2010-03-12

自分は何屋であるのか

まず、今年のGDCに対する違和感がある。

例えばゲームなどのある枠組みがあるとする。

そして、ある人に、ゲームとはいったい何か、一言でお願いしますといういかにもテレビ局が考えそうな陳腐な質問をしたとする。その質問にまじめに答えるかはともかく、その人が持っている”ザックリとした答え”が本質に近ければ近いほど、その人はゲームというものを理解しているという面はあると思う。

任天堂本業は、花札屋だった。

運を天に任せるから、 任天堂

商売道具である花札本質に対するザックリとした答えが社名となっている。おそらく。

確かに、時流に乗るのは大事だし、世の中の流れに沿うことは重要だと思うが、「ある枠組みに対して、ある回答が出せていない」会社人間)にとっては、商売が味気ないものにならないか?と思う。

ひたすらトレンドを追って、流行りの商売をする。焼き畑農業的に「ウェブサービス」「iPhone」「ソーシャルアプリ」と流行りの畑を転々としていく。アイディアも一見面白そうに見える。しかし哲学がない(=ある枠組みに対して、ある回答が出せていない)から、そのアイディアには構造的な裏付けはない。

個人的には、そういったものに、中小企業オヤジ本業とは全く関係ない不動産業に手を出すような、”儲かるから”という理由だけでやっているような愛情のかけらもない商売に近いものを感じる。それを完全に否定は出来ないし(金が余っているような時代はいろいろな試みが行われて良かった面もあった訳だし)、ゲーム業界というものは元々儲かるからやっていた人がほとんどだと言えばそうなんだろうが、業界的にもご時世的にも、そういう季節は過ぎていると大抵の人は考えているのではないか。

もっとも、表面を真似から始めるという考えもあるが、それはある一つのジャンルを深く知っていくための初期の段階の話である訳で。表面的な真似だけで次から次へとジャンルを移していく商売ってそれはなんだんだろう、というか。いや、ある一つのジャンルにこだわりすぎて、時流に乗れずに脱落していくという老兵のパターンもよろしくはないのだけれど、安定しているゲーム屋やウェブサービス屋は、自分本業は何か、という疑問を思考停止せずに絶えずグツグツと煮込んでいるように見える。

ジャンルに商売を広げるにしろ、自分(たち)の商売の原点の再確認作業が必要だと思うし、その確認作業があるからこそ、例えば、「自分(達の会社)は(例えばソーシャルアプリを通じて)こういった価値を客に対して提供できる」みたいなことが言えるのではないか。もっとも、商売の原点が無いから、考えもなしに次々と焼き畑農業をしているだけかも知れないし、焼き畑農業自体が原点なのかも知れないが。

そう考えると、結局、「我々は何者(~屋)かにならなければならない」。何者にもならずに自由にいたい、面白いことだけしていたい、でも世の中に承認して欲しいというのは酷く矛盾を抱えている気がする。一発屋でも良いので、何かで実績を上げないと、承認というのはついてこない。承認されてはじめて、自分仕事の原点になるからだ。

要するに、何が言いたかったかというと、今年のGDCというか、欧米ゲーム業界というフィルタを通してみると、「時流に乗れ!」的かけ声ばかりが目立つよな、というか、そのかけ声をかける商売も主導権を握って食っていかねばならんから大変だよなとかそういうことを思うし、「(時流に乗って)どう食っていくか」自体がテーマになっているようでなんか味気ない感じがしたし、割と切実な問題性を感じた。全く世知辛い世の中だ。

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