はてなキーワード: 素粒子とは
超能力はパーソナルリアリティ(自分だけの現実)によるものとされている。FATEでいえば固有結界。主観による客観への浸食が本質。
対して魔術は、あくまでの法則に従う技術、スキル、世界の内側での話で、ルールの行使、儀礼による操作が本質。
こういう対比において、学園都市のレベルファイブの上位が、世界律そのものにかかわる能力なのは偶然ではない。
メタというか現実で対応するものといえば、超能力はここでは創造性を意味する。世界に新しいものを持ち込む、主観による客観への浸食。
これに対して、魔術は、もっと技術的で、狭い意味で知的な能力だ。すでにあるルールを、別の形で転用し、利用する。それがマジック。
わりと美琴ってアニメの印象では弱いと思われていたと思うんだけれど、今回で片鱗が見えたとおり、
彼女より強いのは、負けないことそのものが能力であるような(反射とはそういうことだろう)一位と、世界の法則そのものに干渉する第二位だけ。
だいたい、電子というのは素粒子なので、それを自由にできるというのは、かなり世界の根底の構造に干渉できるということでもあり、
普通に考えても、応用の汎用性は高い。また、象徴的にも、元素の化身ということは、神話的な雷神のイメージでもある。
ところで、固有結界ということでいえば、とあるの超能力は、それぞれ「根源」とでもいうべき、願いの形のようなキーワードというか、
そういう意志が、能力発動のもとにある。それがたとえば、アクセラレータでは誰にも負けないこと、であったりした。
美琴が電撃使いであることの根源には何があるのか、というのも、考えてみると面白いかもしれない。
未就職博士 (OD) の問題がついに新聞紙上に姿をあらわした。昨年秋の札幌の学会で、当地の若い人達がOD問題のビラを配っていたが、内容は”われわれをどうしてくれるのだ”ということであった。筆者の大学では、1967年物理系の学科ができたが、教官定員はアッという間に優秀な人達で埋められてしまい、もう空き定員はない。その後いろいろな方面から就職の照会があるが、ない袖は振れず、如何ともし難い。このようにして、われわれも事の重大さを数年来感じてきたが、何等の有効な対策も講ぜられぬまま今日に至ったのであろう。素粒子関係では未就職者の数は600名とか1000名とか聞く。この人達は本職ならざるアルバイトをしたり、周囲の庇護のもとに生活しているのであろう。現在のわが国は数千名のODを養う経済的余裕があるのかも知れない。しかし、たいていの人はODとなって何年か後には”おれをどうしてくれるのだ”という不満をもつにちがいない。いや既に各所でこの問題が表面化しておればこそ、新聞種にもなるのだ。
筆者の近所にはいわゆる教育ママがたくさんいて、小学校のうちから一流大学を目指して子供をしごく。愚妻もその1人であって、大学の非常勤講師手当を上回る額を月々進学塾に貢いでいる。このまま大学までずっと勉強を続けるのが母親の念願なのであろう。大学で勉学をするのは当然なことだが、最も熱心に勉学を続けた人のなれの果てがODではないか。筆者は時々愚妻に”子供をルンペンに仕立て上げるつもりか”と言う。しかし、大学入学以後のことまでは考えが及ばないようで、あまり効果がない。
たしかに物理学は若者の心を魅了するものをもっている。筆者の教壇からの経験をいうと、1年のクラスでは話が熱力学第2法則とか相対論のくだりになると、日頃ゴソゴソ私語を交わしている学生でもフト熱っぽい眼をする瞬間がある。”私は物理学にだけは強い幻想をもっている”と言ったある全共闘の学生を忘れることができない。”1次元振動子の理論はよくできすぎている”と溜息をついた学生もいた。同じ意味で、群論の量子力学への応用とか、Dirac方程式などには何者にも替え難いBeautyがある。ところで本講座『現代物理学の基礎』の各巻を執筆される方々は、物理学をいかに美しく展開するかに薀蓄を傾けておられるであろう。そして多くの学生を魅了することであろうが、彼等に対してわれわれは責任を感ずべきではないだろうか。少なくとも彼等が物理学への興味を失うことなく、正常な姿で生活できるようにと願うのは自然の感情であろう。筆者は博士課程、とくに理論方面に進む希望の学生に対しては、ODの現実を説き、物理学の汚い半面を強調して、その夢を醒ますことをまず試みる。それにもかかわらず、素粒子とか生物物理を志す学生はあとを絶たないのである。
しかし、思ってもみるがよい。なぜOD問題が生じたのか。講座増を希望したのはわれわれである。教官定員が増え、万年助手が昇格し、研究室が活気を帯びたのも束の間、学生は年々入ってくる。これらの学生は産業界には出てゆかない。そこで再び教官定員増を要求する。しかし政府はある学生数に対して教官を配置するという方針を墨守しているから、この悪循環は急速に発散して今日の事態となったのではないか。すなわち、非は数年先のことを考えずに(または考えていながら)教官の定員増を要求した大学側にある。
