はてなキーワード: 四択とは
「どうもーはじめまして」
「はじめまして」
「今日は、生きる目的というインタビューです!あなたの生きる目的はなんですか?」
「そうそう。何のために生きるとか、生きがいとか、これがあるから生きているとか、漠然としていてもいいです」
「そのテーマなんですけど、それを聞いたときからよく考えてみたんです」
「そんな難しく考えなくていいよ?簡単に、生きていてこれが楽しいとか そんなでもいいから」
「はい」
「恐怖です。」
「恐怖?」
「そう、恐怖です。」
「生きる目的が恐怖?」
「はい」
「どういうこと?」
「はい、私の人生を振り返ってみると、私の行動原理が全てにおいて、恐怖を根底においていました。ですから「生きる理由は?」と聞かれたら 「恐いから」としか答えようがありません。恐いから。 恐さからの退き。恐怖からの脱却。恐れからの逃げ。 私の生涯はそこに全てが集約されております。 楽しむとか好きなこととか達成とか勝つとか欲とかそんなもんありません。 あるのは恐怖。恐さを退くためだけに生きてきました。 それ以外はありません。」
「楽しくはないですよ」
「じゃあ死んだらいいじゃない?私なら耐えられない」
「死ぬのも恐いんですよ」
「何が恐いの?楽になれるかもよ?」
「いろいろ恐い。痛そうだし。それに、今の状態って 別に私にとっては特別じゃないからあえて死ぬほどの事でもないんです。 これが普通」
「マゾじゃないです。やはりこういう恐怖におびえるだけの毎日って疲れるんですよね。いくら恐いからとはいえ」
「じゃあやっぱ死ぬ?」
「死なないですよ。恐いから。死ぬことの何が恐いかって、一番は母親です。母親がどうなるかわからない。次は妹です。彼女たちは少なからず私の死に対して悲しむでしょう。 病むかもしれません。それは私にとって耐え難い。今のところそれを越えるほどの恐怖を抱えてはいません。だから私は今生きております。」
「家族のために生きてるってこと?」
「違います。生きるのは普通に生きてます。死なない理由は家族の恐怖に耐えられないからです。つまり自分のためです。」
「よくわからないけど」
「いいんです。似たようなもんですから。私が言いたいのは人のせいにしたくないということだけです。」
「でも家族は人のせいにしてでも生きて欲しいって思ってるんでしょ?」
「決めるのは飽くまで私自身ということです」
「はあ」
「ですからですね、話がそれましたが、私の理想としてはですね、誰も悲しまずに私が恐怖に脅えることなしに、できるだけ早く。出来るだけ早く終わることが出来ればそれが理想なのです。」
「早く死にたいってこと?」
「なんの弊害もなければね」
「親より先に?」
「先には死ねないですね。ですから、恐怖が無い、誰も傷つけない形で、できるだけ早く、です。」
「それって、親が死んで、妹も死んでからってこと?早く無いじゃん」
「一緒でしょ?」
「一緒です。ニュアンスが違うのです。死そのものに対する欲求はありません」
「よくわからない」
「つまり、死を望むわけではなく、生の終焉を望むのです。結果は同じですが、私の目的は飽くまで生にあるのです」
「じゃあそれは置いときましょう。出来ることなら、早く終わりたいこれが私の望みです。私のような人は多いと思いますよ。」
「え、そうかな?みんな長生きしたいんじゃない?」
「そういう人も多いと思います。」
「君は違うっていうの?」
「そうです。おそらく、長生きしたい人は生きていることが楽しい人か、若しくは人生に希望がある人ではないでしょうか」
「生きていて楽しくないの?」
「そうですね」
「全く?全く楽しいことなんて無いって言うの?」
「全くではありません。楽しいこともあります。要は比重の問題です」
「ひじゅう?」
「どういうこと?」
「つまり、よくアンケートでありますよね、四択で、はい、いいえ、どちらかというとはい、どちらかというといいえ」
「うん」
「私はどちらかというといいえ、なのです。楽しいことが、全く無いわけではないけれど、長生きしたいというほどではない」
「じゃあ何で死なないの?」
「恐いから生きてるってこと?」
「全然」
「でしょうね」
