はてなキーワード: 一部の人とは
MPX4 Ultimate。
タイムシフト可能な放送だけじゃない。
ストリーミング放送の大半は、このrtmpプロトコルを使ってる。
Net Transportというツールも、rtmpでダウンコできる。
理由はややこしくなるから言わない。
そのようなツールは、いまのところMPXしかない。
MPXの名前を知らない人はまだまだ多い。
ググったらいい。サイトが出てくる。
これまでは録画職人というのがいた。
キャプチャツールだ。
カハマルカの瞳、CamStudio。
そういうツールを使えば、生放送を録画できた。
だが、面倒なので誰もが気軽にとはいかなかった。
いまはMPXがある。
これはニコ生スレやニコ生wikiでも全くこの話題は出てない。
注意しろ、MPXといっても、MPX4 Ultimateでないと駄目。
どうだ、驚いただろう。興味深いだろう。
君たちも、他人に知ったか話してほしい。
立憲主義とは権力の制約のあり方の話で、絶対主義と対置されるべき物である。
民主主義とは権力の所在の話で、君主主義と対置されるべき物である。
立憲主義と民主主義は、絶対王政から市民の多数派へと権力を移行させる過程で発展して来た。
王権神授説を前提とする絶対王政に対し、貴族達が、立憲主義により王権を制約した。
立憲主義により弱体化した王・貴族から、市民が、民主主義によって権力を奪取した。
そういうわけで、今は立憲民主主義が多くの国で採用されるところとなっている。
立憲主義はいかなる権力であれ制約するので、民主的権力に対しても制約的に働くからだ。
立憲主義がもとより王や貴族から権力を奪うための手段に過ぎないと考えるならば、民主化が達成された今日では、もはや立憲主義は廃止すべきとの考え方もあるだろう。
しかし、民主主義体勢下の権力にも抑制が必要であると考えるならば、なお立憲主義は必要な枷といえる。
さて、民主主義というのは全国民による統治を理念として掲げているが、実際には多数派による統治に過ぎない。
「最大多数の最大幸福」は、最大多数に含まれない物の存在を前提としている。
一人の王、数百人の貴族による統治に比べれば、国民の半数以上による統治が「大幸福」を導くことは明らかであろう。
多数決原理よりも多数に権力を行使させうる現実的な手段が見つからない以上、多数決こそが「最」大多数の「最」大幸福を実現する手段である。
しかし、そうであるならば、民主主義によっても少数者の幸福は実現されない。
多数派が行う少数者への配慮などというのは、国王や貴族が国民に対し道徳的(あるいは自益的)見地から善政を布くことと原理的に相違ない。
立憲的でない民主主義体勢下の少数派は、絶対王政下の国民が善き王を期待するのと同程度にしか、幸福を期待できない。
多数派がひとたび牙を剥けば、少数の共産主義者やユダヤ教徒は迫害され国外に逃亡する他なくなるのである。
民主主義は、少数派の犠牲の元に多数派の幸福を実現する危険を孕む。
多数派の幸福のみならず、社会全体の幸福さえも、少数派の犠牲によって増大しうる。
「社会全体の利益のためには、一部の人々が犠牲になっても良い」と考えるならば民主主義を採れば良い。
そう考えないならば、立憲民主主義を採れば良い。
知らないでは済まされないが、知らない人も多数いるだろうから説明すると、
・要らない
・使いにくい
ところで、80:20の法則というのがあるが、俺は96:4の法則というのを独自に発見した。
それによれば、リアル世界では、80%のモノがクソなのに対し、
80:20の法則では1/5が非ウンコなのと比べてもらいたい。
96:4の法則では、なんと(1/5)^2である1/25が非ウンコというふうになっている。
これは全く予期していなかった偶然であり、数学的にも美しい法則なのだ。
それでだな。ロングテールとも言われるように、ネット世界では通常の80:20の法則は通用しないのだよ。
web2.0が取りざたされた時期は、ロングテールがまるで掘り出し物のごとく良いモノ扱いされてたが、
ああいうのは真っ赤な嘘もいいとこだ。
いい加減クソを有り難がる時代は終わる。
96%を有り難がるのでなく4%のものを有り難がる。
価値観の多様化なんてクソの量産でしかないと気づき、ホンモノ志向になる。
そうすると、冒頭に挙げた「要らない」「使いにくい」ようなサービスはどんどん廃れる。
もうこれは必然的な時代の流れだ。俺は4年前から予言していたわけだが。
web2.0だライフハックだとチンケな夢に目を輝かせてる連中を冷めた目で見ながら、
ホンモノを追究してきた0.16%の人なわけである。
おっと何故0.16%か。それは、4%の中の4%だからである。(1/25)*(1/25)=0.0016だから。
4%の人が「本当に必要な」Webを追究してきたとすると、
さらにその4%の人が「本当に使いやすい」Webを追究してきたのである。
いまは残りの624人の声があまりに大きいので、
そういう一部の人の声が覆い隠されてるのが現状だが、
やがては状況は好転する。
いまのはっきり言ってゴミクズ同然のWebサイトはどんどん消える。
2010年を迎えた今、新しい歴史の歯車は着実に回り始めている。
「要らない」「使えない」という二大害悪は徹底的に粛清される。
日本じゃエンジニアがスパークできない理由を探しまわるのが一部の人達で流行っているようです。とても恥ずかしいですね。
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20091211/1260534895
どいつもこいつも「日本じゃエンジニアが成功できない理由」を書き連ねてるわけだが、アメリカ除けば日本はトップクラスに恵まれた国だって。中国みたいに非民主的な規制は無いし国内市場は大きいしネットインフラは揃ってるし。東南アジアとか実際ひどいぜ。中国じゃお上のさじ加減ですぐ潰されるんだぜ。
なぜアメリカと比較して劣ってるからといってサジを投げるかね。それ本人の資質の問題だろ。あなたがブログで愚痴ってる間に成果を出し続ける日本人エンジニアは星の数ほどいるだろ。
なんでこうも一部の人達は「できない理由」を述べてそれで満足するかね。KoshianXって言う人は以前こんな事をtwitterでつぶやいていたんだが、矛盾しまくりじゃん。
「できない理由」がダメだって言ってるのは、そんなもんは考えればいくらでも出てきちゃうからなんだよね。結局何もできなくなっちゃう。だから物事を動かすには「できる理由」しか必要じゃない
なにこれ超自己矛盾。自分の都合のいいことをその場の思いつきで述べる人間に見られる特有の現象ですね。
あなたは40年近く生きてきてイノベーションとやらを起こそうと一度でもチャレンジしたことがあるの?してないっしょ!絶対やってない。挑戦すらしてない人間がイノベーションを起こせる風土を作りましょうなんて片腹痛いって。あなたは評論家じゃなくて行動する側の人間じゃないんですか?ここでも自己矛盾しまくってますよ。
