2010-03-09

「どもり」と「天パ」と「音痴」と「ムダ毛」と、時々、ニート

色々なコンプレックスを抱えながら生活してきた。

ニートをこじらせていた時期もあった。

いや、ニートを飛び越え、ヒッキーにまでクラスチェンジしていた。

そんなコンプレックスヤローの半生を反省してみる。

基本スペックは、

30歳。男。会社員。既婚。子供3人。友達0。

人と関わるのはひどく疲れるので、最小限の人間関係しか築かない。

というか根暗で、人から好かれることも無いという孔明の罠

携帯の着信履歴もここ数ヶ月無い。


小学生の頃、活発でクラスの中心的な存在だった。

今思えば、目立ちたがり屋で、仕切りたがり屋で、見栄っ張りなナイスガイだったと思う。

スポーツ万能で、勉強を特にしなくても良い点を取れる。

そこそこモテた。

人生の絶頂期。

そして中学へ進学。

複数の小学校が集まってくるマンモス校だった。

小学生の頃と比べると若干影が薄くなってはいたが、そこそこの存在感を出すためがんばって見栄を張っていた。

そんなある日、面識の無い学生に話しかけられた。

たわいのない話だった。

「はぁ!?」

周囲に存在感を示すため、粋がっていた私はそう返した。

面識の無い学生は、わたしに殴りかかろうとしていた。

面識の無い学生のツレがそれを止めてくれた。

なんとかその場はおさまった。

・・・・ここから地獄が始まった。

面識の無い学生は、1つ学年が上のヤンキーだった。

生意気な奴だ」

わたしの名は、同学年のヤンキー共に知れ渡ることとなった。

数々の嫌がらせ

部活ランニング中、硬式ボールを顔面に投げられ危うく大惨事に。ということもあった。

呼び出してリンチ。なんて話も聞こえてくるようになった。

俗に言うイジメというやつだ。

まさか自分イジメの対象になるとは考えたことも無かった。

恐怖にかられたわたしは、愛書「ろくでなしブルース」を擦り切れるほど読みつくし対応策を練った。

またジャンプの最後のほうについてる「2週間で強くなれる!」とかいう通販に手を出したこともあった。

そして天パをからかわれ、わたしは始めて天パを意識した。

朝はブローに1時間ほどかけ、チン毛を伸ばした。

そんな努力結晶も「雨」という奴は、無常にも奪ってしまう。

汗をかくとチン毛に戻るので、部活も行かなくなった。

さらに、毛深いことを笑いのタネにもされた。

付いたあだ名は「スネちゃま」「スネ夫」「モジャオ君」

夏でも長ズボンデフォになった。

そんな中学1・2年を過ごしていた。


だが中学3年になると、徐々にわたしに対する嫌がらせは減っていった。

ヤンキー共の攻撃対象は、別のチン毛君に移っていた。

安堵した。

だが、いつ何時攻撃の対象に晒されるか分からない。

ヤンキー共と仲良くなる。

これが当時の私が出した結論だった。

一見すると友達のようだが、対等な立場ではないパシリ的な存在になりさがる。

殴られ、からかわれ、家に遊びに来ると物品が盗まれる。

そして逃げるように、ヤンキー達の手の届かない偏差値の高校へ進学した。

恐怖と緊張の毎日だった、中学生活とはうって変わって平凡な高校生活が待っていた。

男子校だったので、恋愛とは無縁だったが平和で落ち着いた日々が戻ってきた。

バイトなども始め、徐々に友達も増えた。

そこそこ楽しい日々だ。

だが、中学時代のヤンキー共から再び呼び出されることが多くなった。

パシリではなく、暴力の対象として。

殴られ蹴られエスカレートしていった。

夜中、一晩中殴られていたこともあった。

素っ裸にされ殴られたこともあった。

小学校時代の友達の前で殴られていたときは、言いようの無いみじめさだ。

昔好きだった子の前でなんて時もあった。

自宅の電話が鳴るのが怖くてしょうがなかった。

そして私は決心した。



これまでの交友関係は捨てる。


一切の電話に出ないようした。

外出するときも、帽子などを被り変装をした。

格好悪いが逃げ回ることにしたのだ。

家まで来ることもあったが居留守を使ってやり過ごした。

バイト先に来たときは、心臓が縮みあがったが、何とか隠れきった。



そして、日本トップクラスのFラン大学合格した私は故郷を捨てた。

ヤンキーではない普通の友達との関係も捨てた。

イジメられていた過去を捨てたいというプライドか。

大学生活は平穏だった。

Fラン大学ゆえ、日本屈指の学生が集まっていたが、大学でのイジメは見たことも聞いたこともなかった。

イジメという恐怖から完全に開放された。

バイト関係の合コンが2,3度あった。一度もうまくいったためしはないが。

カラオケにも行った。

ユニコーンの「大迷惑」を歌った。

空気が重くなった。

「・・・ホント大迷惑だよ・・・」と言われた。

バイトをやめた。

それ以降、人前で歌ったことは無い。

2年に進級するとき、大学の友達は1人だった。

3年に進級するとき、その一人の友人は退学した。

大学に誰も知り合いがいない状況となった。

4年になると就職活動をしなければいけなかった。

「どもり」持ちである私は非常に憂鬱だった。

「え・・ぇえーーぇ、え、ぇーーえ、Fラン大学から来ました。ぁあ、まぁー、まー、増田です」

就職活動をせず、FF11にはまった。

そしてこの時期、童貞を捨てた。

バイト先の人妻

サイコーの腰使いだった。

そんなこんなで大学卒業し、晴れてニートとなった。

実家に戻り、ヒッキーとして質素に暮らした。

FF11廃人ギルドに入り、寝る、食べる、排泄、シコる、ゲーム以外の行為を行うことが無くなった。


そんな折、数少ない知り合いから運良く就職の話をいただく。

ニート生活丁度1年目のことだった。

勤勉に働き、女性と関係を持ち、結婚した。

デキちゃった婚だった。

仕事私生活も、まずまずだった。


だが仕事上、経験を重ねるごとに人前で話すことが多くなってきていた。

そして「どもり」が自分の中で大きな問題になった。

もうこれ以上は無理だ。転職しよう。

プログラマーになった。

これで人前で話すことは無いはずだ!

しかし、電話番をまかされることになった。

「ぁ・・あぁはあ、は、はあーはー、あー、はい。ま、まぁー、まー、増田株式会社です」

1年で転職した。

「たった一年でやめやがって」と思われそうだが、地獄のような1年をよく耐えたと思う。

電話の恐怖は、「どもり」の人間にしか分からないだろう。

次の会社では、電話に一切出ないようにしていた。

そこそこ平和だった。


だが、プレゼンをやることになった。←今ここ


「どもり」と「天パ」と「音痴」と「ムダ毛」とコンプレックスが多い人生だ。

「天パ」と「音痴」と「ムダ毛」はどうにでもなる。

ストパー掛けたり、脱毛、音痴は歌わなければいい。

だけど「どもり」は別格。

「どもり」がある以上、仕事は制限され、恥をさらしてしまう恐怖に一生晒される。

おそろしす。

人生の折り返しを迎えた三十路の初春。

コンプレックスいっぱい、キモオタヒッキーでも何とか人並みの生活はできている。

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