はてなキーワード: 自分探しとは
本当に困ったときは、奪ってもいいんじゃないか、と思う。
だって、本当に困っているんだから。それ以上の理由は要らない、と思う。
もちろん、他人は納得しない。
けれど、そんなことは、余裕のあるときにじっくり考えればよい、と思う。
余裕のないときは、そんなこと考える余裕はない。だから、しょうがない。
奪って、余裕ができれば、考える余裕もできる。
そのときに、後悔したり、罪の意識に苛まれたりすればいい、と思う。
そのときに、ああ、あんなことしなければよかった、と思うかもしれない。
けれど、そのような感情は、余裕のあるときの贅沢品のようなものだ、と思う。
文学の題材になりそうな、かなりの贅沢品だ、と思う。
そのような感情は、言ってみれば、自分探しのようなものだ、と思う。
なによりもまず、生きていくためには必要なものがある。
罪の意識とか、甘いことを言っている暇はない、と思う。
もっと大人にならなきゃいけない。
奪ったりするのは罪だ。相手の人生も自分の人生も悲惨にする、と思う。
けれど、そのような想像力とか期待とかいったものは、余裕のあるときに持てばいい、と思う。
もっとシンプルに考えていかなきゃならない。
とりあえず、目の前にある問題に、どう対処するか、ということだけが重要だ。
それ以外のことは、重要ではないし、存在しない。優先順位をはっきりさせるのが大事だ。
けれど、実際に相手を目の前にしたら、躊躇するのではないか、と思う。
自信過剰に陥っているんじゃないか、と思う。
躊躇するのが、人間というものなんじゃないか、と思う。
これは、目的を阻害する要因になる。完全なコントロールはおそらく不可能だ。
だから、よくシミュレーションして、迅速に行動できるようにする必要がある、と思う。
たぶん、一回やると慣れる。場数を踏むのが大事だ、と思う。
モードをうまく切り替えられるようになる必要がある。
好きで困った状態になるやつはいない。
だから、ちゃんと共感して、困っている他人と協力して、よく助け合うべきだ、と思う。
理屈から言うとそうなる、と思う。
けど、むりだ。そんな余裕はない。
他人を助けるのは、余裕のあるひとが、趣味でやればいい、と思う。
余裕のない人は、まず自分を助けるべきだ。だからまず、余裕をつくるべきだ、と思う。
あまり将来のことはよくわからない。不確実だ。
だから、まず短期の確実な利益に目を向けるべきだ。それで余裕をつくる。
そのあとのことは、そのときに考えればいい、と思う。
人生はそのようなものだ、と思う。
だから、それが合理的だと思う。
山頂での生活は「必要ないものを明確にすること」から始まる
こんにちは。http://anond.hatelabo.jp/20100621122217を書いた人です。
今日は、ほどよく涼しくて風が気持ちよいですな−。
みなさんにコメントをいただいたので、読んでみました。ありがとう。
結婚とか、子育てとかはしないの?といったものが多いですね。ふむふむ。
えっと、
山頂での生活にも色々な形がある
と思うです。
性欲はもちろん、子育て欲も本能かなーという気がするので、山頂に順応してる人でも結婚して子育てしてるってケースはありえると思われます。
いや、むしろ、山頂に順応していたほうが暖かい家庭が築ける可能性が高いんじゃないかなと思ったり。
「日本人よ、もっと登れ」というスタンスの人々をイメージして欲しいのですが、彼ら彼女らの全員が幸せな家庭を築いていそうでしょうか。うーむ。
「もう登る山はないんだ」と割り切ってる人は全員が幸せな家庭を築けないのでしょうか。うーむ。
卑近な例を出せばね、勝間さんどうよ?みたいな。ごめん。例が極端だね。
「山頂での生活」っていうのは、「稼がない生活」「働かない生活」と同義ではないよ。あえてワンワードでくくれば「足りるを知る」かな。
「あれもしたい。これもしたい。もっとしたい、もっともっとしたいー」じゃないってことね。(ブルーハーツ)
だから、よくよく冷静に、「自分や家族が本当に幸せになるために必要なこと」はなんなのかを考えることがとても大事だと思うのです。
ただ、これって下手すると「自己分析(笑)」が始まってしまって、「自分探しの旅」に行き着きそうなのですが、そんな大げさなことはしなくていいの。ちょっと考え方を変えるだけ。
いま自分がしたり買ったりしているものは、本当に必要か?
