はてなキーワード: フィルタとは
どうして、オーディオデーターって機械測定による実測データーが添付されないんだ?
http://akiba-pc.watch.impress.co.jp/hotline/20100724/etc_sotm.html
SATA noise filterとFAN noise filter
同社いわく、これらのフィルタはRFノイズとリップルノイズを低減することで、サウンドデバイスなどへのノイズの影響を最小限に抑え、音質の維持に効果的
周波数特性ぐらい書いてくれ
暫定環境でいいから、環境作ってSin波をぶち込んで、有り無しで何db程度ノイズ低減するのかぐらいデーターだそうよ。
オーディオでUSBを利用する場合、コンピューターによって音が違ってくる事が珍しくありません。
同じメーカーのパソコンでも機種によって音が違う、場合によっては同じ1台のパソコンでも接続するUSBポートによって違うという事すらあります。
CPU負荷が原因でないなら計測した機材のメーカー名書いてくれ。
あとは、アナログ アンプ部があったまってないからとかだといけないので 偶数回奇数回と交互に複数回測定したデータが欲しい
音質に拘るなら、USB給電じゃなくて、USBオーディオ本体側にACアダプタじゃない内蔵電源いれてもらった方がよっぽど嬉しいと思うが。
いずれにしろ、音というなら、周波数特性のグラフ ノイズというならdbは必ず出して欲しい。本当かどうか、どの程度効果があるのかわからん。
いま一部で大流行の「サイエンスクラッシャー」ネタなんですが、実は壮大な釣りプロモで、内田さんの狙い通りにコトが進んでる気がしてきた。
なお、私は決起集会の動画は見ていて、内田さんの関連blog記事は読んでいるけれど、内田さんの新著は読んでいない状況。
元ネタ: 「サイエンスクラッシャー」 http://anond.hatelabo.jp/20100429013047
引用元: 「新著「疑う力を阻害するもの『科学教の狂信が思考停止に』」掲載」 http://ameblo.jp/marika-uchida/entry-10518383971.html
ちょっと引用してみましょうか。
そのとき、ある新聞社から以下のような質問が出ました。
「科学技術の大切さは誰しも理解していると思う。しかし、国民の素朴な疑問として、スパコンになぜ多額のお金がかかるのか? というものがある。これをどう説明しようと思うか?」
それに対し、あるノーベル賞受賞者が、「まず1つは、マスコミにもっとしっかりしてもらいたい」「メディアの力は大きい。メディアがもっと科学技術を理解しないと、国民には伝わらない」と。
このシチュエーションで、たぶん回答者が言いたかったことを私なりに翻訳すると、
情報の1次発信者が、どれだけ正確かつ丁寧に説明したとしても、情報の最終到着地である一般読者に到達するまでに、*必ず*マスメディアのフィルタが入ってしまう。このことは、科学者に限らず、一次発信者がどんな者であっても言えることだ。
そして、このマスメディア・フィルタの掛かり方次第で、情報はどうにでもなる。繰り返すが、一次発信者がどれだけ正確かつ丁寧に説明したとしても、マスメディアの記者や編集部がそれを理解することができなかったり、本意・不本意を問わず歪曲したり、勝手に画角やフォーカスを調整したりしてしまえば、一般読者には「そういう」情報しか伝わらないのだ。
だから、我々1次発信者も一般読者に分かりやすいように努力はするし、しているけれども、マスメディアの記者・編集部もまた1次発信者の意図を理解し、それに応えられるような努力をして欲しい。
このような意図になる。違うかなぁ…、僕はそう思うし、常々そういう主旨のことを思っているけれど。
その上で、内田さんの、あなたの立場を考えてほしい。
あなたはサイエンスコミュニケーターを標榜しているけれど、あなたの立場は上記のコメントでいう「マスメディア」に該当するはずである。職業はともかく、「本を出版する」(まさにマスメディア)行為をしているからだ。
そして、決起集会を見て(一次発信者の主張を取材して)、本を出版し(マスメディア行為)、それを読者(きっと一般の方が主たる想定顧客だろう)に伝えようとした。
このとき、内田さんは「内田さんの」マスメディア・フィルタを掛けてしまった。
(追記)
私は、そのノーベル賞受賞者が、「国民がスパコンの重要性をわからないのは、マスコミが悪いせいだ。勉強不足だ」と言うのには、まったく納得がいきません。
これでは、一般読者は、「ノーベル賞受賞者って、自分(たち)がエライと思ってるのね。イヤなヤツらだ」という、否定的な印象しか持たないと、私は思います。そして、後でも少し触れますけれども、私には内田さんのこの態度に、内田さんのいう「『疑ってかかる』のが科学的態度」を感じられないのです。もし「『疑ってかかる』のが科学的態度」ならば、「ほんとにこのノーベル賞受賞者は、そういう意味で言ったのかなぁ。他にも解釈があるのではないか、言いたいことはあるんだけど結局こういう言い方をしてしまっただけではないのか、そして、その理由はなんだろうか?」などと、いろいろな思索をめぐらすはずだと、私は思うのです。
そして、「賛同の嵐」「科学教の狂信者集団」「その新聞社に向かって、自己の責任を放棄したこの発言。」「ノーベル賞受賞者らの発言に対し、会場がいちいち拍手を送り、twitterでも賛成の一色だったこと(もちろん、100%その賛成意見で占められていたわけではありませんでしたが)。」「科学教の狂信が思考停止に」などという、科学者に対するレッテル貼りの行為です。