一昔前の話になるが、筆者が米国の某大学で、物理学科の学生1人1人に、学位を取ったらどこへ行くかを問うたところ、1人の例外もなく、"Industry" と答えたのに驚かされたことがある。学位を得て産業界に入れば指導的地位を約束されるそれに対して日本の産業界は、修士を受け容れる体制はできたが、博士となると”固まりすぎて融通性がない”という理由で敬遠する。わが国の産業界はまだ博士を必要とするほど発達していないというのは一面のいいわけで、これも大学側に責任があると思う。米国の大学では博士たるものは1つのテーマについて研究を仕上げると共に、年に何回か行われる試験によって物理学全般の知識についてチェックされる。また学部下級生の講義や実験指導をする "Teaching Assistantship" の制度もひろくゆきわたっていて、これがどのくらい彼等の学問と社会性を育てるのに役立っているかわからない。一方、日本の博士課程では3年なり4年なりの間自分の専門に閉じこもり、社会とは隔絶して研究をしていればよい。このようにして彼等は”固まって”しまい、物理学の極めて狭い分野の専門家となるのである。われわれの世代も実はこのような道をたどったので、あるいは、物理学者が社会に眼を奪われるのはもっての外、就職に頭を悩ますなど言語道断と言われる方もあるかもしれない。現に某大学で学生の就職に無関心であると非難された教授が、多分売り言葉に買い言葉であろうが、君達が大学院に入ったのは学問をするためか、就職をするためかと開きなおったそうである。たしかに就職など世俗のことにわずらわされることなく学問ができたらそれにこしたことはない。そこで筆者はこのような理想的な環境として、またOD問題の解決策として次のことを提案する。
それは宗教的教団に似たInstituteを作ることである。名づけて日本素粒子教団、生物物理教団等。この教団に属する人は、世間から僅かな喜捨を仰ぎ、粗衣粗食に甘んじ、妻帯の望みも絶ってひたすら学究生活をする。たまたま在家のわれわれも修業をしたければ年期を限り、なにがしかの費用を払って入団できる。このような教団は古代にもあったようだし、僧侶階級をみてもわかるように、比較的永続きし、しかもすばらしい業績を挙げうるものである。もしかするとOD問題は古代からあったのではあるまいか。
しかしODの中には一応の社会的なセンスをもち、このような教団に属するよりは、世間の人と混ざって生活し、積極的に世のため人のために尽したいと思っておられる人もいるにちがいない。その方々に筆者の日頃思っていることを述べて同憂の士をつのる。われわれは実は手がなくて困っている。現に筆者は、1年・3年・4年・大学院と週10時間の講義を持っているが、年々新たな講義をしようとすると並大抵のことではない。しかも、どの大学でもそうだが、1年生は大教室で講義を受けさせ、入学当初から大きな幻滅を与えている。この1年生への講義ほど、物理学者にとって大切なものはない。つまり受講生の大多数は、将来物理学を専攻しない学生であり、これらの学生の教育こそ物理学が社会全体に正しく理解される足がかりとなるはずである。物理学が正しい姿で社会に浸透すれば、物理学者の発言権も強まり、ひいてはわれわれの社会的地位の向上にもつながる。それなのにわれわれは、その教育に手を抜いている。少なくとも上級生の教育ほど力を入れていない。これは間違っていると思うが、人手が足りないから致し方ない。若しも教官の数が、学生数が現在のままで倍になり、昔のように少人数の講義ができたら、どんなに幸せであろう。さらに少数の学生が1人のTutorまたはAdviserの指導を受けるような制度でもよい(英国の大学またはモスクワ大学のように)。そしてODを全国の大学に吸収するのである。しかし、これを実現するには、学生数に対して教官数を算定する政府の基準を改めさせ、さらにはその根本にある考え方を変えさせなければならない。これを行うだけの政治力が物理学者(基礎科学者)にはないものだろうか。 OD問題をこのままで放置し、破局的状況に持ちこんで、政府をして嫌でも対策を講じざるをえないようにするのも1つの方法ではあろう。しかし筆者は歳のせいか、できるなら破局的状況は避けたいと思うのである。
先日、お好み焼屋さんで注文を待っていると、
声の大きな一団が後ろのテーブルに陣取った。
話の中に量子とか素粒子という単語があったので物理学を専攻しているようだ。
声が大きいので、意図せずとも話の内容が聞こえてくる。
どうやら、彼らには彼らなりの苦労があるらしい。
不作法な彼らは不愉快ではあったが、
業界の裏話は興味深いものがあった。
しばらくして、学生の一人が友人が自殺未遂をしたという話を始めた。
こういう不況の中、そういう話もあるだろう。
だが、空気が異様に軽いのだ。
話している学生も笑いをとるようなしゃべり方をし、
聞いている方も、時にはげらげら笑い、好き勝手未遂者の人生を品評するのだ。
面倒なことになったなという態度。
「聞き手の学生」は友人の人間性に問題があるとか係わり合いになるなとか。
あったかい言葉の一つもないのだ。
そのうち、学生の一人が、
「死ぬ、死ぬいうやつは死なない」ということを言い出した。
確か、距離をとった時に死ぬかもしれないという意見に対してだったと思う。
そしたら教授が、
「いや、死ぬやつは死ぬ」
と反論したのだ。
なんでも、教授は昔、精神的に弱い人の家庭教師をしていたらしい。
弱い人が本当に参っていて、
「こんなことして何になるのか、死にたい」
と弱音を吐いたときに、
「そんな甘ったれたことじゃいかん」
とか、
「死ぬ死ぬいうやつに死んだ奴はいない」
と言ったらしい。
その翌日、弱い人は自殺したらしい。
「まぁ、性格的に、いつか死ぬだろうとは思っていたけど」
とのこと。
教授は非常にトークがうまく、この話を笑い話にまとめ上げた。
学生も笑いながらこの話を聞いていた。
死人に鞭打って笑いをとるような下種はいない。
おそらく、多くの人がそうなんじゃなかろうか?
