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はてなキーワード: 大正11年とは

2023-07-31

anond:20230731222744

どうもですググって勉強になりました

日本における受容

海外英語圏流行していた「幸運手紙」が日本最初流行したのは1922年大正11年)のことで、外国に知人がいる上層階級から侵入したとみられている[2]。 戦前の「幸運手紙」は大人の間で拡散するものであったが、1954年昭和29年)頃から子供の間でも「幸運手紙」が広まり始め、1970年昭和45年)秋頃には「幸運手紙」は「不幸の手紙」へと変質し、子供の間で流行した[3]。

また「幸運手紙」は商品広告選挙活動のほか二次大戦中には反戦運動にも利用され、特高警察が取り締まりを行っている[4]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB

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1970年ということは共産国破壊活動可能性があります

2021-10-15

[]乙骨太郎乙

1842年生まれ父親幕臣儒学者

太郎乙も漢語英語蘭語を使えたので、幕府洋学校教授外国奉行などを歴任した。

維新後には徳川家について静岡移住した。

1869年明治2年)、イギリスヴィクトリア女王次男であるエディンバラ公アルフレッド来日が決まったとき

各藩から英語が出来る人物が呼ばれて接待係に任じられたが、静岡から太郎乙が選ばれた。

その折、薩摩藩軍楽隊指導するために来日していた軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンから

「歓迎の式典では国歌を流さなければならないが日本国歌は何か」との問い合わせがあった。

接待係たちは国歌などというものを聞いたことがなかったので、どうすべきか政府上層部に問い合わせたところ、

「その程度のことでいちいち問い合わせてくるな、そういう問題を何とかするためにおまえらを呼んだんだろ」

と怒られてしまったので、接待係たちは困り果ててしまった。

そのとき太郎乙が「もう古歌のなかから適当に選定すればいいんじゃね」と、

徳川将軍家が毎年の正月に行っていた「おさざれ石儀式」で歌う、

君が代千代八千代さざれ石の巌となりて苔のむすまで」

という古歌を推薦した。

これが採用されて、そこにフェントンが作曲したメロディが付けられた。

まり骨太郎乙は国歌君が代」の生みの親と言っても過言ではないのである

ただし諸説あり。

1922年大正11年)、太郎乙は80歳で亡くなった。

晩年は旧幕臣の仲間と集まって漢詩を作るなど悠々自適生活だったという。

2019-03-30

日本弁理士会関西会」へ改称

http://www.kjpaa.jp/

名称変更に伴うホームページ停止のお知らせ

 日本弁理士会近畿支部平成31年4月1日より、

日本弁理士会関西会」へ改称いたします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BC%81%E7%90%86%E5%A3%AB%E4%BC%9A

日本弁理士会(にほんべんりしかい、英語名称Japan Patent Attorneys Association、略称:JPAA)は、弁理士法に基づいて1922年大正11年5月設立された弁理士に関する法人であり、すべての弁理士に加入が義務づけられた強制入団である経済産業省所管の認可法人であったが、2002年8月29日特別民間法人となる。

2018-03-03

堺利彦著「一休和尚」(大正11年)より

先ごろ米国ワシントンに開かれた国際労働会議の其時以来、日本は更に光栄ある特殊国になっている。

時間労働を九時間、十時間、十一時間に負けて貰った所に値打ちがある。

労働なんていう者は時間の長いだけ好いに極っている。分り切った事である

それを分らんなどと申す労働者は、西洋にばかりあって日本には一人もない。

そこが即ち亦た特殊国の特殊たる所以である

長時間労働こそ日本美徳

2017-09-02

大正9年→大正12年で朝鮮人超増えてる

https://anond.hatelabo.jp/20170901172529

もしこの古賀議員の指摘や前提自体瑕疵があれば、

私よりずっとこのような事件に詳しい2氏ならば「6000人にはこんなにしっかりとした根拠がありますー! バーカバーカ!」と

嬉々としてソースを突きつけ本筋の反論をするはず。

が、それをせずに迂回した。

これはたしかにダセエ。ダセエのでブコメで端的に指摘しておいた(b:id:ss-vt)。で、ここでも書いてみる。

すでにBuzzfeedでも報じられているように、古賀議員都議会において、大正9年国勢調査をひいて関東地方朝鮮人人口の少なさを指摘している。

が、この当時朝鮮人内地への渡航は急増していたのである大正9年国勢調査では、内地朝鮮人の総人口は40,755人。いっぽう同年12月現在内務省警保局による調査統計では30,189人となっているが(多くの要因で数字に大きな差がある)、内務省統計を年次ごとに追うと大正10年38,651人、11年59,722人、震災の起きた大正12年末には80,415人に至っている。これには朝鮮植民地化に伴う小作農の貧窮化や、第一次世界大戦後の好況に伴う内地工業化都市化の進展、また大正11年末の渡航自由化大正8年以降、三・一独立運動の影響で朝鮮人内地渡航制限されていたが、企業日本人よりも安価労働力として朝鮮人を求めた)など、複数の要因が影響している。

