はてなキーワード: フェルミとは
普通の理系はフェルミの熱力学(www.amazon.co.jp/dp/4385306591/)くらいは読んでるし、フェルミ面とかフェルミ分布関数とか、至る所に名前が出てくるので慣れ親しんでるものですよ。
理系出身者だが、フェルミ推定フェルミ推定って連呼する頭の悪い人事やコンサルをみると吐き気がするわ。
フェルミってのは量子力学統計力学において人類の進歩に多大な貢献をなした大物理学者であり、たんなる概算が得意なオッサンじゃないんだわ。
物流某社の筆記で出たフェルミ推定とかいう奴だけど、数字に弱いからあんまり巧く書けなかったな。
フェルミって、理系の専門分野だろ?文系は本とかしっかり読み込んでないとヤバいし読み込んでても分からん事があるよ。
言換えれば文系は理学的数学的問題を解く力を要さない。ま、必要ないからさ。
当り前だ、文系はそういった数的根拠に基づく実証実験を放棄してるんだから、授業カリキュラムからも余裕の除外。
大学から、あるいは高校・中学入試から数学的な計算問題に慣れ親しんでいない文系学生にしてみたら、一般常識ほど
一般的でないと感じる事が多いよね。事実、ニュートン算とか鶴亀算っていうのは文系コースでは絶対習わないものですから。
こういう矛盾があるのにも関わらず、企業っていうのはこんな、文系にしてみれば難解な問題が一般常識として出題されるのですから
如何ともし難いわけですよ。
じゃあ何?スイカの種っていうのは、フェルミ推定っていうのは理系向けかというと、要は考え方なんだろうね。
でも、それは果たして正解なんだろうかしら?
数字的な解答が正解なら、仮に文系的に根拠立てて「・・・と仮定するとスイカの種の数は〇〇だ」と結論付けても不正解という可能性だってあるわけで。
要はフェルミ推定が出ると、こちとらお手上げ状態なんですわ。
選んだコースが文系だっただけで、理系問題が解けないだなんてあんまりですわ。
ホッテントリ読んでいたら、昔2chに投稿した駄文のことを思い出した。ググってサルベージしたので、ちょっと修正してここに書く。ちなみに、内容についてあまり突っ込むな。いろいろな意味で。
昔オーディオの新しい波に乗り切れなかったシュレーディンガーは、 コペンハーゲンのオーディオマニアに向けてこういうことを言った。
完全防音の部屋の中にオーディオセットがある。外から鍵をかけて密室にした後、目覚まし時計によってオーディオセットが演奏をはじめる。このとき、コペンハーゲン派の立場だとつぎのようになるぞ。
すなわち:
これは明らかにおかしい。
オーディオシステムの音のよさは試聴とは無関係にあらかじめ決まっているはずだだから、コペンハーゲン派のオーディオ解釈は誤っている
しかし、ニールス・ボーアは直感に反してオーディオシステムの音は聞いてみるまでわからないだけでなく、聞いてみるまで性能すら定まらないのだとあらためて主張した(聞くまで無調整と言う意味ではない)。
これが有名なシュレーディンガーのオーディオシステムというパラドックスだ。
昔、音のよさには絶対的な基準があるという説がもっぱら主流だった。だが、こうすると音のよさが見かけの上で無限大になる場合があるという計算結果がでてパニックになった。困ったことに、絶対基準があると仮定して行ったブラインドテストがこれを否定した(マイケルソン=モーレーの実験)
その後、1905年にアインシュタインが音のよさには相対的な基準しかなく、かつ上限が決まっていると仮定した理論展開を行う論文を書いた。これが特殊相対性理論だ。この衝撃的な論文のあと、加速する車の中のカーオーディオについても適用できる音響理論をうちたてたのが有名な一般相対性理論だ。相対性理論からは、「一生懸命作ったオーディオなのに友達のシステムの方がよく聞こえる」ことが理論的に導き出される。これは日本古来の経験則、「隣の芝生は青い」ともよく一致する。
数学者だったクルト・ゲーデルはオーディオマニアだったことでも有名だ。
彼はよい音を求めていつもパーツ屋に通っては怪しい部品だのケーブルだのを買い求めていた。友人はそれを揶揄して笑ったが、完璧主義者だったゲーデルは自分が買った高級オーディオケーブルが実はやくたいもない屑ケーブルであることを認めず、必死で言い訳を織り上げた。しかし、優れた数学者だった彼は自分の言い訳にほつれがあることに気づいた。次の二つを両立する言い訳が成り立たないのだ。
