はてなキーワード: 反動とは
http://anond.hatelabo.jp/20081208211208
の、元増田です。思いのほか反響あったなぁ。8ブクマ&5トラバで?って言われそうだけどさ
5人目の増田
http://anond.hatelabo.jp/20081210184744
が、ちょうど鬱になった時に色んな人から受けたアドバイスや、ネットとか鬱関連の書籍とかで得た知識なんかとかぶる部分が多くあったので、追記じゃなくて新たにざざっと書いてみる次第です。
あなた自身、自分と違うユニークな人に触れて新しい刺激を得ることを好んでいるから、ユニークさそれ自体に価値があると感じているんじゃないかな。
YESYES!!
ところが世の中には自分と違う経験や考え方に触れることを好まない人が結構いて、そういう人と接する時にぎくしゃくしちゃう、ってことかなと思ったんだ。
ハハハこやつめ、見てきたような事を言いやがる。その通りです。
コレがねー。本当に不思議だったのよ最初。今まで、人との出会いとは新たな世界へのパスポートだと思ってた。
登山が趣味な友人ができて、山が綺麗な日に登山に連れてってもらった。
釣りが趣味の友人と、釣り道具一式貸してもらって楽しく夜釣りをした。
新しい友達ができたら、一見さんお断りな場所と言うか、何の知識もなくぶっつけで楽しもうと思ったら失敗しやすい遊びを低リスクで最大限に楽しめるワケですよ。登山だったら登る時期やコース間違えたら、実際行くまで楽しめるかわからんし。演劇もテキトーに選んだら風俗で指命しない並にリスキーだろうし、釣りなんか遊びで釣り竿買うワケにもいかんし夜釣りにどんな道具いるかとか想像もつかんし餌の付け方教わらないと始められやしねぇ。
だから、積極的に色んな特技を持った人と交流する事が大好きだったし、誰もがそうやって自分の世界を広げてるんだろうなって思ってた
そこに欠けている資質を補えるDさんがきたとき、問題が解決できる。このように、その場に足りない何かを提供することがユニークさの価値なんだ。
ここで増田が言おうとしている事とは別解釈と言うかズレた視点でこの文を抜き出したんだけど、自分は問題解決能力やアイディア力に優れているって自負があった。
何かの議論や話し合いの時、脳内で様々な可能性をだーーーっと考慮して、いきなり結論を出しちゃう自分に自信を持ってた。
でも、最初に出した結論が結局採択されるのに、いきなり自分の解答が認められずに2時間ぐらい会議があるって事があったり、最終的に最初に出した自分のアイディアが採用されるんなら無駄な会議の時間をこれといった問題点がない自分のアイディアをみんなでさらによくしたらいいのに・・・って思ったりしてた。
それも間違いなんだな。まず、同じレベルから徐々にスタートしなきゃいけないと言うか、自分の中で問題解決の為のプランを作って、それに自分で色んな場合を想定したパッチをあてまくって満足がいくものにしてから出してた。
そうじゃなくて、パッチを当てる前のプランをまず提示すべきだったんだろう。そして、みんなでパッチを当てる作業をする事で、考えてる事の共有をすべきだったんだろうなぁって。
大学では自分の意見にすぐパッチをあててくれるような人が多くて、中高の頃よくあった上記のような事はいつの間にか忘れてたけど、社会に出たらまた中高の頃みたいな空気が戻ってきた感じ
足りないものを提供すると言うか、○○がしたいなって話題にジャストな知識や人材をチョイスする事はできるけど
『普通の人達』は悩みや理想に対する解答が欲しいんじゃなくて、ただ話を聞いてほしくて、「そうだね、わかるよ」「そうだね、俺もだよ」って言ってほしい人が多いんだなって思った
いくらでも提供できるんだ。楽しい事がしたいとか、自分の趣味の発表の場が欲しいとか、クラブに行ってみたいとか美味い飯屋に行きたいとか面白いゲームやってみたいとか。俺自身でムリでも、それができる人の輪がある
でも、本当に欲しいのは普通の範囲から出ないもの、自分が知らない何かじゃなくて、自分が知ってる範疇でお互いが知ってるものを「あの飯屋は美味しかった」「あの有名ゲームは面白いよね」と言いあいたいたいんだろう。
結局
自家製酒の話題を出して引かれたなら、その理由はあなたの出した知識がユニークだったからではなく、その話題がその場に「必要とされていなかった」だけかもしれない。
コレなんだな。その場に必要な情報を取り違えてたワケだ
ただ、そうとわかれば俺も何をすればいいかわかる
相手を中心に考えて、話題の中心に立って気分がよくなっている相手の気を悪くしないよう、うんうんすごいねーノリで聞いてりゃいいんだ
傾聴ってやつだな。あいづちはうって、相手の気を悪くしないように話を引き出して、アドバイスや話題の発展とか切り出さず、相手に話させるテクニック。心理学専攻してる友人に教えてもらった
でも俺傾聴されるの嫌いなんだ。話題振ったら相手からも同じぐらい話題や、今まで知らなかった知識が欲しい
それでも傾聴を試みてみると、意外なほど相手はこちらに悪印象を持たない。この事でまた一つ一般人に対する理解が深まったと思う
共感してほしいんだ
話飛ぶけどさ
俺は自分で自分をKYって思ってるんだけど、どうやら『普通の人達』ってのはテレパシーを使って会話をしてるようで、言葉を使わずに満足いく会話をしているらしい
大学の頃は、お互いがお互いに今日まで知らなかった知識を会話で与えあってたから、知らない事のぶつけあい、魔球のキャッチボールでは空気の読み方なんて学びようがなかったんだな。空気とやらのテレパシーから伝わる情報ってのに片方が知らない情報ってのは含まれてないんだもの
