はてなキーワード: 画一的とは
◆体育会系
このタイプは技術的に伸びない場合、営業に飛ばされる事が多い。
決められたことはこなせる為、体力勝負の人足仕事向き。
半面、設計やバグ調査などをロジカルに行う事が少ないため、過去事例が無い局面で弱い。
◆文系
元々プログラムなどが好きで入った奴が大目、自作PCの話とか普通の話題。
飲み会などではしみじみと隣と語り合うような事が多く、知らない新人は「盛り上がらないっすね」とか言ってしまう。
のめり込む為、技術的に出来る人間も多いが、反面使えない奴はコミュ力もなく外にも出せない不良在庫となる。
このタイプを中間管理職に置くと、上手く立ち回れず責任感で潰れることが多い。
派遣でくるプログラマが常駐する場合、「使える、使えない」「馴染む、馴染まない」の2通りの評価軸があり、それぞれがどう作用するかは、客先のタイプで異なる。
無駄な設計に意見も言えず、残業を喜んでやる職場で、何かといえば飲み会飲み会。
おごればどんな無茶振りも許されるとでも言わんがばかり。
その上、そこのやり方に乗れないと、それが「使えない」「馴染まない」判定になる。
逆のケースは良くわからないが、少なくとも本人が苦痛を感じるだろうことは想像できる。
サッカーの話もスキーの話も車の話も中途半端で、パーツのスペックやゲームの話だけは盛り上がる職場。
多分、嫌だろう。
こればっかりは、画一的に話せることで無いと思う。
相手に訴えかけて感化させればそれで教育成り立っちゃうんだな。
それとは別に、とにかく同じ言葉を繰り返して叩きこんでも同じような効果があるけど、その場合はちょっとしたことで洗脳が解かれるから注意。
特に、エリート教育とか人格を無視してとにかく自分の思い通りにしようとするとその人の人生をめちゃくちゃにする。
でも、これって全部俺のせいなんだよな。親が馬鹿の一つ覚えみたいに画一的な教育をしようとするもんだから、それは違うだろって言いまくって、黙って親に従ってるだけの妹にも、それじゃ良いように利用されるだけだぞとか言ったりして。
そしたら、いつの間にか俺以上に妹のほうが歪んでしまっていた。なんか悲しいのかなんなのか。見た目にはものすごく平和で成功してるように見えた家庭、そういうものを自分は否定し続けたはずなのに、それをはっきりと実感できる現象が目の前にあるとこうも恐ろしくなってしまうものなんだと。恐ろしいというか脱力感というか。
俗世に逃げるよりも、人生をなんか貴重なものと思うのはやめることでなんとかなりそうな気はする。俺たちの人生をめちゃくちゃにしやがって!みたいなことは、言ってると気持ちいいけどね。
親だって社会システムに踊らされた犠牲者なんだからなぁ。そういう俺も、この社会の枠組みからは外れる勇気がないっていうね。なんだこりゃ
1970年代に盛んになった脱構築と言われるムーブメントは、画一的構造主義を排し、相対化という理念の元に個性の尊重をもたらした。
1990年以降に急速に発展を遂げたインターネットも、個性の居場所を与えた。
このように見ると、戦後の日本、戦後の世界は、個性の尊重を実現してきた歴史と言うこともできる。
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個性の尊重というと、無条件に素晴らしいことであると錯覚しがちだが、負の側面もあることを忘れてはならない。
例えば、個性を尊重した社会であるためには、人々がより沢山の価値観や文化を学ぶ必要が出てくる。
また、個性の尊重のために、それぞれの人間に適した環境を与える必要があって、実現の困難さに直面することにもなる。
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だが、何よりも心配すべきなのは、個性を尊重すればするほど全体の統制が困難になるということだろう。
価値観の共生というと聞こえは良いが、現実的に考えれば、先に触れたような個々人が行うべき学習や社会が用意すべき環境の必要性が爆発的に高まるという問題がある。
だから、いくら人々が個性を重んじる精神を持っていても、構造的に個性の衝突は避けられなくなってくることは事実なのである。
個性の衝突が発生すれば、当然のことながら全体の統制は困難となる。
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それだけではない。たとえ、個性の衝突があまり無かったとしても、それでも全体の統制が極めてとりにくくなるという点を見落としてはならない。
なぜか?それは、全体を統制しようとした時に、個性からの反発が生まれてくるからである。
というのも、個性の尊重は、相互不可侵の上に成り立つものである。なのに、全体の統制というのは、往々にして個性を侵害してしまう。
だから、個性からの反発が生まれてきて、全体としての身動きが取りにくくなるのである。
しかも、個性が多様になればなるほど、「当たり前」は通用しなくなり、ちょっとした事でも反発が生じてしまう。
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言うまでもなく、全体の統制は、全ての個性または多くの個性にとって有意味であるからそうするのである。