「でもさ、これから生きていればいいことあるかもしれないよね?」
「あるでしょうね」
「じゃあもうちょっと生きたいとか思わないの」
「思いませんね。なるべく早く終わりたいです」
「なんで?」
「え、なんの話?」
「つまり、長生きしたい人は人生が楽しいか、希望がある人か、その後半の話です」
「おそらく。」
「希望はないってこと?」
「ないですね」
「でもわからないでしょ?先のことなんて」
「わかりません」
「じゃあ、この先長生きしたいほどのことがあるかもよ?」
「期待はできません」
「なんで?わからないじゃん」
「どういこと?」
「つまり、期待とは可能性の問題です。可能性とは、現状から予測できる今後の見通しです。それが期待です。現状とこれまでから予測する限り今後は期待できないということです。」
「わからない」
「ですから、今までがこうだった、そして今の自分がある。未来を予測する際の基準は過去と今です。」
「うん」
「極端な例を挙げますと、今まで数学のテストが0点で、今日も0点だったその人が明日のテストで100点を取れると思いますか?」
「すごい努力すれば出来るかもよ?」
「0点ばっかり取ってたら嫌いになるよ」
「あるかもしれないよ?」
「可能性はある」
「何パーセントぐらい?」
「…1パーセントぐらい」
「でも先のことなんてわからないじゃん?」
「わかりません」
「はい」
「じゃあその間に希望が持てるかもよ?」
「そうですね」
「じゃあ長生きしたい?」
「したくないです」
「え、なんで?」
「今後あるかもしれないよ?」
「そうですね」
「じゃあ明日宝くじの一等が当たるとしても希望持てないってこと?」
「今の時点でその希望は持てないですし、期待も出来ないですから」
「そりゃそうだよね」
「そりゃそうです」
「でもやっぱり生きていれば良い事あるかもしれないよ?」
「あるでしょうね」
「それでも早く死にたい?」
「早く終われれば最適です」
「でももし良いことあったときに後悔するよ?」
「何故ですか?」
「例えば、今日死んだとしてお葬式ですっごい美人の子が、実は~くんの事好きだったのにー!ってなるかもじゃないじゃない?」
「その時はもう死んでるんですよね?」
「うん。後悔するでしょ?」
「…えっと、じゃあさ、死ぬ直前に告白されたら?すっごい美人」
「死ぬ直前ですよね?」
「うん。後悔するでしょ?」
「死ぬ直前にそんな余裕ありますか?どんな場面かわかりませんけど」
「それ助けてくれないんですか」
「たとえたとえ!」
「例えば、ビルから落ちそうなときに告白されたら、それは不可抗力です。ですから、そこで後悔したりする事と、明日を生きるのに希望を持つ事は全く繋がりません。希望を持っていたところで同じ結果になります。」
「…うーん、なんて言えばいいのかな、じゃあさ、すっごい欲しい物があるとする。何が欲しい?」
「特には何も」
「何も…じゃなくて、例えばなに?趣味とかは?」
「無いです」
「無いの?何か好きなこととかは?」
「そんな、すぐには思いつきません」
「ええ、そう?もういいやじゃあ、すっごい欲しいバッグがあるとする。たとえね?たとえ」
「はい」
「すっごい欲しいバッグがあるとする。すっごいカッコいいデザインで今すぐ欲しい。でも発売は来年なの。それでも今すぐ死にたい?」
「ええと、」
「ほら、長生きしたいでしょ?」
「いいですか、」
「何?」
「とても欲しい物があるとする、それが今は手に入らない」
「そうそう」
「欲しいから、それまで待たないといけない。待ってでも欲しい」
「そう、そういうこと。」
「うん、希望があれば生きているのも楽しいし長生きしたいでしょ?」
「え、バッグだよ?」
「じゃあ何が欲しいの?」
「…じゃあ、物欲がないって事?」
「あります」
「今はないです」
「そう、ですね。そんなには」
「それは程度によります」
「すっごい欲しければ?」
「恐怖を覆すほど欲しいものには、今まで出会ったことがありません」
「出会うかもよ?」
「そうですね」
「じゃあ長生きしたい?」
「期待はできません」
「そうなるか…」
「そうなります」
「さっき、親が悲しむから死ぬのが怖いって言ったよね?」
「はい」
「でも、死んでから君のこと好きだった人がいても後悔できないって言ったよね?」