すなわち:「完全かつ無矛盾な小売系は存在しない」これは真に偉大な発見で彼の名声を高めた。しかし、後に音の滑らかさを追い求める連続体仮説に思いをめぐらすうちに、カントールと同じく狂気の闇へと落ちていくことになる。
日本経済が絶頂期にあった80年代初頭、一部のオーディオメーカーは将来市場が頭打ちになりかねないことを予見して体系的な市場アプローチ、すなわちマーケティングを導入し、市場の行方を占うことにした。
このとき問題になったのはオーディオマニア層だ。口うるさいくせに雑誌で発言力のあるマニアは市場としては小さいが無視できない。そこで、マニアがどのような振る舞いを行うか、その統計的な側面が研究された。
もっとも有名なのは「二人以上のマニアが同じ意見を持つことはない」という仮定に基づいて行われた研究だ。これは人の話は聞かないくせに、同意もしないというマニアの実に嫌らしい振る舞いを見事に反映したモデルだった。
このモデルに基づく市場動向の予測は、研究者の名前を取って、フェルミ・ディラック統計と呼ばれる。この統計は各社が採用して市場予測に使い、大きな成果をあげた。
なお、マニアも興奮してくると見かけの意見らしきものをつなぐことができなくなり、オーディオ好きの高校生と同じになる。この場合は古典的な統計が適用可能になる。すなわち、マニアも興奮すると大衆程度の振る舞いになり、ガウス分布に従うようになる。そのため、オーディオフェアなど興奮しがちな場所では古典統計が使われる。
同じころ、排他的でないマニアを冷静にすると、全員がひとつの意見をもつようになるというボーズ・アインシュタイン統計も発表された(アインシュタインは先の相対性音響論を発表したのと同一人物)。しかし、企業の企画担当者が「排他的でなく冷静な」マニアを想像できなかったことからこの統計は採用されず、一部研究者がその実現性を予想しただけだった。
転機は90年代半ばに訪れた。自分の意見より人の顔色を尊重する日本人に対して行われた一連の実験から、ボース・アインシュタイン統計が適用可能な場合が示された。一群のオーディオマニアを集め、彼らを数日にわたって否定することで体力と自意識を削り取ることにより、極度の低興奮状態に置く。この状態では部屋の中のすべてのオーディオマニアが尊師の言うとおり提示された オーディオセットはすばらしいと一様に誉めた。この歴史的な成功以来、同様の実験が都内各所の道場で行われたが、その後この実験は危険であるとして禁止されている。
やたらテンションの低いオーディオマニアが全員同じ意見を述べるようなキモイ状態は、ボース・アインシュタイン凝縮と呼ばれている。
休憩時間、近所のコンビニでスピリッツを立ち読みしていたら、その横になにやら楽しそうな雑誌が。
3D影で描かれた人体の頭部。
その上に躍る文字は「地頭力」。
一昔前に流行った超記憶術の広告レベルのセンスに度肝を抜かれた。しかも表1にそれって。
たったこれだけで胡散臭さをここまで出せるのは驚きだ。
しかし、よくよく見ると週刊東洋経済だった。
こんなうさんくせー表紙の雑誌読んでコンサル(笑)だのマネジメント(笑)だの言ってるとか、噴飯モノだ。
で、興味津々だったので中身を立ち読みしてみた。
なにやら、フェルミ推定という考え方が地頭力を上げるのに適しているという新書が出たらしい。
・・・あれ、えっーっと、画期的な地頭力開発プログラムはどこですか??
フェルミ推定なんて、ただの推定手法だろ?
それなのに、特集記事の半分以上、延々フェルミ推定について書いてあった。
ただ自分勝手に数字を設定して計算するだけの手法に、地頭力の何が隠されて居るんだ?
「google検索を使えば、日本の電柱の数は分かる。だが、使えなくなったときには困る。」的なことが書いてあったけど、
そんなもんありえない仮定だろw
客先でコンサルが質問振られたのだとしたら、いつもお前らが煽ってるお得意のユビキタス(笑)で対応しろよw
「検索すればいいや」という風潮に警鐘を鳴らすのは理解できるが、これだけフェルミ推定をプッシュされると、
「フェルミ推定だけあればいいや」と思うバカが大量発生するんじゃないの?
googleの効用をさんざん煽って検索厨を発生させたのはこいつらなのに。
フェルミ推定が通用しなくなったときにどう推定するか、それを考えるのこそが地頭力だろ!