を考えるだけです。「片付けのコツは捨てることだ!」みたいなもんです。全然たいしたことないでしょ。「これであなたも貯金ができる!」みたな内容がうすっぺらーい本に必ず書いてありそうでちょっとイヤなんですが、これなら、日々の行動でちょいちょい考えられるでしょ。
休日に奥さんと車で買い物に行きました。「はて、車は本当に必要かな?」とちょっと考える。お店に入ったら「はて、これを買おうとしたけど、本当に必要かな?」とちょっと考える。奥さんが「子供を塾に行かせようか迷ってるんだけど」と言われたら「はて、それは本当に必要か?」と考える。
ちなみに、以前の私は、ほとんどの買い物はストレス発散のためだったのでした・・・。ガーン。
そんな風に生活していると、なんかココロがすっきり爽快になってくるから不思議。余計なものをそぎ落とした生活って気持ちいい。
で、奥さんや、子供に話しを戻すとね、今の僕には妻や子供は「どうしても必要!」なモノではないのですが、「こいつはかけがえのないヤツだな」と思う女の人と巡り会ったりすることもあると思うので、そのうち結婚しそうな気がします。子供がかけがえのない存在であることは十分承知しているので、子供つくったりしそうな気がします。で、必要となるおカネが少し増える気がします。
って絶対言われるよね。これ。
まあ、そうかもしれないけどさ、「人生山あり谷あり」なのは当たり前じゃん?おカネをかければ買えちゃう商品化された教育をしたくらいで、子供の人生の谷を無くせるわけがない。オレ、本当に大切な教育って、おカネで買えるようなもんじゃないと思うとです。
「谷になったら適当に好きな歌でも歌ってごまかすしかないよ。で、ごまかしてなんとか生きていればそのうち山がきたりもするべさー」てな具合で、ゆるたくましく生きていける竹のような柔軟でしなやかなココロを持つ子供に育てたいです。そういう教育ってそんなにおカネがかかるの?そうでもないと思うんだけどな−。どうなんだろ。子供いねーからわからん。
まあそんなかんじで山頂の生活を楽しみたいなと思ってます。
週五でおっさんと毎日二人でおっさんのマンションでおっさんのパソコンに向かっている。
仕事をしていると言うと語弊があるけど、まあ今回は仕事の事はどうでもいいとして、問題はおっさんである。
ぼくは昔から引きこもり体質であって、土日は基本家でネットかゲームか読書、
出かければ歩いて30秒のコンビニ、旅行といえばネットカフェに朝までいる程度。
なんというか必然的に職場が一緒のおっさんとしか会わない。おっさんとしかしゃべらない。
決しておっさんが嫌なワケではない。このデキるおっさんを尊敬している。
仕事も、客先に打ち合わせに向かうのはおっさんであって、ぼくはマンションで一人おっさんを待つ。相手がおっさんであっても待つ身はつらい。
そのためぼくは人前に出ることは無いので、仕事でもおっさんにしか会わない。
おっさんはよくご飯をおごってくれるし、話も興味深いし、給料も仕事以上にくれる。おっさんのヒモのようでもある。
それがもう一年半以上続いている。
おっさんのマンションの合鍵も持っている。おっさんの好きな女子アナを覚え、おっさんの好きなお菓子も知っているし、
買ってくればおっさんが喜ぶコンビニスィーツも心得ている。おっさんはカレーが好きでおっさんは寂しいと死ぬ。
夢に見る人物もおっさんの割合が増えて来る。
前は健全な男子らしく女の子とか出てきてたのに最近はおっさんしか出てこない。
夢の中でおっさんと空を飛んだ。ぼくはおっさんより少しだけ上手く飛べる。
正直な話、ネットでヤラシイ動画みてるときもおっさんが脳裏に浮かび、思うように行かない。
しかも厄介なことに果てた瞬間が一番おっさんの主張が激しい。おかんに見られたような罪悪感が毎回ぼくを襲う。
学生時代憧れていた女子を思いだそうとしても、おっさんが主張してくる。
完璧に覚えている人ならいいが、うろ覚えだったら全員ちょっとおっさんに似てる。おっさんの面影がある。
そして翌日は変に意識しておっさんとの仕事に支障をきたす。心なしかおっさんもこっちを意識している気がする。これは自意識過剰か。
最後におっさんやコンビニ店員以外と会ったのは遠い過去のような気がするが、電話ならと思い、記憶を辿る。
でもコレもまぁおっさんみたいなもんなのでカウントされない。
酒の入ったゴリ氏は
「俺の心の隙間どうやったら埋まるんやろ?」
などとめんどくさい事を言ってきたので