空気とやらの正体が何なのか、何故、ちゃんと定義づけをせずに空気なんていう文字通り曖昧な言葉で濁すのかってのが、AnonymousDiaryを読み込む中でかなりわかってきた。自分の仲間であると、多数派であるという確認行為でもあるんだな
まーた話それるんだけど、『普通の人達』を観察してて疑問に思ったのがもう1コ
彼らは自分を物語の主役だとは絶対に思わないんだな。それがビックリ
って言うかドラマとか小説とか漫画とかあんま読まないんじゃないんだろうか。もし読んでたら、同じ職場の人の陰口で笑いあったり、誰かの失敗を見て楽しそうにしてたり、
いいこちゃんぶりたいとかそういうのじゃなくてさ、人の悪い面ばっか見てんだなって
俺や仲間はどっちかと言えば、仲間の悪口より良い所を伝え合って、それで関係を広げていったと思う。だって、誰かの悪口言う奴がいたらその悪口を言ってたって事実が言いふらされてのけものにされるかもしんないじゃん
でも、普通の人達にそれは無い。誰かが誰かの悪口を言ってたって事だけは何故かタブーみたいなんだ
結果的にフロア内の誰もが陰口叩かれてた事に戦慄したね。同時に、誰もが俺の陰口を影でたたいてるんだって思って陰鬱になったりした
って言うか、俺が嫌われ者なら嫌われ者に聞こえる所で本人に知れたらヤバいような事言うかね?本人の耳に入るかもしれないとか、そういう事怖がっちゃう俺は親友レベルの人か匿名相手にしか悪口とか言えませんよ
自分が少数派である以上、多数派である彼らが正しいんだろう。でも、何かがおかしいと思うの
(もちろん、「相手のために何が出来るだろうか」を考え抜いた末に「自分はこの人に対して何も出来ないなあ」とか「何もしたくないなあ」という結論に達したなら、その場から抜け出すことをおすすめする。その状態でそこにいるのは自分にとっても相手にとっても不幸だから。)
こんなデタラメな文章を相手の事を考えずに書いておきながらアレだけど
今までの自分ってのは常に相手の為にできる最善手は何だろうか!!!って勢いだった
それが相手が嫌がる事とか、想像もしてなかったって意味じゃ全然ダメなんだけど、それでも自分が持ちうるすべてを駆使して、相手の望みを叶えようとしてた
召還獣とか、ランプの魔神でありたいと思ってたんだ。自分を使ってほしい、自分の人脈もなんもかんも、友の為ならさらけ出そうと思ってたしそうしてた
他には『借り』とか『貸し』とかに異様に執着してたと思う。借りは返すものだと思ってたから、借りを作ったと思ったら相手の為に全力になった
でも、相手の為にできる事はそんなおおげさな事じゃなくて、『相手が望む事』ってのを空気とやらを読んで全部聞いてやればいい。生きた壁になるのが一番賢く、雄弁は銀・沈黙は金。きっとこの言葉は雄弁な人が生み出した言葉なんだと思う
ぶっちゃけ、相手の為に何もしたくないって気分だけど、簡単に退職はしない。だって、ここで全ての失敗をしてケーススタディをしたら、次に就職する先で失敗する事はないだろう
普通の人達から学ぶ事はまだまだたくさんある。それに、仕事では無表情で淡々と仕事をこなして、素の自分とは真逆な自分を演じてると、反動で私生活に色々とヤンチャがしたくなる
二面性こそ自分の本文だなとつくづく思うから、しばらくはこの生活も悪くないって考えてはいる
自分がいる事で、自分を嫌っている人を不幸にさせている事はわかっている。一昔前はそんな事を思っただけでストレスで、他人に嫌な思いをさせてるって考えただけで何度も自己突っ込みしたモンだけど、今じゃなんだか平気だ
一昔前は怒鳴られたり、陰口を聴覚過敏で耳に入れたりしたらすごい落ち込んでたけど、今は全然大丈夫だ
面の皮の厚さまで鬱から手に入れる事ができた
・・・なんか本当に散文だなぁ
http://anond.hatelabo.jp/20081207162752
自分がした失敗を次の世代にさせたくないからこそなんだろうなって思ってます。
だから、自分の事を少しでもアスペルガーだの発達障害かな?とか思った人は
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/
でも読んで、試しにアスペ関連の知識でも収集してみたらいいと思うの
それは発達障害者向けの文章かもしれないけれど、そこから学べる事は少なくないハズだと思うんです。
リア充から非コミュになってみて初めてわかる事ってのがいっぱいあった
『普通の人達』ってのを知る事で、本当に多くの事を学べた。小説や漫画で普通の人が一切出てこない作品がたまにあるけど、そういう作者は普通の人達に背中を向けて生きてきた人なのかもしれない
むしろ、そういう創作をする人の大半がナードで、ナードだからこそ『普通の人達』が、サイレントマジョリティってのが場を支配する世界が好きじゃなくて、自分の理想の世界観を作ってきたのかもしれないとか思えるようになった
普通でいる事の何が楽しいかって、多数派でいる事が楽しいんだろうな
自分も自分のコミュニティで多数派であった時期はとても楽しかった
ネットではふたば☆ちゃんねるなんかで完璧に住人の1人として楽しく色んな事をして遊べてる
多数派である事が、人生を楽しく過ごすコツで、自分が多数派でいれる場所さえ見つけたら、人生は楽しいんだなってわかった
最後に最大の言い訳だけどさー
大学時代に色々成功させて、チームのリーダーとかやって、新聞とか地方紙とかの取材受けたり、自分が立ち上げた企画が後輩達に受け継がれて立派に予算出て大学のメインの企画として祭り上げられたり色々したら勘違いすんなって方がムリだって!お調子者の俺には!