もちろん、内田さんの記事を丁寧に読めば、「(もちろん、100%その賛成意見で占められていたわけではありませんでしたが)」「でも、反対意見は容易にかき消され、ほとんど賛成の声しか見えてこない、この全体主義のような雰囲気は何だろう、と私は不思議に思ったのです。」「念のため、その場にいた人の中にも、「あの様子に居心地の悪さを感じた」と言っていた人がいたことも、申し添えておきます。」などという、反対意見もあったということに触れて、「公平さ」を装っているわけです。
しかしそれでも、内田さんの書き方では、熱狂的な賛同者の意見の抽出とその強調に始終していて、反対意見を持った人がどれくらいいて、その人たちはどういう意見を持っていて、どういう反応を示したのか、ということに、決して具体的には触れていないのです。このことに、私は「『公平さ』を装っている」という同情を示せても、「公平に記している」という同意までは示せないのです。
なぜ私が、このblogに対して批判的にコメントしているかといえば、このblogの内容から、内田さん自身の、内田さん自身が「サイエンス」ライターやマスメディアの一端にいることを自覚していることを示唆するモノの見方・言い方・考え方を、垣間見ることができないからです。
上述のように、私は、あのblogの内容は公平さに欠けていると思っています。そして、その公平さに欠けた主張が、blogや出版物を通じて一般読者に波及していくことで、「あぁ、あいつら科学者は、やっぱり権威主義なんだ。だから、現役の間は好きなことだけやって、説明しようなどという熱意は微塵にもないし、定年後に私立大とかに天下りして平然としているのだ。エラソーにしやがって。」などという、悪意に満ちた理解が拡がっていくこともまた、恐れているのです。
(追記2)
このような危惧を過激な一言で言い捨てた表現が、「サイエンスクラッシャー」という称号じゃないかと、私は思うのです。これまで説明してきたように、少なくとも私には、どうも内田さんのblogの文だけでは、「やっぱ科学者って傲慢だよねー。でしょ?サイエンスコミュニーターから見てもそう思うよ、うん。」という、科学者の態度を批判する内容しか伝わってこないです。その上、科学者の態度が感じられない程度の考察しかできていないのに、科学者の態度についてのご高説が書かれている。ちょっと待て、その科学者の態度とやらで自分の態度・考察を振り返ってみ?と。
じゃぁ、内田さんの今後に、どういうことを期待したいか、ということですが...
「サイエンス」の「コミュニケーター」を標榜するならば、しばしば言われる、「科学者はコミュニケーションが苦手」であることをフォローするような解説をすべきではないでしょうか?(たとえば、上で述べたように、なぜノーベル賞受賞者がマスコミに注文を付けたのか、ということの解説。「あれは科学者が職務放棄した、ゴネだよ」というコメントは、科学者の気持ちやマスコミの取材事情を知らない、一般人と同程度の認識に留まっていて、考察が全くなされていないようにしか見えません。)
もしも科学者の態度を身につけているならば、賛否両論のどちらもを取り上げて議論し、それを補強するデータを示すべきではないでしょうか?(たとえば、Twitterやニコ動、ustのタグ付発言でのpositive/negativeコメントの、tweets数およびtweeter数の統計でも、いいんじゃないですか?それなら、個人に迷惑かかることなく実施できると思います。)
サイエンスコミュニーターはともかく、あくまで「物書き」だとしてもいいです。それでも、賛否両論とは、「賛否『両論』」を取り上げるからこその賛否両論なのですから、両論をきちんと取り上げましょう。そして、twitterに必要以上に頼らず、実際に本人や学内外の科学者に取材してみて、その声も聞いてみてはどうでしょう?たとえば、あのノーベル賞受賞者は、果たしてどういう意図でマスコミに注文を付けたのか、本人に取材しましたか?
こんなことを思いながら読んでいくと、最後に書いてあるんですよ。
「それはどうか?」とか「なるほど」とかのご意見をお持ちになる方がいらっしゃいましたら、ぜひ拙著『科学との正しい付き合い方』 を手にとって頂けたら、と思います。
全体を読んでの、ご感想、大歓迎です!
やられた!と思いましたね。
上で述べてきたように、本文では散々、情報リテラシーを持った読者や、科学者の心を持った読者が持っている「『疑ってかかる』のが科学的態度」という、ある種の正義・倫理観を煽っておく。しかも、そんな彼らが持っている「やっぱり原文を読んでからでないと、ちゃんとした批判はできないよね」という良心をも煽っておく。
そして最後に、「賛否両論、どっちでもいいから、何か思うことがあったら買ってね!」と落とす。
ライブを録音し始めて、数ヶ月経ったので、分かったノウハウをまとめておおきます。
(自分のブログに書くのはためらわれるので、増田に書いとく。)
# 最初iPhone で録音できないかとも思いましたが、内部マイクを使った場合は必ず音が割れます。
# ICレコーダー用の外部マイクも接続できないのでオススメしません。
それでは、場数を踏んで、録音レベル設定のコツを掴んでください。
くれぐれも、録音したデータの取り扱いにはご注意ください。
それを言い出したら、薬の副作用や食品添加物の危険性とか、偽科学や宗教の洗脳とか、そういうのも全部、親がフィルタできる為の知識を身につけろって事にならないか?
