うちそういうの間に合ってますんで
とにかく使わない物をバンバン捨てるのはとてもいいことだよ
物価連動分だけなら楽だろ。実質的には増えないから。導入時に一度決めればあとは自動的だし。
某所に書いてみたら、撒き餌が多すぎて、ほとんどの人が撒き餌に食らいついてしまって、肝心の針が取り残されてしまった。しかも、ちゃんと針に食いついてくれた人さえも撒き餌のせいでやたら喧嘩腰にさせてしまった。書いているうちに撒き餌が楽しくなって大げさにしてしまったのが非常に良くなかった。
さらには、書いた数日後から、俺の撒き餌と同じことだけを、マスコミが取り上げていたのは驚いた。以前から取り上げられてはいたが、瑣末な点でしかないことは有名だし、マスコミが未だに同じ撒き餌をしてくるとは思わなかった。もう、マスコミソースや、元の文章についたコメントやトラバといった現時点での全体像を見ると撒き餌以外は完全に見えない文章になってる。
教訓:撒き餌は用法用量を守ろう。というか、むしろ無くていい。
よほど楽だろ。作業量はほとんど増えない。
毎年数えきれないほどの本が出版される。同時にそれと同じぐらいの数の本が忘れ去られていく。
そんな繰り返しの中で読書すれば100冊に1冊か、1000冊に1冊あればいいほうじゃない。
読んで自分の血肉になるような素晴らしい本は。
狭い家に住んでるんだろうなあ
なんでいきなりキレるの…
生まれつきわからないのか、育ち方の問題でわからなくなったのかは不明です。
進んで人付き合いをする方ではないけど、社会的に浮いてしまうような拒絶的なことはしません。
親族付き合い、仕事の付き合いは、必要十分の範囲でこなしてます。
私的交友は人数も頻度もかなり少ないです。ただ例えば10年会わずにいても、昨日会ったのとそんな変わらずに付き合えるような感じです。
静かな空間が好きで、引きこもり志向です。書斎で、本に囲まれて、ネットにつながったPCがあれば連続で何ヶ月でも過ごせると思います。
賑やかな空間は、昔はかなり苦手でしたが、今は長時間でも耐えられます。これは社会人になってからの訓練によるものです。
社会に適応する必要から、わかる人に話を合わせることや、わかる人のフリはできるようになってます。
必要なら、そういう人が寂しい思いをしないように、自発的に配慮をすることもできます。
これはある程度の訓練と経験を積み、類推力を利かせれば、それほど難しくはありません。
でも肝心の寂しいという気持ちは未だにサッパリわかりません。
妻と二歳の娘がいます。
妻は寂しいという感覚がわかる人です。先述の訓練とか経験とかいうのは、妻の観察で勉強したものも多いです。
妻子はとてもかわいいので、望む限りのことをしてあげたいと思いますが、例えばもし単身赴任とかになり長期に会えなくなっても、自分としては別に大丈夫です。
人並みの経済状態で、健康に善良に暮らしているなら、それでいいと思います。
娘の情緒や教育の観点から、父親としての役割が果たせないなら困りますが、それは娘への影響の問題で、自分が寂しいからという話ではありません。
まあ適応して生きていけてるので困ってはいないのですが、この違いはなんなんでしょうね。
自分は養う家庭を持っているので、必要があって擬態してる分まだモチベーションは維持できますが、そういう理由がない人は、同調圧力が煩わしいでしょうね。独身時代の自分のように。
社会の側にもう少し理解があると生き易いのですが。