はてなキーワード: 自由主義とは
本当は国家行政や地方行政が表現を規制するのは全部NGというのが基本です。
表現の自由は人間関係や社会を構築するコアの一つで、これを破るにはプライバシー(柳美里とか)や、絶対であるべき思想・良心の自由および生命・身体の自由くらいの強力な人権が要る。
個人主体ではない、社会全体の概念である、公序良俗やわいせつの人権で破るのは大変筋が悪い(破れる、と根拠なく思っている人が多すぎるけど)。
これは自由主義以後の鉄則で、これを守らない国は基本的に自由主義国家ではない(この定義だと自由主義国家は世間で言われているよりかなり少なくなるが)。
自由主義より優れた人権思想があれば別だけど(普通はこれに民主主義と立憲主義が結合するし、場合によっては社会民主主義か新自由主義が結合する)、まだない。
どうしようか一晩悩んだが、やっぱり質問した以上、レスを返すのが礼儀じゃあないかと。…それが相手をメチャメチャ怒らせるのが判っていても。
ただ、どこまで行っても平行線以外あり得ないと思うので、この件について、当方からはこれきりにさせてもらう。書き逃げ御免、悪しからず。
『そうなんだけどさ…』を書いたのは、第一にまず不思議だったからだ。ゴミ焼却場や火葬場、その類いの施設であれば反対運動をここまでボロンチョ貶したりはしないはずだ。で、出た結論が、たぶん、障害者を潜在的なリスクと見做していない、ということ。あ、念のためあらかじめ書いておくけど、脅威度の評価と差別感情というのは別問題だからね。
id:mats3003 入居するよ。別にね。ちなみにうちには娘がいますが何か?
id:jaikel ううん、だからなに?としか。実例は見ているし、知っているし、実際近所にもいる。それがどうした、以上の感想はない。
こういうレスポンスが帰ってくるのは、自分の娘がいきなり抱きつかれるとか、そば歩いていた人間に突然殴られたりする可能性を考えていないから、何じゃないかと思う。突発事態が起きたときに対応できるように、視界の中に彼らが入ってきても、脳内でマークして、視界の外に出るまで警戒レベルを少しだけ上げておく、みたいなこと、してないでしょ?原子力発電所や軍事基地が嫌がられるのは、実害に加えて、日常生活におけるリスクを増大させるからでもある。障害者更正施設もそう。実際にその手のものが出来ると、その周辺地価は下落する。やくざさんの事務所が入ったビルと同じで。
で、反対の起きた場所はこういう施設がこれるくらいだから、もともと地価が低かったんだろうと思う。で、その地価を更に下げるようなことになって喜ぶ地主も住民もいない。
id:Ivan_Ivanobitch 家を貸して、自分たちは引っ越せばいい。これが自由主義。他人の引っ越しは排除してはいけない。これが自由主義。
そこら辺を考えてないから出てくるコメントなんだろうと思う。毎日毎日、夜中にドッスンドッスン足音がしたり、歩いてるといきなり目の前にものが落ちてくるような家に好きこのんで越してくる物好きはいない。雨水なのかオシッコなのか判らない敷石の凹みのたまり水を避けて歩くのが楽しい、なんて人も。
で、これ。
id:washburn1975 差別, これはひどい 出たよ恒例の自称リアリスト。毎度毎度ツッこむのも疲れるんだけど、じゃあ自分の子供が自閉症だったら座敷牢にでも閉じ込めておくの? 自分が自閉症だったら閉じ込めておいてほしいのか?
幸いにして隣のジェントルジャイアン君は外向きの性衝動が(割合)希薄な自閉症児でガニメアン君のような知的障害児じゃあないから、直接的な性被害に遭う可能性は低いんだけど、ジェントルジャイアン君の感覚刺激に対する反応なんかによっては今後、彼が自慰行為に熱中する可能性がある。どの程度の可能性か、調べようもないし、俺はとてもじゃないが怖くて自分から聞く気にはなれない。で、先に書いたように我が家はすでにして座敷牢の中に位置しているわけだ。washburn1975さんには例えば、便所と庭の区別もつかないオナニー猿(そんなものには退化しないよな、ジェントルジャイアン君)と一緒の座敷牢の中に娘が閉込められている親の気持ちって判ってもらえるだろうか?
