットに興味があるがなかなか理解出来ない人を放置するのはいかがなものか。せっかく相手は理解しようと動き始めている。敵視したままなし崩しに放っておけば、誤解の差は開き、また何かしらの思い込みによる報道を繰り返し、結果的に発展の阻害になってしまうことは想像に難しくない。理解を示し、説明することは大事なのだ。
ネット先駆者たちと大衆の思考が大きく乖離してしまっている。先駆者たちがわざわざ理解できるように道を示してくれるとは思えない。また既存メディアが既得権益で塗り固められたままネットを利用し理不尽な制約・規制を新たに生み出すかもしれない。これから重要になってくるのはネットと非ネット利用者の橋渡役ではないだろうか。
大衆を呼び込むためにも背広を着て営業する大切さも一度は考えてみるべきだろう。ドワンゴの川上氏がテレビCMを流すなど、NHKに出演することは世間に出るリスクがあるとはいえ、新しいメディアを理解してもらおうと努力している観点から見れば大いに評価できることだ。
iPadなど直感で触ることが出来るようになりこれまでネットを利用しなかった人たちも使う機会が増えてくることだろう。前へならえで既得権利に浸かって沈没していくレガシーメディアに理解できるような試みも必要なのだ。より社会に根ざしたネットインフラを構築するためにも、今後ネットを知らない者への理解が重要になってくる。
既存メディアがネットを考え始めたと同時に、ネットを利用している者も既存メディアに対してもう一度深く考える時期にさしかかっているのかもしれない。
参考1:“革命的Ustream放送”「激笑 裏マスメディア〜テレビ・新聞の過去〜」の裏側 (1/2) - ITmedia News
参考2:Togetter - まとめ「NHK激震マスメディア 向谷実氏(カシオペア)のTLで裏ustに非難轟々だった件」
色々なコンプレックスを抱えながら生活してきた。
ニートをこじらせていた時期もあった。
いや、ニートを飛び越え、ヒッキーにまでクラスチェンジしていた。
基本スペックは、
人と関わるのはひどく疲れるので、最小限の人間関係しか築かない。
携帯の着信履歴もここ数ヶ月無い。
今思えば、目立ちたがり屋で、仕切りたがり屋で、見栄っ張りなナイスガイだったと思う。
そこそこモテた。
人生の絶頂期。
そして中学へ進学。
小学生の頃と比べると若干影が薄くなってはいたが、そこそこの存在感を出すためがんばって見栄を張っていた。
そんなある日、面識の無い学生に話しかけられた。
たわいのない話だった。
「はぁ!?」
周囲に存在感を示すため、粋がっていた私はそう返した。
面識の無い学生は、わたしに殴りかかろうとしていた。
面識の無い学生のツレがそれを止めてくれた。
なんとかその場はおさまった。
・・・・ここから地獄が始まった。
「生意気な奴だ」
わたしの名は、同学年のヤンキー共に知れ渡ることとなった。
数々の嫌がらせ。
部活のランニング中、硬式ボールを顔面に投げられ危うく大惨事に。ということもあった。
呼び出してリンチ。なんて話も聞こえてくるようになった。
俗に言うイジメというやつだ。
恐怖にかられたわたしは、愛書「ろくでなしブルース」を擦り切れるほど読みつくし対応策を練った。
またジャンプの最後のほうについてる「2週間で強くなれる!」とかいう通販に手を出したこともあった。
そして天パをからかわれ、わたしは始めて天パを意識した。
朝はブローに1時間ほどかけ、チン毛を伸ばした。
汗をかくとチン毛に戻るので、部活も行かなくなった。
さらに、毛深いことを笑いのタネにもされた。
そんな中学1・2年を過ごしていた。
だが中学3年になると、徐々にわたしに対する嫌がらせは減っていった。
ヤンキー共の攻撃対象は、別のチン毛君に移っていた。
安堵した。
だが、いつ何時攻撃の対象に晒されるか分からない。
ヤンキー共と仲良くなる。
これが当時の私が出した結論だった。
一見すると友達のようだが、対等な立場ではないパシリ的な存在になりさがる。
殴られ、からかわれ、家に遊びに来ると物品が盗まれる。
そして逃げるように、ヤンキー達の手の届かない偏差値の高校へ進学した。
恐怖と緊張の毎日だった、中学生活とはうって変わって平凡な高校生活が待っていた。
男子校だったので、恋愛とは無縁だったが平和で落ち着いた日々が戻ってきた。
バイトなども始め、徐々に友達も増えた。
そこそこ楽しい日々だ。
だが、中学時代のヤンキー共から再び呼び出されることが多くなった。
殴られ蹴られエスカレートしていった。