「はい」
「それって矛盾してない?自分が死んで親が悲しむのは死んだ後だよね?でも君は死んだあと後悔できないって言ったよね?」
「はい」
「やっぱ死んでから後悔するんじゃん?」
「死んでからは後悔できません」
「じゃあ親が悲しむのは?それは死んでからだよね?」
「おかしくない?」
「説明していいですか?」
「うん」
「まず、親が悲しむというのは分かりきっている事です。」
「言われましたから」
「でも死んでみないとわかんないじゃん」
「もしかしたら、悲しむって言ってるだけかもよ?」
「どういうこと?」
「死んでみないと分からない、死んでからの事は考慮してません」
「どういうこと?」
「私が死んでもし親が悲しんだとしても後悔は出来ないという事です。同様に、たとえもし私が死んで親が悲しまなかったとしても安心する事もできないのです。」
「え?わからない」
「私は、私が死んだら親が悲しむから死ぬのは怖いと言いましたよね」
「うん、言った。」
「それは、生きている間の話です。」
「でも親が悲しむのは死んでからでしょ?」
「そうです。」
「じゃあ死んでからじゃん」
「私が怖いのは、厳密に言えば親が悲しむ事そのものではありません」
「どういうこと?親が悲しむ事が怖いのに、そのものではない?」
「はい」
「じゃあ何が怖いの?」
「なにそれ、どう違うの?」
「私は親に、私が死ねば悲しいとあらかじめ言われております。たとえ言われてなかったとしても多少は予測できます」
「そりゃそうだよね」
「だからって、やっぱ死んだ後悲しむのが怖いんじゃん?それは死んだ後の後悔じゃん?」
「違います。いいですか、私が怖いのは予測です。私が死ぬと親が悲しむであろう、病むかもしれない、という予測が堪え難いのです。死への恐怖となっているのです。ですから言ってしまえば、実際に私が死んだ後に親が悲しもうが病もうが知った事ではありません。私はその時死んでいるのですから後悔も何も出来ません。」
「…じゃあさ、もし君が死んで、親が悲しむかどうかわからなかったら怖くないってこと?」
「そうです」
「じゃあ親が悲しまないって言ってたら怖くない?」
「それは嘘かもしれません。私の親に関して言えば、それは無いことが予測できます。とにかく、親の話については生きているうちの恐怖です。死んでからの後悔とは全く違います。」
「よくわかんないけど、君の事が好きだった人がいたとして、死んでから後悔できないって言ったよね。それとはどう違うの?」
「まず、死ぬ前に私は、その人が私を好きだった事が予測できません。」
「死んでから言ったもんね」
「じゃあ死ぬ前に言ったら後悔してたの?」
「死ぬ前に言ったとしても、死んでからは後悔できません。」
「じゃあ例えば、そのすっごい美人の子が死ぬ前に告白してきたら長生きしたいと思う?」
「思うかもしれません」
「じゃあ、長生きしたい?」
「私は今死ぬ前ではありませんし、告白もされてません。その希望も期待もありません」
「…ごめん、私こうやって話していて、ちょっと好きになったかも」
「すっごい美人?」
「うるさい!!」
(長すぎて続きが表示されなくなっていたので分けました。)
続き
年寄りが思うに、まず、「二択」という状況が気の毒だと思うのだがーー年寄りということは、つまり、まあ、そういうことだ。
「三択」「四択」「五択」ーーどれでもなくて「それ以外」というのは、さがすことができないのだろうか。
見当外れで申し訳ない。
やがて来る就職活動国際化時代を生き残るための知恵 http://kaigai-shushoku.blogspot.com/2010/06/blog-post_16.html
企業依存症、日本依存症の人が増えています。企業への依存とは、ある特定の企業でしか通用しないスキルばかりを修得してしまったがために、他の会社で通用しなくなってしまうことです。企業へ依存してしまうと、会社が傾き待遇が悪化しても、つまらない仕事ばかりさせられても、人間関係がもつれても、家族がいるのに転勤を強要されても、会社に行くのが心の底から嫌になっても、「不満を抱えて働き続ける」「路頭に迷う」「やりたくない他の仕事をする」「自殺」の四択を迫られてしまいます。