あるいは、自分の息子を座敷牢からでないように神経をすり減らしている親の気持ちを。
…ああ、書いてて自己嫌悪一杯だ。
差別イクナイ。差別者は悪。うん。ドロひっかぶらないとこでそう書くのは心理的なコストがゼロでしかも正しいこと言ってるという気分高揚というプラス効果もあるんだけど(同性愛者は何かが欠けているとか言い放っているのはアレ、やっぱり心理的コストがゼロなんだろうか、信じ難いけど)、ドロと格闘してる側が見ると、なんか「清潔なのはいいよね、みなさん。でもみなさんもわざわざ汚れたくはないんでしょ?」とか言いたいみたいな気分になるんだ。だからといって横からちょっとドロひっかけちゃってもいいって訳じゃないのは承知してる。ごめん。
ああ、それから。
施設を受入れろっていう側は果してそれに伴う負担増を解消できるだけの体制を整えているんだろうか、本当に。以下、ご参考まで。
大倉山投げ落とし事件
http://anond.hatelabo.jp/20101210233537
http://anond.hatelabo.jp/20101211021647
村上は美大を問題にしてるが一番問題なのは小中高の美術教育だと考える
村上が批判するところの『自由主義』≒内発的なものを表に表現することこそ美術の真髄であるという思い込み
小学校はともかく中高でそういう教育を行うのは問題なのではないか
日本の美術教科書は他国と比較すると異様に薄く内容的にもかなり異なる
典型例として
自分を見つめる
とNGが出る
褒められる絵
美術教師・教科書が褒める絵のスタイルには傾向があり、顕著なのが風景画における印象派
心ひかれた場面に出会ったら絵に表してみましょう
光や影、広がりや奥行きを各画面の構成や色彩で工夫すれば、印象深く表すことができます
→印象派
日本の美術教育は印象派が美術の最先端だった頃に開発された技法が輸入され太いチャンネルになっている
その結果として印象派的な書き方を教えることが日本の美術教育の一つの王道を成している
分厚い
美術史を丁寧に教える
ルネッサンスの項では遠近法が開発され、そうした理論の注入が行われた結果それまでの中世の絵から
どのように変わっていったのか、等が論理的に
20世紀の項では
ピューリズムとかシュープレマティズムなどマニアックな流派まで結構詳細にどういう背景を持って
どのような流れで出てきたのかを触れる
半分は美術史をやり残り半分は実作
例えばエジプトの壁画、ファンアイクの絵、マチスの絵に到るまで丁寧に模写をした上で
それがどういう時代背景の元にどういう技法で描かれているかを自分なりに読み込んで
まとめる、ということを行う。
日本でも美術史をやらないわけではないが、それは日本史世界史の授業で行い
美術の授業とは切り離されている
基本的に向こうでは美術史と自分で描くこととを両輪のように組み合っせてやってる
美術というのは歴史があり、何が「美しい」と思われてきたのかは時代時代によって
かなり変わってきている。
歴史の積み重ねがそれを作り上げている。
それは宗教だったり政治であったり、そういった権力のもとで作られてきたとか
あるいはフランス革命により王政が打倒された結果、描くモチーフが王侯貴族から市民に変わっていったり
そういう技法まで含めて流れがあり
我々が何を美しいと感じるかというのは、実は自分が生きた時代に人々がそういうものを
美しいと思うように訓練されたから、そういうものを美しいと思うのだということが体得されてゆく。
ある人がなにかを美しいと思う、それは何か訓練された結果美しいと思うのではなくて、
あくまで内発的ななにものにも影響されないそういう感覚があり、その美しいと思ったその感覚、
あるいはそれを表現することそのものが美術なんだという風な、いわば洗脳を受ける結果として、
自分があるものを美しいと思うときに、例えば広告とかTVCMとかの結果としてそういうものを
美しいと思うようになっているにも関わらず、内発的に美しいと思っていると誤解している
ところが発生しかねない。
疲れたんでここまで
以下、日本の美術教育のこのような特殊性のルーツはなんのか、等々
またこういった『自由主義』が美術教育の専門家ら自身にも問題だと認識されていること、
にもかかわらずこーなってんのか、日本美術教育がどのように位置づけられてるからなのか、等々。
更にかつて現在の美術界同様な状態だった日本の建築界が磯崎新の仕掛けによりどのように
変わってゆき、現在のような5~6人のワールドクラスを輩出するまでに変わっていったか、等々
村上は磯崎が建築界で起こしたことを美術界で起こせるのか、等々
と続く
とにかく根拠が実感だけの村上さんよりはるかに具体的で面白かったんで、こんな糞エントリじゃなく
ちきりん氏曰く、
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20091016
ちきりんさん、今までよっぽど恵まれた大家ばかりだったんだろうなぁ…。
私は関東に住んでいるけど、大家や不動産屋ってキチガイばかりだよ、ホント。
資本主義、自由主義経済の現世に生きているんじゃなくて、平安時代の荘園領主かなんかの脳味噌しか持ち合わせていない。
「オレたちが家を貸してやっているんだ。お前らみたいな下々のようなカスは膝まづいてありがたがれ」
みたいなヤツラばっかり。
しかも、ヤツラの頭の中には「減価償却」とか「維持費」とかいう概念は無いらしく、敷金や月々の家賃はあくまでも「支払われて当然のもの」として
物件自体の維持修繕に使うという発想が無い。
だから引っ越して出て行こうとする人間から追い剥ぎをして1円でも多くむしり取って「現状復帰」しようとする。
いつぞやは「壁紙張り替える」とかぬかして敷金20万円総取りの上に追加で「現状復帰費用」みたいな名目で10万円ぐらい追加で取ろうとしやがった。
さすがにそれは無いだろうってことで友人の内装業者に見積もり頼んでみたら5万円もかからねぇでやんの。
その後、大家と直談判して「なんとかなりませんかね?」って友人の見積もり出したら全部で10万円になった。
(友人の見積もりはちょっとヌケていたらしく、10万円は大体妥当な工賃+材料費だったらしい。)
じゃあ、最初に言ってた「30万円」って何?って問い詰めたら言葉に詰まりまくって、ほんの少々だけ溜飲が下がった。
大体さ、「礼金」って何さ?