したがって、もし全体の統制が出来なくなったら、個性の発展が停止することになる。非常に恐ろしいことだ。
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今生まれ来る子供達は、これまでの人類史にないくらい多様な個性を身につけ「させられ」ようとしている。
個性の尊重とは名ばかりで、実際には用意された多様な個性の中からどれかを選ばないと社会生活しにくいのが実態だ。
そして、選んだ個性によって行動が規定され、他の個性を攻撃したり、全体の統制に反発したりするようになる。
みんながそういうふうに個性の尊重のために攻撃・反発することで、皮肉にも、互いが互いを縛りあって個性が抑制される結果になる。
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無駄な消費をやめることになると、文化、芸術、娯楽が真っ先に衰退すると思う。
こういう分野って、へんな言い方をすると他の産業の成長の「おこぼれ」を貰って成り立ってるわけで、
社会に無駄な金と時間が余ってないと回っていかないんじゃないかと。
出版、音楽、映像、みんな金が稼げる仕事じゃなくなっていくと思うよ。
ネットのサービスが基本無料なのも、広告を出す会社があるから成り立つわけで、
衣食も、高級なところとか個性的なところは軒並みダメになって、ファストファッション、ファストフードばっかになるだろうし。
性風俗産業とか、クラブ、キャバクラ、スナックとかも全滅するんじゃないかな。
経済成長のない「持続可能な社会」って、エコロジカルで地産地消で、みたいなイメージがあるけど、
実際にはその前に不景気で地方は軒並み衰退して、大都市でないと生きていけないようになる上に、
すべての消費が個人の趣味嗜好ではなくて、必要性で選ばざるを得なくなるような社会になるんじゃないか?
ニッチ向け産業が成立しなくなって、マス向けの大量生産、大量消費だけが残ってしまうんじゃないか?
http://anond.hatelabo.jp/20100401093824
「全く最近の若者は……」「わしらが若い頃は……」というのは年寄りの常套句ですね。
その昔は新人類と言う言葉がありまして、情熱・覇気がない、良いのはテストの点だけ、応用力ゼロで無個性のロボット等々言われていました。
それは、詰め込み教育、受験戦争の過熱、共通一次試験などで、画一的な教育や外で遊ばなくなったため。
なぜそうなったかといえば、それまでの中卒高卒当たり前という社会ではなく、全体の教育水準を向上させなければ、これから先、先進国としてやっていけないから。
しかし、そういった問題が出たので、詰め込み教育はやめ、授業時間を削減して総合学習とか、多彩・個性的な授業を可能にし云々。
つまり、教育が成功したことなんてないんですwww
就活疲れたわ。
就活に疲れたわ。
いや、物理的には別に対したことないんじゃけどの。
ESなんてそうそうネタが変わるわけでもないけぇ、今まで作ったヤツをちょこっといじってコピペして貼り付けるだけじゃし
説明会言うても丸の内あたりに言って2時間ばかり座っとればいいだけじゃわ。忙しいちゅうってもせいぜい1日2、3もないだろうのう。
OB訪問なんかもまぁ、ただ飯食えるボーナスステージみたいなもんじゃ。
それにこの時期に他になんか忙しいことがある人なんちゅー人もおらんはずじゃしの。
筆記試験も、まぁ対策ちゅーてもほとんどが昔とった杵柄でなんとかなるレベルだしのぅ。
別に全然大変じゃないんじゃわ。。就活は。
ただね、精神的に辛いんだわ。
真綿で首をしめられているようじゃ。
就活っちゅーのは受験勉強みたいにね、現状がわからんのですよ。
そりゃ高い目標持つのはね、すごい良い事だと思うんですよ。
志が高い人間にしか、大きなことは実現できませんからね。
いわゆる人気企業=成功という訳でもないですしな。
学生の人気企業ランキングなんか見ても、思いっきり倒産かましたJALが
つい数年前には人気企業ランキング1位なんかはいってるのみても分かる通り
単にあれは自分の今までの経験のイメージでえらんどるだけですわ。
あれを鵜呑みにしとる人はつまり宗教に騙されやすい人やから注意するようにな。
でな、まぁ、キッカケを持つのはみんなそんなもんやろ。上場企業だけでも4000社あるんやからな。
そんな感じでこの戦線にね1歩足を踏み入れてみると 今まで見たことのない世界が広がっていて楽しいんですわ。
あぁーこんなこと知らなかったわ、ええ勉強になったわーなんてね。
ただ、ズブズブと足を踏み入れて行くうちに知らん間に迷宮にはいってもうてるんですわ。
それ以外にすることはなんもないです。
自分の人生を振り返って今までのストーリーを組み立てるだけのお話ですわ。
でも、だからこそ今まで逃げてばっかだったの俺みたいな人間にはどうしようもなく辛いんですわ。
何が正しいのか何が間違ってるのかもようわからんくなってきてますわ。
もうね、いっそのことあんたはE判定です。やめなさい。って言ってくれた方がどれだけ気が楽になるんだろうかって思うことがありますわ。
でもこの戦線ではそうやって戦闘離脱は許されんのんですわ。
当たって砕けてみにゃわからんちゅーて 神風特攻隊のごときで皆やるんですわ。
そうやって次々と玉砕して行く中で、あれ、俺ってこんなに人間的に魅力なかったっけ・・・?