いやそうじゃないって言うなら、線引きはどうするつもり?
こういう、親がガ自衛しろって論は、どう考えても親のコストが膨大になり過ぎて現実的じゃないと思うですよ。
仮にITだけやれって言ったとしても、俺らはパソコン得意だけど、そうじゃない奴も世の中ゴマンといるわけで。
例えばゲームなどのある枠組みがあるとする。
そして、ある人に、ゲームとはいったい何か、一言でお願いしますといういかにもテレビ局が考えそうな陳腐な質問をしたとする。その質問にまじめに答えるかはともかく、その人が持っている”ザックリとした答え”が本質に近ければ近いほど、その人はゲームというものを理解しているという面はあると思う。
運を天に任せるから、 任天堂。
商売道具である花札の本質に対するザックリとした答えが社名となっている。おそらく。
確かに、時流に乗るのは大事だし、世の中の流れに沿うことは重要だと思うが、「ある枠組みに対して、ある回答が出せていない」会社(人間)にとっては、商売が味気ないものにならないか?と思う。
ひたすらトレンドを追って、流行りの商売をする。焼き畑農業的に「ウェブサービス」「iPhone」「ソーシャルアプリ」と流行りの畑を転々としていく。アイディアも一見面白そうに見える。しかし哲学がない(=ある枠組みに対して、ある回答が出せていない)から、そのアイディアには構造的な裏付けはない。
個人的には、そういったものに、中小企業のオヤジが本業とは全く関係ない不動産業に手を出すような、”儲かるから”という理由だけでやっているような愛情のかけらもない商売に近いものを感じる。それを完全に否定は出来ないし(金が余っているような時代はいろいろな試みが行われて良かった面もあった訳だし)、ゲーム業界というものは元々儲かるからやっていた人がほとんどだと言えばそうなんだろうが、業界的にもご時世的にも、そういう季節は過ぎていると大抵の人は考えているのではないか。
もっとも、表面を真似から始めるという考えもあるが、それはある一つのジャンルを深く知っていくための初期の段階の話である訳で。表面的な真似だけで次から次へとジャンルを移していく商売ってそれはなんだんだろう、というか。いや、ある一つのジャンルにこだわりすぎて、時流に乗れずに脱落していくという老兵のパターンもよろしくはないのだけれど、安定しているゲーム屋やウェブサービス屋は、自分の本業は何か、という疑問を思考停止せずに絶えずグツグツと煮込んでいるように見える。
他ジャンルに商売を広げるにしろ、自分(たち)の商売の原点の再確認作業が必要だと思うし、その確認作業があるからこそ、例えば、「自分(達の会社)は(例えばソーシャルアプリを通じて)こういった価値を客に対して提供できる」みたいなことが言えるのではないか。もっとも、商売の原点が無いから、考えもなしに次々と焼き畑農業をしているだけかも知れないし、焼き畑農業自体が原点なのかも知れないが。
そう考えると、結局、「我々は何者(~屋)かにならなければならない」。何者にもならずに自由にいたい、面白いことだけしていたい、でも世の中に承認して欲しいというのは酷く矛盾を抱えている気がする。一発屋でも良いので、何かで実績を上げないと、承認というのはついてこない。承認されてはじめて、自分の仕事の原点になるからだ。
要するに、何が言いたかったかというと、今年のGDCというか、欧米ゲーム業界というフィルタを通してみると、「時流に乗れ!」的かけ声ばかりが目立つよな、というか、そのかけ声をかける商売も主導権を握って食っていかねばならんから大変だよなとかそういうことを思うし、「(時流に乗って)どう食っていくか」自体がテーマになっているようでなんか味気ない感じがしたし、割と切実な問題性を感じた。全く世知辛い世の中だ。
私:体重も頭も軽い二十歳。
Aさん:私と同じサークルのOB。人望が厚くて頭がめちゃくちゃいい。
※Aさんは女性関係などで弱りきっていた。
私とAさんを含む十数人とサークルの飲み会をした。恋人は都合が付かず来なかった。
恋人とはうまくいっているが漠然とした不安があったので、日ごろから(後輩として)よくしていただいているAさんと、あてつけ的な意味で手を繋いだりした。
深く考えてはいなかった。お互いに割り切った、一晩だけの間違った幸せを手に入れよう、ただそれだけ。
日ごろから割をくってるAさんのせめてもの手向けにもなると思うし、私としても、このまま一人の男しか知らずに結婚して老けていくのはつまらない。
Aさんの虚無感と、私の好奇心、それらを満たす最高の手段だと思っていた。
――思っていたが、予想以上にAさんは私のことが好きだった。
弱くて現状維持に必死で相手ばかりを優先するAさんが、全て捨ててでも私がほしいと言った。
私は恋人と離れるつもりはなかったが、Aさんにそう言われ続けてぐらついてきた。
注釈しておくと、恋人は最高の男だ。
そんじょそこらの男に言い寄られたくらいで手放せるような男じゃない。その前にまずそんじょそこらの男じゃ恋人には勝てない。
ただ、Aさんは、恋人に匹敵する最初で最後の男だ。中身も外見も格好悪くて情けないAさん。傾いている気持ちは半分は同情だけれど、半分は本気だ。