コッチはお前さんの物件を「借りてやっている」んだぜ。
他にも、「敷金と火災保険の解約金は退去時に必ず全額返金します」って入居時に言っていた不動産屋もいたけど、退去時になんだかんだと因縁つけてきて総取りしようとしてきた。
今度は入居時の契約書と覚書を持って「全額返して下さい」って言ったら「裁判でも何でもして下さい!」って開き直りやがった。
もうね、不動産業界ってこんなヤクザみたいなヤツラばっかりなのね。
去年田舎で小さいながらも持ち家一戸建てを買ったけど、自分の家が持てたという以上に
「もう二度とあのクソみたいな賃貸不動産業界に関わらなくていいんだ」
という事が大きかった。
そもそも、ちきりんって何か人気あるみたいだけど、言っている事が結構頭飛んでいる事がおおくね?
そう思うのは私だけ?
ことあるごとに
「これからの一寸先は闇な状況下で、住宅ローンを抱えるのはバカ、賃貸にすべき」と
口を酸っぱくして主張している。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20091016
1,209ブックマークか・・・
確かに、貸し手と借り手の間に「正常な経済原則」が働くのであれば、
しかし、自由主義・資本主義の信奉者であるちきりん女史の思惑通りに、
社会は動くだろうか?
一旦孤独死をされると、異臭の除去で、大家は莫大な負担(敷引きでは対処できないくらい、70万円程度)が
掛かってしまう。
しかも、孤独死&異臭騒ぎというのは、案外「後期高齢者」なんかじゃなく、
つまり、後期高齢者だと、体に何らかの不具合が起こると病院に入院して死んでしまうのだが、
中年~前期高齢者だと、病院に行く前に「自宅でポックリ死」というケースが見受けられる。
異臭の除去に高額の費用が発生するのみならず、
こうした物件は「瑕疵物件」となるので、次の入居者募集で著しく不利になってしまう。
「中年~前期高齢者の単身者だと、孤独死の危険性が高いので、入居を拒否する」という
動きが出てきている。
「借り手がいれば、貸し手は必ずそれに応じるはず」というのが「自由主義・資本主義のちきりん理論」
なんだろうが、「借りたくても、貸してくれないリスク」というのが、
ちきりん女史のような「賃貸派」というのは、恐らく「一生、単身世帯」の人が多いのだろうが、
30代なら大家が喜んで貸してくれても、40代・50代になって貸し続ける保証はない。
一箇所に留まるのなら借地借家法である程度保護される(正当事由なければ更新拒否NG)なんだろうが、
「ライフスタイルや気分に合わせて住み替え」というのにはハードルが高くなる。
自由 リバタリアニズム 政治 多様性 社会主義 日本 考え パターナリズム
bradexさんが、ナチスの「25か条綱領」というのを紹介している。
ウィキペディア - 25か条綱領
http://ja.wikipedia.org/wiki/25%E3%82..
<25か条綱領(独: 25-Punkte-Programm)はナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党綱領。1920年2月24日、ミュンヘンのビアホールホフブロイハウスで採択された>。
その25か条綱領には、次のようなものが含まれている。
・我々は、老齢保障制度の大幅な強化を要求する。
・我々は、健全な中産階級の育成とその維持、および大規模小売店の即時公有化、小規模経営者に対するその安価な賃貸、全小規模経営者に対して最大限考慮した国家・州または市町村に対する納品を要求する。
・我々は、我が国民の要求に適した土地改革、公益目的のための土地の無償収用を定める法の制定、地代徴収の禁止と土地投機の制限を要求する。
・我々は、公共の利益を害する活動に対する容赦ない闘争を要求する。高利貸し、闇商人等の民族に対する犯罪者は、宗派や人種にかかわらず全て容赦なく処罰される。
・我々の要求をすべて実行するために:国家の強力な中央権力の確立。中央議会の国家全体および組織一般に対する絶対的な権威。公布された国家の大綱的法規を連邦各州において実施するための階級・職業別の団体の形成。
これを大雑把に言い直せば、「大企業は儲けすぎだからもっと税金を取れ」「老人への保障をもっと手厚くしろ」「大きな店は潰して、小さな店だけにしろ」「不動産を貸したり転売して儲けることは許さない」「高金利の金貸しは許さない」といった話だから、いまの日本でもよく言われているような話である。
これがナチスの綱領であることを隠して、「このような政党があったら支持するか?」というアンケートをもし日本でやったら、支持する人はかなりいるのではないか。「立派な考えだ」「なかなかいいことを言っている」といった反応がおそらく続出すると思う。
ナチスについて少し調べればわかることだが、ヒトラーは「ただの極悪人」ではない。ユダヤ人への弾圧や虐殺などがひどいのは言うまでもないが、上記のように、政策の方向性としては「左翼的な正義」が基調である。いわゆる「悪人」というよりもむしろ、「使命感に燃えた善人」に近いといってもいい部分がある。
実際、ヒトラーは自分が「善」だと強く確信していたからこそ、権力を握ることで「悪」を撲滅しようとしたのだろう。そして、それに一定の説得力があったからこそ、支持を集めて、権力を得ることができたわけだ。
もちろん、ナチスの政策だから全部間違っているということにはならないし、ナチスの政策にも正しいものはあるかもしれない。重要なのは、ナチスの政策が正しいか間違っているかというよりも、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ、ということなのだ。
正誤・善悪によらず、何かを他人に「強制」するという考え方にこそ、全体主義やファシズムへの萌芽がある。何かを他人に「強制」してもいいと考えている人は、自らの無謬性(誤りがないこと)をまったく疑っていない。自らの正しさを確信すること自体は問題ないのだが、それを「他者に強制する」ことから問題が生じる。