以前、大学院の教師がクズみたいなエントリーを見た記憶がある。
なるほどなと思った。
こんな中で人間が育つわけがない。
そして、こういう下種の同類だけがその研究室で生き残って、
何もないでしょ。真空でしょ。
っていうトラバが全然ついてないことに驚きを禁じ得ない。考えればわかると思うんだが(少なくとも超ひもなんて言葉を知ってる人にとっては)。
俺も素粒子物理は全然詳しくないからアレだけど、直観的には場と物質を区別するのは(形式的にはともかく)本質的にあまり意味無いんじゃないかと思うが。
おいらも素人だから識者のTBを待ちたいところだけど、一応イメージとして持ってるのは、素粒子みたいなものが点々と空間に存在してその間に何かがあるっていうのじゃなくて、そもそも存在するのは「場」であって、場のふるまいを説明するのに都合が良いモデルが素粒子みたいなものだって感じなんじゃないかなと。
ちょっと素人のたとえなんで間違ってる可能性大きいけど、例えば鳴門みたいな渦潮がいくつか巻いてるところがあるとするじゃん。渦潮を局在する実体と考えると「渦潮と渦潮の間には何がある?」という問いができそうだけど、よくみてみると渦潮は現象にすぎなくてどこもかしこも海があるだけ、みたいな。
攻撃対象の人物・集団・組織などに対し、憎悪や恐怖の感情に訴える
麻生叩きにおける、「漢字の読み間違い・書き間違い」「アホ」のイメージを植えつける。
3「転換」
さまざまな権威や威光を用いて、自分たちの意見や目的や方法を正当化する、
正しく見せかける。
4「証言利用」
尊敬される・権威ある人物を使って、自分たちの意見や目的や方法が正しいことを
証言・後援させる。
○○問題に詳しい~~評論家・教授に言ってほしいことを言わせる。
5「平凡化」
司会「我々庶民は~」。
都合のいい事柄を強調し、都合が悪い事柄を矮小化したり隠蔽したりする。
7「バンドワゴン」
大きな楽隊が目を惹くように、その事柄が、世の中の趨勢であるかのように宣伝する。
情報受信者は、それに従わないことにより取り残される情緒的不安を覚え、
結局はその「楽隊」に同調していくことになる。
7つの法則。
私の中で文章が固まらないので思いあまって消しちゃいました。ごめんなさい。
返答頂けたのに恐縮です。
一応元の文章を元に戻して張っておきます。
以下本文
(http://anond.hatelabo.jp/20090414110958へのトラバ)
昼休みなので完結に。ぎょうしゅく指摘の増田です。材料学科卒です。
なんか膜っぽい論文も書きました。でもよく覚えてないです。
元の朝日の記事に対してはOKなの?
改ざんがあったのは「湿分分離加熱器」と呼ばれる機器の配管のデータ。原子炉で発生した水蒸気を加熱するとともに湿り気を飛ばす機器で、高圧タービンと低圧タービンの間に設置されている。
との事だけど、
やっぱり水蒸気を加熱するとともに湿り気を飛ばすという所に分かり難さがあるという元増田の意見には同意。
湿り気?湿分分離加熱器という名前だからって態々同じ漢字を使うのは何故?意味あるの?と。
この会社はコラムに素粒子という欄を持ってる位なので水分子という言葉を用いても吝かではないと思うのです。
そういう理由で、湿り気等という言葉を用いるのは誤解を招きかねない書き方だと私も思う。
私が思うに、文系の人や新聞記者の書く新聞記事には、「主語-述語(-修飾語), 明確な代名詞の関係性のない文」、すなわち、よくも悪くも日本語らしい文が多いと思っている。一方で理系の人は、卒論や論文を書いたりする際に、技術文書の書き方(基本的には、主語-述語関係が明瞭で、直訳で英訳しても問題ないような文と、文脈構成)をトレーニングされる。その違いが、理系と文系の違和感を生み出す原因だと私は思っている。
理系文章と文系文章という括りを作って正しいというならそれでよろしいけど、
日本語で書かれた文学作品でも素晴らしい文章で主語述語関係明瞭なものもあります。
そもそもきちんとした理に適う文章が書ける人間=理系、という風には思えません。
もしそうだとしたら何で理系の教科書は主語述語関係が不明瞭であんなに分かりづらいのが多いんだ。
文系云々じゃなくてこの記事を書いた朝日の記者の記者としての日本語力がどうなの?という点だと思う。
我が家は全員理系に属していますが、時折出てくる変な日本語に頭を抱えてます。
(でもこれはどの新聞でもある傾向なんですってね!)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2009/02/post-cb7f.html
私は、死ぬことによって私が存在しなくなってしまうことを恐れる。もはや、朝の太陽の輝きや、新しく出版された小説や、友人の冗談に接することができなくなることを恐れる。私という歴史は、私の死とともに終わる。
このような私の死に対する恐れも、生に対する執着も、全て私と言う「システム」を考えたときに初めて成り立つ。
私を構成している電子や、陽子や、中性子にとっては、私の生も死も、何の意味もない。私が死に、私の肉体が朽ちてしまうことは、私や私の周りの人間にとっては一大事だが、私の体を構成している原子や分子にとっては、何の意味もない。