「お前の心の隙間の埋め方わかったらメールするわ」
と言って流そうとしたのに
「俺の心の隙間の埋め方わかったらメールしてな!」
とか言って乗っかってきた。こんなヤツはカウントされない。
おっさんである。ちょっと自分探しの旅に出たいおっさんである。
とにかく、人とのコミュニケーションが極端に少ない。おっさんとゴリラしかいない。
人と会わないということは見た目にも気を使わない。
スーツも着ない。ヨレたシャツに変わって、ヒゲも滅多に剃らない。髪も2ヶ月以上切ってない。
しかも薄くなってる気がする。いやでも、こんなもんだよね。なんていうか元々薄いっていうか、季節の変わりめっていうか、
元々髪細いから、まったく劣化してないっていうか年齢的なアレじゃないし。
生え際を気にしつつ鏡を覗くと、そこにはおっさんがいた。
ワンカップ片手に鼻を赤らめ、街にくりだすしかないおっさんがいた。
しかもこれ「ぼうず、おっさんみたいになったらあかんぞ」とか言いそうな、
ダメな方のおっさんだこれ。
昨日、京都の恵文社一乗寺店に行ってきた。ネットでは話題になり雑誌等にも多く取り上げられ下町の一乗寺という立地なのにうっそうと流行っている。昨日行った時も人ゴミで店内は覆われていた。なぜAmazonなどのネット書店が席巻する現代でリアル書店が今尚健在しているのか。そんな疑問が気になって京都まで足を運んだというわけなのだが、結論を先にいうと、おそらく店内に並べる本のチョイスが斬新な点にあると思う。決して、店内の雰囲気がいいとか、雑貨が置いてあるとか、本の並べ方がいいとか、そういったことではないと感じた。
振り返ってみよう。現代の本屋さんとはどんなのがあるか。大きく分けて二つあって、一つはランキング形式を重視した1から100まで網羅している大型チェーンの書店。それともう一つは、対照的に、とある商店街の一角にひっそりとある「なんで潰れないの」的な亭主一人の本屋さん。もしくは、駅前の売れ筋商品だけを置いた小書店。・・・以上二つに分かれるわけだが、そもそも個人的には紙媒体の文化というのは、後数十年でマイノリティになると考えているので、前者はアマゾンと置き換わり、後者は間違いなく潰れると思う。
その点を少し掘り下げてから、恵文社の魅力にシフトしたいので少し寄り道をして欲しい。
なぜ、リアル本屋さんが今の経営だと淘汰するかというと、単純にデジタルネイティブ。つまり物心ついた時から活字はデジタルで読むものと教育されてくる子供たちが今後増えるからで、現在のアナログ世代とごっそり入れ替わった時には本屋さんの存在はマイノリティになるだろうと。それはこんな根拠があるからで、まだ日本語版のキンドルやiPadなどの電子書籍母体は発売されていないが、他の先進国ではもう地に根付いているといっていい。なんでかというと、公的機関、つまりは教科書がデジタル化に大いに役立っているからなのだ。アメリカの教科書というのは日本と違って、独学ができるように膨大の情報が詰め込まれており、分厚い専門書籍と化している。そんな分厚いものを何冊ももって移動となると、それだけで疲れてしまう。それを補ってくれるのが電子化による、データを持ち歩く方法で、子供の頃からそれが当たり前となると、どうなるか。先ほども言った、活字はデジタル画面で読むものという常識が固定されるわけで、それは必然的に、アマゾンでデータを購入してデジタル画面で読むという行為になり、リアル本屋さんというのが、今で言う、レコード屋さん状態になるだろうと推測せざる得ない。
さて、余談が長くなったが本題に入ろう。
そんな絶望的な本屋さん市場なのだが、それでも希望の光はあって、その光を感じさせたのが今日の主役の恵文社というわけだ。簡単に説明すると、恵文社というのは大型書店の後ろの方に眠っている良書を一般客に触れさせている点にある。人は皆、食わず嫌い性質が備わっており、変化を嫌い、予測できない事、物はさける行動をとる。それは本屋さんでも適応され、好きなジャンル本コーナーしか行かない。例え興味本位で哲学とか医療とかの書棚にいったとしてもちんぷんかんぷんで足を止める時間というのは刹那だろう。その点、恵文社はそれをごちゃまぜにしている。東京では最近オープンした松丸本舗がそれにあたるだろうか。漫画や古書を隣に並べるなどして、お客に刺激を与え、ハードルを下げ、好奇心、自分探しの森へ引き込ませる。それが最大の要因であり、恵文社が好まれる理由にあると思う。
しかしだ!! それでも甘いと私は思っている。もっと振り切れる必要があるのではと考える。