日本人エンジニア(非web)は今まで世界をリードするイノベーションをいくらでも起こしてきたじゃん。なんでこうもwebの一部の連中は「できない理由」をブログでぐちぐち述べたがるかね。君が世界の片隅で叫んだところで得られる賛同は同じ非挑戦者からだけだし、世界は何も変わらないよ。あなたがもしアメリカに生まれて今シリコンバレーにいたとしても、同じような愚痴をブログで述べて同じ非挑戦者同士で傷を舐め合って短い生涯を終えていたんじゃないでしょうかね。
written by 良家ver.2
ほら、曲解だ。
現実に存在してるならそれで根拠は十分だろう。ごく一部の人しかやってないから放置しろということなら強姦だって放置しろということになる。というか「2ちゃんやヤフーニュース」だから放置するべきってのがわからない。
放置しろ、なんて誰も言ってない。批判するなら批判対象に見合った批判の仕方というものがあるだろうと言ってるだけだ。ヤフーニュースや2ちゃんに馬鹿がいる、レベルの根拠しかないなら、それに見合った批判でいいんで、大騒ぎする必然性まではないんだよ。
泣き寝入りなんて、しなくていいじゃないか。勝手に議論をすり替えるなっての。
そもそも馬鹿の言うことだから放置すべきなら、あんたらが「はてさ」の相手をするのはなぜ?曲解して屁理屈を述べる「はてさ」の相手なんかする必要ないんじゃないかね。
最後は、自分たちが正しいんだから、お前は黙っておけってわけか。そんなだから、無駄な議論が起きる、あなたたちにとってもすごく損、なだけじゃない。「もともと性差別を率先して行っている人達には、相も変わらず何も届かない」。目的とやってることがずれすぎ。
現実に存在してるならそれで根拠は十分だろう。ごく一部の人しかやってないから放置しろということなら強姦だって放置しろということになる。というか「2ちゃんやヤフーニュース」だから放置するべきってのがわからない。強姦も被害者たたきもごく一部のよほどの馬鹿がやってることだが、だからといって放置すべきとは思えないが。結局直接被害者たたきはしてないだけで「泣き寝入りしろ」という方向に持って行きたいのがばればれ。
そもそも馬鹿の言うことだから放置すべきなら、あんたらが「はてさ」の相手をするのはなぜ?曲解して屁理屈を述べる「はてさ」の相手なんかする必要ないんじゃないかね。
「一部の人が『自衛しなければならない』事を肯定するというのは、一部の人に対する差別を容認する事である」
というのは、なかなかわかってもらえないようですね。男性にも通用する、改変コピペでも作ってみるか。
用心するということ ~顔と進学…結果に責任~
某底辺高校が、受験の面接時に顔を判定基準にするという規則を作ろうとしたら、それは「憲法に違反する」と若者からの突き上げがあった、という。
警察は「憲法に違反しません」と言う。高校がこういう防止策を講じようとしたのは、もちろん最近残酷ないじめ事件が起きているからだろう。
もちろん決定的に悪いのはいじめっ子だが、被害者の遺族の気持ちを考慮せずに言えば、最近のいじめられっ子は、用心するということをしない。キモ顔の学生が、荒れていて自分でも怖いと思うような高校に入る、ということが本来は常識外なのである。
日本の都会以外なら、キモ顔の学生たちは必死に勉強して、受験校に入学する。偏差値の低い高校に入学したりすることは考えられない。いかにもいじめてくれ、という顔の学生が底辺高校に入学するのが非常識な行動だと、なぜ都会では教えないのだろう。
今でも忘れられないのは、いわゆる「田舎の町」の中学校で、都会の雰囲気を持つ学生が地元の中学生達にいじめられて殺された事件である。
もちろんいじめた中学生が悪いのだが、都会の雰囲気を持ちつつキモメンであれば、『キモメンのくせに田舎を馬鹿にしている、こいつはいじめられても当然だ』と思われても仕方がない。それは日本の田舎のどこでも示される反応だ。
基本的な行動の自由と、自衛の手段を講ずることとは、全く別の次元である。というか、行動の自由を口にするなら、十分すぎるほどの用心や、日本の田舎の常識を学ぶことができなくてはならない。
東北在住の日本人が驚いているのは、秋葉原にいる若者が、どうしてあんなキモい顔をテレビでさらしているのか、ということである。あれでは不良たちに手をだしてください。といわんばかりですね、と彼らは言う。
先日某農村で地方局のテレビ番組を見たら、アキバにいるキモメン男性が出演していた。しかし農道を行く人たちは、普通の顔、服装ばかりで、私は少しびっくりしたのだが、
「キモメンはいじめられるのが当然なので出歩きません。そういう人は夜遅くです」
「いじめられたくないお金持ち階級は、車に乗って移動するんです」
という2つの返事で納得させられたのである。
キモい顔をしていじめに遭ったと言うのは、いじめられた側にも責任がある、と言うべきだろう。なぜならその顔は、結果が予想されるからだ。いじめは、いじめっ子の暴力によるものが断然多いが、「いじめられっ子も同責任だ」と言えるケースがあると認めるのも、ほんとうの学生の平等だ。
親の庇護の下にある間は、キモメンは進学する学校や通学地域に気を使い、DQNのいないところを選ぶという常識を教えて当然だ。それが嫌なら、経済的に自立した上で、どんな結果も覚悟の上でしなさい、と私なら言いそうである。
曽野綾子氏の発言を支持する人は、↑これも支持するのかな。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#p1
ひとつ前の記事を非常に多くの方に読んでいただいたようです。まったく予想していなかったことなので、驚いております。とてもありがたいことです。
この記事にたくさんの方がブックマークをしてくださり、またコメントを書いてくださりました。記事の内容についての様々なコメントもいただいたのですが、私が漢字をほとんど使わずに文章を書いていることについてのコメントもたくさんありました。
前回の記事からはだいぶ間が空いてしまったのですが、今日はそうしたかな書きについてのコメントを読んで考えたことを書いてみたいと思います。
●ブックマーク・ページのブックマーク・ページのそのまたブックマーク・ページ
以上の4つのリンク先からブックマーク・コメントを引用させてもらいます。
id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。
私がブログでかな書きを実践している理由については、これまで5つの記事で述べてきました。
1. 漢字について
4. 国語廃止論序説
5.の記事だけは、「漢字・かな混じり文」という日本語の《書き表し方》の問題にはほとんど触れておらず、主に《言語》の問題を論じています。日本で話されている様々な言語*1の中で日本語だけを「国語」として特権的に扱うことをやめましょうという提案を行っています。
ただ、この《言語》の問題と漢字・かな混じりの《表記》の問題の二つを、私は基本的に同じ論理で考えておりますので、興味のある方は、5.も併せて読んでいただけると幸いです。
