はてなキーワード: 浪人とは
今では痩せているが、子供の頃は太っていた。
高校受験には失敗。滑り止めへ。
周りを見返そうと大学受験に挑むも、現役の時はこれまた失敗
一年間の浪人を経て、第一志望だった大学に入れたものの、現役で入った奴とか見ると「自分て・・・」とか考える。
地元の飲み会なんかではスゲー、スゲー、言われるんだけれど、自分としては全く喜べない。
つまり、何が言いたいかというと、
この慢性的な不満足感や劣等感を解消する方法はあるのだろうか。
例えば、コレから難関資格をとったとしても、それは帳尻合わせにすぎず、過去の失敗が消えるわけじゃないと思うんだ。
結局、人と比べるなってこと?分相応な目標を立てて生きるってこと?
再会といっても決してロマンティックな展開ではなく、街角で彼女が新しい彼氏と手を繋いでデートしているときにたまたま僕が出会ってしまうというシチュエーションだ。
彼女の話によると、僕と別れてから数々の男から告白され、そして付き合ってきたという。
僕は夢の中で必死に「嘘だ!!嘘だ!!」と叫んだ。
そして目が覚めた。心臓の鼓動がかつて無いほど早くなっていた。夢だと分かって安心できるはずなのに、心のどこかで「これは現実に起こってることかも」と思ってしまい、いつまでたっても落ち着きは取り戻せなかった
元彼女といった方が正しいのかもしれないが、彼女とは高2で初めて同じクラスになった。
初めて彼女の事を見た時は別になんとも思わなかった。せいぜい「へぇ、かわいい感じの人だね」ぐらい。普通の話の展開だったら運命的なイベントがあるのだろうが僕たちには全く無かった。同じ委員会を通じて仲良くなったりだとか、学校祭で同じ作業をしているうちに仲良くなったりだとか、そういうジャンプのラブコメで起こるようなイベントは本当に皆無。
思い起こしてみれば僕が彼女の事をハッキリと好きだと自覚する前に、彼女と接した機会なんか無かったような気がする。せいぜい席が隣になったときに、僕があんまりにもティッシュで鼻をかむので「鼻炎?」といわれて「いや、花粉症」と答えたのみだった。彼女を好きになった理由なんて今になってもわからない。ただ気付いたら好きになっていた。
それまで女の子と付き合ったことの無い僕としては、例によって彼女に話しかける事など到底出来なかった。ましてアドレスを聞いたりするなど恥ずかしくて死んでしまいそうだった。彼女の事を好きだと自覚したのは9月ぐらいだった。そこから毎日のように友達に「今日こそアドレスを聞いてやる」だとか言っておきながら半年も聞けずじまいで、結局3年生になってしまった。
3年生になると彼女とはクラスが別々になってしまった。臆病な僕は廊下で彼女とすれ違っても話しかける事など出来るわけも無く、ただただ毎日悶々としていた。どうせ話しかける勇気なんか無いくせに頻繁に廊下に出ては、彼女が来ないかどうかを待ったりしていた。向こうのほうから彼女が歩いてくるのが見えるとムダにロッカーの中を掃除したりして時間を稼ぐが、結局彼女は僕の前を通り過ぎていってしまうだけだった。一体何をやってんだか
やっとアドレスを聞けたのは5月だった。6時過ぎの誰もいなくなった校舎で、たまたま彼女と出会った僕はこのチャンスを逃したら一生アドレスを聞けないと思い意を決して聞いた。「前から聞きたかったんだけどアドレス教えてくれない?」こんな簡単な言葉を僕は思いっきり噛み倒した。意味はどうやら通じたようだが、彼女はアドレスを教えるのに嫌そうな顔をした。僕はなんだか心がポッキリと折れてしまった。確かに彼女のことは好きだが、自分に興味がないと分かった以上どうしても積極的に行動しようとは思えず、それ以降言葉を交わしたりはしなかった。
自分で言うのもなんだけれども彼女はとても可愛かった。可愛いというよりは美人でとても上品だった。確かに彼女よりも可愛い子や美人な子は腐るほどいる。傍から見たら彼女は普通の子にしか見えないかもしれない。だけど僕はなぜか彼女のことしか本当に可愛いと思えなかった。それはなんでか未だに分からないけど
そんなかわいい彼女のことだからきっと彼氏はいるんだろうなと考えてしまうのも手伝って行動できない僕。ウジウジしながら毎日を送っているともう8月になってしまった。すると突然彼女からメールが来た。
なんとでもないフツーの事務的なメールだ。だけど僕はメールを受信したとき飛び上がるほどうれしかった。たったこれだけのどこにでもある、なんの感情もこもってない単なる確認メール。急いで僕は返信した
「うん、あるよ。忘れないようにね」