夜中、一晩中殴られていたこともあった。
素っ裸にされ殴られたこともあった。
小学校時代の友達の前で殴られていたときは、言いようの無いみじめさだ。
昔好きだった子の前でなんて時もあった。
自宅の電話が鳴るのが怖くてしょうがなかった。
そして私は決心した。
これまでの交友関係は捨てる。
一切の電話に出ないようした。
格好悪いが逃げ回ることにしたのだ。
家まで来ることもあったが居留守を使ってやり過ごした。
バイト先に来たときは、心臓が縮みあがったが、何とか隠れきった。
そして、日本でトップクラスのFラン大学に合格した私は故郷を捨てた。
大学生活は平穏だった。
Fラン大学ゆえ、日本屈指の学生が集まっていたが、大学でのイジメは見たことも聞いたこともなかった。
イジメという恐怖から完全に開放された。
バイト関係の合コンが2,3度あった。一度もうまくいったためしはないが。
カラオケにも行った。
ユニコーンの「大迷惑」を歌った。
空気が重くなった。
「・・・ホント大迷惑だよ・・・」と言われた。
バイトをやめた。
それ以降、人前で歌ったことは無い。
2年に進級するとき、大学の友達は1人だった。
3年に進級するとき、その一人の友人は退学した。
大学に誰も知り合いがいない状況となった。
4年になると就職活動をしなければいけなかった。
「どもり」持ちである私は非常に憂鬱だった。
「え・・ぇえーーぇ、え、ぇーーえ、Fラン大学から来ました。ぁあ、まぁー、まー、増田です」
そしてこの時期、童貞を捨てた。
サイコーの腰使いだった。
FF11の廃人ギルドに入り、寝る、食べる、排泄、シコる、ゲーム以外の行為を行うことが無くなった。
そんな折、数少ない知り合いから運良く就職の話をいただく。
ニート生活丁度1年目のことだった。
デキちゃった婚だった。
だが仕事上、経験を重ねるごとに人前で話すことが多くなってきていた。
そして「どもり」が自分の中で大きな問題になった。
もうこれ以上は無理だ。転職しよう。
プログラマーになった。
これで人前で話すことは無いはずだ!
しかし、電話番をまかされることになった。
「ぁ・・あぁはあ、は、はあーはー、あー、はい。ま、まぁー、まー、増田株式会社です」
1年で転職した。
「たった一年でやめやがって」と思われそうだが、地獄のような1年をよく耐えたと思う。
そこそこ平和だった。
だが、プレゼンをやることになった。←今ここ
「どもり」と「天パ」と「音痴」と「ムダ毛」とコンプレックスが多い人生だ。
だけど「どもり」は別格。
「どもり」がある以上、仕事は制限され、恥をさらしてしまう恐怖に一生晒される。
おそろしす。
新しい言葉 「障害者」→「障がい者」→「チャレンジド」へ 鳩山首相「チャレンジドが望ましい」
ttp://alfalfalfa.com/archives/387398.html
97 : スプーン(愛知県) :2010/02/24(水) 10:52:45.78 ID:ORQIMcG8
vertically-challenged(垂直方向に試練を与えられた人)でチビ
horizontally-challenged(水平方向に試練を与えられた人)でデブ
follicularly challenged(毛根に試練を与えられた人)でハゲ
romantically-challenged(恋愛面で試練を与えられた人)でモテない人
色々応用が効くw
290 : スプーン(愛知県) :2010/02/24(水) 11:07:11.19 ID:ORQIMcG8
»154
totally-challenged(全てにおいて試練を与えられた人)ってのはある。意味は「植物人間」
さっき挙げなかった他の例
aesthetically-challenged (美的に試練を与えられた人)→醜い人
cosmetically-challenged (外見に試練を与えられた人)→醜い人
cerebrally-challenged (脳みそに試練を与えられた人)→頭の不自由な人→バカ
scientifically-challenged (科学に試練を与えられた人)→科学が苦手なひと
musically-challenged(音楽面で試練を与えられた人)→音痴
mathematically-challenged (数学面で試練を与えられた人)→算数できない人
automotively-challenged(自動車で試練を与えられた人)→運転がヘタクソな人
「社員食堂を豪華にし、トイレを綺麗にすると会社の業績が上がる」って法則があるらしいよ?