確かに、恵文社や松丸本舗という質に拘り一般人の琴線に触れるチョイスをする本屋さんというのは魅力的であり、集客力も案外ある。しかし、それが購買に繋がるというと、やや懐疑的な部分もある。絶対数が増加したからある程度は増えただけであって、どうもそういった第三のリアル書店というのは、雑貨屋さん、つまりは見て楽しむ本屋さん、ファッション的書店になっているのではないかと思う。
はっきり言って、今のやり方ではネットでも十分にできる。ごちゃまぜ方法的なやり方なんかだとネットの方が有利ではないか、立ち読みも楽勝にできるし、棚の入れ替えもすばやく展開できる。恵文社ネット版は安易に作成できるのだから、やはり今の経営方針ではまだまだだと個人的には考えている。恵文社にいるときに自分ならどうするかを思考していたので、それを少し紹介すると、ネットでできなくてリアルでしか通用しないもの。それはなんなのか。それはこんな事ではないか。
本を選択してくれるサービス。
本を購入するというのは、大きく分けて二通りあって、目的がはっきりしている買い方と紹介による買い方。反論を防ぐ為におさえておくと、ぶらっと立ち寄った本屋さんでふと手に取った本をペラペラと立ち読みし、なんとなく気に入って購入したとか、ジャケ買いしたとかは、前者に含まれる。それはあくまでも自分好みのものを手にとって見たからで、目的が決まっていると言っていいと思う。それで重要なのが、後者の紹介による購買で、書評をみてとか、本屋さんのPOPを見てとか、尊敬する人から進められたとか、誰かに決めてもらって本を買うという方法。わたしはこれがほとんどを占めているが、あと、好きな著者つながりとか。
要するに、数多ある書籍を目の前に置かれても、選択できないのが人間で、それは時代の流れて確かに収斂されてはきている。この恵文社のように、ある程度本屋さん側にチョイスしてもらって、その中からお客さんがまた選択すると。ただ残念ながら、わたしはそれでも多いと思っている。やはりある程度絞ってもらっても、本選びの時は不安なものは不安だし、お金のある人は別だが、数千円を投資するわけだから、何かにすがりたいのが世の末だろう。
そこでだ。もっともっと絞ってみてはと思ったわけで、想像していただきたい。とある本屋さんがあったとする。そこには、10冊しか本棚に並んでおらず、本と本の間のスペースは2,3冊分はあいており、そこには亭主が厳選した書籍がたっぷりの書評と並べて置いてある。まさに、セレクト書店というべきか、ポイントなのはそこでしか、その選択のサービスは受けられない点にある。有名人なら一人で経営しても問題ないだろう。例えば、書評で有名な弾さんなんかがセレクト書店をオープンすればそれなりに流行ると思うし、もちろんネットでは同じサービスは止める必要がある。しかし、知名度がない人や法人がやるとなれば、コツコツとやるしかない。
仮に恵文社程度の規模で私がプロディースするとすれば、ネットで書籍を沢山読む人を集めて書籍を選んでもらい書評を書いてもらう。そしてそれを店の本棚にならべる。ポイントは一人につき書棚一つ。それと個性的でバイアスのある書評家を選ぶ必要がある。となるとだ、かなり特殊な本屋さんになるのは自明だろう。無造作に置いてある本をお客さんが決めて買うではなく、数冊に絞ってやり本をお客が不安満載で博打買いするのではなく、この書評コメントに感化されたから買おうと、そしてその書評を書いた人が魅力的に感じてきて、その人が選ぶ本なら自分と結構趣味が合うので買おうと、最終的にはその選ぶ人のコアファンになればいうことなしだ。なぜなら、好きな人のお奨めする本は、本を購入するという行為に直結するからだ。
ってな感じで、本を選ぶのではなく、人が選ぶ情報を買うにシフトする必要があると考え、それと重要なのが、ネットではその情報を流さないこと。これさえ徹底すればリアル本屋さんも当分はやっていけるのではないだろうかと思う。本の種類を抑えるとコストもさがるし。ただビジネスとしての初期段階では本屋というビジネスモデルは選ばない方がいい。もしやるとしても、ローカルな趣味経営で止めておいた方がいい。現段階で書店経営している場合は考えるべきだろう。
なんか漠然と感じていることは、(本当にいい歳して痛いのだが)
仕事だろうが、趣味だろうが本当に自分のやりたいことと、自分の行動を一致させないと成果がでないし、欲求不満が溜まっていく。