自由主義やリバタリアニズムがこの「強制」を嫌うのは、何が正しいのか、何が善なのかということに関して、唯一の絶対的な基準があるということを疑っているからだ。自由主義者やリバタリアンは、つねに異なる意見、異なる価値観を共存させ、多様性を認めることで、社会は発展するし、また社会は安定する、と考える。
自由主義者が政府より市場を好むのも、政府は「強制」するものであり、市場は「自由」な取引で成り立つものだからだ。
私の見たところ、日本というのは「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方がわりと強い国だと思う。そういう考え方の人は、たいてい「悪人」ではなく、むしろ「善人」だったりする。「いい人」なわけだ。しかし、他人に「強制」すべきでないということや、異なる考え方をあえて共存させる「多様性」の重要性については、あまり理解されていないように感じる。
菅首相なども、「善人」なんだけど、「強制」することが問題だとわかっていない人の典型である。左翼的な考えの持ち主はわりとこのパターンが多くて、弱者を思いやる「善人」なんだけど、「強制」することでどういう問題が生じるかがわかっていない、と感じられる場合が多い。こういう人は、弱者を思いやるのはいいのだが、その一方で、金持ちや経営者を「悪」だと決めつけてしまいがちだ。
「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方は、まさに「パターナリズム」である。それは、親が子供に対しておこなう場合であれば許されるだろうが、社会のなかで他者に対して「強制」をおこなうことは許されない。しかし、この「強制」が唯一、合法的に許されているのが政府である。
よって、政府は「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方の危険性や副作用をよく理解して、どうしても「強制」を行使しなければならない場合にのみ、きわめて慎重に行使すべきなのだが、日本政府はそれをあまり理解しているようには見えない。最近また大店法の話が出てきたりしているのを見ても、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」ということを、むしろ無邪気に信じているかのようだ(特に民主党は、以前からこの傾向が目につく)。その規制が経済をブチ壊すことを理解できないのだろう。それも経済産業相が、である。
民間人は「ゲームプレイヤー」であり、政府は「ゲームデザイナー」である。企業や民間人は、政府のような「強制」力を一切持っていないのだから、社会問題になるような「構造」問題に対しては、企業や民間人には責任が生じようがない。これは「システム」の問題なのであり、よって責任があるのはもっぱら、「強制」力によって制度設計をおこなった政府である。それなのに、民間の企業を「ワルモノ」扱いして、その行動をさらに規制すれば問題が解決すると考えているのだから、まるで逆だ。セーフティネットは必要だが、市場を規制してもセーフティネットにはならない。
http://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-program
関連エントリ:
http://mojix.org/2010/01/23/libertarianism_kimo
どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する
http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei
地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)
国家社会主義ドイツ労働者党が誤訳であるというのは、アカデミックな世界ではもはや当たり前となっていますが、
未だに浸透してないことがよく分かりました。ナチスドイツ=民族社会主義が常識となるのはいつの日でしょうか。
用語の話以外のことに、うかつに触れるのはあまり好ましくない(正直、眠い目をこすりながらエントリをざっと読んだだけです)ですが、
印象とすると、大陸ヨーロッパ型の社会的市場経済、国家社会経済、民族社会主義、アングロサクソン型自由主義経済
の4つがごっちゃとなって語られているようですね。
混乱を生むのは仕方がないような気もしますが、教養レベルとして認知されて欲しいものです。
結局、大陸ヨーロッパについての教育がほとんどないのが問題の発端なんでしょうね。ナチスドイツの誤訳は、日本語のセンスの問題ですが。
是非はさておき、中国は民主化すべきではないと思ってる俺がいる。
独裁政権の強権的な支配だからこそ秩序がある程度維持出来てるという面は無視出来ないからね。
一人っ子政策が廃止されたら、あの国の人口は20億30億じゃすまなくなっちゃうんじゃないかな。
軍隊も制御出来なくなって、国内どころか周辺にどんなとばっちりが来るか分かったもんじゃない。保有してる核兵器だって、誰がどこで管理してるかも分からなくなっちゃうんじゃないかな。
そしてあの国は何十年と内戦状態が続くんじゃないかと思う。どさくさに紛れて核が(日本を含む)どこかで暴発するかも知れない。で、今世紀終わり頃に、三つか四つか、あるいはそれ以上の数の国に分裂して、パレスチナみたいな状態が延々と続くんじゃないかな、と。
重要なのはあの国が民主化すべきかどうかじゃなくて、旧時代的な覇権主義と野放図な領土拡張志向をどうやって封じ込められるかだと思う。それさえどうにかなれば、おそらく西欧の自由主義陣営はあの国の政体にそんなに関心を持たないはず。黄色い猿が何かやってるな、程度で。
匿名日記にはまだ慣れてないので自分のことをなんていったらいいかわからないけど、先の新司法試験撤退者です。