なんつーってグルグル思考がいったりきたりして自己否定され続ける。
たまらなくキツイです。
今年の夏くらいに、どっかの就活セミナーで講師のおっちゃんが言っとった言葉の意味が最近よくわかってきましたわ。
就活はサトリが大事や、と。
覚りと悟り。
これを並べて読んでみると
「覚悟」ですわ。
ケツをまくるっていうんでしょーかね。
いつになったら僕の覚悟は決まるのでしょうか。
元増田はあなたがするような反論はウザいようです。
1を止めたら話が続かない
→周りに合わせて無理して会話しようとするのが苦痛な人のための元エントリ。
よって、余計なお世話だ。
→コメント欲しがりな自称コミュ力の高い人に無理して合わせようとするのが苦痛な人のためのエントリ。
よって、余計なお世話だ。
3はまあ同意しておこう
→ああそう。
4は女には通用し無くないか?女は相手に同調してもらいたい人種だ
そういうありもしない「女像」に合わせるのが苦痛な人のためのエントリ。
よって、余計なお世話だ。
→元増田は、あるんだか無いんだか分からない「思わぬ地雷」とやらに神経すり減らして40年やってきた。
あなたにそんなこと、今更説かれるまでもないだろうよ。
よって、余計なお世話だ。
最近、キャリア的に5年ほど下の後輩(新人)と一緒に仕事をしているが、うまくやっていけない。
気持ちを整理するために文章にしてみる。
私の希望は上の2つ。
1についてだが、まず彼の方が今の部署で半年ほど早く働いているので、今の部署の業務に対して彼は自信を持っている。実際には私の担当と彼の担当は内容が違うということと、彼は職場全体の流れを把握していないという点から頓珍漢な事も多い。少なくとも私に対して優越感を持つほどのレベルではない。
やっぱり偉そうにされるとイラッとくるが、これは各人の考え方だから、コントロールするのは無理だと思う。できるだけ接触しない、という選択をとっている。そうするしかないのだろうと思う。
次に2について。こいつは人が他の人と話をしていると、横から入ってくる。また、知らないことについても、さも知ったかぶりをする。私が言ったこと(教えてやったこと)に対しても「そうですよね。」という言い方しかしない。また、私が教えたことに対して、私から聞いたという素振りをせず、以前から知ってたかのように振舞う。
それから前職が営業職だったということが自慢らしく、誰しもしている当たり前のことに対しても「営業のテクニック」とか言って、自慢げに振舞う。こちらは当たり前のやり方と思っていることを、自慢げに話されるとイラっとくる。
とりあえず、こいつと接するのが苦しい。仕事のストレスになっている。彼を変えることはできないと思うし、まずは自分を変える方向で考えるのが楽だと思うので、どうにか彼を認められる自分に変えていきたい。
とりあえず、次の2つを実行する。
認めることができれば楽だろうと思う。
きっと、対応に困るからストレスなんだろうと思う。画一的な方針が決まれば楽に対応できると思う。
素のまま接するとつらいので、考えながら接していきたいと思う。
持ち込み禁止=ベルトコンベアのように扱うってわけでもないしいい比喩だと思わない。
客側が店側に何かしらを要望するってことを全面的に否定はしないけど
安居酒屋なんてのは酒飲む場所の中でも特にグレードの低い場所であることは念頭に入れていいと思う。
お客は神様ではないからね。
■ばななのウザッたさ
それなりに同意。
■店長のクソな感じ
理解も共感もできない。
ばななは女の子にこっそりとグラスを頼んで、こそこそこ開けて飲んでたんだから、
女の子の行為をオフィシャルなお店の行為として受け取れる理由は無い。
サラリーマン店長のゴールは自分のところの売上を「チェーン店としてのルールを破ってまでも」最大化することでもない。
ブクマでも散々言われていたけど客に聞こえる声で叱るな、とは思う。
■ルールが絶対のお店はアリかナシか。
常識的な範囲内でのルールだったらアリかナシかで考えることじゃなくて、
自分がそういう店を選ぶか選ばないかで考えることだろ。
個人的に言えば「馴染み」って存在になることが大嫌いで飲食店でも店員さんの反応が「馴染み」に対するものになってきたらその店にはしばらく行かないことにしてる。
全てが画一的で、だからこそ閉鎖性が無いチェーン店はありがたい。
ところでこの手の話題が出るとかなりの確率で「高校生・大学生」を悪者にする人がいるけど居酒屋って別に大学生だからうるさいとかサラリーマンだからしずかだとかそういう場所でもないので
よろしくない決め付けだと思う。「DQN」ってのはどういう存在か曖昧すぎるから省くが。
もう一つ気になったんだけど
そこにもっとフレキシブルさ、自主性を求めるのは客としては当然だと思うけれど、
ここの接続は「けれど」でいいのか?