元増田です。
最近やっと暇ができたんで改めて増田ってます。見ているかどうかわかりませんが、遅めのTBになってしまいすいません。
あなたの長文読んで、我ながらかなり元気が出ましたのでお返事させていただきました。
ありがとうございます。
そらひどい目にあったなー。毅然と対応できたあんたはえらい。
どうもです。その人はうちのマンションでは、子供のことになるとすぐ怒鳴り込みに行くっつー、悪い意味で有名な人らしかったんですが、その人は多分子供=自分になってて、その子供=自分が他人から非難されるのが怖くて、ちょっとした注意でも非難に聞こえるだろうから、そんな反応になったのかなと。
で、そういう人って自分の言動を冷静に振り返る、ってことができておらず、よく考えると、自分の子供なら仕方が無くて、他人(子供ふくむ)に対しては、「仕方がない」と思えるその寛容さをなぜ発揮できないのw?って思うんですが。
数年前の俺にちょっとカブる。てか、今のこの時期、数年前の俺より大変な環境だよな。俺はそれで、うつになって、「もういいか」って実家に帰って転職して、今じゃ無職になってるけど、貯めたお金(と親)があるおかげで今はゆっくり休んでる。十何年かぶりに昔の夢を追いかけてみて、ダメだったら何かの資格取って、最底辺あたりでも生きていくつもりだ。
たくましいですね。
自分は仕事を辞めると言うとものすごい勢いで親に止められましたがw
けど本当にしんどくて、貯金があってある程度のバックアップが見込めるなら増田さんのような選択もありだと思います。
日経ってひどい媒体でさ、まあ俺は日経新聞じゃなくて日経ビジネスをよく読んでたんだけど、連中、新しい経営とかを紹介した数年後にはそれを否定する記事を書くのな。最低なマッチポンプ週刊誌だよ。連中に振り回されてる企業経営者とか日本経済って、気の毒というほかない。MBAって覚えてる?300万台クラブとか、今じゃ話題のわにもならないっしょ。
もちろん、それ読む事で一社員でありながら、経営者が何考えてもの言ってんのかが分かるってご利益はある。でもそれだけといってもいい。
多分社長から見ると、実際に仕事に落とし込めるようなことがいっぱい書いてあるんだけど、正直ヒラから見ると「ふーん、こんな事もあるんだ」程度にしか思えないので、実際にそんな風に行動できるのか、というと話は別ですし。
いろいろな話題があるので面白いといえば面白いのですが。
生まれ変わり? No Thank youだよな。てか星雲になるっていいな。
昔から宇宙の星雲・銀河(アンドロメダとかああいうの)とかの写真を見るのが好きなもので。
色が本当にきれいで、しかも無駄な物質ではないというのが良いなと。
でも人間は死んで灰や身体の中の水分が水蒸気になれば分子や素粒子とか、ああいう宇宙の物質と同じようなものになるので、ゆくゆくはそうなれるんでしょうかw
社会の価値観に自分を合わせようとして、疲れているんじゃないかとか。
んじゃ自分にとって一番大事なのって、なんだろうとか。
で、いきなり社会といってもあまりにも多様すぎて大変なんで、自分の会社の方針(建前)と、実際に行っている事(本音)がどうなってるのか整理してみたり。
会社でも結構それはあるし。
会社で自分を押し通しつつ、仕事できる人って一体どうやってんの???と疑問しきりです。
私にはそれができない。
自分の理想の姿が、世の中の雰囲気の中で作られたものなのか、自分の根源的な欲求に基づくものなのか見極めてみる。自分はどうしたいのかとか。
これはあまり厳密に考えたことがなかったです。忙しくて色々…というのはいいわけだけど。
そういえば最近は世の中の雰囲気に合わせすぎていた気もします。
俺の場合、高校のとき周りの目を気にしすぎて、「そういや、自分ってどんなやつだっけ」って見失っちまった時期があって、1年くらい悩んで、最終的に自分の感情を頼りに再構築した事がある。何が面白いのか、何が嫌なのか。他人がどう反応し様と、俺は面白いと思った事は面白いんだと。他の人がつまらんだじゃれだと白けて見せても、俺は自分が面白ければ笑っちまえと。
うーん、自分も、高校の頃にクラスに溶け込めなかったけど、無理矢理自分を押し殺してそのまま学校に通ったりしてたから、ずっとそのクセが続いてしまっていて。ずっとなにかを見失ってるって感じはどこかにありますねえ。
文章書いたり、イラストを描いたりなんかして、自分で何かを創ったりしているときはそんな感覚はないんですが。
他の人がつまらんだじゃれだと白けて見せても、俺は自分が面白ければ笑っちまえと。
これは、いいですね。
未来の社会じゃ、逆転するかもよ。最近は強気のヤツでもどんどん死んじまう世の中だし。いずれゆり戻しが来るって。
で、そのしんどいの経験してるってことはさ、あとから来るヘタレが同じように悩んだとき、一般論に頼らず、自分の言葉で相手が必要とする言葉を選べる能力を獲得してるってことなんだぜ?泣いても笑っても、食って寝りゃ生きるんだから、泣きながら生きていこうや。ずるずると生きていこうや。
こんな事は自分で考えたことがなかったし、誰にも言われたことがなかったので、驚きました。
