最近はあちゅうさんという人がセクハラを告発したことが話題になっているのを目にしました。しかし一部では「はあちゅうも童貞をいじってただろ!お前もセクハラだ!」という意見も出ているようです。そういった意見へのはあちゅうさんの回答ととれるツイートがありました。
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本人が堂々と公言している童貞、ヤリマンをコミュニケーションネタとしていじることや下ネタとセクハラは違うと思うんですけどねー。明るく楽しく笑えるものが自粛になるのは嫌だなー...。
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このツイートを見て私はすごく悲しい気持ちになりました。そのことについてずっと思っていたことをここで吐き出して終わらせてしまおうと思って書いています。これは別にはあちゅうさんや誰かに対して文句をいうものではありません。これを読んで私のような人間に同情しろ、配慮しろと言うこともありません。セクハラうんぬんにも全く関係がなく、私の個人的な感情を自己満足としてネットの海に漂ってしまえと放り投げるものです。ただ、ずっと言ってみたかった。でもきっかけがはあちゅうさんだったので、タイトルに名前を出してしまいました。申し訳ありません。
私は生まれたときから取り返しのつかない不細工でした。童貞という概念が生まれる前、みんなが漠然と恋をし始める小学校高学年あたりの時にはもう私は心優しい女子がしてくれる事務的連絡以外の異性との接点がなくなっていました。その容姿からいじめにもあいましたし、ひどい言葉をみやざわけんじの詩とか道徳の教科書と混ぜて飲み込みながら人格を形成しました。
高校時代までmixiや個人のブログなどはありましたがそういうものに無縁だった私がはじめてインターネットで社会らしきものに触れたのは匿名性の高いtwitterなどのSNSが普及しはじめたとき、大学に入ったあたりのことでした。(そのときには現実世界では私を笑っていた子供たちも正しい大人になり優しくしてくれましたが、どうしようもない大人になった私は受け入れられずに社会性というものが既に皆無でした。)そこで童貞を名乗って笑いを取っている人間がいることを初めて知ったのです。
彼らも多くは本当に性交渉の経験がないので童貞に違いないと思うのですが、彼らのような私から見れば全く普通の人間の軽い自虐が「童貞らしさ」を形作り、その文脈で童貞が語られているのを見る度に私はなんとも形容しがたい、淀んだ気持ちになるのです。私は自分が異性から拒絶され、みんなが当たり前のようにしているらしいことができない笑えない現実、そのコンプレックスにひどく苛まれている自分こそ童貞であると考えていました。しかし私と一般で言葉の持つ意味にギャップがあることを知りました。
それを知ってなお、私は私の童貞で遊ぶことはできませんでした。本当に人に愛されたかったし、明らかな嘘で告白された時はそれも見抜けないほど喜びました。「お前、童貞かよw」と言われればただ唇を噛みしめて下を向いていました。そういう人間が僕以外にいるのかはわかりません。見たことありません。でも本当に苦しんでいることを「本当に苦しんでます。」と言うことはネット上であっても、匿名であっても、私には今までできたことはありませんでした。(自分でもつくづくいじめられっこ体質だと思いますが)
だからといって童貞をポップに扱うことが悪だとも思いません。私が今の童貞という形容に収まりきらないほどの欠落した人間だと言ってしまえばそれで終わる話なのです。性交渉へのライン上にいてもう少しで手が届きそうな童貞のもどかしそうな、どこかに淡い期待を含んでいるような様こそ真に童貞らしいと言えるかもしれません。はあちゅうさんが言うように童貞と言えば「明るく楽しく笑えるもの」となっている現状を理解しているつもりです。私のようなものは全くそのライン上にないものだから「怪物」とでも呼んでおけば良いのかもしれません。それでもせめて童貞でありたいと思ってしまう私は童貞という言葉にどうしても反応してしまいます。自分のことを言っているのではないのに勝手に傷ついているのですから一種の特殊な被害妄想みたいなものかもしれません。
はあちゅうさんの様な美人が「童貞が好き」と言う。それをみんなが笑ったり、リアクションしたり、「ど、ど、童貞ちゃうわ」と言ってみたりする。醜悪で陰気な、童貞だけど童貞らしくない私は外からそれをただただ変な顔をして黙って見ているのです。いつもいるけどいないのです。
私はそれがただ、なんとなく悲しいのです。