資格試験の勉強、英語の勉強、プログラミングの勉強、ランニングして健康な体作りとかはやらなきゃいけないけど、やりたいことではないようだ。
何か自分のやりたいことやって欲求不満を解消しないと、やらなきゃいけないことも成果がでない。自己コントロールが下手だ。
とかそんなこと思っている。
でもヤリタイこと思いっきりやれるような歳でもないし、そもそも自分のやりたいことが何か分からない。
漠然とインターネット経由の情報ではなく、体験やら人との会話を通じて、
自分のやりたいことを探らなければいけないんじゃないかという思いがある。いわゆる自分探しの旅。
これって厨二病だよね。
この歳でかかるとは、本当に何してきたんだろうなぁ。。。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
これへの理由として「収入がない(格差が増大した)」「バブル期を経験した人が意見している」という考えが度々持ち上がる。確かにそれもあるかもしれないけど、もしかしたら生産への敷居が昔よりぐっとさがったからというのも要因にあるかもしれない。
最近ではクオリティの高いものを望まなければこれといった専門知識や投資がなくてもクリエイティブな生産が可能。自分の依存する価値観を金銭やそれで発生する財産の取引ではなく別のスキルへ移し変える人が増えただけなのではないか。
職人気質を求められる仕事が多かった時代と比較しても現代人は結構「何でもできる」環境が揃っている。だからひとつの事にこだわる必要がない。
私は若い人に、なんとかこの状態にコミットしてほしいと思っています。ネット上で歴史認識を正したり、国家を批判することよりも、こっちでやることがたくさんあります。
私自身、現場は苦手で、いつも帰りたくなるし、役立たずです。「自分探し」と言われても反論の余地もありません。
それでも、「自分探しボランティア」でいいから、コミットする方向に行くしかないと思っています。
そこらへんにあふれている、口だけ立派な学生運動上がりのおじさんたちのように論理武装に拘泥するくらいなら、素朴な実感を追ったほうが、まだマシだと思っています。
その上、ネットの最大の欠点は、麻薬のように、相手を攻撃する快楽に酔えることです。知識をたくさん持って、「おまえは本当のことを知っているのか」と相手を問い詰めることで「おれは知っている」という優越感に浸れます。もともと、左翼には、こういう悪い癖があります(私も持っています)が、それがネットでは最大限に悪い方向に出てくると思っています。
多くの人は思い込みに囚われている。
ある人々には都合のよい真実というものがあって、
そのような思い込みを助長するような言論が盛んな場合もある。
たとえば
などの言説は事実によっては支持されない。
日本では政府がしっかりしているかどうかは分からないけど、消費者はどんどん賢くなっている。
首都圏で週末にしか乗らない車を「自家用車幻想」という、何者かが作り上げた物語に乗せられ、大きなローンを組んで高級車を買う若者はほぼいなくなった。(逆に中国やインドなどの途上国では、「自家用車幻想」(利便性・行動範囲の拡大・見栄など)の為に、年収の数倍のお金を出してでも自動車を買っている。)
経済全体で見た需要と供給のバランスが崩れること、すなわち総需要が総供給を下回ることが主たる原因である。貨幣的要因(マネーサプライ減少)も需給ギャップをもたらしデフレへつながる。
この中で総需要というのは「消費+投資+政府支出+輸出(海外からの消費、投資)」で定義されるが、
上記したように、消費者が賢くなり消費しないので、どんどん需要がしぼんで供給多寡になり物価が下がる。
リフレ派の方々は上記の理由を「貨幣が足りないからだ」と仰られているが、
本当に足りないのは「消費」であることに間違いはない。(各種統計を見ても典型的な金余り状態だし)
消費にもいろいろあるけど、衣食住に対するお金は生きるために必要だから使うけど、
何故無駄遣いが減ったかといえば、消費者が賢くなり、経済的に合理的行動をするようになったから。
何故かと言えば、国民が共有していた物語が通じなくなったから。
物語の例を挙げると…
→そんなことしなくても、別に人生変わらない
だから会社や国は、もう一度本気になって、
もうテレビや映画にだけに頼っていても消費者は振り返らないよ。
そのために、何が出来るのかを日々考えてる。
先生の誤魔化し=Aで、マスダの誤魔化し=Bで、A≠Bで、みたいな話をしても仕方ないじゃん、と言いたいんだが。