上に挙げた5つの記事は、どれも長い文章なので、ここで簡単に私が漢字をなるべく使わないでブログを書いている理由を述べておきます。
それはできるだけ多くの人が文章を読んだり書いたりできたほうが望ましいと考えるからです。私は一方では読み書きができなくても何の不都合もなく生活できる社会が理想的だと思っています。しかし、日本語の読み書きができないと様々な面で不利益を被ってしまうという日本社会の現状では、そうした人たちが読み書きを身に付けやすい環境を作っていくということも同時に行っていく必要が大きいでしょう。
また、私自身、文字で書かれた物を読み、また書くことによって、様々な良きものを今まで他人から受け取ってきたと思います。もちろん、私が本を読むことができるゆえに、かえって見落としたり見えなくなったりしていることはあるでしょう。だから、一方では、単純に「読み書きによって世界が広がり、見方が広がる」といって良いのか、ためらいも覚えます。少なくとも、「読み書きのできる人がそれをできない/しない人よりも広い世界と深い物の見方を持っている」などとは断じて言えないことははっきりしています。
とはいえ、私自身読み書きのできる者の一人である以上、読み書きのできない人に対して「読み書きなどできなくても良い」と言うわけにはいかないし、「読み書きしたいけれどできない」という人がいる状況を正してゆく責任を負っていると考えます。
そのためには二つの方法が考えられます。一つは、読み書きの教育を充実させること。もう一つは、読み書きを身に付けるためのハードルを低くすることです。
もちろん、一つ目の課題も大事ですが、とくに日本語の場合、二つ目の 「ハードルを低くする」ことの必要性は極めて大きいといわざるを得ません。私自信何度か書いてきたことでもあるのですが、ブックマーク・コメントでの次の Cunliffe さんの指摘は重要です。
id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。
日本語について一通りの読み書きができる人は、その習得に非常な時間と労力がかかるということを知らないわけではないでしょう。また、そうしてかけられた時間と労力の大部分が漢字の学習に費やされていることも。
日本の学校教育を6年なり、9年なり受けた人でないと、おびただしい数の漢字と熟語を覚えるのは極めて困難なはずです。
いうまでもないことだと思いますが、日本社会の住民のうち、日本の学校教育を受けた、あるいは受けられる人はその一部に過ぎません。一般的に学校に通う年頃を外国で過ごした人もいれば、学校に通えなかった/通わなかった人、その中には年を取ってから読み書きを学ぼうとする人もいます。また、日本の学校に通っても、漢字や熟語が十分に身に付かなかった人も大勢いるでしょう。
あべ・やすしさんの次の文章も併せて読んでください。
漢字は、文字表記として複雑すぎるために、様々な文字弱者を排除し、抑圧している。
もちろん、漢字をなくせば文字弱者がいなくなるわけではもちろんない。だが、大きく改善することがたくさんある。
私が「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を持つ人、知的障害者、日本語学習者です。
そうした人たちが文字情報にアクセスする権利を奪っているのが、いまある日本語表記に他なりません。漢字が障害となる度合いは、それぞれ異なっています。けれども、何らかの形で、漢字は障害として働いているのです。
こうして漢字が作り出している「文字弱者」の存在を指摘しますと、こう言われることがあります。すなわち、このブログを読みにくる人たちの中にそうした文字弱者が存在するのか、と。今までに何人の人からそういう意味ことは言われました。「わざわざ大多数の読者にとって読みにくいかな書きで書く必要が本当にあるのか?」と。
こういう考え方は、たとえば次のような発想と本質的に違わないと思います。
「この街では車椅子で歩いている人を見かけない。だから、わざわざ駅にエレベータを つけたり、スロープをつけたりする必要はないだろう。」
これは一見してひどい言い分だと分かるのではないでしょうか? 必要なエレベータや スロープがないからこそ、車椅子で移動する人が街に出てこれないのかもしれない。「排除されている他者の存在が、私たちによる排除の結果として見えなくなっているのではないか?」という可能性を考えなければなりません。
同じことは読み書きについてもいえます。ひらがなでも書き表せることを漢字で書く ことで、漢字を知らない人を排除してしまっているのだろうし、その結果排除されている人の存在が見えなくなってしまっていることはあるでしょう*2。
だから、「今この場所にいる人」だけでなく、「今この場所にいない人」にも向けて、この場所をできるだけ開かれたものにしていく試みは重要だと思うのです。
さて、先日の記事でいただいたコメントで多かったのが、かな書きの文章が「読みにくい」「読む気がしない」といったものでした。この記事に限らず、私はこのブログでかな書きを始めてから記事を書くたびに同じことを何度も言われてきたのですが、こうした反応はとても興味深いものだと思ってきました。
「読まない」という選択肢もあるのに、なぜわざわざ読んだ上で「読みにくい」と書き込まずにはいられないのだろうか? また、「読みにくいので途中で読むのをやめた」というようなことをわざわざブックマーク・コメントで報告してくださる方もたくさんいます。私の記事のようなかな書きの文章ではなくても、途中まで読んでやめることなどしばしばあるだろうに、どうして私の記事にだけ、わざわざそれをお知らせしてくださるのだろうか?
前回の記事に関して付けられた200を超えるブックマークのうち、「読みにくい」「読む気がしない」といったコメントをざっと拾ってみたら、これだけありました(他にも別の表現で「読みにくい」ということを言っているコメントがたくさんありましたが、それはまたあとで触れます)。
id:baumkuchen555 みんなよく読めるな
id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること
id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな
id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる
id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0 アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり。
id:makiyamakoji とても よみに くいね
id:feita さすがによむきがおきないね。
id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。
id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?