今たまたま見つけたけどこれとかさー
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091106-00000009-maip-soci
おめーは結局最終的に大学というものをどこに持っていきたいんだ?ってのが全く見えない小手先の手段。
基礎研究も同じなんじゃないかなーと思う。
私は一人っ子。生まれてから両親の愛情をもりもり受けて育ってきた。
だから、私の事を2人が何でも知ってるというのは至極当然な事だけど…
逆はどうなんだろう。私が知ってる事と言えば
父親
背が低い・典型的いなかっぺ・温厚・庭いじりと釣りと山登りが大好き・変なとこでキレる・近所の人からよく慕われている
優柔不断・蜂にあと1回刺されたら死ぬかも・デジモノ音痴・私にもの凄く甘い・母に頭が上がらない
「ハゲ」は禁句・普段は味付けのしつこい料理ばっか作るけど、カレーとさしみだけはガチでうまい・鍋将軍
見かけが意外と若い・口調がきつい・庭いじりと買い物と日本茶と甘いものとTVと猫が大好き・片付けられない上に捨てられない
運動とバナナと病院が大の苦手・めんどくさがりや・未だに自分の母親や妹とけんかしてばかり・何故かスキマスイッチを殊の外嫌う
ジーパン履いてる姿を1回も見た事がない・パソコンを買ってもほとんど使わない・DSを(ry・デジカメを(ry・電子辞書を(ry
滅多に作ってくれないけど、卵焼きとチャーハンは凄く美味しい・私と父に凄く厳しい
これぐらいしかないのよね(´・ω・`)
昔の事とかは聞いてもはぐらかされてばっかだからわかんない。
父方の親戚とは付き合いないし、母方の親戚は母の事むちゃくちゃ言うし。
結構謎が多いな−。
インターネットが異常に遅くファイルの保存ができないという遅さらしい
で、仕方なく家まで行って見に行った。ちなみに彼女は今付き合ってる人がいる。恋人がいるのにほかの男を家に入れていいのだろうか…僕はこんな人とはもう付き合いたくないと思いながらも心の中のどこかではまた…とか思っていたりする。まぁそれはいいとして
パソコンを立ち上げたら、異常に動作が遅かった。メモリ256MBのくせにXPをつんでるから無理があるのは当然だw
でも、うちもメモリ196MBに無理やりXPを入れててまぁ一応動かせるレベルなのだがそれよりもはるかに遅かった
ネットはものすごく遅く確かに次のページにいけないことすらあった
持ってきた自分のパソコンにLANをさしたら、確かに回線は遅いがちゃんと落とせるレベルだったので、パソコンの重さが原因だろうという結論に至った
そこで、片っ端からいらないソフトを消していくことにした
そしたらCabosを発見してしまったw こいつパソコン音痴の癖になんでこんなの使えるんだww
本人いわく、音楽を落としているらしい。違法じゃんw まぁ不問にしておいた
あとで気づいたのだが、CabosってJava使ってるのね。Javaも削除しちゃったよww また助け呼ばれたりしてwwww
1.リアルにおける地位・肩書き・知名度
2.サイバースペース((観測範囲内の))における地位・知名度
3.直近1~20post
4.アイコン
5.ふぁぼったー
6.年齢・性別
7.趣味
8.フォローしている人
9.following/followedの比率(通称f/f比)
勘違いしないで欲しい。これは何も「低学歴はtwitterするな」と言ってるわけじゃない。
これらGig6以外の大学出身者が属せるクラスタがほとんど存在しないだけだ。
現役大学生なら「○○(地域名)の大学に通ってます」としておくだけで十分なのだ。
学生無職ニート問わずどんどん晒すべき。もちろん、一番強いのはIT系!
