はてなキーワード: シグナリングとは
2001年にノーベル経済学賞を受賞したマイケル・スペンスによってはじめて分析され、
例として、ある人が難関大学卒であったり、スポーツに優れていたり、字が上手だったりする場合、
その人が学力や体力や字の上手さにおいてだけでなく、人格的にも優れていると思い込んでしまうケースが挙げられる
(それらの事柄と人格的に優れているか否かは、ある物体の色と形が互いに独立の事柄であるように、互いに独立の事柄である)。
また、有名人やタレントを通じたCMや広告がその商品やサービスを
実際に使ったりしたことがないにもかかわらず良いイメージを与える。
それによって購入意欲を刺激したり、購入したりする。
一方、CMに起用されたタレントが不祥事を起こしたりすると、商品自体に何の不満も覚えていなかったにもかかわらず購入意欲が削がれたりする。
日本の場合さ、少し前までは大卒の社会人一年生になんか期待してなくて、自社で育ててたんだろ。
大学には受験時にどのくらい成績がよかったかを図るためのシグナリングの役割にしか期待してなかった。
どっかの研究でさ、政府による高等教育への投資と経済発展と相関はないっていうデータがあるんだってさ。
普通に考えると、質のいい学生をたくさん養成したら、質のいい社会人がたくさん出来るかと思いきやそうではないらしい。
社会を変えるのは、革新的なプロダクト、革新的なサービスを作るのは、官や学からじゃなく、いつだって民からだ。
アメリカ人ていったん社会人になってから大学に入り直したりする人多いじゃん。
日本はさ、そういう必要がなかった。
必要なものは会社が教えてくれた。
新卒採用、終身雇用、年功序列とセットで、社内での人材を育成もしなくなった。
学生に即戦力を望むが、即戦力を提供できるほど教育システムは変わってない。
上の世代に新人を育てる力はなく、新卒に社内を変える力もない。
かといって歩みを止めることもできず、壊れた自動車の外装を磨き続けるような、不毛さだけがある。
これが、閉塞感の正体だと思う。
一般的に、最適化のために突っ込む労力と成果 (この場合は合格可能性) とは比例せず、むしろ頭打ちになる。例えば、80%の成果を得るのに必要な労力を1とすると、90%にするのに2、95%にするのに4の労力が必要、という感じ。従って、あくまで一般的な話をするなら成果だけをパラメータに最適化するのは際限なくリソースを費やすことになるため避けるべき。費やすリソースと成果のバランスをみないとならない。
もちろん例外はある。芸術のために一生を捧げるとか、人生の目標のために生活を捨てるとか、そういう生き方はある。けれども、大学合格というのは生活の全てを犠牲にして得るべきゴールじゃない。ごく簡単な思考実験をして欲しいのだが、受験で出されるのって基本的には高校でやった範囲だ。大学でやる学問というのはその上にあるものだ。まともな大学なら、入ってからの勉強の方が受験なんかよりはるかに難しいぞ。生活の全てを最適化しなければ合格できないとしたら、入ってからついていけるのかい? 従来、日本社会では大学での勉強よりも「その大学に入ったこと」が就職においてのシグナリングとして効果的だったから、それをあてにして入ることのみに賭けるのにも分があったけれど、そういう時代でもなくなりつつあるし。
やりたいことがはっきりしていて、「この大学に入ることがやりたいことへの最適解だ」と考えたのなら、入ることに向けて全力投球してもいいだろう。そういう場合はたいてい、合格のための最適化が、そのままやりたいことをやってゆくためのスキルを身につける最適化になっているはずだ。
そうでなく、やりたいことがまだはっきりしないっていうなら、受験勉強を当面のゲームと考えるといい。他にやることがなくて暇だから受験勉強してる、と考えるんだ。そう考えていれば、普段は合格に最適化した生活を送りつつ、他のおもしろいことにレーダーをはっていられる。そしておもしろいことが見つかったら、上でいったリソースと成果のバランスを考えてみてくれ。100%の可能性などあり得ないし、そこそこの余力を残して90%とか95%の可能性が維持できないとしたら、目標を考え直す必要もあるかもしれない (ゴールを下げるか、もしくは50%や60%の可能性でも良しとしてフォールバックプランも考える)。
大学生だった頃、ぼくはかなりとんがったやつだったと思う。