客が自主性を求める=店員にやりがいが生まれるって趣旨かなと思うんだけどそのあとの文章を読んでもちょっとわからない。
■結論としておもったこと
人の日常生活の中でもっとも調子に乗りやすい場所だからね。
最後に名刺置いてくのに笑った。
きめ細かなサービスが欲しけりゃ、それ相応の金を出すのが当然。チェーン店と言ってもピンキリだけど、若い店長だったってとこからして、客のわがままの通るランクの店じゃなかったってことだろうね。
国外に住んでるけど、たまに日本に帰ると、あらゆる店において客の対応が異常なほど丁寧なのに驚く。さすが「サービス」が「無料」と同義語の国。(無料の意味での「サービスしときますよ」は"service"ではなく"complimentary"。) 本来は、受けられるサービスは値段によって全然違うはず。安い店はマニュアル対応で誰にでも画一的なサービスを提供することで安くしてるわけなんだから。(日本批判の意図はない。むしろ日本はこのサービス水準を世界に誇るべき。)
あの店長の対応がまずかったとすれば、正論で客を説教しようとしたことだろう。そうじゃなく、堂々と「残念ながらここはそのような種類の店ではありません。対応しかねます。」とだけ言って後は取り合わなければ良かったんじゃないかな。よしもとばななの人脈なんていうのは、ターゲットの客層じゃなかった、つまりお呼びでなかったってことだ。それに気づかず店を批判するのは痛い。
他に客がいなかったんなら、いくらか店長にチップ渡したら見逃してくれたかもしれないけれどね。海外行ってる友人がどうとか言うんなら、そのことには思い至らなかったのかなあ。
ネットで多数の意見を目にするようになってから、自分の倫理観が崩れだしている。
倫理の指針(同語反復?)ってどこにあるのかわからない。
最近で言えば
福知山脱線事故でなんで起訴したことによろこんで悪いのかとか、
外務省の機密文章破棄問題だって、いくつの問題があるのかわからない。
自分の場合、
(馬鹿かもしれないが実際そうなんだから仕方ない。すりこみ(共感)で感情は創出されると思ってるし。
感情は「学んで」手に入れるものだと思っている)。
どの感情や正義を自分の感情や正義にしたらよいのかわからない。
もしかしたら、テレビの人たちも正しい正義や正論を知らないのかもしれない。単に流さないだけかもしれないけど。
どうすれば正論に関するひとつの基準が作れるのか?
どうすれば正しい正論にいきつくのか。
正論にひとつの基準なんかないから、いっぱい物に当たって自分が自分で正論や感情をつくるしかないのか?
それとも信頼できるひとつの言論を広大なネットの中から見つけるしかないのか?