理想をもつことはとても大切なことだと思います。しかし同時にその「理想」が自分が正しいと信じることができる理想かどうかということは常に自問することをおすすめします。理想はもちつつ、現実の中でどうすればそれを実現できるのか、ということをしたたかに考えて下さい。
さて。本題です。
知識的にも教養的にも人格的にも、日本人の中で best of brightestだった方々が、環境に染まり弱者救済を忘れてしまうような職業が弁護士だとしたら……そこには立ち入らないようにした方がいいのではないか、と思うのですが。
という段階ではなく、この前段階、すなわち、あなたのしたいことを実現するために弁護士になる必要が本当にあるのか、弁護士でなければならないのか、という点をしっかり考えるべきだと私は思います。そして、本当に弁護士でなければならないのであれば、この部分なんか気にせずに、理想を、志を高くもって弁護士の仕事を遂行すればいいと私は思います。弁護士の中に同志は必ずいると思います。
社会の底辺の方々は、豊かな方に比べると、忍耐心に欠け、依存心が強く、努力を怠っている方々が圧倒的に多い現実を見てきました。
という点には私も賛同します。ただ、私は、彼らは「忍耐心に欠け、依存心が強く、努力を怠っている」からこそ、社会の底辺にいるのであって、社会的に強い者から食い物にされているのだと思います。自由主義を採用する日本においてはある意味当然の現象ではないかと思います。逆に「忍耐心に欠け、依存心が強く、努力を怠っている」にもかかわらず、ある程度忍耐力があり、独立した心があって、努力をしている人と同じように扱われなければならない、保護しなければならない理由はあるのでしょうか?もちろん、彼らが「忍耐心に欠け、依存心が強く、努力を怠っている」状態になったのは、彼らの生まれた境遇であったり、運であったり、彼らのせいではない様々な事情が絡んでいるのは確かであり、それを全て自己責任として責任を負えというのは疑問を差し挟む余地はあります。ただ、そこまで考えると、自由主義という枠から外れていっている気がします(ここは感覚的です・・・。)。
もっとも、このあたりの評価については個々人評価が分かれるところでしょうから、こういう意見がある、くらいに聞き流してもらえれば結構です。
で、元増田は、元増田のいういわゆる「社会的弱者」を助けたい、力になりたい、と思ってらっしゃるようですが、彼らの「助ける・力になる」ということは具体的にどういうことなのでしょうか。どういう状態になれば「助けが不要になった」といえるのでしょうか。ここを具体的に考える必要があると思います。・・・α
また同時に弁護士の仕事をもっと具体的に考える必要があると思います。私が考えるに、一般民事における弁護士の仕事は「人生の再スタートを法律の観点から支援する仕事」だと思います。「今まで自分なりにやってきた→でも他者と紛争になってしまった→いろいろ話合いをしたがらちがあかない→法律に○○と書いてあるからその通りに処理して終わったことにしよう→いままでの争いを"法的に"終わったことにして次に進もう」というのが社会的みたときの司法の役割であり、弁護士の仕事は法律部分に関する処理を担当するのだと思います。弁護士にしかできない仕事というのはこの部分だと思うのです。・・・β
元増田が弁護士を今から志すリスクを負うには「αを実現するにはβが不可欠だ」という判断が重要になると思うのです。
今の日本社会では弁護士は社会のために働いている、という漠然としたイメージが蔓延しており、仕事の実質が正確には伝わっていないのではないかと思います。だから「社会的弱者のためになる仕事→弁護士」となるのかなぁと思うのです。しかし、弁護士でなければできない仕事というのは極めて限られていて、また、弁護士固有の仕事の実質はあまり理解されていないのではないかと思うのです。
なぜここまで考えることを勧めるかというと、ロースクールに進学し、司法試験を受験するということは極めてリスクの高いことだからです。元増田は若くても今年24歳です。するとロースクールを修了したときには26歳か27歳になります。そして3回受験して三振したとしましょう。するとあなたは30歳です。社会人経験2年、司法試験三振。こういう人物が社会的にどのような評価を受けるか、というあたりを具体的に考えておく必要があると思います。
落ちることを前提に話を進めるのは適切ではないかもしれません。ただ、一部の天才を除いて、司法試験に合格できるかどうかというのは運が大きく影響します。
私の友人は1回目の受験で民事系が上位数%でしたが、今年は普通の点数になりました。
同じ人物は1回目の受験で刑事系がぼろぼろでしたが、今年は上位数%という順位をとりました。
司法試験は知識を正確に理解し、暗記しておくことは当然として、試験会場で初めてみる問題にどういう発想で対処するのかということで結果が決まる試験です(そして評価される発想がなんなのかということは明確に提示されていない!!)。この意味で、暗記して吐き出せばよい普通の資格試験とは質が異なります。
この「発想」が法学の発想に近い人にとってはこれほど簡単な試験はないでしょうが、異なる人にとっては「発想」を法学的に修正する必要があり、極めて根気の要る作業となります。
具体的な行動を起こす前にこれらのリスクを具体的に考えることをおすすめします。
なお、
>>んで、そういうとこに来る人っていうのはさ、おおよそ2パターンなんだよね。<<
という部分は大正解だと思います。
雇用の流動化が必要だというと、「人々の不安が増す」とか「モチベーションが下がって生産性が落ちる」いった批判がよくある。たしかに会社という繭にくるんで、すべての人をやさしく守ることができれば理想だろう。戦後の一時期には、それが実現したと錯覚された時代もあった。しかし残念ながら、もはやそういうユートピアは失われたのだ。