今は、ちょっと持ち直して、お金貯めるために頑張って働こう(自分が壊れない程度に)と、考えられるようになってます。
しんどいこといっぱいあるけど、そのしんどい経験が誰かの役に立つなら、それは自分にとって喜ばしいことだと思うので。
それに、選挙権持ってるオトナである以上、今の陰惨な社会をなんとか変えなきゃいけないと思ってるし、それは俺の目標でもある。諦めるのは、先送りにしようぜ。無理しない程度に。
てか、休もうぜ。疲れたら休むのが生き物ってもんだろ。逃げる体力は、残しとくもんだ。
自分は選挙は一応行っていますが、今の政治に絶望してるばかりでした。自分の周囲じゃ誰もそんなこと関心持ってないし、変えようとも思ってないから。
けど増田さんみたいに考えられる方がまだ幾人でもいるなら、社会も捨てたもんじゃないかなと思います。
社会って、人の集まりだから、その「人」が変われば、「社会」も変わりますし。
疲れたら休んだり、逃げたりできる体力を残せるぐらいには、目の前の仕事に打ち込んでみようと思います。価値観を見極めながら。
http://anond.hatelabo.jp/20090202064637
むしろ私は科学を学ぶ内に創造主としての神を信じてやっても良いような気持ちが生じて来た。
カオスとしてのこの宇宙の構造を生み出す見事な法則を定めた奴は誰だ。
重力定数や光速、各素粒子の質量や電荷その他パラメータを与え、
また宇宙の始まりにおける初期条件を与えたのは誰だ。
だがこの宇宙を支配する法則がどこまで解明されようとも絶対に解らないことが判っている、
それはこの世界への親愛の情を通して増幅され、
そいつは、私を極とした私が知り得る限りの私の球座標世界を r→1/r と裏返したような
知覚の埒外の世界の∞の果てに居る、矮小な私自身の荘厳な虚像にして、
最初に言っておくが、私はなんら仏教に関係ないし信者でもない。ましてやキリスト教、イスラム教、新興宗教にも全く興味が無い。ただ仏教の哲学には納得する部分が多いし人生の参考になるので簡単にまとめたいと思う。だから全く興味がない人や食わず嫌いの人に触りだけでもかじって欲しいと思い書きます。
そもそも現代の人は私を含めて宗教と聞くと胡散臭いや洗脳など怪しいイメージが強いから拒否反応が自動的に働くと思います。しかし、そういうイメージがついたのは仏教やキリスト教を適当に模写し都合の良いように作りあげた新興宗教やカルト教団のことを言います。例えばオウム真理教なんか日本代表である!つまり、仏教は胡散臭くも無く怪しくも無いブッタが一生をかけて考え抜いた精神世界の教えです。
ちなみに私は仏教本に関して、自己啓発本の一種としか考えていません。つまり仏教本を読めばモチベーションが向上する。ただそれだけです。しかし、知っているのと知らないとではこれからの人生の生き方や価値観は大違いだと思います。後、仏教と聞いて、お経なり墓参りや、お坊さんやお葬式など思い浮かぶと思うが、面白くないので触れません。私が興味あるのはブッタという哲学者が考えた知識です。
できるだけ専門用語は使わずまとめていきたいと思います。まず仏教といえば仏(ほとけ)様がイメージできますが、決して仏像の仏ではありません。では仏とは何かというと、悟った者のことを示します。
仏=ブッダ
ブッダとは「ブッダ」という名前ではなく悟った人のことを言います。それで「悟る」とはサンスクリット語でブッドゥッといい、その過去分詞がブッダ、つまり悟った人なのですね。とりあえず、ふんふんと頷いといて下さいwでは仏教を始めた人は誰か?ブッダと呼ばれるものは誰か?
「ゴータマ・シッダールタ」 この人がブッダであります。ちなみに仏教はインドから広まったものです。これで分かるように仏は神みたいな絶対的存在ではなく、ただの人間であり、ゴータマ・シッダールタという悟りを極めた哲学者であります。この人の生きた時期は具体的には分かっていません。なぜならその当時のインド人に「いつ」の概念がなかったからなのです。だいたい紀元前5世紀くらいの人と言われていて、生まれた場所はルンビニーという所。裕福な生活をしていて結婚して男児もいて普通の生活をしていました。しかし、29歳のときに家族を捨てて城から離れ修行者として旅立つことに。つまり出家ですね。それから苦行を続け、やがてナイランジャナーの河のほとりで瞑想を開始します。そして、35歳で悟ったと言います。それからたくさんの弟子をかかえて享年80歳という長命で姿を消すことになります。それで亡くなってから、当時の弟子たちがブッダの教えで会議を行い文章として作ったのが「経典」であります。
まず仏教のキーワードは「縁起」”えんぎ”。 是非この言葉だけは覚えて欲しいと思います。
「縁起」とは人や事柄などが関係しあってお互いを支えていることを言います。例えば、ここに40歳の男性がいるとします。彼は妻にとっては夫であり、子から見れば父、彼の親からすれば子である。会社にいけば彼は課長であり、オーナーから見れば従業員である。つまり、自分の存在とは情報によって作り出されたものであり、あなた自身多くの人々の関係、周囲にあるあらゆる物との関係において、今のあなた自身でいることができる。だから、最初からあなた自身が存在しているのではなく名前という情報があり、住所という情報があり、職業などがあってこそ自分がなりたつ。つまり、他人が自分の存在を示してくれる。逆にいうとあなた自身も周りを支えていることになる。こういう関係性を仏教では「縁」と呼びます。