骨だな。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20090621/p1
なんかさ、言いたいことはわかるし、
現状の分析として面白い論考ではあると思うけれど、
「じゃあ俺たちは今後どう生きるべきか」、とか、
「こういう生き方ってはたして是なのか」、という話ではない気がする。
「本当にこの人は賢く文才もあり、毎回見事な記事を書かれていらっしゃる」と感心できるんだけど、
多分に作者の自我や自意識が絡む語り口が、正直ちょっと気持ち悪かった。
いろいろ言ってるけど結局は、近代的なシステムの中での「エリート」や「強者」に対する厭味と憎悪を、
社会システムや構造上の観点から吐露してるだけじゃん?って思った。
いや別に、「言説に自意識を持ち込んでんじゃねえよ気持ちわりい」
などと上げ足とりをするのがこのエントリの本意ではないけれども、
そもそもこの人の主張ってえてしてそういう味付けされていること多いから
なんとなくつっこまずにはいられなかった。
とりあえず、愛読ブログのひさびさの渾身(?)エントリなので、
脊髄反射的につっこみを入れておく。
前提として、
・そこから生まれた諸制度の誤謬や矛盾に誰もが気づいている。いずれ近代的なシステムも死滅する。
というスタンスにまず大きな疑問を感じる。
おおざっぱに言っって「近代」は「大衆のエゴ」を肯定し、拡張させる思想であり装置だ。
ここでいうエゴとはこれまたおおざっぱに言って、
●「快適さを求めたり、うまいものを食いたいと思う生理的欲求」
●「いい女とやりたいという(男の)性欲」
の三つだが、これらは社会が生まれた当初から存在した普遍的な人間の行動原理であり、
社会の発展のプロセスとはその規模が広がっていった過程でもある。
「長いスパンで見た時に、人類の歴史は平等へ向かっている」とは、そういうことだ。
利便性の向上による人類への貢献と資本の社会への循環・還元という大義名分によって、
それは、社会を発展させる上でこの上なく有効に機能した。
だがそこには当然副作用も働く。
それは近代の振りかざす大義名分があったゆえに、良識的な人間からはことさらに「醜悪」に見えた。
ポストモダンと呼ばれる一連の動きは、
その醜悪さをえぐりだし、画一的な近代の価値判断を徹底的に否定した。
それが20世紀後半の数十年の話。
思想としてはそれで正しいんだけれど、
人間の欲望はそんなに簡単に変わらない。
欲望を肯定して突き進んできた人類が、
「今後はさすがに自重すべきだわ」と簡単に納得するわけがない。
100年前だろうと今だろうと、
そういうDNAレベルで刻み込まれている人間の欲望みたいなものは、
上位3%の人間に対するインセンティブとして今後も機能しつづけると思う。
Webというシステムがインセンティブを求める人間によって作られたにもかかわらず、
結果として彼らの享受すべきだったインセンティブを
徹底的に否定する流れを生み出したことはまさに皮肉としかいいようがないけれど、
彼らの「自分の偉さ(頭の良さ、美しさ、道徳的正しさ、経済力、etc.)を誇示しようという無意識の下心」が発散される回路が、
今後も手をかえ品をかえ生まれてくるはずだ。
もしくは、それがより巧妙になされる、とかね。
とゆーかそもそも、
誰もが偉ぶることなく、誰もが劣等感を感じることなく、
ただ与えられた役割を粛々とこなしながら、
目の届く範囲の人間関係の中で生まれては消える充足・充実・高揚だけをよりどころに生きていく社会って、
あまりにもつまんなくね?
「大物」がいない世界って、結構味気ないぞ。
暫くはてな村というところを観察していて、
はてな村というところは、特に表通りはホッテリ(っていうんだっけ?)乞食が跋扈する世界だというのが分かってきた。
特定ユーザーがホッテリしやすい構造になっているはてなだけど、
ホッテリに入る一番簡単な方法は、ホッテリに入っている記事や人を叩くことだね。
そこらへんをよく分かっているアクセス稼ぎに熱心なアルファブロガーいう部類の人達(404の人とか)は叩きが大好きで、火の手が上がった所にはほぼ儀式であるかのように、必ずその火の光を浴びて注目を浴びるべく参加する。
近頃で言えばひがやすおとかいう人(http://d.hatena.ne.jp/higayasuo/20090619/1245401284)とか色んな人が梅田望夫さんに何度も粘着して
スーパーマリオのコインブロックのように何度も叩いてアクセス/はてブ稼ぎに励んでいる。
梅田さんは何度叩かれてもコインを吐き続ける、大変優秀なスーパーマリオのコインブロックだ。
はてブユーザーの行動もかなり単純で画一的で、ホテリ狙いの人達にはどこに餌を垂らせば良いのか読まれがち。
普段大したブクマが付かない自分も、この前もホテリ叩きをしたらそれだけで1日程度で100個OVERになりホテリ入りした。
はてなもそうした「叩き合い、足の引っ張り合い」を放置して炎(上)に引き寄せられるはてな民によるアクセス稼ぎでウマウマ状態を享受しようとしているのだから
叩き・叩かれでのトラフィックExchangeが成立し、止める者もいないままギスギスした雰囲気はますます進んでいく。