id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…
id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない
id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。
id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻の常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ
id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化
id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。
お疲れ様でございます。
みなさん、自信たっぷりに私の文章が「読みにくい」ということをご指摘くださって います。
「読みにくいものは読みにくい」のだ、と。それはそうですよね。読みにくいものは 読みにくい、読みやすいものは読みやすい、美味しいものは美味しい、美しいものは美しい、ですよね。
「不誠実」とまで言われました。自分にとって読みにくい文章を書く書き手は「不誠実」ですか? さぞかし良いご身分なのでしょう。
上のようなコメントはいつも頂いているので、もう慣れっこなのですが、今回目を引いたのは fromdusktildawnさんのコメントです。
id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。
この人のコメントは、私が今まで頂いたたくさんの 「読みにくい」というコメントの 中でも、例外的なものです。それは「オレ」というご本人個人にとって「読みにくい」とおっしゃっている点でです。
なお、かな書きの文章が読みにくいはたぶん fromdusktildawn さんの脳味噌が老いたからではないと思います。ちょっとした慣れの問題ですよ(これはあとで説明します)。少なくともとりわけ年を取ってから漢字を学習する手間と苦労を考えたら、すでに漢字・かな混じり文の読み書きを習得した人がかな書きの文章に慣れるのは簡単なものです。漢字を使って文章を書き表さなければならない何か合理的な理由があるならまだしも、そんなものは、あとで述べるように、漢字を学んだ人にとってのちょっとした「慣れ」以外にないのは明らかです。
ともかく、私のかな書きの記事に「読みにくい」とコメントする人たちの中で、「自分にとっては読みにくい」という言い方をする人はほとんどいません。つまり、読みにくさの原因が読み手である自分自身にではなく、一方的に書かれた文章の側にあるのだという確信があるのでしょう。だからこそ「私にとってはあなたの文章は読みにくい」ではなく、単に「読みにくい」という言い方ができる。まさに「読みにくいものは読みにくいのだ」というわけです。
そして、「読みにくさ」の原因が読み手自身にではなく、書かれた文章の側にあるという確信を支えている条件とは、「この文章は私以外の多くの人にとっても読みにくいものであるはずだ」という思い込みに他なりません*3。「みんなも読みにくく感じるはずだ」と思うからこそ(多くの人が「読みにくい」と感じているのは事実でしょうけど)、遠慮はばかりなく、自信を持って、ただ「読みにくい」と言える。
つまり、「私にとって」と言わずに、ただ「読みにくい」とだけ言えるのは、多数者によりかかるという姿勢を取る限りにおいてです。かな書きの文章に対し、ただ「かな書きである」という理由で「読みにくい」という評価を下せるのは、それが「一般的に」――というのはとりも直さず「多数者にとって」ということですが――「読みやすい」と信じられている書き方から外れているからに過ぎません。
こうした自らが多数者であることに寄りかかった、いわば権威を笠に着た発想は、次のような表現をとって現れることもしばしばです。
「日本語酷すぎて読めない」だそうです。だいたい私にとっては、自分が書いたりしゃべったりする言葉が結果的に「日本語」に分類されるかどうかなど知ったこっちゃないのですが、この人はご親切にも(余計なお世話ですが) 私の文章を「日本語」とみなした上で、その「日本語」の名の下に「酷い」と断じるわけです。この、「自分は『日本語』の名の下に他人の言葉を評価できる/しても良い」といわんばかりの思い上がりご立派もんだと思います。
書き言葉であるか話し言葉であるかに関わらず、他人の表現を「日本語としておかしい(間違っている)」とか、反対に「日本語お上手ですね」とか評価を下すことに無頓着な人はよく見かけますけど、こういう人たちは一体何様のつもりなのでしょうか?
なるほど、あなたは他人の言葉を「日本語」とみなすかみなさないかについて権限をお持ちだ、と。そして、あなたがそれを「日本語」とみなすとき、あなたはそれを一方的に評価できる特権をお持ちだ、と。すなわち、相手があなたたちの「標準」と考える「日本語」に一方的に合わせるのが当然だ、と。そう考えているのでしょう。本当に結構なご身分ですわね。
すでに述べたように、私は自分の言葉が栄えある「日本語」という位置付けを与えていただこうがそうでなかろうが構いやしないのですが、光栄なことに「日本語」という分類に含めてくださるのだとしても、その「日本語」には様々な書き表し方が考えられますし、実際行われています。書き手がどういう読み手を想定するかに よって、「日本語」は、漢字かな混じり文で書かれることもあれば、かな書きで書かれることもあるでしょう。あるいは、ローマ字で書かれることもあれば、ハングルで表記されることもあるでしょう。点字で書かれることもあります。私は先に述べたような、またリンクした記事で述べてきた理由から、かな書きを選んでおります*4。
たとえば、ひらがなや漢字を知らないけれどもアルファベットには馴染んだ日本語話者同士が、アルファベット表記の日本語でやりとりする場合があります。おそらく、そういった場合には、第三者が横から口を挟んで「君たちの日本語は読みにくい」などとは言わないでしょう。では、なぜ私のかな書きの文章が一部の人を苛立たせ、「読みにくい」「読む気がおきない」といったコメントを誘ってしまうのか?
その理由の一つには、私が漢字かな混じり表記でも書けるのに、あえてかな書き文章を書いていることがあるでしょう。つまり、「わざわざ意図的に読みにくい(と漢字かな混じり文に馴染んだ人には感じられる) かな書きで書いてやがる」という反発があるのではないかと思います。
しかし、そこには 「日本語で書かれた文章である以上、自分たち大多数の読み手にとって読みやすい漢字かな混じり表記で書かれるのが当然だ」という前提が――屈託なしに「読みにくい」というコメントを書き込む人はあんまり自覚していないのでしょうが――あるのではないでしょうか? 普段日本語の読み書きにさほど不自由を感じずに済んでいる人は、「日本語で書かれた文章である以上、自分にとって読みやすいのは当たり前だ」と思ってしまいがちなのでしょう。だから、「日本語」で書かれているにも関わらず、「日本語」の「普通」の読み手である自分たちにとって「読みやすさ」の点で配慮されていないと感じられる文章には苛立たずにはいられない。
繰り返しになりますが、そうして苛ついたときに、屈託なくただ「読みにくい」とはばかりなく言ってのけることができるのは、多数者としての権威を笠に着ることによってです。そのことに私が気付くことができたのは、はてなブックマーカーの皆様方から「読みにくい」というコメントを度々もらったおかげです。私自身別の場面では、同じように多数者の権威と権力を笠に着た物言いを無自覚なまましているのかもしれません。
次に引用するのは、コーリィー・フォードという人が1949年に書いたコラムです*5。あえて、かな書きに直して引用します。
このごろ建物の階段は、昔より勾配がきつくなったように思う。蹴込みが高くなったのか、段数が多いのか、何かそんなことに違いない。
たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ上るのもめっきり難しくなった。いまでは一段 ずつ上るのが精一杯だ。
もうひとつ気になるのは、近頃の活字の細かさである。両手で新聞を広げると、新聞がぐんぐん遠くへ離れていくので、目をすがめて読まねばならない。
つい先日、公衆電話の料金箱の上に書いてある番号を読もうと後ずさりしているうちに、気がついたら、ボックスから体が半分外にはみ出していた。この歳でメガネなんて考えるだけで馬鹿馬鹿しいが、とにかく新聞のニュースを知りたくても、誰かに読んで聞かせてもらうしかなくて、それではどうも物足りない。最近の傾向なのか、みんながひどく小声でしゃべるので、よく聞き取れないのだ。
何もかもが昔より遠くなった。私の家から駅までの距離も倍ぐらいに増えたし、これまでになかった丘が中間にできたようだ。……