最後に好きなメロディで〆
こりゃまたマッタクどういうワケだ
世の中なんか間違いだらけだ
あの頃だったらなんとかなった
あーこーりゃ、シャクだった??♪
発症してから9年になる。
もともとぽっちゃりだったのが、受験で痩せた。
自分では「太め体型」と感じでいるのに、周りから「やせてるね」といわれるようになり、混乱した。
混乱はそのまま「やせ」への囚われとなった。
「やせなくては」 「食べたらいけない」 「カロリー」 「脂肪・アブラ」 ・・・
1日中頭から離れなかった。
食べ物(カロリー)が体の中にあることに耐えられず、嘔吐を繰り返した。反動で大量に食べ、また嘔吐した。
1日に何回もの時も、一ヶ月に数回の時もあった。
今は一時ほど過食嘔吐は激しくないが、止まったわけではない。
夕食を食べ、吐く。
昔ほど上手くは吐けないし、ある程度吐けたら「これでいいかな」と思える。
(過食症の人間には完璧志向の人間が多く、胃が空っぽになるまで吐く場合が多い。)
吐く事への罪悪感もないし、吐く事での気分の高揚(ランナーズハイみたいなもんか)もない。
何も感じない。
治そうという意識がないし、そんな観念もどこかへ行ってしまった。
日常になってしまったとか、過食症と上手く付き合っているとか、そういうわけでもないように思う。
ただ何も感じない。
自分がどうしたいのかも分からないし、「どうしたい」という意志自体もない。
諦めがついたというのが一番近いのだろうか。
そんな状況なのに、太る事に対してはいまだに恐怖感がある。
キレイにならなくてもいいが、太りたくはない。
そんな中で、
朝起きて仕事をしてジムに行くときは行って家に帰って過食嘔吐もちょくちょくでマンガ読んで寝る、というルーチンひたすら繰り返している。
一方で、仕事自体はそろそろ責任のある仕事を任されるようになったし、頑張れると思える。
もっと切実に悩んだ方がいいのだろうか。
無理しなさんな(-_-;
今まで人と接する仕事をやってたんだったら、一人で閉じこもってやるような仕事ってのは辛いかもね。
俺も接客、営業ときて事務に転職したことがあったけど、人と喋る仕事ばかりを続けてきた反動からか、一人で黙々とやる仕事というのはどうにも性に合わなかったよ。接客や営業の人間関係とは180°違う事務の人間関係というのも、どうも馴染めなかった。だから、結局営業に戻ってしまいましたわ。
http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html
http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja
以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。
まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。
では。
まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。
「原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったのエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作とアニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。
自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、
ていうことだよ。
なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。
「批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去のアニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダム・エヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。
みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。
また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。
まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、
という流れを「忠実に反映」してると思うよ。
ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。
今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作とアニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作とアニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。
これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作とアニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。
こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評の対象になるかも知れない。ニューヨークの9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀━宇野常寛・ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。
世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメは2008年を代表しうるアニメだからね。
アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?
それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優の演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。
アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術と小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。
けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端な芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメの歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーションの歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)
現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。
相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。
アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクション・パロディ・引用・自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作とアニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。