とんがるといってもとても格好いいとはいえないとんがりかたで、世界を敵にまわしているような、一人で戦争をしているような、敵意を剥き出しにして斜に構えるような、そんな生意気ながきだった。
自分の好きなものだけに触れて、世の中間違っていると言い張った。
作り出される自分のアイデアが、とても素晴らしいもののように思えて、それだけに夢中になってあれこれと作った。
ハードボイルドの主人公のように両肩で風を切って、ギャングのように何か面白いものはないかと物色しているような、そんなたぶん二十歳ぐらいの自分を思い出すとなにか冷や汗が出るような気がし、その一方で、なかなかに冴えていたなとも思う。一切を閉ざしてしまって、自分だけの世界に閉じこもって、世の中のものをせっせと自分の世界に取り込んでいたような気がする。
ほとんど誰とも話さずに過ごし、たぶん話していてもかなり機械的な反応しかできなかったと思う。その頃のメールの下書きのテキストが残っていて、それを読むと、官僚的というかガチガチな隙のない文章を書いていて、なんだこいつはサイボーグみたいな文章を書くやつだと、なつかしくなって笑ってしまう。
その文章の中にいる二十歳のぼくはいつも完全武装なのだ。
そんなことになってしまったのは大学一年の頃に起こった事故のせいで、ある事件をきっかけにぼくは人間というものが信じられなくなり、社会を敵にまわすようになった。数ヶ月は立ち直れず、それでも本を読んでいるうちにだいぶ立ち直っていき、読書欲に駆られながら読みふけるうちに、復帰していた。
好んで読んだのはハードボイルド。
チャンドラーとか、ジャック・ヒンギスとか、ギャビン・ライアルとか。
ハードボイルドを読む人なら、この手の小説が汚れきった社会を渡り歩く勇気(社会に絶望していたのでそういう勇気を必要としていた)をもたらしたこともわかりやすいと思う。ぼくはあろう事か、ギャングや、探偵や、元軍人や、スパイに社会との渡り合いかたを教わってしまい、いつも鞄のなかには拳銃が入っているようなそんな心地で、復帰していったのだ。
それは今からしてみれば、常時戦場にいるような緊張感で、そんな状態でまともな会話など出来るはずもないし、たぶんしても鋭すぎる態度で、相手を居心地悪くさせてしまっただろううと思う。それでもギャングだが、探偵だか、スパイだか、元軍人気取りのぼくは、そんな完全武装であちこちを歩き回り、あれこれと色々作って、仲間に見せたりしていた。
それは今から見ても、あの頃に作ったものはすごかったと思うほどで、錯覚ではあるのだけど、本当にたったひとりで世界を相手に戦っていたのだと思うし、シャープで甘えがなく、手を切りそうなほどの切れ味あるものたちを作っていたのだと思う。
だから、こう言いたい。
完全武装の時代もそんなに悪い時代じゃなかったって。
その当時にどのように世の中と接していたかと言われて、ふと思い出した言葉がある。
著名なSF小説「ニューロマンサー」の続編「モナリザ・オーバードライブ」の解説にその言葉はあって、それらの作品を評して「鏡に覆われた(ミラーシャーデッド)表層」と言っている。
この感覚。
ガラス越しという言葉があるのだけど、それよりもシャープな感じで、こちらの表情が見えないようにスモークガラスで覆っている感覚。そして、社会もスモークガラスに覆われていて、お互いが冷たく冷淡で、それが日々すれ違っているのだけど、完全に別け隔てられている。
あちこちのバイトを短期でまわって、世の中のいろいろな風景をスパイしながら(そういうつもりだった)、いろいろに世の中の仕組みを知っていくようになった。会話をしなければならないところでは当たり障りのない、そしておそらくかなり素っ気ない会話を交わし、とても冷淡にその体験だけを盗んでいくスパイのように働いていた。
もちろん、その短期バイトをあちこち回ったことが、のちのちまともに社会に出て、効率的な現場のまわしかたみたいなところでとても大きく効いてくることになったのだけれども、誰もが短期なだけにコミュニケーションらしいものは皆無で、煙草を吸いにいってせっかく話す機会があっても、他の誰かがはなしているのを聞いているだけという、なんという非コミュ。
あの当時のぼくはとてもプライドが高く、口を開くにしてもなにか高級な事を言わなければと思っていたように思う。例えばハードボイルドの主人公のようなセリフなど、いま思えば、現場にまったく必要のない言葉以外話したくなかったのであるが、結局の所それは自分の我が儘で、自分の価値観以外のコミュニケーションを仕事場でさえしたくない、もしくはそれをしなくて良いようアンドロイドのように、時間貸しのロボットのように、ただ効率的に現場をまわすにはどう動けばいいか、だけを考えていたように思えてくる。