見ての通り、この文章はは、耳が遠くなり、また足が弱くなった年寄りの、いわば「自己中心的な」視点から書かれたジョークです。これが滑稽に感じられ、ジョークとして受け取られるのは、普通年寄りが自己中心的な視点から物を言うことが許されていないからです。
文字を読むのに苦労するのは「活字が細かすぎるから」ではなく、彼・彼女が「年を取って老眼になったから」とされる。また、話し声を聞き取るのに苦労するのは「みんながひどく小声でしゃべるから」ではなく、本人が「年を取って耳が遠くなったから」と される。
だから、普通年寄りは遠慮がちに「私にとっては新聞の文字は細かすぎて読めない」と言わざるを得ない。
同じことは文章の表記についてもいえるはずです。漢字かな混じり文に慣れた多数者は、自分たちが多数者であるからこそ、自信たっぷりに大声で「この文章は読みにくい」と言える。しかし、その一方で漢字かな混じりの文が読めない、あるいは読みにくい人が、大声ではばかりなくただ「読みにくい」と言うのは難しいでしょう。彼ら・彼女らは遠慮がちに「私は読めない/読みにくい」という言い方をするか、あるいは遠慮して「読めない/読みにくい」ということを言わないか、どちらか でしょう。
そうやって彼ら・彼女らに遠慮を強いているのは誰か? それは漢字かな混じり文だけが「まとも」な「日本語」だという常識を作り上げてきた私たち多数者でしょう。
石川准さんの言葉を借りると、多数者は、自分が「配慮されている」ことを都合良く忘れる一方で、少数者への配慮を「特別な配慮」とみなしがちです。石川さんの文章を、今度はかな書きでは読みにくいという一部の人たちに「特別に配慮」して、元の文章のまま引用します。
もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。
多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
たとえば、駅の階段とエレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーターは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。
あえてかな書きで文章を書くことが漢字の読めない人への「特別な配慮」だとするなら、漢字かな混じりで文章を書くことも、そのほうが「読みやすい」という人への 「特別な配慮」といわなければなりません。反対に、漢字かな混じりで文章を書くことが読み手にとっての「当たり前の配慮」だと考えるならば、漢字の読み書きに困難を抱える人に配慮するのも「当たり前の配慮」です。
要するに私が言いたいのは、漢字の読み書きができるからといって偉そうにするんじゃないよ、ということです。
その上で、この文章を読まれている方に、かな書きで書くことをおすすめしたいと思います。
私は前の記事で次のように書きました。
さて、明らかに不合理でくだらないということが分かりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きて行きたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分が権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにも関わらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。
これは別の文脈で述べたことですが、実は書いているときに漢字の問題なども念頭に置いていました。
漢字の読み書きにあまり不自由しなくなった人は、そのためにおびただしい時間と手間をかけてきたはずです。また、「あまり不自由しなくなった」とはいっても、それでも実際のところ結構不自由しているでしょ?手書きで文字を書くときに漢字の書き方を思い出せなかったり、パソコンで書くときだって同音異義語があるときにどの文字に変換すべきか分からなかったり。難しい漢字や熟語が使われている文章は、読むのだって大変だし。こうして漢字のせいで余計に辞書を引く手間がかかる。漢字を知らないと恥ずかしいと思わせられたりもする。
そうやってこれまで苦労してきたし、今も日々苦労しているから、その自分の苦労を否定したくないという気持ちになるのは、ある意味自然なことではあります。自分の苦労に「意味がある」と思うために、漢字を使うことに「合理的な理由がある」思い込もうとする気持ちもわからないではありません。
id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記。
id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。
ところが残念なことに、というか幸いなことに、漢字を使わなければならないという合理的な理由はたぶん存在しません。
たとえば、「日本語は同音異義語がたくさんあるから、かな書きでは意味が通らない文章になる」ということを言う人がいます。
しかし、これは物事の順序を取り違えた議論で、「漢字を使うから、同音異義語がたくさんできてしまうのだ」というべきだし、同音異義語を避ける工夫をすれば良いことでしょう。そもそも、同音異義語はどんな言語でもあるのだし、多少それがあっても、文脈で判断できるように書き方を工夫することは簡単です。
実際、話し言葉では、そうやって文脈から判断できる範囲で同音異義語を使ったり、また文脈から分かりずらい同音異義語の使用を避けたりといった工夫はなされているわけです。もちろん、話し言葉では、イントネーションを始めとしてかな書きでは書き表せない情報を含んでいるので、単純には比較できないのですけれども。しかし、わかりにくい同音異義語が多すぎるのが問題だというのなら、新しい言葉を少しずつ作っていけば良いだけの話です。
他によくある誤解はは、漢字は表意文字なのでビジュアル的に把握しやすいというものです。たとえば、次のようなコメントもそうした誤解に基づいているのでしょう。
id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど
ちょっと考えればわかることですが、漢字がかなやアルファベットと比べて特別にわかりやすいということはありません。「漢字は一目でその意味を把握しやすい」と言う人は多いですが、そういう人はアルファベットだったらどうなのかということを少し考えてみると良いでしょう。アルファベットだって同じなのです。
英語を読むのに慣れた人は、たとえば "guitar"という文字の連なりを見たときに、一目でその意味を把握しているでしょう。一方、"kltjautr"といった文字の連なり――これは いま私がでたらめにキーボードを打って作った文字列です――を見ても、ひとまとまりの物と認識することはできないはずです。
つまり、漢字を読むのに慣れた人が、たとえば「雪」という漢字や「弦楽器」といった熟語の意味を一目で把握できるのも、それとまったく同じことであって、単に「見慣れているから」に過ぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、文字を読むのに適応しやすい体をもった人にとっては、見慣れた単語や連語を、文字単位ではなく、ひとまとまりの語句として認識することは簡単なはずです。
要はちょっとした「慣れ」の問題であって、「漢字そのものの特徴ゆえに、漢字で書かれた文章は読みやすい」という俗説は全くの誤りです。「漢字で書かれた文章は読みやすい」と感じるとしたら、それは単にあなたがそれに「慣れているから」に過ぎません。
(続き)
NHK血迷ったか!?
最近のオリコンや様々なCDの売り上げランキングを見ると、一見アニソンや声優が紅白に出場するという現象も当然の結果であると言えるのかもしれない。
しかし本当にそれでいいのだろうか?確かにオリコン等でアニソンが上位を占めることも増えてきて、世間一般にオタクコンテンツが浸透してきたかのように感じられるかもしれない。だが、それを持ってアニソンの紅白進出が成されてしまう現実には違和感を覚えてしまう。
それは、嗜好の多様化によって相対的にアニソン等の順位が上がっただけであり、実際にはそれがイコール一般化といえる状況には程遠いものであると言う認識が自分の中にあるからかもしれない。
現実問題として、「水樹奈々」と言う名前を一般人に問うた時、どれほどの人間がその存在を認知していてくれるだろうか?オタク趣味を持たない家族にその名前を問うてみて欲しい。殆どの人間が、どういう人間か理解していないのではなかろうか?(勿論、他の紅白出場者についても同様の傾向が有り得ることは理解している。その意味でも「紅白」と言うシステムの限界を見ることが出来るがそれは今回の論点からズレるので置いておく
未だに、オタクコンテンツが一般メディアで取り上げられる事に一抹の気恥ずかしさを感じてしまうのは、もう既に古いオタクであることの証明になってしまっているのだろうか?