ヘーゲルは小説のことを「市民社会のブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?
ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。
ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメがステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメ≒コミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーションと歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。
富野のペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆。
なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。
でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信の小説のアニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本はアニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。
そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督:大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。
けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野や村上には見いだせないものであって。
くだらないテーマの指摘とか、原作とアニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。
名指しされた増田っす。話題流れちゃってるけどまあ一応。
高校卒業前になったら普通にみんな免許取りに行くし、主流派じゃないということはよく知ってる。
そして、うちの父や弟は車やバイク大好き。(母が怒るのを通り越して呆れるくらいのレベル)
その反動…というわけでもなく、幼い頃に車酔いばっかしててゲロゲロ吐きまくってたのが原因じゃないかと思う。
成長して吐かなくはなっても乗るたびに頭痛はしてたし、それで「車にはあんまり関わりたくない」と刷り込まれちゃったんだな多分。
(実は電車でもちょっと気持ち悪くなる。車よりはだいぶマシだけど。)
地元での就職経験はない。バイトはしたけど車の免許が必要ないところばかりだった。
一応、原付の免許は持ってる。身分証明としてはこれで充分だと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20081124174347
車に一切興味が持てないって人は、住むところも拘らないのかな?
それともそれは別なのかな?
超インドア派なので住むところはこだわるよ。
これも車酔いから始まってる気がしてきた。
出かけるたびに気持ちが悪くなるんだから、家の中が好きになってもしょうがないかもしれない。
横だが、なぜこれがすんなり理解できないのかわからんな。
男女の意識の違いなのか、それとも、処女は余程の覚悟を持って俺に股を開いてくれるものなのだというロマンスを求めているのか。
実際は、処女崇拝者が思っているよりも、処女は自分の処女を大層なものだと思っていない。そして、非処女は気軽に股を開くわけでもない。ようはその中間ぐらいの意識だな。
余程のビッチでなければ、好きな人でない限りはちんこ入れさせたくないというのは、処女非処女共通の意識だと思うよ。
だいたい、普通の人間は、処女が非処女になったところで、童貞が非童貞になったところでそんなに変わらない。ただし、恋愛(セックス)できないことに過剰なまでのコンプレックスを感じている場合は、非モテだったのが反動でヤリチンDQN化するケースもあるが↓
http://anond.hatelabo.jp/20081111035827
日本国内における性同一性障害への医療的アプローチの基準である、日本精神神経学会の「診断と治療のガイドライン」によれば、性同一性障害の診断は次のように行なわれる。
1. 生活歴の聴取
2. 性別違和感の実態を調査する。アメリカ精神医学会「精神疾患の分類と診断の手引き」第4版 (DSM IV) や 「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」第10版 (ICD10) を参考としながら、以下のことを聴取する。
* 反対の性に対する強く持続的な一体感
* 反対の性役割
3. 身体的性別の判定
* 外性器の診察・検査
* 内性器の診察・検査
4. 除外診断
* 統合失調症などの精神障害によって、本来の性自認を否認したり、性別適合手術を求めたりするものではないこと。
* 文化的社会的理由による性役割の忌避や、もっぱら職業的利得を得るために反対の性別を求めるものではないこと。
5. 診断の確定
* 以上の点を総合して、身体的性別と性自認が一致しないことが明らかであれば、これを性同一性障害と診断する。
* 半陰陽、間性、性染色体異常などが認められるケースであっても、身体的性別と性自認が一致していない場合、これらを広く性同一性障害の一部として認める。
* 性同一性障害に十分な理解をもつ精神科医が診断にあたることが望ましい。2人の精神科医が一致して性同一性障害と診断することで診断は確定する。2人の精神科医の意見が一致しない場合は、さらに経験豊富な精神科医の診察結果を受けて改めて検討する。
診断を受ける段階で生活歴を聞かれて、女の子らしいことをしつづけてないと性同一性障害の診断をもらうことができないから。
(中には反動で過剰に女らしくしている人もいるが・・・)
梅田もっちーとダンコーガイの自己啓発(笑)の両巨頭が紹介した本には無批判に絶賛がつくといういつもの流れ。はてな村民がいかに自分の頭で考えない人間かよくわかるね。ちょっと前には、英語嫌いの益川先生が歴史に名を残す研究をしたという話が流れたばっかりなのに、すぐ忘れてしまってるんだから。
ま、そんなことはともかくとして、言語学を新書レベルに読みかじった経験があれば、この両氏の書評と著者のインタビューを読んだだけで、モチヲや弾のお勧めを期待してこの本を読めば期待はずれに終わることがよくわかる。誤解なきよう、私は「日本語が亡びるとき」が面白くない本だとは思わない。何しろ相手は小説家、本当のことであろうが嘘のことであろうが面白く書いて読み手に深い印象を与えるプロなのだから、それは期待してもよい。ただし、著者に言語学のバックグラウンドがない時点で、論としての面白さを期待するのは諦めるべきだ。SFとして面白いものが科学理論としてよくできているわけではないのと同様、純文学作家の言語論に学術的レベルを期待するのは酷というものだ。もともとそういうものなのだから、モチヲや弾のようにあの本を絶賛する人というのは、アジテーターとしての自分を売り込みたいだけか、アフィリエイトで稼ぎたいだけか、あるいはまともな議論とトンデモの区別が付かない程度の知的素養しかないか、そのどれかだろうと思ってしまうのは私だけか(そういえば一部のはてな界隈で人気な「温暖化懐疑論」の論者に気象学者が一人もいないのはどういうことなんだろうね?)。