ボトルネックを事前に発見して、誰も気づかないうちにそれを埋めていく、それで今日の作業は30%ぐらい効率化できたと悦にいる。そんな毎日。それはリアルシュミレーションゲームのように思えていたし、コミュニケーションなどなくとも、出来る遊びではあった(そしてこの経験はのちのち凄まじい威力を誇った)。
しかし、その当時のぼくはやはりゲーム感覚で、いつでもスイッチを切ってさよならできる現場でしかなく、ミラーシャーデッドどころか、液晶パネルの中の駒でしかなかったのかもしれないと思ってしまう。
そんな事をしているうちに、交通誘導の仕事をやってみることにした。
これは簡単に言えば、工事現場に立っている警備員で、たぶんやってみないとわからないが世の中の潤滑油的な仕事である。仮設の信号機でいいのではないかと言われれば、まあ、そうかもなのだけど、ぼくはその辺の議論はどうでもいいし、もう交通誘導をするはずもないので、あんまり関係がない。
で、いきなりやってくるのは、研修。
法定で4日だったかの研修が義務づけられているとかで、ひたすらに、交通誘導がどんな仕事かをたたき込まれる。そこで言われるのは、ひたすらに危機対応、そして、顧客である工事現場の人たちを守るか。酔っぱらい運転で工事現場につっこんでくる車から顧客を守るのが、交通誘導の第一の責務だとか何とか。まあ、ねえ、顧客だからねえ。
そうやって始めてみるしょっぱなに言われた。
「あれさ、お互い遠くに立ってるじゃない。互いに孤独で。8時間とか、12時間とか。そうするとね、話せないから、上手くいかないと不満がたまってどんどん上手くいかなくなるんだ。そうするとたいへんだよ。向こうはぷりぷり怒ってさ」
これはチームワークなのだと、コミュニケーションなのだと、ぼくはあなたのことを信頼していますと伝える事が重要なのだ。あなたが怒らないように、要らぬ誤解を抱かないように、あなたがぼくが心配ないというシグナリングをしなければならないんだって、あの赤く光る棒を振りながら、ずっと伝えなければならないんだと、それはプレッシャーだったのではあるのだけど、それまでの自分とは違うことが価値があるのだということを、思い知らされた事ではある。
交通誘導に業務効率化する要素などなく、どうやってチームワークをよくしていくか以外に改善点はない。そういう意味では完全コミュな仕事であり、ぼくはあんまり自信がなかった。
それが初めての集合で、煙草を吸っていて結構くせがありそうな人に言われた。
ぼくは、どれだけハードボイルドな世界でショートピースが標準か語りたかった。
「香りがいいんです。それでくせになっちゃって」
「どれ、吸わせてよ。うわ、きつ、なにこれ」
その人は笑う。
「缶で吸ってたときもあるんです。あのときは肺に穴が開いたのがわかりました」
ぼくはきっと「ショートピース野郎」と記憶されたことだろう。それでもその瞬間に、ミラーシャーデッドが融けたのを感じた。ぼくの世界に入ってくる人がいた。確かにさりげないのだけれども、それで勇気づけられたのは確かだ。
そういう感じ。
その瞬間に、一緒に仕事をする人々の世界観もわからないとと思って、一瞬にしてぼくのミラーグラスは破壊された。
同じ人と同じ現場になって、その頃はきつい両切り(ショートピース)はやめていて、もうすこし穏健なロングピースになっていたけれども、その人は、仕事が終わってヘルメットを長時間かぶっていたせいで髪型がめちゃくちゃになっていたけれども帽子をかぶって、自転車に乗る。
そういって、現場から明るくたちさる。
あの職場で、いろいろな人々と、その職場を暖かくする事にどれだけ尽くしただろうか。誰もがその底辺で生活しているわけだし、いつの間にか、それは自分の片足だけつっこんだ居場所になりかけていた。世界がガラス越しではなくなったのこの職場だったし、それはなにか守らなければならない暖かいチームワークの場所だった。
底辺などというべからず。
その後の十年近いキャリアを通しても、素晴らしいチームワークだったと断言できるし、この1/5000ぐらいの荒涼とした、無生産な現場は大量に見てるし、基本的に言えるのは底辺ほど効率的で、上層ほど無能であるということだ。のぼるほど無能になっていく。