今われわれが直面しているのは、福沢諭吉以来の「個の自立」という問題である。『福翁自伝』などを読むと、100年以上前の本なのに不思議に単純明快でわかりやすい。本書は、その「新しさ」をハイエクなどオーストリア学派のリバタリアンに重ねて解釈したものだ(絶版)。
ハイエクは福沢の死んだ年に生まれたので、福沢が影響を受けるはずはないが、両者には共通点がある。それは若いとき、ヒュームやミルなどの古典的自由主義の影響を強く受けたことだ。そしてハイエクにとって社会主義との闘いが個人の自由への信頼を生んだように、福沢の場合も「門閥制度は親の敵」という儒教的秩序との闘いが生涯のテーマだった。
福沢以来、丸山眞男や大塚久雄に至るまで、個の自立は日本の知識人の見果てぬ夢だった。しかし今われわれの見ているのは、福沢が生涯をかけて闘った封建的秩序が自壊し、ゾンビ化した状態である。そこに出てきたのは自立した個人ではなく、帰属する集団を失って自殺する失業者と、家族にも見捨てられた「消えた老人」だ。雇用が流動化すると、こうしたストレスはさらに増えるだろう。
本書も指摘するように、福沢のいう「情愛」を排除して論理のみによって人々が結びつく社会は、彼のような強靱な知性の持ち主でなければ耐えられない。テイラーのような北米の人々が近代に築き上げた人工的コミュニティが崩壊して個人主義が強まることを危惧するのとは逆に、日本では近代以前から継承してきた「強い中間集団」が有効性を失う一方、人々は北米型の「強い個人」にはなれないのだ。
しかし福沢以外の道はあるのだろうか。北一輝は個人主義を超克する国家社会主義を提唱し、日本浪漫派は近代的自我を否定して「近代の超克」の道をさぐったが、それは破滅への道だった。戦後の日本的コーポラティズムの意外な成功は、欧米的な個人主義を経なくても繁栄できる「東アジアモデル」を示したように見えたが、それも幻想だった。
いま日本の陥っている袋小路を脱却する道は、おそらく福沢のいう「独立自尊」しかないだろう。われわれは市場経済によって得た富を捨てることができないからだ。そして組織を守ることによって個人を守るのではなく、古い組織を淘汰して社会によって個人を守るシステムに変えるしかない。福沢は、今なお新しいのである。
追加だけど、他国の労働者を安く買いたたいているというか、国毎の賃金格差が生まれているからだよね。
そのおかげで、それが是正されて、他の国給料は徐々に向上し、日本の給料は徐々に低下している。
貧富の差が広がったのではなくて、貧富の差が無くなってるだけじゃん。日本人は富裕層だからねw世界的に見れば。
高い物を買うか、安い物を買うか、どこの国の工場を使うかすべて自由だからね。何も強制できない。
やれるとしたら、顧客に高い金を払う価値があると思ってもらえる物を作る。法人税などを引き下げて、国内に工場を持ってくるって話であって
それ以上でも、以下でもないと思うけど
「やってみなきゃ分からない」はナシだと言ったはずだが。何のリスクもコストも無く国家規模の実験が出来ると思ってんの?自由主義にしても社会主義にしても、制度を変えて定着するまでにどんだけ血が流れたと思ってんの?流れる血の中に自分や家族のものが含まれている事も織り込み済みで言ってんの?
とにかくさ、自由主義の代替物として社会主義がベターなのかどうかという話を聞きたいのに、「今は駄目だ」「自由主義は駄目だ」「資本主義は駄目だ」ばっかりじゃん、君らの言う事って。
そもそもそんなに社会主義が良いものなら、自由主義体制から社会主義体制に「国民が望んで」移行して、うまくいってる国の一つや二つくらい歴史上存在していてもおかしくないだろ。それをまずは挙げてくれと言ってるのに、何故答えてくれないんだ?
まおゆう読んだ。すごくおもしろかった。みんなぜひ読むべき。
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」まとめサイト
http://maouyusya2828.web.fc2.com/
ほかの人の感想はこちら。
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20100510/1273472249
泣けるほどおもしろすぎるネット小説を読んだので熱烈推薦するよ。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100423/
人生を変えることのできる物語/魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20100422/
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/
はじまりの物語
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/795
魔王が世界を征服できない問題への一つの回答となる「まおゆう」
http://d.hatena.ne.jp/lastline/20100517/1274022158
みなさん、すげーテンション。気合の入った文章。実際、かなり面白かったので、興味のある人はぜひ。
そして以下は、読み終わったあと、テンションがあがりきって大学時代の講義ノート引っ張り出して書きました。
たぶんネタばれはない、はず。(追記)スポイルするかもしれないので、読了後によむことをおすすめします。
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昔、ある人は考えました。
「幸せってなんだろう?」
みんなは「お金があれば幸せ」っていうけど、何か違う気がする。
幸せの源泉は、お金じゃなくて、お金で買うことの出来る『モノ』だよね?
『幸せ=お金』だと思っている人たちは、みんな奪いあいばかりしていて、
「誰かが得をすれば誰かが損する」っていうけど、それって、きっと間違ってるよ。
例えば農作物なんかは、みんなががんばって働けば増えるよね?