そもそも、著者が言うような意味で日本語が亡びるというのが先走りにすぎるのは英語の歴史自体が証明している。英語がどうして、同じゲルマン語のドイツ語よりも、ロマンス語のフランス語に見た目が似ているかと気になったことはないだろうか。あれはノルマン・コンクエストの帰結である。英語は文化的外圧に曝されるどころか外敵に征服され、日本語と同じかそれ以上に外来語に「汚染」された言語なのだ。しかしその伝統からシェイクスピアをはじめとする華麗な英文学の伝統が花開いた。
日本語も、実際に「地域語」であり、現代と比べものにならない外圧に曝された時代があった。飛鳥・奈良時代や、明治維新期などはそれぞれ強大な帝国の圧倒的な文化力・軍事力の前に日本は存亡の危機に瀕していた。しかしそれらの時代に外の文化を大きく導入したことで、逆に日本語の文化は大きく栄えた。
単なる「国力」だけで、言語が「地域語」に堕し、その結果衰退するなどというのが俗論にすぎないことがよくわかるだろう。
そもそも、「日本語が亡びる」という問題意識自体、日本列島の言語を「日本語」という名で無自覚にひとくくりにしてしまうことの問題が現れている。アイヌ語や琉球語を考えてみるがよい。これらを「方言」と呼ぶのは無理があるだろう。しかしながら「日本語」の隆盛のもと、これらの言語文化は危機に瀕している。
いや、言い直す。そもそも何を「方言」とよび何を「国語」「標準語」と呼ぶかは政治的な産物でしかない。ポルトガル語やオランダ語は、かつてはスペイン語やドイツ語の一方言でしかなかった。デンマークでは読み書きができる知識人はドイツ語やフランス語を使っていて、アンデルセンやキルケゴールが現れる前の「デンマーク語」は「汚い方言」でしかなかった。
その意味で、日本の文化を見直してみるとよい。「遠野物語」のような地域の民話を語れるのは一部の語り部に過ぎないのではないか?いや、かつて日本の「中央」を荷った「上方文化」でさえ、衰退が甚だしい。関西弁はラジオ・テレビの成立以降、急速に流入した「標準語」の影響によって激しく変質し、江戸時代後期から明治時代にかけて成立した上方落語でさえ、若者や子供のかなり多くはまともに聴き取りができない。上方落語が日本の言語文化の貴重な財産であることは誰も否定しまいが、これを日本人は自ら衰退に追い込んでいるのである。人間国宝の米朝師匠が事実上現役を退いた今、その前途ははなはだ暗い。
あるいは地域的な変化でなく時間的な変化を見てみるとよい。能は勿論、狂言や歌舞伎でさえまともに聴き取れない日本人がどれほどいるか。源氏物語はおろか、明治期の擬古文でさえ現代語訳なしで読めない日本人がどれほどいるか。いやそればかりか、旧字体・旧仮名遣いの文章ですらろくに読めない人間とて決して珍しくあるまい。
このようなことになったのも、一つには近代化の推進のため我々が明治期と戦後に「国語」の成立と普及を強引に推進したせいだというと言い過ぎだろうか。世界に誇る日本文学などと言うが、我々が現代「日本語」を通じて享受できる文化遺産など、たかだか百年分ぐらいしかないのである。
というか、元々これはそういうものなのである。「国語」という概念は「近代国家」が政治的に成立させるものだ。「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」という本があるが、これによると実際、江戸時代では各地の方言を通訳する商売が成立していたという。あるいはフランスでは近代化以前、知識人はもっぱらラテン語で読み書きをしており、フランス語は単なる「俗ラテン語」のなれの果てでしかなかった。日本ではもっとひどく、仮名文字さえ実は統一されていなかった。変体仮名というのを聞いたことがあるだろうか。うなぎ屋の看板などで今もその名残を見ることができる。これらがきちんとした正書法と文法を揃えたのは疑いもなく時の権力の政治的な措置なのだ。
それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れのナショナリズム、保守反動でしかないとさえ言えるのだ。
からかい半分で書き始めた文章につい力がこもってしまったが、いずれにせよ、「守るべき国語」というのはかくのごとく、大いなる虚構だ。関西人である私がこのように完璧な「標準語」で読み書きができるように、北欧あたりではテレビを通じて完璧な英語を多くの人が身につけている。だがそれがいったいなんであろうか。言語の遣い手としては、一つの言語しか使えないよりも複数の言語が使えた方が楽しいに決まっている。考えてみれば、何の問題もないのではないか。
仮にそうした時代になろうとも、日本語でしか書けないような優れた文学作品があるのならば、日本語が読める人は必ずや読むであろう。日本語でなくても書けるものは、日本語で読む必要はない。そうなって困るのはいったい誰なのだろうか。「普遍語」を寡占してグローバリズムの伝道を行うことで糧を得ていた人、昔日の栄光に浸る老人、それぐらいしか私には思いつかないのだが。
b:id:Nean えっと、だいたいの論旨に異議はないんだけれど、水村は「国語」が「虚構」ということを知った上で書いてるってのがいつの間にか飛んでるんでない? 「国力」の論点も変ですぜぃ。
水村は「国語」の虚構性を半分ぐらいしか理解していなかったと私は思います。たとえばここで挙げたような方言の視点はほとんどなかったのではないでしょうか。水村は東京生まれということなのでおそらく気づかなかったのでしょう。私のような方言話者にしてみれば「母語が『現地語』でしかない状況」なんて「なにをいまさら」でしかない、というのがこの記事を書いた大きな動機の一つでもあります。
「国力」についてはその辺の地方人バイアスが入っているかもしれませんが、正直あまり自覚はできていません。
結局、馬鹿を野放しにするのがまずいんだろうか。
梅田さんはやはり、エリート主義なのかもしれないなあ、と思った。
要するに、梅田さんは馬鹿にでも分かるように説明し、馬鹿な大衆のレベルの底上げをする
ことが目的なのではなく、頭の良い人たちとレベルの高い面白い議論がしたいのだろうと思う。
彼が啓蒙したいのは、見込みのある若者たちであって、馬鹿な大衆は単なる搾取の対象で
あるのかも知れない(それが悪いとは思わないが。確かにそちらの方が面白いし、楽しいから。
しかも自分の好きなことをやるということであって言論一致である。馬鹿の相手はイライラ
するし、徒労に終わる場合が多いし。そして、そういう商売で生きていくことを彼は目指して
いるのであろう。繰り返すが、商売は慈善事業ではないし、梅田さんは聖人ではないと思うので、
馬鹿な大衆のレベルの底上げをするという(多分)不愉快な仕事の義務は発生しない)
ただ、思うのは、多少ましになっているかも知れないが、リアルワールドの日本人は
自分が馬鹿にされるのを恐れて、あるいは、恥をかくのを恐れて、気軽に発言しない人が
が相変わらず多い。相変わらず日本人は恥を恐れる感覚が強いのは確かだと思う。
(だから、英語の上達が遅いという話もあったが)
その反動が(匿名性という)ネットに出てきている部分というのは確かにあるような気がする。
そしてそれには良い面もあれば悪い面もある(セガBBSがまさに動物園だったことを思い出す)
その反動とどう向き合うか。抑圧されていた恥知らずで馬鹿な日本人の本音とどう
つきあっていくのか。結局、日本におけるオープンなサービスにおいて、そこをどう
対応するかが一番問題なような気がする。
馬鹿の相手をしたくなければ、クローズドで、仲良しセミ文化人サロンとしてやって
いけばいいのでないか(もっとも、mixiがうまくいっているかは私はよく分からないけども)