文脈から言って先生は「自分探しとか言ってさ、生きる姿勢としてそれはどうよ?」と言ってる。つらいこと、見たくないことから逃げるために「自分探し」とかいってんじゃねーよ、っていう。たまたま「誤魔化し」って言葉を使ってるが、強いてその意味を言えば、「生きていてつらいことや嫌なことから逃げること」。
念のため言うとおれは賛成でも反対でもないよ。
「自分探し」は包括語句なのよ。人によって違うから、その部分を抽象語句にしてあるの。
「ごまかし」についても同じ。個別で存在する「ごまかし」を違うから意図的に抽象的にしてあるの。
でも、それじゃ分からないから抽象語句は定義しないと行けないの。定義したり比喩をもってきて言葉の意味を分かって貰う必要があるの。
すると、意味が通るのよ。
とか言う人もいるよ。そりゃ。
でもそういう人って学生だったりして「分からないから得意な科目の勉強だけしよう。後で決めよう」って方針なんだよ。
単に分かってもらえなかったんだろうって思って俺は後押しだけしておいた。
気持ちは分かるから共感はしていたけど、ブクマ変えてこようかな……。
お勉強でもいいし、就職活動でもいいのよ。新しい彼女でも趣味でも作ることでも。
それを俺は「自分探し」として定義しているのよ。より豊かな生活に結びつく実利的行動な。
そうすれば大半の人は肯定するのよ。
俺はもてるようになる。
俺は英検一級を取る。
俺は東大に受かる。
……etc そういった目標に到達する過程ないし、到達する行いこそが自分探しなのよ。
ともすればやりたいことを具体的にプレゼンしていく過程そのものが自分探しなのよ。
だから「自分探し」は意味もなく四国巡礼をすることでもないし、日本百景やら恐山やら寺院巡りやらをすることではない。
いや、人によってはそうでもいい。それだって実利的だろう。そういう趣味の中で現実から息を抜いたり、何かを培う行動なんだから。
問題はおたくの「自分探し」に具体性が何もないって事なんじゃないかな。
英語の教科書一冊でもいい。中学生の。そういうものを改めて学び直しますよ……と言い換えるのは、そういう方が分かりやすいからだよ。
そうすれば「ああ、この人は英語を初歩から学びたいんだ」って事が分かる。初歩から学びたいのはなりたい自分を目指すからだろ?
「ごまかしています!」っていうのも定義が曖昧なわけだ。だから困るんだと思う。感情では分かるからあえて突かなかったけど。
そろそろ悪魔の証明を求めるよ?
それだと、全生物に適用されてしまうので、本心を欺くという意味です。
本心とは論理的なことではなく、エモーショナルな事柄をさしています。
と書きましたが、どうも違う気がします。
まあ、他の増田さんが書いてくださりましたが、
そこを漬け込んで、自分探しを否定するような真似を
この気持ちが、ひどいものであるというのはわかっています。
しかし、それでも人間はやってしまう。
という言い訳で閉めたいと思います。
認識には必ず「ずれ」があるってことを指して誤魔化しと呼んでいるわけだね。認識するとは誤魔化すことである、と。ひどい詭弁だと思うがそこは大して重要じゃない。
それ、先生が言う「自分探しは誤魔化し」でいうい誤魔化しと、関係なくね?それを同じ「誤魔化し」とカテゴライズする意味が何かあるのか?言葉尻を捉えてるだけなのでは。
どうやら、誤魔化しについて語弊があったようです。
人間には基本的にないものをあるように認識する癖があると思っています。
もちろん、これは他の生物にもあるでしょう。
つまり、物体を「障害物」「安全圏」「敵」とう風に分けて認識しているわけです。
その物体に、そういったラベルが張ってあるわけではないのですから、
(また、仮に張ってあったとして、それを「ラベル」として捕らえているわけですから)
ないものを見ることとして、捕らえても良いでしょう。
僕はこれを誤魔化しだと思うのです。もちろん悪い意味ではありません。
大体、物事の良し悪しもまた、誤魔化しでしかないのです。
「誤魔化し」という誤魔化しの記号に、「善悪」という誤魔化しの判断をつけ
さらに「良い」、「悪い」という誤魔化しの記号をつけるわけなのですから、
こんな可笑しな話は無いのです。
もちろん、この文章だって誤魔化しです。
しかし、僕が先生に伝えたかったのは
「世界は誤魔化しでできている」ということではなく
「自分探しに対して、寛容な態度をとってほしい」と言うことなのです。