アニソンは紅白の裏で、それこそラジオやBS辺りで特番組んで、それ系の人達だけで盛り上がっておくのが、オタク界隈にとっても一般人にとっても幸せなのではないだろうか?少なくとも、人目を憚らず羽目を外すことが許される場が確保されるのはメリットだと思うのだが
サブカルはサブであるからこそ面白いのであって、それがメインの舞台に押し上げられてしまった時点でその魅力が失われてしまうのではないだろうか?(いや、勿論そのものの持つ魅力が些かも減ぜられるものでは無いことは理屈では理解できる。しかし自らの手を離れてしまった感が存在するのは否定できない。この心情は、サブカル系の人間の宿痾であるかもしれない
全くの別問題としては、紅白と言う一般のメディアにおいて我らが同胞である一部の人間が、我々の間だけで許されていた行動を、そのままそっくり再現してしまうのではないかと言う危惧が存在する事も忘れないでおきたい。
それともこの思考自体が既に老害であり、こうした考えこそオタクコンテンツの一般化を阻害し、芸術や文化として昇華される妨げになってしまっているのだろうか
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
外国人選挙権―まちづくりを共に担う
自治体の首長や議員を選ぶ際に永住外国人が投票できるようにする。この外国人地方選挙権の導入に、鳩山首相や小沢・民主党幹事長が前向きな姿勢を示し、来年の通常国会にも法案が出される見通しだ。
98年以降、民主党や公明党が法案を出してきたが、根強い反対論があって議論は進まなかった。この間に地域の国際化は急速に進んでいる。鳩山政権は「多文化共生社会」をめざすという。実現へ踏み出すときではないか。
日本に永住する外国人はこの10年で5割増えて91万人になった。このうち歴史的経緯がある特別永住者の在日韓国・朝鮮人は42万人だ。年々増えているのは80年代以降に来日し、仕事や結婚を通じて根を下ろし、一般永住資格を得た人たちだ。出身国も中国、ブラジル、フィリピンと様々だ。
地域社会に根付き、良き隣人として暮らす外国人に、よりよいまちづくりのための責任を分かち合ってもらう。そのために地方選挙への参加を認めるのは妥当な考え方だろう。
日本の活力を維持するためにも、海外の人材が必要な時代である。外国人地方選挙権を実現することで、外国人が住みやすい環境づくりにつなげたい。分権時代の地方自治を活性化させることもできる。
「選挙権が欲しければ国籍をとればいい」との考え方がある。だが、母国へのつながりを保ちつつ、いま住むまちに愛着を持つことは自然だ。そうした外国人を排除するのではなく、多様な生き方を尊重する社会にしたい。
合併などを問うための住民投票条例の中で、外国籍住民の投票権を認めた自治体はすでに200を超えている。地方選挙権についても最高裁は95年、立法措置をとることを憲法は禁じていないとの判断を示している。
世界を見ても、一定の要件を満たした外国人に参政権を付与する国は、欧州諸国や韓国など40あまりに上る。
近年、声高になってきた反対論の中には「外国人が大挙して選挙権を使い、日本の安全を脅かすような事態にならないか」といった意見がある。
人々の不安をあおり、排外的な空気を助長する主張には首をかしげる。外国籍住民を「害を与えうる存在」とみなして孤立させ、疎外する方が危うい。むしろ、地域に迎え入れることで社会の安定を図るべきだ。
民主党は選挙権を日本と国交のある国籍の人に限る法案を検討しているという。反北朝鮮感情に配慮し、外国人登録上の「朝鮮」籍者排除のためだ。
しかし、朝鮮籍の人が必ずしも北朝鮮を支持しているわけではない。良き隣人として共に地域社会に参画する制度を作るときに、別の政治的理由で一部の人を除外していいか。議論が必要だろう。
もし「多文化」の最小単位を「個人」にまで微細化してしまった場合、多分その場の全員が「中国人」か「イスラム教徒」かのどちらかになると思う。次点で「ヒンズー教徒」かな。人口比で言えば確実に彼らが多数派だし、人数の増え方もトップクラスだもん。数の論理で、二者がそこら中に存在する事を受け入れる事なければならなくなってしまう。しかしそうなると逆に「中国人」や「イスラム教徒」以外のアイデンティティがこの二者に駆逐されてしまう現実もある。彼らの他文化に対する寛容さはぶっちゃけ下から数えた方が早いんだもん。どちらもあちこちで中華街とかスラムとか作って、現地の人間と隔絶されたコミュニティー作りまくってるから。そういう連中に対して「多文化共生」を唱えてる連中がアクション起こした事あんの?何か成果を出してるの?