馬鹿な大衆からは巻き上げたい、でも、レベルの高い議論がしたい、という話は
虫が良すぎるような気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20081109024556の記事に関して。
(初めて増田に来たので、やり方あっているかわかりませんが・・・)
「抑圧」という言葉に、なるほどそうだなと思いました。
何か強大なものを押し込めると、反動が強すぎて制御できないんだろうなと。
反撃が大きくてノックアウトされた形になりました。
失恋というプライベートな出来事を周りの人に撒き散らすことを恥だと思い、
自分の感情を押し込めることがスマートだと単純に考えていた私は、
頭でっかちだったのだと思います。
経験しないと、人の気持ちがわからないなんて少し怖いと思ったり。
「別れるってのは,一生会わないでもいいってことだよ」
そう言ってもダメだった。しょうがないと思った。
私も別れる間際にかなりの覚悟を持って、この言葉彼に伝えた覚えがあるので、本当に驚きました。
私の場合、彼から話しを切り出された時、
「君とはこのまま付き合えば結婚するのだろうけど、でもまだ結婚したくない。もっと違うこと(恋愛・その他)をしてみたい。」
といわれました。
彼曰く、「別れても大事な人」らしいのです。結婚はタイミング次第だったらしい。
そんなに大事なのに、別れるという決断をした彼に対して本心を確かめるために投げかけた言葉でした。
結果、そんな結婚のタイミングがどうとかは関係なく、ただ別れたいのだと思い知りました。
(ここだけの話、キレイに後腐れなく別れようとする姿勢に、少し怒りを覚えました。)
空いた穴を色んなもので埋めようとしても,
大きすぎて入らなかったり,小さすぎて満たされなかったり。
そもそも,自分でどんな大きさの穴が空いているかすらわからない。
新しい恋の予感では不満足な私はかなり共感してしまいました。
おそらく、彼と別れた瞬間、私の心は一部死んだのだと思います。
その死んだ部分(ここでは穴ですね)が時とともに新陳代謝で削げ落ちていくのを、
一人部屋で待ってみるのもいいのかもしれないと今は思っています。
インターネットでの協力者育成ならびに、反動的人物・団体の調査について。
記
1.指示者
在中2等書記官 李 明善
2.概要
先の通達(第98-08-13号)のとおり、インターネットにおいて祖国に対する卑劣な誹謗・中傷がおこなわれている。特に先月実施された祖国による通常の軍事演習に対し、米帝国主義者および南朝鮮反動分子による祖国への敵視政策の強化を目的とした宣伝活動が活発化しており、日本における思想戦に勝利するため、青年部有志による祖国への貢献を以下のとおり要請する。
3.行動内容
1) 日本語を常用語とするインターネット上コミュニティーにおいて、米帝国主義者および南朝鮮反動分子らの活動から祖国を防衛し、金日成主席が創始し、金正日将軍閣下が発展された主体思想を流布するため、協力者の育成ならびに反動的人物・団体の調査をおこなう。
2) 政治的な色彩の濃い、あるいは高度な技術情報が流れる掲示板(BBS)、IRC 等を重点的に活動する。(「インターネット活動要項 (2)」を参考。)
3) 反動的人物・団体を発見した場合は、地区長へ通報の上、可能な限りの情報を収集する。なお個人が特定できない場合、インターネット接続業者を通じてアカウント名の割り出しをおこなう。
3) 政治的指導性もしくはインターネット上での行動力をもつものについては、協力者としての育成をはかる。ただし協力者と地区長に認められるまで、自らの立場を明らかにしてはならない。
3.その他
インターネットでの調査技術に関しては「インターネット活動要項 (A)」を参考とする。
詳細は各所轄地区長の指示を仰ぐこととする。
(以 上)
※ 本文書の取り扱いには特に注意すること。
えええええっ?そうなの?それは無い。
そういう嗜好の人もいるだろうけど、女性の嗜好としてはあまり一般的ではないのでは。同い年からちょっと年上くらいが好ましいって感覚の人が多いんじゃないの?そりゃ最近は年下ブームとか言うけど、それもある種の反動というか、年下だから即NGではないよね人柄次第だよねって当たり前の話であって、マイナスの先入観が無くなって選択肢に入るようになったという話であって、若い方がいいってことではないような。
これ書くにあたって、リードされたいとか頼り甲斐とかそういう都合が入ってるだけで、性欲だけ切り離して考えたら違うのかなって自問自答してみたけど、むしろその場面を想定すればするほど、無理無理無理無理かたつむり。「若い方がいい」は無い。
先日引越しをした。理由は転勤。
自分でも嫌になる位恥ずかしがり屋だけど、
俺の方から勇気振り絞って新幹線のホームで思いっきり抱いてキスした。
ドラマみたいって後から散々笑った。
自己満足で迷惑かな?とも思ったけど、
後から嬉しかったって電話で聞いて、なんだか凄いのろけ。
まあ最近じゃ人前でどうこうもあんまり珍しくもないけど。
でもその反動のせいか、
我ながら情けないと思う。
仕事してる間は忙しくて全然そんな風には思わないのに。
家に帰って玄関の扉を開けた時が一番堪える。
何で電気ついてないのかな?とか
何で寒いんだろう?とか
不思議だけど当たり前な話しなのに。
その1週間位はシャワー浴びながら思いっきり泣いた。
さすがに隣に聞こえるのは恥ずかしいから防音対策の意味も兼ねてるんだけど。
酒はあまり飲まないのもあるけど、
何度か新しい同僚との飲み会も断ってしまった。
たぶん今飲んだら、大泣きしてしまう気がして。
あまりにもみっともなさすぎる。もう誘ってもらえないかな。
毎晩電話やメールがしたいし、休日に会いにもいきたかったけど、
それにたぶんだけど、俺がこんな状態になってるって知れたら、
仕事なんて投げ出してきちゃうはずだし。それだけは避けたかった。
付き合う前から夢だったなんて聞かされて。
そんな理由で、俺なんかのために壊して欲しくない。
気が付けば電話も声で悟られそうでちょっと怖くなってた。
今じゃあ週に1回位、なんか付き合い始めた頃に戻ったみたいな感じ。
但し、悪い意味で。
初々しいというよりは緊張して何話していいかわからない。
先週の休日は鳴ってた2回を2回ともすっぽかした。
どこかで他人事のように思っている自分がいる。
いや違う。俺が避けてるだけなのに。人のせいにしてる。
でも、ごめん。
長くて6年短くて2年って言ってたけど。
たぶん俺耐えられそうにないから。
だから、ごめん。
ごめんなさい。
弱い俺なんか好きになってくれて、ごめんなさい。
結局一度も会いにいけなくて、ごめんなさい。
うらぎって
うそついて
ごめんなさい。
が知りたい。
1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。
http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080109/1199875970
がホッテントリに再浮上している。
このエントリは、コメント133、トラバ166、ブクマ2273
その反応の多くは「元気がわいてきた」とか「やってみよう」という好意的なものだ。
で、
このような、元気がでたり、やってみようと思ったひとたちの9ヵ月後が知りたい。
その元気はどうなったのか?
やってみてどうだったのか?
人生はかわったのか?
3日で忘れちゃったのか?
いまも机の前に印刷して張ってあるのか?
「やっぱうまくいかねえじゃん」とまたひとつ挫折を重ねたのか?
いまは別のライフハックに夢中なのか?
この記事をホッテントリで再度見かけたときに、にがい気持ちになったのか?