その結果、世間一般での役割分担として、やっぱ一般人はアメブロだよね、ということになるのだろう。
はてダにおいて叩き合いフリーダムな文化を維持し、はてブ・増田などで更にそんな文化を更に助長してきたはてな。
悲鳴を上げる人達には自己責任との流れで冷たく見捨て、支配下のはてなブックマーカーに更なる攻撃をさせ敵対者を沈めて村としての結束と繁栄を維持してきたはてな。
それは確かに一部では凄く盛り上がるけど、全体としては他に比べるとリーチがそれほどでも無いというサービスになってしまう結果に。
そこがはてなが一部の人を強く引きつける要因であり、またid:jkondoの望みとは裏腹にマスには届けないという限界の要因なんだろうな。
インターネットの世界では先行者メリットが大きいというけれども、ブログで先行していたはてなはそれでも後続に追い抜かれていったというのは、そういう事の積み上げの結果だろう。
自分ははてなという存在は、「ヲチ板2.0」(2chのネットウォッチ板ver2.0)という呼称が似合っていると思う。
アカウント持ちでも、実名でも、匿名でも相手を叩け、はてブにより全方位どのサイトでも叩く事が出来、またホテリにより集合知を活用した集団叩きも可能な、ヲチ板の進化系だ。
この村で暮らしているとこうなってしまうんです。
http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733
を読んで、なかの人から見て考えたことをまとめてみます。
ちなみに私は地方国立大学の複合領域系(文系とも理系ともどちらとも言いにくい)の准教授です。今年は卒修論それぞれ数本ずつ指導しました。
退学届けを提出されたriywoさんお疲れ様。
一応の大学人としては退学なさったのは残念とも思いますが、むしろ他の学生と違う選択を積極的に行ったその勇気に敬意を表したいと思います。(余談ですが、お金払って来ているのに、教授会で承認されないと退学できない仕組みってヘンですよね。893や新興宗教じゃあるまいし。)
上記エントリに関連してコメントさせていただくと、大学人としては、大学が「学問」の府であるというのは絶対に譲りたくない主張です。しかし、その一方でほとんどの大学の目標の1つに、高度な職業人を輩出することが上げられていることから、就職予備校という役割があることは社会的に見て当然のことではないかと思っています。
もっとも、常々私はこの議論の前提がおかしいのではないかと思っています。その前提とは、「学問」というのは崇高なもので、民間でのお金儲けとは違う。というものではないかというもの。教員をしていると常々思いますが、本当の意味で社会から必要とされていない研究は研究とは呼べません。その意味で全ての学術研究は何らかの社会的意義があり、社会的なコスト負担を伴って推進されるべきものです。ただし、その性質上そのリターンの回収が困難なので税金を使って基礎研究をやる必要がある。つまり公共財的な性質を持っているというだけの話ではないかと最近思うようになりました。
その点では、大学の教員も立派な普通の職業であり、大学も1つの産業セクターであることは間違いないです。そのために、少なくとも自分が価値あると思っている研究を推進するために、世の中の大学教員は(自分のポストも含めて)必要な資源(金、人、もの)をかき集めて成果を出すために必死になっているのです。公的な資金を使う事が多いというだけで、本質的な構造はビジネスと変わってないのです。その意味では、博士課程は研究者のための職業予備校みたいなものです(余談1)。
そのように書くとまるで私が学問を貶めているかのように思うかもしれませんが、もちろん人類の利用できる知識、認識を増加させる学問という行為はかけがえのないもので、かつ人間にとって根源的な欲求であると思っています。そのおかげで貧困をはじめとした様々な社会的問題を解決してきたのが人間の歴史だと思っています。
しかし、その一方で、何が何でも学問こそが唯一の価値であり、その他の様々な産業セクターより優れているという考え方は私は持ちません。小売業も金融業もそれぞれ社会で固有の価値を持っています。それと同じようなレベルの産業セクターだと思っています。もっとも、このような認識を一般の大学人は認めにくいでしょう。それはどの産業セクターも同じだと思いますが、自分たちのやっていることは他と比較して特別な価値があると考えているものです。
その点で、大学人が研究を神聖視するのは当然です。ただし、やっかいなことに大学というのは、優秀な能力と意欲を持った若者層を教育する機関でもあるのです。当然、教育課程を通じてその若者たちに学問のすばらしさを説きます。そして、場合によっては学問のすばらしさをわかってない学生にも研究上必要な作業の協力を得たりすることも多いのですね。その背景には大学で優秀な研究者が大学以外の民間企業の環境を知らない事も遠因になっています。(余談ですが、就活指導をする教員が通常の就活をしたことがないような事例はいくらでもあります。)