帰ってきて、ちょこっと地頭力で調べたら、この新書について少なくともネット上には批判のひの字もなかった。
こんなの読んで無批判にありがたがってる人々の方がよっぽどゆとりで、地頭力とは最も縁遠い存在だと思った。
あと、入社試験で使われているそう。くっだらねー。
これで完全に、フェルミ推定だけやっておけばいいっていうマニュアル人間が出来るんだろ。あほか。
極めたところで、コンサルお得意のハッタリ用ツールか、せいぜいキャバクラの持ちネタくらいにしかならんだろこんなもん。
追記
こういうライフハック(笑)系の存在について、誰も批判しないのはなぜさ?
なんで全部受け入れちゃうの? なんで疑って掛からないの?
どうせ本や雑誌に書いてあることはうまくいってるケースが書いてあるだけっていう発想はないの??
(じっさい、フェルミ推定の適用例は、数字を弄ってあると見えて、推定値はほとんど真実の値に近いものばかりだった。
仮定に仮定を積み重ねるフェルミ推定で、そこまで数字を当てることが出来るかよw
数字の正確さは、その思考パターンによってこそ地頭力があがるとする特集の主題と関係あるのか?)
追記の追記
>地頭力の定義
斜め読みだったので、詳しい定義はわからないです。
いま書評をちょろっと見たら
地頭力には単純に考える「抽象化思考力」、全体から考える「フレームワーク思考力」、結論から考える「仮説思考力」の3つの思考力があると紹介
オンザエッジ云々はともかくとして。
前に宮台センセが善意のマッドサイエンティストより良識を持ったジェネラリストの存在を提唱したが。ちょっとそういう話じゃないかと思う。
技術者に責任がないかというのは微妙だと思う。フォンブラウンやフェルミみたいに結果を考えずに悲惨な結果に協力してしまった科学者もいるし、ゴダードみたいに拒否した科学者もいる。職業倫理は必要。
でも、利用者の側にも責任がある。ウォークマンが出始めの時に難聴になると非難されたときにソニーは大音響で聞けばそりゃ難聴になりますよ、と堂々と突っぱねた。
どちらが悪いというより、どちらにも責任はある、という話だと思う。どんなものともわからない技術がどんどん出てくるのだから、利用者の側は賢くならなければならない。が、自己責任という名にかくれて、企業の責任をちゃらにしてはいけない。それは品格という言葉にはなじまないと思うけれど。
この世に存在する物質には確かに人間社会の善悪は関係ないけれど、技術には責任はあると思う。利用者にも若干。それが社会というもので、だからめんどくさいとも言えるよね。
ええと、言いたいことがまとまらないのでばらばら書きます。
ハードディスクやメモリ上の情報構造物が dense であるとか sparse であるとかいいますよね。当然何かその情報構造物について「密度」を考えているわけですが、その単位はよくわからないものです。気体の「体積」「1分子あたりの熱エネルギー」「モル数」はそれぞれ違う次元の数ですが、ディスク上の情報構造物の「占有領域」「最低/平均ブロックサイズ」「圧縮した場合のバイト数を表現するのに必要なレジスタ幅」はまったく意味が違うのに、いずれもバイト数で表されます。これは情報科学の根底にあるトラブルの原因ですが、いまは統計力学と情報理論の間に安易な橋渡しができないことだけを意識してください。
ただ、気体でも極端に自由度の低い系(絶対零度近くとか、強い磁場の下にあるとか)では体積は圧力にも温度にも比例しないでしょう。それと似たような話として、自由度の低い情報構造物は情報理論の適用外です。個々のビットの間の関係は恣意的であって、あまり統計的扱いに向かないからです。
古典力学の前提で、粒子間の引力も斥力も無視するとボルツマン統計、量子力学ならボーズ統計やフェルミ統計に従うという話ができますが、すべてのアプリケーションが書き出すビット列にそういう統計を考えることはできるでしょうか?
アプリケーションの各論を展開できるほど柔軟で包括的な数学を使えば、情報構造物のミクロの理論は好き勝手に展開できるでしょう。ただ、それはアルゴリズムの単なる記述ではありませんか?