なんて書くと、元エントリに批判的なように見えるかもしれないけど
わたし自身も自己啓発的なものに勇気付けられたりすることはよくあるんだよね。
でもその勇気は持続しなくて反動的に自己啓発的なものに憎しみを感じてしまう。
で、うまくやれないことで自己評価が低くなる。
それの繰り返し。
だから、ほかの人が自己啓発的なものと
どのようにつきあっているかをしりたい。
あなたのその後をぜひこのエントリにトラバ、ブクマしてください。
追記
このエントリへの反応への反応を書いてみたよ。
「「1ヶ月間だけ、思い切りがんば」ったその後」のその後
本の読み方を間違ってるって点は他の人が指摘してる通りなんだけど、それとは別に、ここんとこに違和感があったなあ。
この本によると、草食系男子とは
●彼女に細やかな気遣いができる。
●彼女だけを一途に愛することができる。
●彼女の髪型が変わったことにすぐ気付き、誉めることができる。
●彼女の起承転結がない面白くない話を、うなずきながら聞くことができる。
●彼女がセクロスを拒んでも、「この子は昔セクロスで嫌な思いをしたことがあるのかもしれないな。何も言わずに優しく抱きしめてあげよう。」
などなど、まさに理想的で素晴らしい男性のことなんだそうです。
でも私には、こんな男性が実在するとは到底思えません。
というか結局のとこ、草食系男子なんて
多くの女が抱く「女にとって都合の良い男の幻想」でしかないと思います。
理想的とも素晴らしいとも都合がよいとも思わない。あまりにも目線が女の方を向きすぎていて気持ち悪いとしか思えない。こんなんが寄って来たら速攻逃げる。友達がロックオンされていたら逃げるようアドバイスする。
勘違いと思い込みが激しくて関わると厄介な童貞紳士の特徴だよ、これって。現実に一人でもこういう人を知っていたら、その思い込みの強さと不健全さに辟易すると思うけどなあ。
この著者は、なんでこんなの薦めるんだろう。ただでさえ重くなりがちな男性の片思いなのに、わざわざ警戒されるような行動を薦めてるように見える。どうせ読者はここまで徹底出来ないだろうから、徹底し過ぎて気持ち悪くなってしまうリスクは無視ってスタンスなのかな。でもこんな本を選んで読むような非モテは中庸が分からなくて極端に走りがちだから、著者が想定してた以上に徹底してしまいそうで反動が怖い。
材料出たときに反動あるのは当然と思われ。
長期はしらん
・・・すまん、嘘ついた。
ここ数年で一番下がってるときに買っておけば
だいたい間違いないだろ、ぐらい。
数年前、僕は人を傷つけました。卑怯なやり方で。その懺悔を誰かに聞いて欲しくて、今、この文章を起こします。
それは二十歳過ぎの頃のこと。僕は今で言う非モテというヤツで、彼女いない歴=年齢の童貞だった。一方、その頃つるんでいた親友はとてもモテる男で(といってもチャラ男ではありません)、いろんな女性に言い寄られては、付き合ったり別れたり、一夜の関係を築いたりといったことを繰り返しているようだった。もちろん言い寄ってくる女性すべてが美人ではない。そのことについて話を向けると、彼は「○○はいいヤツだと思うけど、うーん」と言葉を濁して苦笑するばかり。“女性を見た目で選んでいる”言葉には出さずとも、それは明白だった。そんなとき、僕はいつも「自分なら、見た目よりも内面を重視するのになあ」と思った。もしかしたら、心のどこかで異性を見た目で判断する彼を軽蔑する気持ちがあったかもしれない。女性関係に恵まれている彼への嫉妬を、歪んだ軽蔑に変えていたのかもしれない。
知らない人から携帯電話にメールが入ってきたのは、ちょうど就職活動にいそしんでいる時期だった。「高校生のレナといいます。よかったらメル友になってくれませんか。」たしか、こんな文面だったかと思う。Jフォンのスカイメールは、電話番号だけでメールをやりとりできる。きっと適当な番号を入力して送っているのだろう。当時はまだ、今ほど迷惑メールはなかったように思う。新しい出会いもなく、就職活動に疲れていた僕は、さして警戒もせずにOKの返事を送った。正直言うと、ちょっとした期待も持っていた。淡い期待だけど。
他愛ないメールのやりとりをしていくうちに、レナと僕は少しずつ打ち解けていった。顔も知らない相手だからか、理想の自分を演じられていたのだと思う。そのうち、電話で話すことになった。「緊張している」と話す彼女の声は、とてもかわいらしく、僕の脳裏にはとても可憐な少女が浮かんでいたことだろう。毎晩のようにメールや電話を繰り返し、仲を深めていたある日のこと、「私たち、かなり気が合うよね」と彼女が言った。「○○の彼女になれたらいいのにな」。冗談めかした言い方だったけれど、僕は冗談だと受けとらなかった。「……うん、付き合ってみる?」。「うそ!ホントに?」。人が聞いたら馬鹿馬鹿しいと思うだろう。二人は会ったこともないのだから。でも、はじめはそれでもかまわないと思った。そして提案した。「じゃあ今度合ってみようか」。勇気を振り絞っての提案だったけれど、返事は沈黙。「……私、かわいくないよ?」そう彼女は言ったけれど、「俺、見た目なんて気にしないよ」と返す。事実、それを自負していた。信じて疑わなかった、自分を。
何度かやりとりを経て、ついに彼女の地元で会うことになった。電車で20分ほどの距離。これから付き合って行くのに不都合はない。電車に揺られながら、僕は彼女の声を思いだしていた。とても可愛らしい声で、そこから想像されるルックスはけして悪くない。でも、もしも本当に驚くような外見だったとしたら?それでも自分は「見た目なんて気にしない」と言えるのか?いや、言える。車内をこっそり見回す。(例えばこの女性より醜くても?うん、大丈夫。落胆の色なんか絶対に見せない。あるいはこの女性より醜くても?問題ない。)失礼な話だけど、親友なら見向きもしないような女性を見つけては、自分の覚悟を試していた。
待ち合わせ場所に着き、レナにメールをする。ほどなくして、僕は気配に気づいた。柱の影から、ひょこっひょこっと笑顔を除かせては隠れる女の子がいた。きっと、僕の笑顔は引きつっていたと思う。彼女はちょっと太め……いや、そのときの正直な感想を述べよう。第一印象は「髷を解いた力士」だった。水戸泉、水戸泉。ゴメンネ、アタシチョット病気デ太ッテテ。ア、ソウナンダ。気ニシナイヨ。他愛ない会話を二言三言交わし、どこへともなく二人で歩く。アスファルトの道を行く。僕の足音はしないのに、彼女の足音は聞こえる。すごい匂いがする。汗かな。どうしよう。
ふと彼女が足を止めた。ここで雑談しようということらしい。並んで立っているのが怖くて、ガードレールの前に腰を下ろした。目の前の妖しげな建物に気づく。ラブホテル。なんで?なんでこんなとこにいるんだろう。一度も入ったことのないラブホテル。まだ、目を向けるのも恥ずかしいほどウブだった。そんな僕が、どうしてここに?首筋にざわざわとした感触があって、ビクッとして振り向くと、彼女がガードレールの上から長い髪を揺らしていた。背筋にオカンが走る。ネエ、入ッテミル?……エッ、ドコニ?……ら・ぶ・ほ・て・る。助けて!助けて!助けて!助けて!これはお誘いなんかではない。一方的な捕食の前のお遊びだ。僕の意志には関係なく、ラブホテルに、入らされる。直感的にそう感じた僕は、心の中で親友に助けを求めていた。彼女ができた、と言ったら彼は喜んでくれた。会ったことがないことを明かしても「今はそういう人多いんだろ?ネットで出会うとか」とフォローしてくれた親友。やさしい親友。そんな彼に、僕は心のどこかで軽蔑を抱いていた。何が「見た目なんて気にしない」だ。そういえばレナが電話で、ふざけてあえぎ声を出したことがあったっけ。あのとき勃起していたのは誰だ?イケよ、入っちまえよ。それが望みだったんだろう?もう一人の僕が、現実の僕を罵倒する。僕の童貞はここで散るのだ。脂ぎった彼女にとって喰われるのだ。
絶望にうちひしがれていると、彼女の電話がなった。僕は考える。走って逃げるか?でも、でも、それだけは絶対にいけない。傷つける。あんなにヤサシイふりをしておいて。逃げ出すなんて。「う〜ん」。レナがうなる。ドウシタノ?「……友達が〜、入院しちゃったんだって」。何故?なんて聞かない。僕はこれが唯一にして最後のチャンスだと気づく。そう、“いい人”のフリをしたままこの場を切り抜けるための。「本当に!?それは……すぐ行ってあげないと!すぐ!友達なんでしょ!?」う〜ん、とレナがうなる。迷うな、行け。行かないならそんなヤツは絶交だ。そうだ、その論法で行こう。僕は曲がったことが嫌いな“イイヒト”なんだから!
