はてなキーワード: 大正11年とは
どうもですググって勉強になりました
日本における受容
海外の英語圏で流行していた「幸運の手紙」が日本で最初に流行したのは1922年(大正11年)のことで、外国に知人がいる上層階級から侵入したとみられている[2]。 戦前の「幸運の手紙」は大人の間で拡散するものであったが、1954年(昭和29年)頃から子供の間でも「幸運の手紙」が広まり始め、1970年(昭和45年)秋頃には「幸運の手紙」は「不幸の手紙」へと変質し、子供の間で流行した[3]。
また「幸運の手紙」は商品の広告や選挙活動のほか二次大戦中には反戦運動にも利用され、特高警察が取り締まりを行っている[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB
太郎乙も漢語・英語・蘭語を使えたので、幕府の洋学校教授や外国奉行などを歴任した。
1869年(明治2年)、イギリスのヴィクトリア女王の次男であるエディンバラ公アルフレッドの来日が決まったとき、
各藩から英語が出来る人物が呼ばれて接待係に任じられたが、静岡藩からは太郎乙が選ばれた。
その折、薩摩藩の軍楽隊を指導するために来日していた軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンから、
「歓迎の式典では国歌を流さなければならないが日本の国歌は何か」との問い合わせがあった。
接待係たちは国歌などというものを聞いたことがなかったので、どうすべきか政府上層部に問い合わせたところ、
「その程度のことでいちいち問い合わせてくるな、そういう問題を何とかするためにおまえらを呼んだんだろ」
そのときに太郎乙が「もう古歌のなかから適当に選定すればいいんじゃね」と、
徳川将軍家が毎年の正月に行っていた「おさざれ石の儀式」で歌う、
という古歌を推薦した。
これが採用されて、そこにフェントンが作曲したメロディが付けられた。
つまり乙骨太郎乙は国歌「君が代」の生みの親と言っても過言ではないのである。
ただし諸説あり。
https://anond.hatelabo.jp/20170901172529
私よりずっとこのような事件に詳しい2氏ならば「6000人にはこんなにしっかりとした根拠がありますー! バーカバーカ!」と
が、それをせずに迂回した。
これはたしかにダセエ。ダセエのでブコメで端的に指摘しておいた(b:id:ss-vt)。で、ここでも書いてみる。
すでにBuzzfeedでも報じられているように、古賀議員は都議会において、大正9年の国勢調査をひいて関東地方の朝鮮人人口の少なさを指摘している。
が、この当時朝鮮人の内地への渡航は急増していたのである。大正9年の国勢調査では、内地の朝鮮人の総人口は40,755人。いっぽう同年12月末現在の内務省警保局による調査統計では30,189人となっているが(多くの要因で数字に大きな差がある)、内務省統計を年次ごとに追うと大正10年38,651人、11年59,722人、震災の起きた大正12年末には80,415人に至っている。これには朝鮮の植民地化に伴う小作農の貧窮化や、第一次世界大戦後の好況に伴う内地の工業化・都市化の進展、また大正11年末の渡航自由化(大正8年以降、三・一独立運動の影響で朝鮮人の内地渡航は制限されていたが、企業は日本人よりも安価な労働力として朝鮮人を求めた)など、複数の要因が影響している。
東京府 2,485人、
埼玉県 78人、
千葉県 40人、
神奈川県 782人、
合計3,385人。
震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家・メディア・民衆 / 山田昭次 / 日本史 | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/society/14990
から大正12年の数字を引用して、古賀議員の発言形式に合わせると、以下のようになる。
東京府 8,567人、
神奈川県 3,645人、
合計12,840人。
「工業化・都市化の進展」に伴って多くの朝鮮人が労働力としてやってきたため、東京・神奈川といった都市部や工業地帯に集中しているわけだが(横浜での虐殺目撃証言の多さにも反映している)、少なくともこの時点で、
とは言えなくなる。
また自分が直接参照した一次資料として、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている『在京朝鮮人労働者の現状』(東京府学務部社会課、1929年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445292 には、大正12年の「在京朝鮮人労働者」は5,347人と記されており(警視庁調べ)、アジア歴史資料センター所蔵の『在京朝鮮人状況』(朝鮮総督府警務局東京出張員、1924年5月) http://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B03041602800 によれば、「八月末震災直前の見込綜数は八千人を超へ」ていたという。
繰り返しになるが、とりあえずこのあたりで「6000人という数字は当時の関東の朝鮮人人口より大きい」とは言えないことをご理解いただけるだろうか?
ちなみに6,000という数字の具体的な出所は、震災直後に在京の朝鮮人迫害事実調査会が独自に調査を行い、上海の大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』に12月5日付けで発表された数字6,661人。この調査の10月末までの中間報告では2,613人という数字が出ていて(当時東京で催された経過報告会でも発表された)、その後さらに神奈川県で遺体を発見できなかったおよそ1,800人などが追加されている。シノドスの山田名誉教授は「追加合計数の根拠を今日解明することはできない」としていて、その点ではたしかに6,000人という数字の根拠は薄いのだが、同時に帝国政府がマトモな調査を行わなかったことにより、これをデタラメであると断ずる根拠もまた乏しい(はからずも、秦郁彦が『当時ロクに調査せず公文書も終戦時に焼きまくった以上、30万人に代わる数字を日本側から出すのは無理』と嘆いた南京事件と似ている)。少なくとも犠牲者数のもっとも大きな数として採用せざるを得ないわけである。
内閣府のホームページで公開されている、災害教訓の継承に関する専門調査会による報告書 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/19_chap4-2.pdf で
殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない。
という書き方になっているのは、そうした事情によるだろう。
追記
b:id:y-wood 8500人のうち6000人殺せるのか、すげー。『「6000人という数字は当時の関東の朝鮮人人口より大きい」とは言えない』
揶揄のたぐいだとは思うけど念のため。
「6000人」というのは虐殺犠牲者の総数である。東京府の朝鮮人人口と比較するのは不当。ついでに、古賀議員が何故か東京・神奈川・千葉・埼玉に限定しているのもいささか不当で(たとえば群馬でも、自警団が警察署を襲撃して朝鮮人17人を殺害した藤岡事件などが起きている)、山田名誉教授のシノドス記事によれば茨城・群馬・栃木を加えた関東地方1府6県の大正12年朝鮮人人口は14,144人となっている。
また、山田名誉教授の著書内容の、内閣府の報告書のコラム『殺害事件の検証』 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/22_column8.pdf からの孫引きになるが、例の「6,661人」のベースとなった在京朝鮮人側の調査では、東京府の犠牲者数はおよそ1,000〜1,400人。最終的に『独立新聞』に掲載された数は1,781人となっている。
y-wood氏の言葉を借りるなら
「8500人のうち1800人殺せるのか、すげー」
となるが、現実味は如何?
b:id:fu-wa 戦争知らないんだろうなあ。戦車でダーってやっても6000人殺すのってものすごく大変なんだよ。
ルワンダではそれこそカマとか棍棒とかのたぐいで、およそ100日で50万〜100万人が殺害されている。こうした事態と「戦争」を比較するのは不当。まして、繰り返しになるが「6000人」は関東地方1府6県の総数である。「戦争」を持ち出すなら、せめて戦域や作戦継続期間が同程度に及んだ戦闘でなければならない(それでも戦闘員vs戦闘員では不当だが)。