そもそも多数派を占める彼ら自身が、「多文化共生」なんて屁の突っ張り程度にも考えてないが故に多数派を獲得しているんだよね。だから「多文化共生」を唱える事が、結果的に「多文化共生」を微塵も考えてない連中を利する事にしかならんのよ現状は。こっちが相手を受け入れる準備を整えても、相手がこっちを受け入れるとは限らんでしょ。
この社説子にも言いたい事だけどさ、「多文化共生」を訴える相手偏りすぎてるよね。前述の中華街作って、中国人同士で勝手に結束しちゃってる連中にも言うべきだよね。なんか彼らの長老会みたいな所に乗り込んでいって。「それではいけない!長老会にもアメリカ人や日本人やロシア人を参加させるべきだ!多文化共生万歳!」ってさ。それをやらないから、保守的な連中から「ていうかお前どこの国の味方?」と疑われるんだと思うよ。それが嫌なら、タリバンとか反米国家に向けて「多文化共生しましょう!欧米文化を受け入れましょう!」って言えばいいと思うよ。何故かそういう所に関しては、「帝国主義のアメリカに抵抗する勇敢な人々」みたいなとらえ方する人多いけど。
ってことで、立法趣旨を確認するには、法案提案者がどう考えているのかを知るのが大事ってことで。
○枝野委員 ありがとうございます。
それでは次に、児童ポルノの方の定義のところについてお尋ねをさせていただきたいというふうに思います。
「「児童ポルノ」とは、」ということで、「写真、ビデオテープその他の物」というまず一つの限定がございます。ここのところで、従来の自社さで衆議院に出されておりました案では、「絵」という文言が入っておりましたが、今回「絵」という文言を外しました。そういたしますと、「その他の物」に絵が入るのか入らないかということになるわけですけれども、含まれる絵と含まれない絵があるというふうに理解をしておりますが、どういったものが含まれて、どういったものが含まれないのかということについてお答えいただければと思います。
○大森参議院議員 自社さ案の方では例示のところに「絵」がございましたけれども、今回明記してございません。これは一つに、コミックとかそういうものが入るのか、こういう問題もあったものですから例示から外しております。それで、枝野委員おっしゃるとおりに、絵につきましては、「その他の物」に含まれ、児童ポルノに該当することもあり得ると考えております。
この法案では、児童ポルノとは、児童の一定の「姿態を視覚により認識することができる方法により描写したもの」とされておりますが、ここに言う児童とは、十八歳未満の実在する児童をいうことになります。したがいまして、絵につきましても、実在する児童の姿態、これを描写したものであると認められない限り、児童ポルノには該当しないことになります。こう考えております。
○枝野委員 ありがとうございます。
さてそこで、ちょっと悩ましいのは、実在の児童を描いたのだけれども、実際に裸にしてそれを描いたということではなくて、顔だけ実在の子供、例えば芸能人などのような有名人の顔であれば、顔だけは実在の子供の顔を描きました。だけれども、裸の部分についてはこれは全く想像してかきました。こういった実在の児童を想像して描いた絵というのは、これはどちらに入るのでありましょうか。
○大森参議院議員 その場合に、人物、児童という人間は実在しているけれども、その姿態が、架空ですね、これが実在しない場合、想像してかいたものになりますので、実在する児童の姿態とは言えず、児童ポルノには該当しないと考えております。
○枝野委員 このあたりのところは表現の自由と絡みますので、やはり明確さが要る。今のようなものを本来は規制の対象にすべきかどうかということはまた別に問題があって、うまく規制できるのだったらすべきというのもあるかもしれませんけれども、この法律の解釈として、対応としては今のようなことでやるべきだろうというふうに思います。そうしか解釈できないだろうというふうに私も思います。
今の特に後の方の話など、法務省それから警察庁、同じような理解でよろしいでしょうか。
○松尾政府委員 ただいまの発議者の御答弁の趣旨を尊重して運用していくべきものと思っております。
○小林(奉)政府委員 警察におきましても、ただいまの法務省さんと同じように、発議者の説明の趣旨を体して適切に運用してまいりたいと思います。
○枝野委員 それから、これが、もちろん今のようなお答えになるのをわかった上でお尋ねをしておりますので、例えば実在の子供をモデルにした絵だとか、あるいは芸術、何が芸術かというのは、芸術じゃない作品をつくっていらっしゃる方でも御自分では芸術とおっしゃるわけなので、これも主観的なものが入るのですが、まさに一般的に、美術館などに描かれている、例えばヨーロッパの方の教会なんかの壁画みたいなところを見れば、例えば子供の裸の姿とかいうものの絵があります。あれが実在の子供を描写したものかどうかわかりませんけれども、ああいったような芸術作品のようなものは、やはり今のお話の「性欲を興奮させ」などの解釈のところで問題ないということになるケースも多々あるのではないかなというふうに思うので「性欲を興奮させ又は刺激する」すが、そういった理解でよろしいでしょうか。
○大森参議院議員 今枝野委員、教会の壁画などの裸の絵とおっしゃったのでしょうか。それはまず、実在する児童かどうかということも問題になってくると思います。
それから、芸術作品ですとか、あるいは芸術作品とかに出てくる場面についてどう判断するかということについても、例えば芸術作品が何か、どうかということも非常に難しいのではないかと思います。したがって、この法律の関係につきましては、あくまで当該描写に係る児童の姿態が第二条第三項の第三号の要件を、もちろん二号もあるかもしれませんが、この要件を満たすものであるか否かによって、同号に言う児童ポルノに該当するか否かが判断されることになります。
○枝野委員 ありがとうございます。そういったことで運用していただければ、変な拡大とか間違った運用ということはないかなというふうに理解をしたいと思います。
それから、先ほどもここで出てきていますが、「性欲を興奮させ又は刺激する」というのが要件になっているわけですけれども、この「性欲を興奮させ又は刺激する」ということについての判断者はだれであるのか、あるいは、だれの性欲を興奮させ刺激するということであるのか、これについてお答えをいただければと思います。
○大森参議院議員 「性欲を興奮させ又は刺激する」、この構成要件につきまして、だれの性欲をという御質問でございますけれども、通常、構成要件に規定してありますことは、一般通常人というものを基準としております。
最終的にそれをだれが判断するのかということになりますと、犯罪構成要件に該当するか否かの最終的な判断は、刑事事件におきましては裁判所がすることになります。
○枝野委員 それで、一般人の性欲を刺激するかどうかということになりますと、逆に言えば、ごく一部の人たちしか性的な刺激を受けないというケースについてはここには含まれないという理解でよろしゅうございますね。
○大森参議院議員 今申し上げましたように、構成要件該当性の判断というのは一般人を基準といたしますので、一般通常人より特に性的に過敏に反応する方とかを御想定なさっているのかと思いますが、今申し上げたように一般人を基準にいたしますので、枝野委員がおっしゃったような場合は、児童ポルノには当たらないことになると思います。
○枝野委員 それで、先ほど途中でちょっと切りかえてしまったのですけれども、先ほどおふろのコマーシャルみたいな例を申し上げましたが、一般的に言えば、これも、人によって子供も成長程度が違いますし、シチュエーション、映し方によって全部違うとは思いますが、普通には、三歳とか四歳の子供たちが例えば裸で水遊びをしている、それがニュースの映像とかで流れたりすることがありますね、いよいよ暑くなりましたなんというニュース。それから、温泉地で普通に温泉に、おふろに入っている子供、それも少なくとも二歳とか三歳の子供。
これは、何歳からかということをここで議論しようと思うと、これはまさにケース・バイ・ケースなのでそういうことは申しませんが、そういったケースみたいなところは、これは一般人の性欲を刺激するとは普通には言えないということで大体解釈されるだろうなという理解でよろしいでしょうか。
ただ、低年齢、三歳とかとおっしゃったのでしょうか、その裸であれば絶対該当しないかということは必ずしも言えません。性的に未熟な女の子、女児の陰部等を描写したものと認める写真についても刑法上のわいせつ図画に当たるとした判例がございます。
そういったことから、常に否定されるわけではないと考えますけれども、今おっしゃったような事例につきましては、それが通常一般人から見て「性欲を興奮させ又は刺激するもの」と言えるかどうかという、この基準によって判断していただければ妥当な結論が出ると思います。
http://anond.hatelabo.jp/20091118014830
スパコンの1件だけど俺は廃止肯定派。
太平洋戦争で戦艦大和を1隻作って起きるかどうかもわからない艦隊決戦に備えるよりも
その予算で駆逐艦を100隻作って輸送艦の護衛をやる方が有用だったって言うようなそんな意味で。
早いスパコンも必要だけど、今の日本に必要なのはとにかく物量。
地方国公立や中堅私大にはスパコンがろくに配備されてないんだぜ。
俺の母校じゃいまだにNECのSX-5が1台あるだけだ。
で、日本のメーカーの開発要員の主力はこの地方国公立や中堅私大出身者が多い。
大学でスパコンを使ってない人が多いもんだから、日本国内でスパコン向けのプログラムを書ける人は少ない。
結果、メーカーにあるスパコンの利用率は低いままで、宝の持ち腐れになってる。
しかも、スパコンの機種選定の基準が、理解している一部の人間にしかわからないので談合の温床にもなるという有様。
京速計算機の規模を縮小するなら、それをきっかけに
余剰資金で全国の理系学部に廉価なスパコンを入れた方が国益になると思う。
まあ今の民主の政策だと、
「大和を作る必要はありません、長門を作れば充分です。削減した予算は陸軍に回します。」
って言うような迷走ぶりはあるわな。
結婚しないとほとんどの人は稼げないなら独身のほとんどは失業者になってるはずでは?