恋人はいつもカッコツケで、本音を言わず、私に行間を読めと強要する。恋人がバカで子供だから、私は物分りのいい女を演じて全て許してきたけれど、Aさんが私を貰ってくれるという余裕が生まれたいま、バカで甲斐性のない男をあえて選ぶ必要はなくなった。
で、国際法に則り、24時間前にメールで「喧嘩しようぜ!(原文まま)」と宣戦布告し、話し合った。
恋人はバカだし私は優しいから、メールにヒントをたくさん(答えもぽろぽろと)書いたのだけれど、予想外にバカでよくわかってなかった。
私は「脅しでもなんでもなく話し合い如何では別れるつもりである」と前置きした上で、不満や不安をすべて吐き出した。
Aさんに告白されたことはいの一番に伝えた(浮気の件は伏せた。醜い保身のため)。
「物分りのいい女」をいままで演じてきたこと、別れるのが怖くて演じていたことへの謝罪、そしてもう演じるのは疲れた、ということを話した。
恋人の職業の特殊性や、その特殊性のせいで私の人生がめちゃくちゃになるわけだがそれが幸せだと思うか? とか、前に私の過失でちょっといさかいが起きたとき私は思っていたことを全て伝えたがあなたはだんまりなのね、とか。
その他、ひとつひとつの言葉の意味も懇切丁寧に説明したら、やっとわかってくれた。
でも最後まで悪あがきしてカッコツケのままでいようとしたから、むかついたため途中から喧嘩にかこつけて心を抉る言葉をサブリミナル的に挟んだ。ら、やっと本音を見せてくれた。
いい年の男がこんな風に泣く姿なんて初めて見た。情けなくて格好悪い男だなと改めて思った。惚れ直してはいない。胸のわだかまりが取れてほっとしたわ、とだけ思った。
とりあえず「まだ迷っているのは事実。次にこういうことがあったら私は迷わずAさんになびくからね」という真実だけは伝えておいた。
バカなりに私が本気で言っているとわかったらしく、弱りきった犬より情けない顔になった。
Aさんも恋人に宣戦布告をしたようだ。私にも「全力で落とす」という旨のメールがきた。
私はどちらと一緒になっても自分で勝手に幸せになるから、対岸の火事として見守っています。みんながんばれ。超がんばれ。
みなさんは「この増田はどんだけ美人で素晴らしい女性なんだよ」と思うかもしれないが、文章からわかるとおり頭の弱い底の浅い女です。でも男たちはそれぞれ最高だから、叩くなら私だけにしてね。あー……でも「底の浅い女だよ」とそれぞれに言ったがどちらも「でっていう」って感じに頷いていたからどっちもダメ男かもしれない。
ちなみにAさんは最後までホテルに行くのをためらっていた。私が押し倒した。だってほかの男と寝てみたかったんだもん。
恋は盲目というが、本当にそうだと思う。
私の盲目フィルタは「不安」だった。不安から目をそらして都合のいいところだけ選んで無理やり納得してた。
喧嘩の終わったいま、盲目フィルタがはずれ、恋人を一人の人間として見るようになった。そうしたらそれほどいい男でもなかった。
一般に、学生には時間が有り余っていますが、お金は足りていません。逆に、社会人はお金は持っていますが、時間が足りません。
学生にとっては、時間をふんだんに活かした戦略をとるのが有効で、対して社会人にとっては、経済力を活かした戦略をとるのが得策です。
また、「お金を持った学生」と「時間を持った社会人」の立場は、圧倒的に競争優位性を持ちます。
逆に、学生であれ、社会人であれ、「お金も時間もない(貧乏暇なし)」という事態は、何としてでも避けるべきです。これでは身動き一つとれません。
思うに、学生時代は、"ライバルとしての社会人"ということがあまり見えません。社会人になると、今度は学生のことが見えなくなります。
しかし、時代の突端をめぐる争いでは、学生も社会人も入り乱れることになります。
そのとき、自分の立ち位置の優位性と弱点を、把握しているかどうかは死活問題です。
もしあなたが学生ならば、時間をふんだんに投下して、社会人に立ち向かうべきです。
対して社会人であれば、経済力で学生を引き離しにかかるべきでしょう。
以上は、何も学生と社会人に限った話ではありません。自分の得意な土俵に引きずり込んで闘うのは、戦略の常套句といえるものでしょう
そのためには、常に自分の強みを意識しておくことが不可欠です。
もう1つの提言は
不断の問いとも言えるのですが、経済力がどれくらい大切かということは、なかなかに難しい問題です。
一般的に言って、手持ちのお金が少なくなればなるほど、お金のことがことが頭から離れなくなっていきます。
人間は弱いもので、本音で「お金は大した問題ではない」とか「お金よりも時間の方が大切だ」と言い切るためには、一定程度の収入が必要です。
お金はあって困るものではありませんが、なければ確実に困るものです。
ネットカフェに寝泊まりして、日雇い派遣の仕事をしている人たちにとっては、「お金がすべて」である可能性が高い。
彼らの心が豊かで、教養や芸術的感性に溢れているとは、考えにくいものがあります。
では、現代日本である程度まっとうな生活を営むためには、いったいどれくらいのお金が必要と言えるでしょうか。
