とあるスポーツを大学の体育会でやっていた。自分の中で消化するためだけにここに書いておく。
大学2年生のとき、突然「コーチ」と名乗る存在がやってきた。彼はそのスポーツの「プロ」だった人間であり、現在は引退して家業を手伝っているという。
元来、大学の体育会系部活動ではそのOBらが監督・コーチといった名目で携わるケースがほとんどで、自分のいたような、名目こそあれどほとんど顔を出さないOB達の方が珍しいだろう。この際その良し悪しは言及しない。現に自分は、学生に裁量を与え、責任は取ると言っていた初老の監督が好きだった。
新しく来た「コーチ」の歯に絹着せぬべらんめぇな物言いが当時の自分には珍しく、また少し苦手だった。
彼も自分と二、三の会話をして、自分との相性は良くないと悟ったと思う。
彼は勉強熱心なコーチだった。「コーチング」を学び、自分たち部員で実践をした。
彼は自分がプロの道を途中で諦めた事から多くの経験を得たのだろう。学生達にはしきりに以下の言葉を繰り返した。
プロの選手になる道は厳しいので、諦めた後の道も考えておくこと。
自分はこれが間違っているとは思わない。むしろ有難い指導だったと思っている。だが次第に彼の指導は「プロ選手を目指す奴は馬鹿」「現実を見ていない」そして「俺の言うことを聞かない」に変わった。
元々は学生が主体となって運営していた部活動だったので、彼に意見する者もいた。だんだんとそういった部員達は居場所をなくしていった。実力があるのに自ら辞めた部員もいた。自分を曲げず、部の中で半ば干されながらも、意思を貫いてプロに挑戦した者もいた。
世間知らずの馬鹿者が、彼の神経を逆撫でしたのは間違いない。今思えば彼のやり方を真っ向から否定せず、もっと良い言い方もやり方もあったはずだ。今考えれば明らかに自分が未熟であり恥ずかしい限りだが、当時の20歳だった自分はまだ、大人には純粋に本心でぶつかり合えば、向こうもまた本心でぶつかってくれると信じていた。
返事はなかった。代わりに上級生による明らかな「シメ」が始まった。挨拶をしてもらえない。練習に参加させてもらえない。睨まれる。雑用を押し付けられ、出来栄えに文句を言われる。競技に関するレポート作成を求められ、内容について晒しあげられる。後から全て彼の指示だと分かった。絶望した。それまで部のためにと思って活動してきたこと全てが意味のないものに見えた。周りの部員が皆敵に見えた。
その頃はちょうど大学3年に差し掛かっていて、就職活動が真近に迫っていた。悲しいかな、自分の大学生活には部活以外何もなかった。社会に出て、新しい世界に飛び立つためには、自分はこの部活に居るしかない。歯を食いしばって部に残った。
就職活動では、部活のいい面を切り取って話した。大嫌いな部活を良いように語るのは辛かった。「貴方は本心でそれを話してる?」と言われたこともある。ハッとした。それ以降は嘘はつかず、部活の嫌なところは素直に話した。過去ではなく未来のことを考えるようになった。最終的にはご縁があり、世間様から見てもそれなりに見劣りしない企業に内定を頂いた。
大学4年生になり、最高学年になった。彼は当然のように自分にも甘くなった。最高学年として下級生をまとめるための彼流の教えをたくさん吹き込むようになった。OBの前でも「学業と部活動を両立させ就職も決まった模範生」として紹介されるようになった。
同級の部員がキャプテンになり、彼と毎晩のように電話で連絡をを取り合うようになった。優しかったキャプテンはある日「あいつシメよう」と言って、気に入らない部員をコンクリートに1時間正座させようとした。自分がそれは違うと言うと、怒ったように部屋を出て行った。溝は決定的になり、卒部まで埋まることはなかった。卒部してから、彼とも、キャプテンとも、縁を切った。
彼が部活に現れてからの3年は本当に辛かったけど、最後までやり切れば何かが残ると思っていた。数年たって思い返してみても、この時の記憶は灰色で、何かが残ったとはとても思えない。
就職先は非常に素晴らしい企業であり、入社できたことに心から感謝している。自分が部活を辞めなかったから内定がもらえたのか?それはいまだに分からない。ただもう一度大学生活をやり直せるのであれば、自分は違った選択をしていたんじゃ無いかと思う。
当時はいかに自分を壊さずに守るかだけを考えていたので、後輩たちにも心からの指導をしてあげることができなかった。守れなかった後輩が何人もいた。それだけを今も悔やみ続けている。