好みによる。一部下心ある人を狙って「社長」と名乗るのもいいが、
それでも釣れるのはやっぱり絶対数の多いIT系だけだろう。
(特定の方面で)高ければ高いほどロケットスタートを決められる。その加速度たるや、ピーチ姫もびっくりだ。
しかし、ネイティブtwitter-erからはしばらくの間「お客様」扱いされる諸刃の剣でもある。
貴様がすでに「アルファブロガー」として巷間から好感を得ていれば、またたくまにtwitterで広く交歓を持てるだろう。
ただし、常に読者からpostにブログ並みとまではいかなくてもある程度のクオリティーは求められるし、何よりブログの更新がおろそかになる危険がある。世の中一寸先は闇なので、ブログのフィード配信にとどめておいたほうが無難かもしれない。
@ばっかりなのは良いとしても((むしろ社交性・積極性の高さがプラスに評価されるかもしれない))、その内容が「おはよう」やら「おかえり」だけなのは拙い。「何食った」とか「どこいる」とかも同様。せめて5postあたり1回くらいは70文字以上の文章をひねりだす努力をしよう。
「でも他に書くことがないよ!」とおっしゃる貴様。その「何食った」とか「どこいる」にちょっとプラスするだけでいいんです。理由を、予定を、因縁を、歴史を、感想を、原因を、結果を、情景描写を、心象描写を、ダジャレを、自身の哲学を。
「何かおもしろいことを書こう」と努力すれば少なくとも評価してくれる人は出てくるはずだ。
さぁ、血反吐がでるまでネタを吐き出しつづけようか。貴様の場合、話はそれからだ。
4.アイコン
もちろん可愛ければ可愛いほどよい。ただし、あくまで基本は犬猫だ。
同種の動物をアイコンにしている者同士は妙な連帯感が生まれるので絡みネタが生まれやすい。
また、実際にペットを飼っているならその行動を逐一描写しているだけでもふぁぼがザックザク。
なるべくなら有名どころから画像を拝借しよう。それと時勢を読もう。
たとえ好みでなくても今話題になってるアニメのキャラを使おう。
するということは、つまり、貴様はアイコンによる好感度アップ策を捨てた、ということだ。
他でがんばればいい? 甘い。貴様はtwitter the killing fieldを甘く見すぎている!
乗るっきゃない。
もちろん若ければ若いほどいい。自分の容姿に自身がなければアイコンにアニメやマンガの美少女キャラを据えよう。そうすればバカな男どもは勝手に妄想を膨らませてくれる。ネットの利点を最大限に利用するのだ。
男の場合はそこまで顕著に年齢が影響することはない。
高校生以下だと稀に「ガキuzeeeee」みたいな理不尽な物言いをつけられることがある程度。
どの分野でもいい。とにかく最大公約数を狙え。
ただし「小説が好きです」とか「サッカーが好きです」みたいな曖昧なプロフはだめだ。
「ハルキストです」「シオカニスタです」となるべく細かく書こう。
iPhoneは持ってるだけでfollowerが増える魔法のガジェット。
twitter廃人がクラスタ判定によく「最近のfollowing状況」を覗くらしい。
なるべくなら仲がよさげな人つながりでフォローしていくことを心がけよう。
値が1.0~1.3→十分ではない
値が1.4~1.7→一番の食べごろ。
値が1.8~2.0→逆にちょっと遠慮してくる人が出てくる
値が4.0以上 →なにそれこわい。
理系という名の数学音痴、文系という名の数学白痴が多いtwitter界隈だとf/f比を弾き出すのに扱う数字があまりに大きくなりすぎると機能不全を起こした上に「なんだかわからんがこいつ気持ち悪いのでフォローしてやんない」という結論に達してしまうことが多い。
本来ならfollowingが200前後にしぼるのが理想だ。が、それだと1000follower達成時にf/f比が5.0前後という貴様の今後の更なる発展にとって、あまりよろしくない数値を示してしまう。というか、それ以前に800超えたあたりから敬遠する人がでまくって1000超えを達成しにくい。そう考えるとfollowingは400~500あたりに絞るのが現実的だろう。