機能不全とすべての罪は上層にあるのだけど、わかっているか。
ちょっと言い過ぎた。
ぼくが言いたいのは、底辺を経験してすばらしく暖かく機能的で、ここは問題がまったくない、ということなのだ。ここには何の問題もない。すばらしい経験だった。ぼくの非コミュも解けた。
貴族趣味なぼくは結局ほぐされて、そして紹介で別の職場に入ることになる。
本格的な就職に近い形で、人事のトップに笑われる。
「いや、こんな真っ白な履歴書を見るのは初めて」
その履歴書は真っ白だろうか?
数こと話すと人事の最高責任者は頷く。
じゃあ、採用するけど、明日からちゃんときてね。
配属されたのは実務の最精鋭部隊が集まっている部署で、そこで、笑い合いながら、冗談を言いながら、学びながら、いろいろ効率的なオペレーションを学んだ気がする。それで、特別なプロジェクトが立ち上がって、それにたったひとりで派遣されて、その現場監督(ただし、実権はまったくなし。不安にさせるな)で、まったく見知らぬコミュニティーにぶち込まれる。
「山崎まさよしさんに似てますよね、雰囲気だけ」
「あー、そう言われたのは初めてで」
(ブルースは好きなんだけどねえ…)
そうやって、あ、これで大丈夫なんだ、これで上手くいくのだと、そう安心した。
次のような推論、「わたしは君よりも裕福である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とかいうのは、得心ゆかない。
だが次の推論「わたしが君よりも裕福であり、従ってわたしの財産は君のよりも勝っている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしの演説は君のよりもすぐれている」とかいう方は、むしろ得心ゆく。
だが君は財産でもなければ演説でもない。
エピクテートス 提要
[学歴][学閥][シグナリング理論][ハロー効果][情報の非対称性]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%BC%E5%8A%B9%E6%9E%9C
例として、ある人が難関大学卒であったり、
その人が学力や体力や字の上手さにおいてだけでなく、人格的にも優れていると思い込んでしまうケースが挙げられる
(それらの事柄と人格的に優れているか否かは、ある物体の色と形が互いに独立の事柄であるように、互いに独立の事柄である)。
その商品やサービスを実際に使ったりみたりした事がないにも関わらず、
良いイメージを与える。
それによって購入意欲を刺激したり、購入したりする。
ハロー効果 Halo effect || INVENIO LEADERSHIP INSIGHT
http://leadershipinsight.jp/dictionary/words/halo_effect.html
業務成績が優秀であることは全く関連のないことなのにも関わらず、
「優秀な人物」と判断してしまう
http://blog.goo.ne.jp/gb3616125/e/3edd7aacc7893a7f78957e5910eabad4
[学閥][閨閥][派閥][藩閥][同調圧力][空気の研究][先輩][保身][企業][就職]
次のような推論、「わたしは君よりも裕福である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とかいうのは、得心ゆかない。
だが次の推論「わたしが君よりも裕福であり、従ってわたしの財産は君のよりも勝っている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしの演説は君のよりもすぐれている」とかいう方は、むしろ得心ゆく。
だが君は財産でもなければ演説でもない。
エピクテートス 提要
http://anond.hatelabo.jp/20081221200806
http://anond.hatelabo.jp/20090922122517
仕事できない人って・・・http://anond.hatelabo.jp/20100702010352
向上心がないやつはほんとにどうしようもないhttp://anond.hatelabo.jp/20100707221911
http://anond.hatelabo.jp/20130816225200
http://anond.hatelabo.jp/20131017012538