日本依存でも同様のことが言えます。自分自身が気をつけていても、他の人があほな政治家に投票をしてしまい、おかしな政策を打ち出されることもありえます。例えば、スロバキアのように、子供を手当てを行った結果、貧困層が手当て目当てで子供をたくさん作り、財政が逼迫したから、子供を手当てを打ち切った結果、貧困層が路頭に迷い、犯罪が増加し、富裕層が夜一人で出歩けないようなことになってしまうかもしれません(※1)
また、日本が未曾有の不況に襲われることもありえるし、公教育の質が低下して技術者が育たず、お隣の国に車でも電化製品でも負けてしまい、日本そのものの国際競争力が低下してしまい、大勢の従業員を抱えた車やエレクトロニクス産業が低迷し、関連企業や関連産業の雇用が悪化して、自分がクビをきられるかもしれないし、クビを免れても従業員が減ったしわ寄せが自分に来ることもありえます。
自分がどんなに気をつけていても、こればかりはどうしようもありません。そんな時、日本から脱出できなければ自分はもちろん、自分の家族や子供も、自分と同じ苦しみを背負うことになります。そうならないように、どんな時代でも、どんな場所でも働けるような、普遍性の高いスキルを身に付け、いつでもどこでも働けるように備えておくのが重要です。
スキルは、"soft skill(ソフトスキル)"と"hard skill(ハードスキル)"に分けることが出来ます。この二つの言葉は、まだ日本では耳慣れない人も多いかと思いますが、欧米のビジネスの場では比較的一般的な観念です。(※2)
ソフトスキルとは、人当たりのよさ、コミュニケーション能力、リーダーシップ、振る舞いなど、他社との関わり方を決定するスキルで、EQ(心の知能指数)と深く関わっています。
EQテスト http://www.unnmei.com/eq.html
ハードスキルとは、 特定業界に関する知識、数学や経済学などの学問、会計などの実践的な技能、言語、コンピュータスキルなど、IQと深く関わっているものです。教育機関で教わることも、独学で学ぶことも比較的簡単にできるのが、ハードスキルです。
日本の新卒採用では「コミュニケーション能力」などのソフトスキルが非常に重要視されますが、日本人が世界で働ける普遍的なスキルを持ちたいと思ったなら、ソフトスキルよりもハードスキルを重点的に磨くべきです。
ソフトスキルはハードスキルと比べて、文化に大きく依存します。例えば、はっきりした物言いはアメリカではソフトスキルが高いとみなされますが、日本ではむしろソフトスキルが低いとみなされる傾向があるでしょう。
ただし、ソフトスキルが飛びぬけて高い人なら、話は別です。今まで接したことがない未知の文化を持つ人に対しても、表情や仕草などから、その人の感情を読み取り、瞬時に適応することが出来る人もいます。
しかし、そんな飛びぬけたソフトスキルを習得するのは非常に困難です。表情から心理状態を読み取る方法や、心理学などを勉強し、さらに実践を重ねれば、どの国の誰に対しても、うまく接することが出来るようになるかもしれませんが、膨大な時間を費やすことになるでしょう。
また、欧米では一般的には「専門的な技能を持った即戦力」が求められている人材です。外国人なら、特にそうです。外国人を雇って、現地人より教育にコストがかかってしまうのでは、わざわざ外国人を雇う理由がありません。
以下の条件を満たすハードスキルがより普遍的であり、習得すべてきでしょう。
2. 長期的な需要が見込める
3. 供給が不足している
4. 流用可能
(例、英語、プログラミング、教育学、料理、Windows、Microsoft Office、Supply Chain managementなど経営学、etc)
国や文化に依存せず、一度習得してしまえば多少の応用するだけで、多くの国で使える技術や知識が「世界中で需要がある」スキルです。どの国の経済も好調なときや不調なときがあります。今は経済的に強い国も不調だったことがあります。日本もそうです。わざわざ景気が最悪な国で働く必要はありません。日本の景気が最悪であれば、少しでも景気が良い国で働くことが賢い選択ではないでしょうか?