さて古賀議員の挙げた大正9年国勢調査に立ち戻ろう。

国籍民籍別人口のうちの朝鮮人人口について、

東京府  2,485人、

埼玉県  78人、

千葉県  40人、

神奈川県 782人、

合計3,385人。

震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家メディア民衆 / 山田昭次 / 日本史 | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/society/14990

から大正12年の数字引用して、古賀議員発言形式に合わせると、以下のようになる。

国籍民籍別人口のうちの朝鮮人人口について、

東京府  8,567人、

埼玉県  311人、

千葉県  317人、

神奈川県 3,645人、

合計12,840人。

工業化都市化の進展」に伴って多くの朝鮮人労働力としてやってきたため、東京神奈川といった都市部工業地帯に集中しているわけだが(横浜での虐殺目撃証言の多さにも反映している)、少なくともこの時点で、

6000人という数字は当時の関東朝鮮人人口より大きい

とは言えなくなる。

また自分が直接参照した一次資料として、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている『在京朝鮮人労働者の現状』(東京府学務部社会課、1929年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445292 には、大正12年の「在京朝鮮人労働者」は5,347人と記されており(警視庁調べ)、アジア歴史資料センター所蔵の『在京朝鮮人状況』(朝鮮総督府警務局東京出張員、1924年5月http://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B03041602800 によれば、「八月末震災直前の見込綜数は八千人を超へ」ていたという。

繰り返しになるが、とりあえずこのあたりで「6000人という数字は当時の関東朝鮮人人口より大きい」とは言えないことをご理解いただけるだろうか?

ちなみに6,000という数字の具体的な出所は、震災直後に在京朝鮮人迫害事実調査会が独自調査を行い、上海大韓民国臨時政府機関誌独立新聞』に12月5日付けで発表された数字6,661人。この調査10月末までの中間報告では2,613人という数字が出ていて(当時東京で催された経過報告会でも発表された)、その後さら神奈川県遺体発見できなかったおよそ1,800人などが追加されている。シノドス山田名誉教授は「追加合計数根拠今日解明することはできない」としていて、その点ではたしかに6,000人という数字根拠は薄いのだが、同時に帝国政府がマトモな調査を行わなかったことにより、これをデタラメであると断ずる根拠もまた乏しい(はからずも、秦郁彦が『当時ロクに調査せず公文書終戦時に焼きまくった以上、30万人に代わる数字日本から出すのは無理』と嘆いた南京事件と似ている)。少なくとも犠牲者数のもっとも大きな数として採用せざるを得ないわけである

内閣府ホームページで公開されている、災害教訓の継承に関する専門調査会による報告書 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/19_chap4-2.pdf

殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない。

という書き方になっているのは、そうした事情によるだろう。

追記

b:id:y-wood 8500人のうち6000人殺せるのか、すげー。『「6000人という数字は当時の関東朝鮮人人口より大きい」とは言えない』

揶揄のたぐいだとは思うけど念のため。

「6000人」というのは虐殺犠牲者の総数である東京府朝鮮人人口比較するのは不当。ついでに、古賀議員が何故か東京神奈川千葉埼玉限定しているのもいささか不当で(たとえば群馬でも、自警団警察署を襲撃して朝鮮人17人を殺害した藤岡事件などが起きている)、山田名誉教授シノドス記事によれば茨城群馬栃木を加えた関東地方1府6県の大正12朝鮮人人口は14,144人となっている。

また、山田名誉教授の著書内容の、内閣府報告書コラム殺害事件検証http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/22_column8.pdf から孫引きになるが、例の「6,661人」のベースとなった在京朝鮮人側の調査では、東京府犠牲者数はおよそ1,000〜1,400人。最終的に『独立新聞』に掲載された数は1,781人となっている。

y-wood氏の言葉を借りるなら

「8500人のうち1800人殺せるのか、すげー」

となるが、現実味は如何?

b:id:fu-wa 戦争知らないんだろうなあ。戦車でダーってやっても6000人殺すのってものすごく大変なんだよ。

ルワンダではそれこそカマとか棍棒とかのたぐいで、およそ100日で50万〜100万人が殺害されている。こうした事態と「戦争」を比較するのは不当。まして、繰り返しになるが「6000人」は関東地方1府6県の総数である。「戦争」を持ち出すなら、せめて戦域や作戦継続期間が同程度に及んだ戦闘でなければならない(それでも戦闘員vs戦闘員では不当だが)。

 
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