それがしばしばいわゆるソルジャー問題として噴出したりします。もっとやっかいなのは多くの(特に理系の)研究室で、学生に対して教員の持つ権限が専制的だということです。教員の取り替え(研究室変更)もなかなかできない。人間同士なのだから、相性の悪いことも一定の割合で発生するとは思うんですが。そこで、様々な問題が発生する原因にもなります。特に、先生の指導に根本的に問題がある場合は、若者の有為な数年間が残念な期間に成り下がるリスクがあります。なので、特に大学院(研究室といった方が適切か)の選択は慎重に行って欲しいものです。
反面、学部から大学院への進学は極めて容易になってきています。成績がそこそこあれば、無試験で進学できる制度を採用している大学が多い。特に学生が研究に対する意識や、自分の人生についてのしっかりした考えを持てないまま、3年冬の就職か?進学か?という選択を迫られたときに、もう2年のモラトリアムを延長するつもりで進学する学生が後を絶ちません。これは不幸の始まりです。
しかし反面で教員にとって、進学してくれる学生は一緒に研究をすすめていく上で重要なパートナーです。場合によっては箱入り娘よろしく、専門分野以外の世間をあまり見せないようにする、一方で研究のすばらしさのみを説き続け、研究活動に全ての資源を投入するように誘導している教員も散見されます。特に理系では伝統的に就職活動に時間を取られないよう、大学(教授)推薦による就活を主体にしているところも多いのではないでしょうか?もちろん推薦にも一定のメリットはあるのですが、推薦先を決定する権限を持っている教員に(研究指導も含めて)過度に権力が集中しているのでは?という疑念を抱かずにはいられません。
個人的には、そのような権力が教員サイドに集中する環境にいる、(いわば「学問」という名の宗教的な組織にいる)学生が、もっと自発的に自分たちの人生や将来をよく考えた上で、大学のあり方について自ら対抗して欲しいような気持ちもあります。ですが、現状の学生の問題意識や行動様式を見るにそれは難しいことのような気もします。
それどころか、就活までの時間的猶予がある時期に、進路についてよく考えなさいと指導をしても、全く考えようとしない学生が多いのには困ります。(もちろん私個人の指導力不足も原因。)一例として、大学で勉強したこととその社会的な評価によって、生涯賃金ベースで数千万円は平気で変わってくると説明しているのですが、うまく伝わらないという問題を抱えています。結局のところ、適当に卒業すれば自分の人生何とかなると考えている節が見受けられるのですが。
http://d.hatena.ne.jp/next49/20090222/p2
先日上記のnext49さんのエントリに大量のブクマがつきました。
同業者として、next49さんぐらい学生のことを考えてくれる教員に指導される学生はいいな等と、興味深く眺めていたのですが、私の疑問はなぜ自分で考える事ができない学生を無理矢理にでも卒業させてやらなければならなかったのか、またそうさせてしまう深刻な大学の持つ雰囲気です。
自分自身そのような環境にいますから、卒業論文以外の単位と内定先をそろえた学生に卒論で不可をつけることがかなり難しいことは百も承知なのですが。自分で考える習慣を身につけられなかった学生にもっと考える時間を与えることが望ましいと思うのですが、今の日本の大学のもつ雰囲気としては、無理矢理にでも卒業させようというところが多いです。自分の大学ですとそうなった場合指導教員が内定先にお詫びの連絡を入れる風習があるそうです。なぜ教員がお詫び?というのは不思議で可笑しいです。(自分はまだやったことがないですが。)
この問題はかなり根が深くて、大学の最短修業年限にこだわる学生と「(留学などの特別な事情がないのに)留年する学生は要領が悪い?」と社会が見なしていることが問題のように感じています。ホントかどうかわかりませんが、留年生が増えると文科省の評価が下がるということを同僚から聞いたことがあります。学生の学ぶペースはそれぞれで、遅ければ遅いなりにしっかり本質を獲得する可能性もあるのに、とにかく画一的な年限で卒業させようとする雰囲気が強いのは困ります。
優秀な学生も、学習内容の獲得に時間がかかる学生も、外部から見たら区別がつかないのが今の大学の現状ではないでしょうか。(もちろん社会が大学で学ぶことにそもそも期待していない(と考えている)風習も遠因でしょう。でも本当にそうなら、卒論が未了で卒業できない学生でも企業に採用して欲しいものです。)その点では、それに限らず、様々なところで大学教育の画一性が現場で深刻な混乱を招いています。文科省の大学設置基準をはじめとした時代にそぐわない規制が未だに現場を支配しているのが現状です。もっとも、文科省の責任になすりつけるのは不本意で、大学のなかの人のマネジメントが成功しているとは言いにくいという点も付記しておかないと不公平でしょう。