それを実現するためには、世界的に需要があるスキルを身につけることです。例えば、英語はすでに国際語ですので、英語を使えれば世界中どこで働いても、研修を効率的に受けられます。そのため、企業からすればその分コストを低く抑えられるのです。
2、長期的な需要が見込める
何か一つスキルを習得したとしても、そのスキルそのものの価値が下がってしまっては下も子もありません。例えば、ある会社の営業がある製品の特徴について必死に覚えても、その製品が発売されなくなり、類似製品や後継製品なども全て生産終了したら、その製品の知識は全て無価値になり、そのスキルに対する需要は激減します。そうならないように、自分が退職するまでは需要が見込めるようなスキルを習得することが重要です。(※3)
3、供給が不足している
世界的に需要があるスキルでも、すでにそれを習得したライバルがたくさんいて、供給過多になっている状態では就職できるかどうかわかりません。しかし、供給が不足しているスキルを習得していればライバルが少ないので、比較的簡単に仕事が見つかります。
しかし、「どこで」供給が不足しているか見つけるのは困難です。例えば、日本には日本語修得者がたくさんいるため、日本語修得者の供給は足りていますが、スロバキアでは日本語修得者の供給が足りていないか、かろうじて足りている程度です。また、プログラミングやパソコン全般に関する技能に関しても、 IT産業では有り余っていても、例えば服飾産業のA社では「一人か二人いてくれたら非常に助かる」と、供給が不足している可能性もあります。ただし、企業自身も自分に何が必要かを理解できない場合があるので、常にアンテナを広く張っている必要があります。
4、流用可能
2、「長期的な需要が見込める」で記しましたが、需要があったスキルもその価値が失われる可能性があります。しかし、修得したスキルの大半を他のスキルに流用できれば大きな問題にはなりません。例えば、C言語がなくなったとします。そして、新たにD言語というのが生まれて、英語ではなくドイツ語をベースとしたプログラミング言語になったとしても、C言語から得た、「プログラミングの考え方(アルゴリズムなど)」は失われないので、始めてC言語を勉強したときよりは早くD言語を修得できるでしょう。
また、需要が合ったスキルの価値が失われなくても、スキルを流用し、新たなスキルを修得することも出来ます。例えば、英語を勉強し、文法を理解したことによって、文章を構造的に捉える能力を修得すれば、新たな言語を習得しやすくなります。
2chの住人や年配の方など、海外に長期滞在したことがない人の一部が「日本より暮らしやすい国はない」と信じているようですけど、それは間違いです。
まず、大都会に行けば基本的に何でも手に入るし、交通は便利だから、不便は感じません。日本食だって、日本で食べるより美味しい日本食を食べられる場所もあります。
また。日本より天候が穏やかな国もたくさんあります。スロバキアなどは、日本レベルの台風や地震がきたら、恐らく都市が壊滅するレベルです。それだけ、気候が穏やかなのです。また、夏も日本の夏と違い、空気が乾燥しているので、すがすがしい暑さです。クーラーはいりません。蚊も日本ほど多くはありません。蝉もうるさくありません。
治安だって、きちんと安全対策を講じていればまず問題はありません。昨日は11時過ぎに、一人で2km散歩しながら帰りました。全然余裕です。
水ももちろん飲めます。むしろ、スロバキアの水は、確実に東京の水よりは美味しいです。 一部の日本人は体質によって受け付けないそうですが、それでもたまに下痢する程度でしょう。
投資のことわざに、「全ての卵を一つのかごに盛るな」というものがあります。これは、全ての玉蛾を一つのかごに持っていたら、そのかごを落とした時点で全ての卵が台無しになってしまうから、卵を複数のかごに分散させたほうがリスクを回避できるということです。
日本依存、企業依存は、「このかごは脆そうだし、心配だなぁ」と文句を言いながら、自分の人生をひとつのかごに乗せているようなものです。普遍的なスキルを修得して海外移住をすることは、「リスクを伴った挑戦」ではなく「リスク回避のための戦略」なのです。自分と、将来の家族や子供たちのために、少し考えてみる価値はあるのではないでしょうか?
すみません。引用です。というより、ほぼ転載です。URLを忘れていました。
http://kaigai-shushoku.blogspot.com/2010/06/blog-post_16.html
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