独身男性が東京でひとりで暮らす場合、手取りで月に15万円(額面で20万円程度)くらいは必要です。
これくらいあれば、心がけ次第で、あまりお金のことを心配せずに、日々の生活を送ることができるでしょう。
月収が15万円あれば、"選択と集中"でデジタル機器や情報通信網をそれなりに充実されることも可能です。
手取りで月15万円を下回ると、"貧すれば鈍する"の言葉通り、どんどん気持ちが委縮していってしまいます。加速度的に"将来への不安"が膨らんでいきます。
手段は問わないので、毎月15万円以上の定収入は、確保しておくことです(学生であれ、社会人であれ、年金生活者であれ)。
「生活保護の支給額はもっと下だ」とか「節約すれば月に10万円の収入でも十分にやっているける」などの異論はあるかもしれませんが、それは別件です。
僕たちは、この人生において、何かを成し遂げるべく生きているのであって、「単に生存していればいい」という人たちに構っている暇はないのです。
生活保護対象者が、PCを何台も所有していたり、ipodやICレコーダーなどのガジェットを駆使した生活を送ることは、
おそらく許されない(金銭的にも倫理的にも)でしょう。
やはり、それでは困るのです。
この自由経済の世の中にあっては、一定以上の経済力があることは、前提条件です。
三流大学出身者が就職活動に際して"学歴フィルタ"にかかって、排除されるのと同じように、月収15万円(年収180万円)以下では、
学歴の話だと賛否両論があり、自分のブログに書く勇気が無いので増田に書く。
ココで言う大卒は「いわゆる名前が聞いた事がある大学」という意味で捕らえて欲しい。名前が聞いた事がない大学では、それほど就職に有利であるとは思えないので。
あと金銭的に大学に行けなかった人はいると思う。そういう人は除外。それと、いわゆるサラリーマンを選択するつもりが無い人も除外です。あらかじめご了承を。
・世間的に大卒が就職に有利であるのは周知の事実であるのに、高卒者は大卒を選ばなかったという事実
奨学金や学費免除があるので、大学を選ばない学生は多くは金銭的理由よりも学力的な問題が有って、大学を選んでいないと思っています。高校受験を経て大学で勉強をすると言う事は、様々な視野や考え方、視点を学ぶ事だと思っています。そういう力はサラリーマンになると非常に役立ちます。
逆に言うと高校・大学で真摯に勉強をしてない人は、そういう経験を経てない訳ですからやっぱり大卒者に劣ると言えます。もちろん、変な経験を持って無い分、頭が柔らかいというのはあると思うんだけども、その分、企業は高卒者に教育をしなくてはいけなくなります。このコストは結構大きいと考えます。
「大卒者が就職に有利」というのは世間では広く知られていると思う。きちんと就職したいなら、大学に行くべき。もちろん就職するつもりは無くても大学に行くべき。途中で就職したくなるかも知れないから。
理由はともかく、今の日本社会はそういう土壌なんだ、と把握出来ない時点で、やはり能力的に劣っていると思う。
色んな人と一緒に仕事をしてきた経験や、採用なんかを担当していて思うけれども、やっぱり仕事の処理能力と学力には一定の相関がある。もちろん例外もあるけれども、10%くらい誤差に過ぎないと思う。体感的に。そう考えるとはやり学歴を軸に採用した方が安心という側面はぬぐえない。フィルターとして効果的な訳だ。
と言う感じ。他にも色々とある気がするけれども、取り留めもなくなるのでこの辺りで。
元増田です。
全自動なわけがないだろ。大嘘。実際は、逮捕+身柄送検に匹敵する「犯罪かそうでないか」の分水嶺。
というブコメがついているのを見て、なぜここまで強固に思い込んでしまっているのか怪訝に思っていたんですが、コメント主kentultra1氏のブログを見て納得。
http://d.hatena.ne.jp/kentultra1/20090307
こういうエントリを書いてたんですね。
この「瀬戸大橋光ケーブル切断」の書き込み程度で「警察沙汰」になること自体不当だ!という考えから、捜査・(書類)送検が一連の「不利益処分」のようなものだと思い込んだまま、あるいはこの件をきっかけにそう思い込んでしまい、それを前提に警察署に電話をかけるに至ったということかな。
そして、電話を終えて、「書類送検(という不利益処分を)したことについて納得のいく説明がない!児島署の連中は何もわかってない!」という思いを強めてしまったように見えます。
でも、警察官の「お兄さん」と「おじさん」とのやりとりを読むと、たしかに「捜査を始めちゃった以上、書類送検をしないで済ますということはできないんだよ」的な説明はされていないようですが、それを確認するための質問もkentultra1氏からはないし、警察側が誤解を助長する積極的な説明をしているわけでもない。
よく解らないまま、人を送検して良いのかというのは大きな問題ではある。
という問題意識をせっかくもっていたのであれば、警察に電話した際に、それを正面から尋ねていれば、この今年3月の時点でkentultra1氏の誤解は解けていたかもしれない。惜しい。(警察が「こういう手続だ」と噛み砕いて説明してくれたら、の話だけれども)