この『ある人』の名前を、経済学の父、アダム・スミスと言います。
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「まおゆう」は、みんなが幸せを求めて奪い合いばかりしているのに、
「奪い合わなくてもみんなが幸せになれる世界」を目指し、ある程度の成果を収めます。
しかし、魔王は考えます。「何か足りない」「何かおかしい」
アダム・スミスが『国富論』を出版し、経済学がスタートしたのは、1759年のことでした。
この『国富論』は彼の独創ではなく、多くの先人の思索の上に成り立ったものでした。
魔王が足りないと感じていたのは、おそらくこの『多くの先人の気付き』なのでしょう。
前近代においては、まず『国王、国家』があり、その下に各人民が権利を与えられます。
近代においては、まず『個人の権利』が前提として存在し、そのために国家が設立されます。
前近代社会というのは未だ「神様のいうことが唯一正しい」という世界で、
過程をすっとばしていきなり答えを出しちゃったようなもので、
基礎となる考え方が共有されていない以上、いくら成果をあげても、なんか、ふわふわ。
魔王に影響を受けて、少しずつ『多くの先人達の気付き』を埋めていきます。
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昔、ある人は考えました。
そもそも「人間はみんな善の魂を持っている、だって神様がそう決めたから」
っていうけど、そんなこと無いよね?現実みろよ!
みんな欲望むき出しじゃん!奪い合ってんじゃん!人間は悪だよ!
誰かが「恐れられる君主」になって、縛り付けないと平和に何かならないよ!
「人間の一生は既に決まっている。奪い合うならそれは運命なのだ」
ってそんなことないよ!
運命に挑戦する強い意志が、事実を冷静に判断し、決断する強い心があれば、
運命だって切り開けるはずだ!!
彼の名をマキャベリと言います。
マキャベリが『君主論』で説いた『運命に挑戦する強い意志』=『徳』は、
主体的に道を切り開こうとする近代的個人のモデルとなりました。
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昔、ある人は考えました。
「国って何で必要なのかな?」
あれだね、人間ってほんと欲望強くて、いやになるね。
でも、それを放っとくと多分、みんな自分の利益のために奪いあいになっちゃう。
きっと、みんなそんな世界には住みたくないから、
人間の欲望=『権利』を預けるところが欲しくなったんだろうな。
きっとそれが『国家』なんだ。人間が作った元気玉。別名『可視の神』。
でも、ちょっと元気集めすぎて、絶対的な権力になりすぎかも。
怖くて逆らえないし。でも、生きてくためには仕方ないか。。。ジレンマだなぁ。。。
彼はこの『可視の神』を、伝説の怪物『リヴァイアサン』に例えました。
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そして昔、ある人は考えました。
なんか最近「人間マジクズっすわ」「あぶねえ」「あいつらの権利とりあげようぜ!」
って言う人いますけど、ぼく、それおかしいと思うんですよ。そんなことないんじゃない?
『生命』と『身体』と『自由』と、そして『財産』を持つ権利があるんだ!
「人間が放っておくと欲望に取り付かれる、殺しあう」
そんなことない!
たとえ人間の行動は欲望からスタートしたとしても、『真の幸福』について思いを馳せて、
誰かを傷つける前に自分の欲望をとめられる、『真の自由』が人間にはあるんだ!
国に預ける権利は「誰かに傷つけられた時に報復する権利」だけで十分だ!
ぼくたちはいつだって白紙の切符を手に持って生まれてくる。
だから『真の自由』を持って平和に暮らせるような社会をみんなで作っていこうよ。
例えば、ほら、教育とかにちからいれてさ。
彼は、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言に大きな影響を与えました。
そして現在の資本主義、自由主義の考え方の源泉となっています。
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おれ、気付いたんだけどさ。『モノ』作るとき、一人で作るんじゃなくて、
みんなで役割分担=『分業』したら、生産性、めちゃくちゃ高まるよ!
だからさ、みんなで前よりたくさん『モノ』を作れるようになって、みんなで交換したら、
もっともっと幸せになれるんじゃね?
そして、この労働の分業化が進むと、他人の労働生産物との交換が不可欠となるため、
人々の経済的協力が要求され、結果として調和的秩序がもたらされる。
物語の始め、魔王が夢見て、商人が憧れた『あの丘の向こう』は、きっとこの調和的秩序なんだろうと思っています。
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『あの丘の向こう』を夢見て手に入れたものだということを
改めて再確認してくれる、すばらしい物語でした。
おれ、いい歳して、けっこういろんなところで、ぼろぼろ泣いちゃったよ。
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鬼のようなことを言うと、世表現を規制したい人って、ポルノ業者を駆逐してより優れた性表現をすることができないだけではないのか。
性教育はしなければいけないが、ポルノの性表現を超えてデファクトスタンダードとなるような良質な性教育を行うめどは立たない。
さらに言えば、彼らの供給する性教育はクライアントたる子供への訴求力が足りない。ヒットした『ないしょのつぼみ』を書いたのはやぶうち優という民間の作家と小学館という民間出版社であって、文部科学省や学校ではない。(おそらく『ないしょのつぼみ』は性教育に役立っているにも関わらず、性教育に反すると言われて規制の対象に挙げられるだろう。なーんじゃそれ?)