もうひとつ知ってほしいのは<「空」”くう”です。
「空」とはそこに見えてるものは実体がないと考えます。ちょっとややこしいが、普通は実体があるからこそ人やものが存在していると考える。しかし、仏教では現象にすぎないと考えます。簡単にいえば全て幻と考え、起きることや物、人生、人すら実体のない幻と解釈してしまう。バカらしいと思うかもしれないが、ちょっと待ってほしい。例えばテレビ画面やパソコンの画面、映画のスクリーンを近くでよーく見てみると、小さい四角や丸の集合体であることは知ってますよね、知らない人はテレビ画面におデコをつけて見てほしい。すると小さいドットが繋がっている状態でひとつひとつがいろんな色に点滅しているただの光の集合体というのが分かります。つまり実体のない幻といえる。物や人も素粒子レベルで考えると、点滅しているにすぎない、だからあなたも私も幻と考えることができるということなのです。ちょっと分かりずらいが、「空」とはすべてが現象と考えると分かりやすいと思います。
もうひとつ例えを出します。皆様は普段から牛肉を食べますよね。これって食べた後にどうなるか知っていますか?そもそも、食べるものとは”アミノ酸”だとか””コラーゲン”みたいに色々な分子が集合してできているのが食物で、それを体内に入れた時に分子に分裂して体中に分子が散ればめられてたんぱく質に変わり栄養として吸収され破壊されて行くのですが、ここで問題なのが牛肉は牛であり、人間と同等の生物ということです。具体的に言いますと、牛肉は分子の集合体ですよね、ということは、牛も集合体ということになり、故に、人間も分子や原子の集合体ということになるのです。、だから、人間も実体がなく現象であり「空」であるというのが仏教という哲学なのです。
ちょっと分からなくなってきたと思いますが、この2つセットが仏教の基本なので、先入観を少し置いといてこういう考え方もあると思ってくれれば結構です。補足ですが、瞑想と言う言葉を聞いたことありますよね、洞窟の中とか誰もいない森の中で永遠瞑想という修行をする人たちのことですが。なぜ、できるかというと全てが幻と思っているからです。どこにいようとも何をしようといいというわけです。これが究極の空です。
ちょっと話がそれますが、巷では占い師の方が「あなたの前世は武士」だとか、死ねば生まれ変わるだの言われることがありますが、仏教では輪廻転生はないと考えているし来世も前世も存在しない、自我も空だと考えています。つまり、体がなくなっても魂は来世に蘇り繰り返すという概念はありえない(正式には分からない)しかし、一部では霊がいるとか神がいるとか、輪廻するとかいうのが信じられています。まあ信じる分だけならいいのですが、それに付け加えて出てくる概念が、この世で苦しめば苦しむほど来世でランク(ステージ)が上がるという考え方です。インドのカースト制度がこれ、ランク(ステージ)の低い身分の人はこの世で自分を苦しめ相手も苦しめることを現実にします。つまり問題なのは現世で苦しめば来世でランクが上がるという概念が怖いのです。
例えば、電車の中で騒いでいる若者がいたとする、こいつは人に迷惑をかけていてこのままでは来世でランク(ステージ)が下がるのでかわいそうと思い、早い段階で苦しめて殺しちゃえという考え方になり、ナイフで刺してぐりぐり苦しめて殺してしまう。この考え方がオウム真理教の「ポアの思想」。
もうひとつ例えれば、映画館で隣の男性がポップコーンをボリボリ食べていて人に迷惑をかけているとする。すると、前にも言ったがそういう人は現世で苦しめて殺してあげる、そして「来世でランク(ステージ)を上げて楽しく暮らしてね。」って感じで平気で人をナイフでぐりぐりして殺してしまう。刺されている人が「痛いよ!」って言っても刺してる側は全てが「空」だと思っているから、「この世には実体がない幻なんだから痛くないでしょ、何言ってるの」ってなる。これがオウムの「ポアの思想」で宗教を悪いことに利用したスピリチュアルな考え方です。
怖い考え方のキーワードは3つ
現在テレビで人気の○木数子はかわいいもので彼女はただのオカルト。怖いのはスピリチュアルの○原氏。輪廻とランクがありきと考え、しかも視聴率が良い番組で堂々とわけの分からないことを言っているので、このままいくとオウムみたいになりかねないと私は危惧します。
話を戻しますが、人間には煩悩がたくさんあります。代表的なのでは睡眠欲、食欲、性欲、物欲、などなど、これらの煩悩をなくしてしまうのが悟り、つまり全てが空と考える概念を「空観」”くうがん”といいます。その逆が「仮観」”けがん”。仮観は煩悩むき出しでお金も稼ぐだけ稼ぐし、あれも欲しいこれも欲しい、その為には戦争もする考え方。みんなが仮観の考えでは世界は滅びます。逆に「空観」もみんなが考えるとやる気もないし何もしない、食欲もないし睡眠欲もないからこれも世界が滅びます。
じゃあどうするの?