「こんな増田のゴミ記事なんて参考になるか!ソース出せソース!」ということであれば、もう一度児島署に問い合わせてみるなり、何でもいいのでリアルのソースに当たってみるといいと思う。
批判する対象については、ちゃんと調べてからに越したことはないよ。
「ネットの実情を知らずにこんなくだらんことを大事にしやがって!」というような批判をするなら、なおさら。
で、その後この件がどうなったのかググってみましたが、不起訴になったのかどうか、続報が見当たりませんでした。事案からすれば、まず間違いなく不起訴になるべき事案だとは思いますが。
もう一つ、やや誤解かなと思うブコメもあったので一緒に。
unknownmelodies 確かに逮捕と同一ではないけど。「起訴するかどうかは、全部、検察で判断する」から、後で逮捕もありうるはず
たしかに、書類送検した後で、改めて逮捕となる可能性はゼロではないです。少なくとも制度上禁止はされていない。
でも、捜査の流れからすると、あまり、というかまずありえない事態。
警察>検察>裁判所、という順でフィルターがかかる。つまり、警察が一番「こいつ処罰したれ」という網を広くかけていて、それに検察がダメ出しをするという構図なわけです。基本的・相対的にですが。
なので、警察で「身柄事件にする必要はない」という前提で、自分のところで捜査を終えて検察に送った(書類送検した)後、検察のほうで、「これは逮捕しなきゃダメだろ」という判断に至る場合は、通常はまずありえないといえます。
ありうるとすれば、書類送検後に余罪が発覚したような場合に限られるでしょうね。
いずれにしても、「書類送検という手続それ自体が何か不利益な効果を生むものなので、警察は可能であればそのような措置をとるべきでない」という考えがまったくの誤解である、という元エントリの趣旨との関連は小さい論点です。
【追記20091128】
早速ご本人からブコメいただいたので返答を
そんな役人理屈で、不当に送検された者の不利益はどう回復されるのか。
「役人理屈」と言われても、「立件して捜査を開始したら送検まではオートマチック」である以上、「ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします」としか警察は言えないんじゃないかと。
結果的に不起訴になろうとも、犯罪の嫌疑を受けて「警察沙汰」にされること自体、被疑者扱いされる人にとっては手間と精神的苦痛を伴うものではあるけれども、それを否定したら、じゃあ世の中の治安はどうやって守るねん、という話に。
結局、kentultra1さんの不満というのは、「書類送検」段階に向けても意味がないんですよ。批判を向けるべきは、「立件」(捜査を開始)した段階。いくら通報厨からの電話やメールを受けても、該当スレの流れを見たら、「あー、こんなの本気じゃないに決まってるだろ」と見抜けよ、と。そういう意見には私も反対ではない。
警察にフィルタ機能がないならポリにお世話になった酔っぱらいは全員送検されているのか?
「酔っ払った」だけで何か犯罪に該当するわけでは、ない。だから、警察・検察が「犯罪があると思料」することはありえない。「捜査」がそもそも開始されない。
酔っ払いは、「保護」の対象になるだけ。
警職法第3条と、「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」第3条をそれぞれご参照。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO136.html
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S36/S36HO103.html
「トラ箱」の根拠法がこれらね。
だから、「ポリにお世話になった酔っぱらいは全員送検されて」いない。
酔っ払って、暴行、傷害、器物損壊、公務執行妨害なんかを働けば、逮捕されて「留置場」に入れられる。
でも、逮捕はされても、常に「身柄送検」になるとは限らない。酔っ払っての悪さで、酔いが覚めたら反省して、身柄引受人もすぐ来てくれるような人なら、在宅事件に切り替えて、勾留請求はしないで釈放。
でも、そういう場合であっても、「書類送検」だけはきっちりされます。検察庁から呼び出しがかかって、「任意の取調べ」を一度受けます。で、悪質じゃなければ不起訴。ちょっと悪質だと、略式起訴(罰金納めておしまい)。
吐き出しついでに日時ログを残す目的で増田に。(hatenaだと日付編集できちゃうもんね)
今週の飛び石連休でえらい目にあった。
以前、知り合いの妹が合宿希望でうちにおしかけてきたと増田に書いた。
いろいろあって知り合いとは相容れないと疎遠になり、
妹にも次来たら即警察通報とはっきり伝え、最寄りの交番にもご挨拶。
巻き込んでしまった各宅配便の担当の方にも状況を伝えて、どうやらこれで一段落。
かと思ったら。
妹また来やがった。こんどは3人で来たよ!