http://pc11.2ch.net/test/read.cgi/net/1255915486/
彼らの主張をまとめると、
はてな民は脅迫された被害者を罵倒し、いつも回りくどい言い回し、世の中に対して斜に構え、常に誰かに因縁付け、他人を上から見下し、絶対に自分の非を認めない。そんな俺様サイコー!
だそうです。 確かにここで話題になっているekkenさん、kanoseさん、y_arimさん、FTTHさんには当てはまっちゃうのかなーと不謹慎ながら笑ってしまいました。個人的に彼らのことは愛すべきお馬鹿さん達だと思ってるんですがね。
以下原文
705 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/05(木) 05:10:02 ID:NJ57oEoH0
ekken はひどいんじゃなくて、頭が弱いんだよな。本来の意味でのバカ。
そんで、それを擁護するのがはてなー。
707 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/05(木) 05:38:33 ID:Dkp0LYGW0
708 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/05(木) 06:00:56 ID:0YYIKcJ40
はてなーってTwitterでもそうなんだけど「俺の主張は正しい、つまりおまえは駄目だ」
みたいな感じで話し進めてくる。
んでdisられたほうは知らないうちにはてなーに囲まれてるw。
善良なユーザーがちょっと反論すると、大量のはてな民(ekken,kanose,有村,FTTH含む)が
kanoseやekkenやHolyGrail はてな村の中のローカルルールの中でしか生きられないんじゃないかと
思えてきた。
本当にはてなは日本でもっともやっかいなユーザーを抱えたサービスだな。
710 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/05(木) 06:57:48 ID:Iodh/RFW0
はてな民(笑)はほんとに頭悪いから困る。
あそこまで劣悪なコミュニティもないだろ
711 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/05(木) 07:35:13 ID:9yt0ihSxO
偉くもないのに偉そうだよね。
712 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/05(木) 08:30:32 ID:rvNLV7ET0
全くはてなのこと知らない者なんだけど、
例えばプロフィールに掲載しているURLがはてなのものだったら
その人のこと警戒していいの?
713 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/05(木) 08:43:48 ID:NJ57oEoH0
脅迫した人間ではなくて脅迫された人間がまず最初に非難されるのがはてな村です。
ekken みたいなバカは条件反射で被害者を叩くんだけど、それが正論だと言われるのがはてな村。
714 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/05(木) 08:48:53 ID:AooKLRqH0
勿論全員が全員悪いわけじゃないけど、
どういうわけか俺様思考のカタマリのような人がいる確率が妙に高いのは確か
上の方のレスで言われてた「はてなは肩をぶつかりながら歩く層」という例えは的確すぎてワロタw
プライドばっかり高くてしかも品がないのが多いんだよね
716 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/05(木) 11:01:55 ID:Dkp0LYGW0
持って回った言い回しをしてみたり、斜に構えてる俺ってカッコイイイイイイイ!みたいな馬鹿が多い。
オマケになにかにつけ因縁付けたり他人を上から見下してみたり。俺様サイコー!って感じ。
AS以外だと一部の人格障害でも起りうるよ。寂しくないって。関わり合いが面倒くさい系。
でも羨ましいんだよなあ。寂しくないらしいから羨ましい。
具体的に言うと空飛ぶぱんつに対する反応。
みんなあまりの馬鹿馬鹿しさに腹抱えて笑ってるんだけど、一部の人たちが真面目な顔して「アニメ業界の未来は~」とか「視聴者のレベルが~」とか語っちゃってるの。
「つまらない」「自分の好みに合わない」ならわかるよ? なんで空飛ぶぱんつにアニメ業界の未来を託そうとするんだ。そんな未来こっちだって望んでないって!
1 相手のどこを好きになったの?
穏やかな話し方、温厚な性格、格闘技やってて強いのに精神的には少しもマッチョでないところ。
「女はこう」「男はこう」と言わないところ。
2 相手の嫌なところは何?
事務手続きが苦手なところ
3 それを上回る魅力ってどんなところ?
いやなところなんて些細なことだから気にならない
うーん、非モテ同士だし、同じ大学出身だし、つりあってると思うよ。
5 結婚した決め手は何?
これまでの彼氏は、最初はよくてもだんだんいやになっていった。
家にずっといられると早く帰って~という気持ちになった。
でも夫とはずっと一緒にいたいってずっと思い続けられたから。
6 元々結婚願望があった?
あったけど、そんなに好きでもない人と結婚するくらいなら一人でもいいと思ってた。
でも全然もめなかった。
分担というより、一緒にやってちゃっちゃと済まそうって感じだった。
9 結婚して後悔してない?
全然。
10 結婚できるならした方がいいって人に勧める?
無理してする必要はないと思うけど、してみてもいいんじゃないって思う。
でも例えば残り10年以内に引退しようという人たちが、体も頭も鍛え続けるモチベーションをどうやって保つんだろう。
もちろん中にはそういうことが出来る人もいるだろうけど、お荷物になる可能性のほうが高いんじゃないだろうか。
鞭としての生活保護の削減や、飴としての高報酬はどちらも良い考えには思えないし。
医療や生活水準の向上によって、可能性としての寿命は延びてきて、今後も延びていくだろうけど、
私の想像では、それは生きながらえているっていうニュアンスであって、
定年の時期を引き延ばしても、労働力として期待できる期間はそれほど延びないのではないかと思うよ。
そういう意味ではホリエモンとかが推していた、一部の人が働いて他の人は働かなくても食べていける社会、っていうほうがまだ現実的だと思うなー。