じゃあ文部科学省や学校は何をやっているのか? つまらなく受け入れられない性教育を続けるだけか? それでは子供は性教育をつまらなく思い、受け入れないだけだろう。教育が成立していない。
彼らが供給者として失敗しているから、他の供給者を駆逐しよう、というのは全く社会の発展に資さないというか、自由主義以前の封建制や絶対王政の思想だと思う。
自由主義国家としては、ゴミのような言論が流行っていると嘆くなら、もっと優れた言論を野に放ってゴミを駆逐したらどうよ、出来ないならお前らの方がゴミなんじゃないの、ということになると思う。
ttp://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/03/post-db29.html
イラク戦争は、「米国による石油のための戦争」とも言われた。だが昨年6月以後行われている油田の入札や交渉では、米国企業は、入札資格を得た7社のうち、エクソンモービルを含めた2社が権益を確保しただけと不振を極めた。一方で、中国、日本、マレーシアなど国営、準国営企業の落札が目立ち、随意契約を含め、国別では中国がイラク石油権益の18%を占めて首位となった。
イラク戦争が「石油のための戦争」だというならそのメリットを一番得たのは中国である。そして一番しょっぱい思いをしたのが米国である。なぜこうなかったかだが、基本的に入札が自由主義経済の原理に依存していたからにすぎない。ことは米国にとって想定外のことでもなく、ブッシュ政権からの転換によるものでもない。
米国の利益と優位を支えるのは、直接的・古典的な帝国主義的支配によるのではなく、自由貿易とその上でエネルギーの主軸である石油をコモディティー化する世界構造にある。イラク戦争はその自由主義経済への勇み足な希求と、世界を民主化するという奇妙な情念があった。これまでのところ大半は裏目に出たが、ここからは歴史の転換となるかもしれない。
現在の世界では、原油・天然ガスが輸出収入の大半を占める国家が23か国あるが、そこに1つも民主主義国家は存在しない。このような状況のなかで、近未来に民主主義国家イラクが出現することになり、中期的にはOPECの縛りもなくサウジアラビアに匹敵する産油国になる(さらにイラクには天然ガスも大量の埋蔵が想定されている)。
イラクの豊富なエネルギーが自由主義経済に踊り出せば、米国の優位は自由主義経済興隆の結果として高まることになる。実際のところ、イラク戦争は米国による石油の戦争と言われたが、米国の中東の石油への依存度はそれほど高くない。民主主義国家産油国イラクの台頭が経済台頭するアジアに安定的なエネルギー供給源となることが、結果として米国の国力につながってくる。
実のところを言えば。
これはとても不思議なことなんだけれど。
「二次元ロリの(存在そのものを)規制する」っていうのは、現在の哲学や倫理学の潮流から考えれば
「ヴァッカじゃねえの?」ってレベルなんですよ。脳がどっか逝ってる。
中世に帰って魔女でも焼いてろってレベルなんですよ、いやコレマジで。
これに関しては、多少なりともこの分野を齧ってた人間であれば絶対に異論は起こり得ない。
少なくとも、レヴィ・ストロース以降に学問を修めた人間がこんなことを言うなんて信じ難いんです。
いや、フーコー以後でもいいんですけど。
もちろん、不快原則に即して「興味ねー奴の目に触れない場所でやれ」は前述したロジックでいけるんですが、
その一方、現代法の精神に照らし合わせてもこの規制は全く以ってナンセンス、土人の所業としか言いようがない。
しかしですね、民主主義っつーのはそういうものなんです。
我々、実はミルとかその辺の色んな基盤を経由して来てはいますが、
ほんっとに最終的なことを言えば、「民主主義」ってのは全部ブチ壊しにするクソ制度なんですよ。
もし、あなたが最終的な法の基盤が何かを真剣に問うのであれば、「民主主義ってクソファックじゃん!」
って結論に至るのは最早回避出来ません。これを、ヒトラーのジレンマと言います。
いや、この単語は今思いついたんですが、とにかく民主主義というのはそれ自体が
非・民主主義へと向かう一つの経路なわけです。この部分を是正しようとしてる思想家としてはハーバマス辺りでしょうか。
* 娯楽上の問題。私が面白い漫画を読めなくする奴は○ねばいいんじゃないでしょうか。
* 芸術・文学上の問題。人間性の多様な側面を描くことが人類には要請されているのであって、描けば描くほど人類は発展し、規制すれば規制するほど人類は衰退する。
* そして倫理・法思想上の問題。我々は一応自由主義国家として、自由主義的な思想に基づいた憲法を守らなければならない。今回の都条例はその基準に反している。
この三つ。二つ目は「それはどうだろう?」と思いますが
一つ目も三つ目も「あなたはそう思ってるかもしんないけど、ウチ民主主義国家だから。却下」
っつー話なんです。そういうわけで、「ロリ」とか「ホモ」とかそういう存在は(最近は割りとホモ強いですけど)
この問題に関しては議論の余地もなにもなく、「民主主義だとそうなるね」って感じな気がします。
自由主義的な原則が、多くの人にとって論題になりえませんから。感覚的にキモい、みたいなのが優先されちゃう。
我が国の教養程度が極めて低いっていう証左でもありますよね。
要するに、規制派にロジックなんか無えよって話。統計的にも、あるいは思想史的に見ても
こんな議論ケリついてんですよ。今更論じる価値もないレベル。でも、まぁ規制されるんでしょうね。どーにでもなれよって感じです。
ありがとうございます。
私はオタクなので表現規制・非実在青少年うんぬんの議論を見ていて「規制されたくない」と思うし、「ああこれはミルのロジックでは規制は無理だろう」と思うと同時に、「でもミル以外のロジックで考えてる人たちは、わいせつによる社会全体の被害を懸念して言ってる訳だよな」とも思う訳です。
私が規制に反対する理由は三つあって、
と考えている訳です。
規制に賛成する人は
と考えているのだろうし、そう言われるとそれを否定するほどのエビデンスがないですね。(向こうの出すエビデンスが信頼できると言っている訳ではない。必ずや偏見があるだろう)
この中で最終的にものを言うのは法なので、倫理・法思想的にどうであるかをはっきりさせたいんですよね。