斜め上ってほんとだね。これでみんな成人だなんて終わってるよ。
玄関前で揉めまくってご近所にも迷惑かけて、パトカー3台くる始末。
終電終わってタクシーで帰ってきたというのに、そこからバタバタしたので、寝たのはすでに早朝。
厳重注意と署に1泊はお願いしておいた。それが甘かった。次の日にまた来た。
しかも増えた。5人。どこから集めてきたんだよ。
悪質だということで警察でいろいろやってもらった。
知り合いからメールと電話で連絡があって、取り下げろだのなんとかしてくれだの言ってきたが、知るもんか。
そしたら別の友達から連絡があって、話を聞いたら、私のほうが悪者にされていた。
いろんな人から「本当は何があったの?」とわくわくされたので、
いまごろはこちらの言い分もソースつきで広まっていると思われる。
フィルタで分別して、とりあえず件数だけチェックしている。
ヘイトスピーチは規制されるべきだが児ポは「被害者」が脳内フィルタで対処しろとか。
そこが人間らしくていいのだが。
北守みたいに、自分の闇には目を向けず教条的に敵を叩けるようになれれば
有村ももっと楽になれるのにな。
これは特定の性質を持つ相手とはその人物が安全な人間だと言う確証をもてない限り、主体的に関わるつもりはないという話だろう。
自らの安心を守るために、自分の定めたフィルタにかかる人間とは、お前さんの言うところの”コミュニケーション”をとる余地はなくなってるんだよ。
でもって割と多くの人間にとって非コミュはそんな中でもフィルタに設定される率が高い性質というだけ。
こういったフィルタリングは日常生活でも仕事でも当たり前のようにされている。
滅多に表に出さないというだけ。
ブコメには公言するのなら叩くとか、ヘイトスピーチを撒き散らすなと気炎を上げているらしいものもあるが、
想定していた聞きたくない人の本音を改めて突きつけられてムカついたと正直に言う方がまだマシだな。
この一連で言われている”方向性”を持つ非コミュは対人スキルに欠陥がある連中を指している。
そもそもこの連中が突撃型の一方的断絶コミュニケーションしかできない奴が大多数だ。
人にされたら嫌なことを自分が一番やっているという意識がなく、そのくせ自分がその対象になったら一番大声で騒ぐ。
見れば分かるが、差別なんて単語まで持ち出してるのまでいるだろう?
無論目立つからそういう連中が同一の特性をもつグループ全体の標準として捉えられるわけで、自分で自分の首を絞めているにすぎんよ。
これはツリーの中でも既に同様のことが指摘されている。
http://anond.hatelabo.jp/20091006210805
ツッコミをモヒモヒして待ってたのに、はてブばかりが伸びてる割にトラバツリーがイマイチ伸びてないように見えるので、増田からも。
基本的に「コンデジ」と「デジイチ」を「使い方」という面から差別化するなら、前者はレンズがカメラに据え付きであり、後者はレンズを替えられる、というのが最大の違いとなる。因みにこの分け方の場合、「一眼レフ」ではないオリのE-P1だのパナのGH1だのは、後者。こいつらは「レフ」と表現されるミラーを持たないからデジイチにしては薄くて軽いが(ミラーってカメラの中で斜めに寝た状態にあるから、場所喰うんよ)、ファインダが光学じゃないから、気をつけろ。ファインダが光学である利点は、↓とかを参照。無論、ファインダがデジタルであることのメリットもまたある。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/480
は置いといて、コンデジの場合、レンズが据え付きだから、後で替えが利かない。「画質がいいですよ~」とか店で言われたのをそのまま受け取ってGR3とか買っちゃうと、運動会でガキが豆粒にしか写らなくなるので注意だ。一方、やたらズーム率の高いデジカメ買っても、所詮今の高画素なカメラであればトリミングさえしてしまえば十分だったりするので、用途によってはオーバースペックになることもある。ただ、コンデジの場合多数派は後者で、要するに「誰でも何でも撮る」ことを優先していて、ズーム率も高いしシーンモードも色々ある、ことが多い。
自分も、コンデジを買うなら「汎用性」を重視すべきだと思う。ほぼフルオートで、ズームで構図とる以外はほぼカメラ任せでも、とにかく常時携帯して何か見つけたら撮るくらいの気持ちで付き合えば、かなりお気に入りの存在となるはずだ。その場合、広角端を意識して買うべし。さっきも書いたが、ズームはある程度まではトリミングで誤魔化せるからな。
逆にデジイチはレンズが交換できるのが、逆に、あれ撮りたいこれ撮りたいとかなってレンズを無限に買い出すと、レンズ1本でコンデジ2~3台レベルなんてのは普通にいくらでもあるので、財布に気をつけろ。概ね、こうしたレンズ選びは「何を撮るか」の目的に合わせたものになると思う。被写体がはっきりしている場合には、向いているだろう。最初にキットレンズからはじめて、撮る目的が色々見えてきたら、というのはレンズを選ぶ感じか。
室内とか曇天とか、ちょっとした悪条件でカメラのシャッタースピードはすぐ落ちるので、特にコンデジや携帯だと家で子供とかぬこを撮る場合に大いに苦労する経験をされた方は多いだろう。