そこで仏教ではその間の「中観」”ちゅうがん”という概念が存在します。では「中観」とは何か。まず全員が「仮観」の考えかたをすると欲望を限度なく追求するから結局戦争になり人類が滅びます。次に全員が「空観」の考え方だと全てが幻と思っているからボケーっとして誰にも迷惑かけないけど何も進歩しないからこれも滅亡する。しかも「空観」にカルマの思想が入ると他人に迷惑をかける最悪のことになります。
それではダメなので昔に「中観」という概念を考えたナーガールジュナという人がいます。「空観」と「仮観」の間の「中観」。さっきの例で言うと、ポップコーンを食べている人はボリボリと人に迷惑をかけているが、その男性は彼女と映画を見にきていて彼女と楽しむことや、彼女を楽しませるなどやること、役割ががあると考えます、つまりその男性は機能をもっていて、デートいう役割を果たしている。すると矛盾が発生して殺してはダメになる訳です。
ちょっと話が脱線しますが、ブッダの弟子がブッダに対して「神はいますか?」「生まれ変わりはありますか?」という質問をした。その時にブッダが「毒矢の例え」で答えたという。「毒矢の例え」とは一人のひとがどこからか飛んできた毒のついた矢が胸に突き刺ささって苦しんでいて、その時にどこから矢が打たれたのか、この毒の成分は何なのか、何メートル先からか、ベクトル計算するとなど考える前に矢を抜けよってこと。つまり、ブッタは「霊」とか「神」とか「自我」とか考える暇があるんだったら他にやることあるだろ、だから「神」がいるとかいないとかどっちでもいいじゃんっていうのが結論。これが「空観」に機能(やる事)(役割)をもたせた考え、つまり「中観」。
私も「どっちでもいいじゃん」ってのが結論で、答えがでないものを考えるより他にやりたい事や、大切なことを楽しむ、そして人生有意義なものにできればと思いました。ただ仏教などの哲学全体を把握しての「どっちでもいいじゃん」と何もせずめんどくさいから開き直って、さも分かっているかのように「どっちでもいいじゃん」とでは雲泥の差があるので勘違いしないで欲しい。是非、皆様も仏教と聞いただけで邪険にするのではなく、知っていると悪徳新興宗教やスピリチュアルなんかで高額なお布施などを払うことも予防できると思います。是非これをきっかけに仏教本でモチベーションを上げてみるのもいいのではないでしょうか。
合言葉は「どっちでもいいじゃん」です。
元増田だが、サラっと書いたエントリに10個以上もブクマがつくとは思わなかった…。
とりあえず、理系の端くれとしてどうしても気になるのでブクマコメに突っ込ませてもらうと
よくわからない電子核の話とかされると濡れます!
原子の周りを回ってる(厳密には回ってはいないが)電子を、量子状態のエネルギー準位で分類したものを電子殻と言うことはあるけどね。
【追記】
あー、エネルギー準位で分類、というのは正確じゃないな。固有状態が異なっていてもエネルギー的には縮退している場合もあるだろう。
この辺の話はもうだいぶ忘れかけていて死にたくなるが…。角運動量はベクトル量だから、原子核が球対称なら角運動量の向きの違いに対応した縮退準位があるはずだ。
via : http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、どのくらいの数の物理オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らない物理の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、物理のことを紹介するために
見せるべき10人を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女に物理を布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴うマニアックな人物は避けたい。
できれば伝記が出てる人物、少なくともブルーバックスレベルにとどめたい。
あと、いくら物理的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
物理好きが『ケプラー』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
物理知識はいわゆる「ブルーバックス」的なものを除けば、中学校程度の物理は知ってる
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりかよとも思うけれど、「アインシュタイン以前」を濃縮しきっていて、「アインシュタイン以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。知名度もあるし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
情報過多なアインシュタインの業績の数々について、特にリーマン空間上の時空の幾何学という数学的側面が強い一般相対論について、
どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな物理学者(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「物理オタとしてはニュートン力学と万有引力の法則は“常識”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSF物理オタが持ってる時空制御やタイムトラベルへの憧憬と、一方で時間順序保護仮説を唱えるオタ的な理論物理へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもSFオタ的な
の二つをはじめとして、オタ好きのする理論を世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「モーツァルトだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
これほどの変態的天才がその後続いていないこと、これがアメリカでは軍事への貢献で大人気になったこと、
数学から経済学までのあらゆる分野に影響を残した天才ぶりはアメリカなら実写テレビドラマになって、
それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
日本国内でこういう天才が生まれないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり物理は目に見える自然現象を説明するためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「アンリ・ナビエ」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、電磁気学にかけるマクスウェルの思いが好きだから。
(以下思いつかねえ)
今の若年層でオイラーを目指す人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
量子力学よりも前の段階で、力学現象を解析的に取り扱う哲学や位相空間の技法は彼で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの物理学者が数学者の片手間でこの時代に生まれていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく物理好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるニュートン力学でしか物理を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