結局、彼女は病院へ向かった。僕らは笑顔で別れた。電車の中で、何も考えられないでボーッとしていると携帯電話がなった。メールだ。「ねぇ、私たちどうするの?」いつもの文体とは違って、責める空気が感じられた。どうするって、何を?また?また会うのか?俺は見た目を気にシナイ。でも、またレナに会いに行けるのか?その勇気はあるのか?ちょ、「ちょっと待って。」そう返す。すぐに返信が来る。「何を?」ななな何をって何がヤネン。
それ以降、僕とレナは連絡を取っていない。数年が経ち、彼女もできた。自慢できるほどではないけれど、普通の、かわいらしいひと。かつての僕は「見た目なんて気にしない」と考え、自分の美徳とし、そしてそれを裏切った。今の僕は異性の見た目を気にする男。かつての反動で、他人より少し面食いになったかもしれない。でも、もし。ありえないことだけど、もしもレナが今も僕のメールを待っているかもしれないと考えると、ひどく恐ろしく悲しい気分になる。本当に病気でああいう体だったのだとしたら、僕の行動は彼女をひどく傷つけただろうと思う。
本当に「見た目なんて気にしない」という人がいたなら、僕は尊敬の念と、おそらく嫉妬を感じるでしょう。でも、実際にそういう人がいることはわかっているつもりです。自分にその器がなかっただけのこと。僕の懺悔は以上です。もし「自分は見た目なんて気にしない」という若い方がいたら、僕の文章を自分に置き換えて読んでみてください。追体験してみて、それでも気にしないと思えるなら、あなたは僕の憧れる人種です。
う…。なんかむずかしいな。つまり、民主主義の能動的な担い手であれ!みたいなことか?
まさにそうだよね。
そんなもん、どこから出てくるんだ?
「従来の同和教育」が批判されているのはまさにそこだと思う。「洗脳」じみた教育プログラム、ショックを与えて救いの道を示して……みたいなやり方はそれ自体が反人権的なんだけど、新興宗教とか見ればわかるようにそれなりに有効に見えたりもするが、実は上のような能動性や実践力を持った人間を生むことができない。何か大変らしい、気の毒らしい、でもって怖いらしい、自分は差別者でありそのことに反論も許されない……部落外の人がそう思いこめば、結果的には同和=アンタッチャブルというイメージがむしろ定着してしまうだけだ。で、その反動が今来てるんだろうね。
今でもまだこのレベルにとどまってる人も多いけど、これからはまさにそこが批判されるだろうしされなきゃダメだろう。
とりあえずアメリカなんかで、新しい教育プログラムが現在模索されたり、それを輸入しようとしてる人たちがいるので、10年から20年くらいすると、かなり変わると思う。たとえばこんなの。
http://ericnews.exblog.jp/3655286/
これは簡単に言えば、「知識を注入する=洗脳」でなくあくまで自発的な「気づき」を通して人権観を考えさせるためのプログラム。プログラムの目的が、ある「メッセージ(例:『差別はいけません』とか)」でなく「気づきを発生させる」ことなので、そこから先は参加者にゆだねられる。これが唯一の解だとは言わないけど、こんな風なやり方が次に来るべき正解の一つなんじゃないかと思ったりしてる。
元エントリ書いたものです。
自分の気持ちを考えようと書いたものだったので創作だと思われてもかまいませんが、妻の名誉のために一応補足。(匿名なのに名誉も何もないですが)
妻は専業主婦ではなく、とある専門職としてフルタイムで働いていました。
赤ん坊同然だったのは家の中、もしくは自分の前でのみです。
私の視点から見ればエントリに書いたような妻ですが、外ではちゃんとしていたはずです。
むしろちゃんと働いていたからこそ反動がでたのだと思います。
ただその反動を出す先が自分に限定されていたため、自分にとってはエントリに書いたようなことになってしまったのだと思いますが。
娘が生まれた年は、妻と自分とで半年ずつ育児休暇を取りました。(自分は在宅で週1出勤にしました)
もちろんその1年間は大変なのはわかっていたので、頻繁に両家に助っ人を頼みました。
1歳から今まで保育園です。
自分は特定の時間以外は縛られない仕事ですが、それでも出張があったり迎えに行けない時間になってしまうことがあるので、妻は小学校に上がるまでという約束で1時間の時短勤務をやっていました。
育休期間の妻は、娘に対してはそれなりにちゃんとやっていたと思いますよ。