シャッタースピードは、当然のことながらカメラが受け取る光の量に比例する。逆に言えば、同じ明るさでもカメラで受け取れる光の量を増やせばシャッタースピード稼げるわけで、受け取る量は「レンズの口径を広げる」か「素子を大きくする」ことで実現し、このいずれについてもデジイチはコンデジを大きく凌駕する。ただ、素子の大きさに制約のあるコンデジにおいても、素子の形状や光の受け取り方を工夫することでこの制約を突破する試みは存在し、全社の代表格として富士のEXRシリーズ、後者の代表としてソニーのExmor-R採用コンデジがある。
無論、それでもデジイチとの性能差は大きいのだが、どうせ室内で子供とかバシャバシャ撮っても、A4にすら引き伸ばさず、せいぜいL版でアルバムに収めるくらいなんだったら、コンデジのこの辺りの性能が高いヤツでシャッタースピード稼げば、十分歩留まりのよい撮影になるだろう。それでも「画質がいい方がいい!」だったら、基本デジイチのレンズキットでそんな明るいのは無いので(例外:パナソニックのGF1→キットレンズが20mm/F1.7)、レンズを別途見積もるのを忘れるべからず。
少なくとも今現在の話として、コンデジは、現下の不況と画素数競争の終焉、携帯撮影文化の定着という逆風の中で絶賛苦戦中である。そうした中で、(特にソフトウェア的な)技術だけは着実に進化を遂げる中で、進化の袋小路的な変態機能が各社から繰り出されている。カシオの超高速連写、ニコンのプロジェクタ内蔵、富士の3Dコンデジなど、言わば「ガジェット的」方向性が見出されるコンデジは多い。こうした機能に「釣られてみる」のも悪くは無いだろう。
一方、デジイチというか伝統的なカメラにおいては、伝統的な遊びとして、テレコンやワイコン、マクロレンズ、フィルタ(クロススクリーンでキラキラな夜景とか、NDフィルタで滝の流れを撮るとか)などによる様々な表現手法が存在する。こうした機材による撮影表現遊びは、ハマると愉しいだろうと思われ。
色々と違いを述べたが、最大の違いはここかも知れない。
コンデジはともかく、結構オート化している。高級なものはある程度マニュアル機能も充実しているが、そういうのはむしろ、デジイチを持ってる人が軽さや機動性を求めて購入するものだろう。
確かに、シーンの操作やズームなど、撮影者の意図は入力されるものだが、大きな方向性としてはプログラムシフトだの絞り優先だのシャッター優先だのよりは、カメラが「勝手に決めた」設定で撮影が行われ、カメラが「勝手に」補正し、時にはカメラが勝手に顔色まで認識してくれた上で、絵として記録される。AFやファインダの敏捷性も高くないので、タイミング的な意味でもある程度カメラに「引っ張られる」部分はあるだろう。というと何かコンデジ駄目じゃん的な印象はあるが、実際「カメラが決めてくれる」気持ちよさ、みたいなのは、確実にある。暗所などの弱点はあるが、記録としての歩留まりは確実に今のコンデジは確保してくれるだろう。
で、デジイチの方はというと、これも一部にはオート機能がオプション的に充実してたりはするものの、総じてはある程度以上「撮影者の意図」を反映する機材である。観光地とかで「シャッター押してください~」と声を掛けてデジイチを渡す人は、普通はいない。
絞りをコントロールしてボケを付けたり付けなかったりとか、わざとシャッター速度を最適からはずして流し撮りとかをしてみたりとか、ピントを被写体の目に合わせてみたりとか、色のバランスを変えてみるとか。こういう機能は、ある程度コンデジにもあることはあるが、制約が付いてるケースが大半である。言わば、コンデジが「メニューから選ぶ」もので、デジイチが「自分で組み合げる」もの。ただ、センスがなければ、機材がいくら良くてもヘボいものしか出来ないという意味で、間違いなく敷居は高く、挫折したら投資が無駄になるリスクもあろう。
そうは言っても、素子とレンズの質の高さでしか実現できない絵はあるので、金と目的があるなら、デジイチに挑んでみるのも良いかな、とは思われ。
Sleipnirでこえ部見たことある人ならわかると思うけれど、1回目はちゃんと再生できるのにもう1度アクセスすると再生できないという怪現象が発生する。
これに対してこえ部(ってかカヤック)は現在「IEかFireFoxで見てちょ☆」という解決策を提示してくる。
が、こえ部見るためだけに別ブラウザを起動するとかできればやりたくない。やりたくないのである。
とりあえず、頑張って調べてここまではたどりついた。
・IEコンポーネントが、キャッシュにあるSWFを再読み込みしないのが原因(つまりkikiでもルナスケでも同じ問題が発生する。純正IEならOK)
・Temporary Internet Files(キャッシュ)のSidebar.swfを削除した後でページリロードすれば聞ける(そらそうだ)
・Proxomitronでなんとかできるんじゃね
ソースはとりあえずここだけで事足りるか。他にもあったけど(kiki関係の掲示板とか)↓
新スレ立てるほどでもない雑談・一言スレ - Fenrir User Community
http://community.tabbrowser.jp/forum/viewtopic.php?p=13561
ということでProxomitronを入れて色々試してみたものの、やり方がわからない。うーん。
キャッシュ無効とかはFLASHには効果がない?スレではswfファイル名に現在時刻付け足せばいいんじゃねみたいに書かれてたけど、その方法もわかんない。
似たような機能のフィルタを改造すればいけるんじゃないかなーと思ったけど見つからない。
もうそろそろ諦めたほうがいいのだろうか(時間的に)。でも諦めたくないなあ。