(還元論的)物理の「本質」あるいは「原理」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「あらゆる基本的な物理量は保存する」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそ理論物理学の最も基本的な量はハミルトニアン以外ではあり得なかったとも思う。
「複雑系を取り扱う新しい物理」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
源はハミルトニアン(時間並進対称性に起因する保存量)にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に対称性と保存量の美しい関係を楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう純粋数学チックな物理を元文系の天才物理学者が推進していて、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9人まではあっさり決まったんだけど10人目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にファインマンを選んだ。
アインシュタインから始まってファインマンで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、場の量子論以降の
素粒子物理時代の先駆けとなった人物でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい人物がいそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10人目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
10人は疲れるなこれ…。穴だらけだわ。そういう意味では元増田すげえな…。
修士課程まで理論物理をやってたんですよ。つってもまぁ素粒子とかじゃなくて物性理論。
中学校くらいから物理が好きで、研究者になることを疑ったことなどなく大学まで来た。
大学でも成績良かったんだけど、例によって現実は恐ろしくシビアで、悩んだ挙句俺は流行りの金融に就職した。
金融っつってもセールスとかじゃなくて投資銀行関連のある専門職だ。
正直、M2の頃は調子こいてた。
しかし働いてみるとこれがつまんねーのな。どうしても楽しくない。
皆いい加減なことばかり言って手数料掠め取ることしか考えてないように見えた。
しかもそれを疑問にも思っていないように見えたんだ。
財務諸表が読めるようになっても、証券市場が多少わかるようになっても、新人の中でも出来がイイとか褒められても、
エリートとか高給とか言って周りから羨まれても、女の子からチヤホヤされるようになっても、ちっとも楽しくないんだ。
自然現象を単純かつ美しい数学的モデルで表現すること、それが真理を確信できるほどの深遠さを持っていること。
それを突き詰めること。
それに比べれば、丸の内で風を切ってる金融マンはハッタリの知性で飾り立てているだけに見えた。
だから転職活動をして、ある大手メーカーから内定を貰った。研究開発職だ。
でも研究所ではなかった。そりゃ優秀な博士卒がうじゃうじゃしてる世界で俺みたいな意味不明な男がいきなり研究所に入れるわけはないよな。
ここから始めるしか無いかと思った。
でも本当のことを言うと、俺はわかってるんだ。
真理を追い求めるのが好きで、モノ作りにはそれほど興味が無いこと。
大企業に適応できるタイプじゃないこと。もっと言えば、ビジネス社会に適応できないこと。
博士課程に行くか、研究重視型の中小企業に行った方が精神的には幸せになれそうだと思う。
でも俺、新卒時ならまだしも今はスキル無いし、今から博士に行ったら出る頃には30目前になっちゃうよ。
金持ちにはならなくていいけど、人並みの家庭も欲しいよ。
それってそんなに贅沢な望みなのか?
長男だし、下に3人も兄弟がいる。そのうち一人は知的障害持ちだ。親もぼちぼち歳だ。
好きなことをして生きていけるわけがない、なんてカビの生えた言葉が最も現実的だ。
ああでも研究したいなぁ。誰も知らない何かを見つけ出したい。別に理論物理じゃなくてもいい。
能力が足りないのはわかってるけど、努力しても無理ってことは理解できないんだ。
どうしたらいいのかわからず、中小企業に応募してる。
文系就職を考えている理系のみんな。自分が何を好きかよく考えて欲しい。
ガチな理系にとって文系職はつまらないよ。「どうせ理系出身者なんていらねぇんだよ」は
何もSIだけじゃない。金融にも、コンサルにも、文系職種一般に当てはまる話だよ。
自分を見誤って会社選び間違えると悲惨だよ。俺みたいに。
「何でこんなことやってるんだろうなあ。」
もう書くことは決まっている雑務の中の雑務をやりながら思った。
窓口に並ぶ老人、それに応対する同僚、それを見て考える。 こいつらは人生満足しているのかなあって。
昔は、3年前までは、とても輝いていた。
世間的にはとても頭がいいとされる分野で、俺は、とても優秀だった。 同学年ではダントツでナンバー1、テスト前はみんなから頼られた学部時代。 先輩達からは「後輩とは思えない。」、教授達からは「是非とも博士に。」、そう言われ続けた修士時代。
天狗になれた。
それはもう自分は頭がいいと思えたし、他の理系の分野を見て「こいつらのやってることは配管工と同じ。」と見下していたし、まさに大天狗だった。
その後博士課程で研究室の意向に反る形で、俺はその分野では日本で一番優秀な大学の博士課程に進学した。
何の躊躇もなかった。 多分自分はそこでも優秀でいられる、将来はポストが少ないかろうが研究職に就ける、と根拠のない自信があった。
でも現実は違った。 世界が違った。
引き離せない同期たち、何人かいる異世界の頭脳の化け物。 鼻は折られた。簡単に折られた。
自信を失った僕は素粒子に対する興味を失った。
いや、違う、僕が興味を持っていたのは、素粒子をやっている自分、素粒子という難しい分野をやっている自分、ただそれに興味があっただけだったのだ。 素粒子なんてものには、修士課程で概観をほぼ学習し終えた時点で興味を失っていた。
正直、世界の構造の探求とか、どうでもよかったのだ。 難しいことをやれていれば。
だから自分に対して向上心を持つことなど出来なくなっていた。輝きは完全に失われた。
その後、僕は役場に就職した。 他に良い就職なんてあるはずもなく、役場しかなかった。 素論崩れにしては上等な就職場所だった。
ここでの仕事ははっきり言ってつまらない。 退屈だ。 でも時間はある。
その時間でついつい考えてしまう。 「もし、もし、あのときこうしていれば・・」なんてことを。
でも、それで導かれる満足な未来は後悔しか生まない。 プライドの塊でしかなかった自分への後悔しか。
僕は典型的理系人だ。 ファッションなんて全く分からないし、女性の友達はいない、男の友達だって少ない。 コミュニケーション能力なんてプランク定数より少ない。当然ノミニケーションなどはむしろ苦痛だ。
そんな自分には同僚が薦めてくれる人生の楽しみ方も全く楽しいものには思えない。
役所に勤め始めて1年経つ。 今日もまた役場に来る人や同僚を見て色々考える。 どうすればまた輝けるのかを。