ちなみに、博士課程進学者の就職難が問題になっていますが、個人的には研究者というのはリスクの高い商売で、小説家に近いような印象を持っています。小説家が作品のセールスに失敗しても誰も同情してくれませんが、博士課程に進学したのに満足に仕事もないと文句を言う人が多いのは、博士課程という高学歴が社会的成功と線形の関係を持つと考えている人が多いのでしょう。実際には研究テーマも自由に決められるのだし、そんな単純なものではないと思います。もっとも、一度終の棲家に就職してしまえばサラリーマンですが。
http://anond.hatelabo.jp/20081218152326
携帯のフィルタリングは2005年から一応あるにはあったんだよね。
NTTドコモ、iモードに子供向けのフィルタリングサービスを提供 2005年06月24日
http://k-tai.ascii24.com/k-tai/news/2005/06/24/656606-000.html
(株)エヌ・ティ・ティ・ドコモとNTTドコモグループ8社は24日、iモードによるウェブサイトへのアクセスを制限できるフィルタリングサービス “Kid's iモードプラス”の提供を発表した。ネットスター(株)のデータベースを基に、出会い系サイトやギャンブル系サイトなどへのアクセスを禁止する。
同種のサービスとしてはすでに提供中の“Kid's iモード”があるが、これはiメニューの“公式サイトのみ”アクセスが可能で、一般サイトへのアクセスを制限するというもの。一方、新たに提供される “Kid's iモードプラス”では、一般サイトへアクセスを可能とした上で、出会い系サイトやギャンブル系サイトなどの特定カテゴリーのサイトへのアクセスを制限する。
制限されるカテゴリーは、“不法”“主張”“アダルト”“セキュリティ”“ギャンブル”“出会い”“グロテスク”“オカルト”“コミュニケーション”“ライフスタイル”“宗教”“政治活動・政党”“成人嗜好”。
だけど、結局申込者が少なかったのか、あまり有効ではなかったみたい。
学校裏サイトとかの問題が出て、携帯フィルタリングすべき、という流れが出てきた。
2007年の12月から各キャリアは自分たちの基準でフィルタリングをやってた。
携帯フィルタリング「利用者が選択を」 総務省が改善策 2008.4.2 19:37
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/080402/biz0804021939015-n1.htm
携帯のフィルタリングは増田寛也総務相が昨年12月、未成年者に原則適用するよう携帯電話各社に要請、本格導入された。現状は、(1)携帯会社が認定した「公式サイト」から有害性のないサイトだけ閲覧を認める「ホワイトリスト」(2)無数のサイトから有害情報を排除する「ブラックリスト」〓の2方式があり、NTTドコモとKDDIはホワイトリストを適用中。
フィルタリングは何らかの形でされているものの、効を奏していないって事なんだろうね。
プロフとかmixiとかよくわかんないけど、場所を変えて、いじめとかがどこかでおこってるのか。
キャリアが悪いのか、子供が悪いのか、親が悪いのか、フィルタリングの効果を認めないで規制を推し進める人が悪いのかはわからない。
結局、携帯を持たせないようにしようっていうのが今回の流れかな。
<教育再生懇>携帯電話の小中学校持ち込み、原則禁止 12月18日12時17分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081218-00000044-mai-soci
政府の教育再生懇談会(座長、安西祐一郎・慶応義塾塾長)は、子どもの携帯電話利用に関する提言の素案をまとめた。「小中学生が携帯電話を持たないよう保護者や学校が協力する」とし、通話機能に限った携帯電話の促進や、小中学校への原則持ち込み禁止を促している。
だけど、画一的に持たせないようにする事で、貧富の差により携帯を持っている子と持ってない子の間で生じるトラブルは、減らせるかもとは思う。
http://anond.hatelabo.jp/20081112004344
ネット上の議論が成り立たない理由は「相手をよく知らないから」じゃないよ。
「相手が複数(無限)」にいるからだよ。
だから、自分への反論は無限に出てくるし、
既に終わった議論も何度も蒸し返される。
例。
議題【ゆとり教育は必要か?】
アナタ「必要ないと思います。」
名無しA「しかし、心の豊かさを育てるためにゆとり教育は必要では?」
結果的に心の豊かな生活は不可能になります。」
その時間を利用してお金の運用など実用的な教育をすべきでは?」
アナタ「たしかに、授業に幅を持たせるのは必要だと思います。」
名無しC「何言ってるんですか?
そんなことしたら授業の時間が増えてゆとりがもてないじゃないですか。」
アナタ「ですから、授業の時間を減らしたら、国力自体が下がって・・・」
名無しD「そもそも、ゆとり教育ってなんなんでしょうね?」
アナタ「え・・・。」
名無しE「そもそも、もっと心の豊かさを重視すべきでは?」
アナタ「・・・。」
こんなの、議論になるはずがない。
逆を言えば、ネット上であっても、相手と1vs1であれば
建設的な議論は可能だと思う。
もちろん、相手に一般的な議論をする知識と常識が
備わっているということが前提にはなるけれど。