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2022-02-15

anond:20220215102545

悪人正機説という話がある。

あなたたちの中に罪を犯したことがないものが石を投げなさいという話がある。

僕はその時になってみないと、犯罪を犯した人と友達になれるかはわからないし、そもそもその人によると思う。

でも、過去の誤りを過去のものとして、現在のその人を受け入れることができる人がいることを知っている。

そういう人を尊敬するし、できれば僕もそういった人になりたい。

そういう人になるためには日々何を考えて行動すればいいだろうか。

2021-04-28

https://bunshun.jp/articles/-/44981

・文春やっぱり増田キャリブレーションに使ってるな。まあ他のとこ(たとえばBBC)を参照する増田よりは相思相愛いいんじゃないかとはおもうが。

・この「弱い人ほど弱さをみとめて悟りにちかづく」ってのは悪人正機説といってプロレスラーだったり受刑者(強さを使役する男性)が獄中で読む本として有名な歎異抄の教え。車輪の再発明やな

https://biz.trans-suite.jp/16081

ところで仏教って女性を救わない・救えない(と教祖定義してしまった)三大宗教の一つなんだよね。どの宗教でも女性けがれ、誘惑、悪の元。弱者男性とおなじような敵視を感じるよ。

とりあえず宗教者になるなら女犯禁止はどの宗教でもやるでしょ。セックスして生活費もらって子育てしてたらあと救いはいらねーよな的な。

結局女性自助努力するしかなかった。それを「怖がる」とかマジ救えない。親によほど虐待されたのかね。そういうのってほんと自己解決してほしい

2021-01-15

https://anond.hatelabo.jp/20210114225222

増田はどの宗派 or 宗教

増田は、僧侶増田と同じく真宗宗派(浄土真宗の中でも、さら宗派がいろいろあるよ、という意)なので、僧侶増田の説法には一定の理解をしています

それと同じぐらいの意味で、もし増田真宗宗派じゃないとしたら、違和感を持って当然だと思います

増田の思うところ、増田が指摘することは「だって宗教もの」、そして、「浄土真宗もの」という話に収斂すると考えています

悪人正機説という、真宗宗派ではよく説かれる話にもつながります

ご縁があって、救われると思えば救われます

そのご縁につながらなかったり、またはご縁をないがしろにしては、救われるものも救われません。

それが「浄土真宗もの」と感じるところであり、その説法によって救われたいと願う人を惹きつけるからこそ「だって宗教もの」であり「浄土真宗もの」と、私増田は感じています

2017-12-27

anond:20171227143307

日本仏教なんて鎌倉時代ぐらいから終わってるぞ!

悪人正機説踊念仏なんて釈迦が聞いたら卒倒するレベルだろう。

2015-11-21

親鸞悪人正機説イメージがつかめ

浄土真宗開祖である親鸞思想根本に、悪人正機説というものがある。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

という言葉でそれは表されているが、この意味が、どうにもわかりにくい。

辞書的には、

他力をたのみとしない善人でさえ往生できる。ましてや、悪業に苦しみ、ひたすら他力をたのむ悪人が往生できないわけがない。

デジタル大辞泉

という意味だろうが、これでイメージがつかめるだろうか?

善人の何がいけないのか? 悪人がどうして往生できるのか? ひたすら他力をたのむというのはどういうことなのか?

……などなど。

最近、こういうことだというイメージがつかめたので、ここに紹介したい。


善人であろうとすることは非効率努力悪人自覚効率的方法への乗り換え

極楽浄土を、ゴールとする。

善人とは、自分の力を信じて、ゴールである極楽浄土へ向かおうとする人々だ。

道を地元の人に尋ね、一生懸命に走ってゴールへと向かう人々をイメージして欲しい。


ところが弥陀の本願は、この世のすべての衆生を救うことである

涅槃の彼方に究極の慈悲の持ち主がいたとしたら、すべてを救いたいというのがその願いに違いない。


から阿弥陀如来は、救いの手を差し伸べる。

簡単な方法だ。

救われることを信じて、極楽浄土へ生まれ変わることを信じて、ただひたすら「南無阿弥陀仏阿弥陀如来帰依します)」と唱えればいい。

これはつまり極楽浄土行きのバスを走らせていて、

「さあ、これにお乗りなさい。之に乗れば、必ず極楽浄土へと連れて行ってあげますよ」

と呼びかけているようなものだ。

これが、親鸞の言う、

「ひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」

という意味なのだろう。


ところがこれが、難しい。

ただ楽浄土行きのバスに乗ること、乗り続けることがなぜ難しいのか?

それはなぜか? 

ゴールが見えないからだ。先を見通すことがほとんどの人には出来ないのだ。


一寸先は闇ともいう。

人々は、バスにそのまま乗り続けることに大変な不安を感じる。


バスから降りて、歩いている大勢の人に道を尋ねながら、ゴールと思われる方角へ向かう方が安心できるかもしれない。

それにバスに乗っていると、達成感が湧かない、苦しくない、だから自分で走って向かいたい、という人は案外多いのだ。

このような人々が「善人」と呼ばれる人々だ。

自分努力善行を積み、来世でより幸せになろうとする人々だ。


このような努力の結果、もちろん極楽浄土へ到達する人もいるだろう。

これが、

「善人尚もて往生をとぐ」

意味だ。

しかし往生しない人もいるに違いない。

なぜなら、自分極楽浄土へ向かおうとする人々の中には、途中で挫折する人々もいるし、道に迷う人々もいるからだ。

彼等は善人であろうとして、最後まで善人であり得なかった人々だ。


ところが、本来無駄なことをする意味はない。

自分で歩こうとか、

道をよく知らないくせに道案内を買って出るような人に道を尋ねることは、愚かなことだ。

阿弥陀仏がせっかく極楽浄土行きのバスを走らせているのだ。

ひたすら阿弥陀仏を信じて、バスに乗ればいい。

阿弥陀如来の救済を信じきり、バスに乗り続ける人間は救われる。

これが、

「況や悪人をや」

意味ではないか。


ところが、悪人が往生するのならば、善行を積む必要はなく、罪を犯してもいいではないか。

このように考え違いをする人々がいる。

だが、それは違う。


もちろん、そのような人々も阿弥陀如来はお救いになる。

極楽浄土行きのバスに乗れば救いの手を差し伸べる。

極楽浄土行きのバス乗車を断られることは決して無い。

ところが、確信犯的に罪を犯す人々は、バスに乗らないどころか、ゴールへ向かおうとすらしない人々だ。

真宗の教えを知りながら悪行を重ねる人々は、言わばバスから降りた人。

彼らが極楽浄土へ向かうことはなかろう。

無論、自分の足でゴールに向かう人々にも劣るのであって、阿弥陀如来だって救いようがない。


以上のようなイメージを持つことで、悪人正機説全体像をつかめるのではないかと思う。

2008-09-30

http://anond.hatelabo.jp/20080930042433

すごくおおざっぱにいうと、イエス様/阿弥陀様が俺たちのこと救済してくれるから自力でなんとかしようとか考えなくてもいーよ、っていうのが共通点ですよね。イエス様/阿弥陀様に帰依してさえいればOKという。

もちろん、そこで帰依の仕方というか求められるものというのはそれなりに違うわけですが。

そういや、カトリック告解浄土真宗悪人正機説の似てるところと違うところって考えてみるとおもしろいかも。

 
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