恐らく僕はこの返信を100回ぐらい見直したし、送信ボタンを押す前に100回ぐらい深呼吸した。こんな事務的なメールだけど彼女とやり取り出来る事にたまらなくドキドキしていた。今思うとすごいバカだなって思う。ちなみに彼女とは高3で同じ委員会に偶然所属することになったけれど、当然のことながら委員会で会っても目も合わせれなかった。
それからというもの彼女からはどれも事務的な内容だけどたまにメールが来るようになった。メールが来るたび僕は本文を100回読み、返信を100回見直し、送信ボタンを押す前に100回深呼吸した。気付けばいつも携帯を手にし、彼女からメールが来るのを待っていた。そして同じ彼女のメールを何回も何回も読み直していた。
卒業式も間近。気付けば彼女とそこそこ喋れるようになっていた。臆病が故に自分からは殆どしないが、メールが来ればかなり何通にもわたってやり取りをするようになっていた。ただそれでも自分から告白しようとは思えなかった。本当に僕は勇気がないのだ。勇気がない上に変なプライドをこじらせている為にやっかいなことになっていた。僕は「あの子が好きだから同じ委員会に入る」だとか「あの子が好きだからあの子と同じ趣味をもってみる」ということが出来ないのだ。…本当は素直にしたいんだけど。だから心のどこかで「あぁ、自分は告白できないまま卒業しちゃうんだろうな」と思っていた。
だけどチャンスはやってきた。卒業式の前日、有志で式の準備を手伝っていた僕と彼女はたまたま二人っきりになる機会があった。その時僕は思った。ここで言わなかったら一生後悔するって。
「やっぱ俺、好きだわ。俺と付き合ってくれん?」
多分こんな様なことを言った気がする。人生ではじめての告白だ。僕は緊張の度が過ぎて顔が真っ赤になるどころか逆に血の気が引いていた。
国公立の入試が終わった後、僕たちは初めてデートをした。その時点で彼女は大学が決まり、僕は浪人することが決まっていた。初めてデートで行ったのはボウリング。自分ではボウリングがうまいと言っていたのに最初はガーターだった。僕はたまらなく恥ずかしくなった。しかし時間が経つにつれ段々と緊張がほぐれ、ピンを多く倒せるようになった。それにスペアやストライクをとると彼女が僕にハイタッチをしてくれた。僕は彼女とハイタッチがしたくてピンを倒そうと必死だった。
それからというもの僕たちは本当に頻繁に会った。付き合うに至るまでに僕たちはまともな会話などしたことなかったし、ましてお互い共通の話題なんかありそうにもなかったのでこれから付き合っていけるかどうか心配だったが、実際そんな心配必要なかった。確かに共通の話題、趣味などないし、価値観も違ったが、なぜか一緒にいると楽しかったし、落ち着いた。何よりも沈黙していても気まずくないのだ。多分デート中一言も喋らなくても良かったと思う。
多分僕はこの辺りが人生で一番楽しかったと思う。自分が一年半以上好きだった人とやっと結ばれて、しかもこんなにも一緒にいて楽しい。あとなんで彼女が僕の告白を受け入れてくれたか聞いたところ「最初はすごい不真面目な人だと思ってたけど、案外真面目で驚いたから」だそうだ。まぁ僕も彼女の事を好きな理由なんて無いに等しいけど、彼女の方も彼女の方でどうかと思う。
デートは本当に色んな所に行ったと思う。いわゆるデートスポットではなくふらっとそこら辺を歩いて、気になるところがあれば探検した。そして日が経つにつれ、勇気出して手を繋いでみたり抱きしめてみたり。手を繋いだだけであんなにも心臓がバクバクするだなんて思ってもみなかった。あと初めてキスもした。心臓が破裂するかと思った。何もかもが本当に楽しかった。
しかしそんな楽しい日々はあっという間に終わる。付き合い始めて3ヶ月。今となっては思い出せないが、ちょっとした事で喧嘩をした。お互い付き合うのが初めてということで色々遠慮していた部分があり、それなりに不満があった。それが爆発してしまったのだ。あの時の事を必死に思い出そうとしているが、断片的にしか思い出せない。ただ最後に僕が何かひどいことを言ってしまったんだと思う
「きっとお互い求めるものが違ったんだよ」
彼女は最後にこういった、と思う。僕は彼女のことが好きで好きで仕方なかったが、結果として彼女は実際そこまで好きではなかったのだ。逆に僕が好きすぎたのがいけなかったのかもしれない。僕は彼女によく好きだということを言っていたが、彼女はあまりそういうことを言ってくれなかった。だから僕はよく彼女に「好きって言って」と要求してしまった。僕は絶えず不安だった。やっとの思いで付き合えるようになった彼女が誰かに取られてしまうのではないか?そもそも彼女は僕のことを本当に好きなのか?彼女と一緒にいれば一緒にいるほどその不安は強まっていった。
「本当に俺のこと好きなの?」
僕はよく訊いていた。その度に彼女は「うん、好きだよ」と言ってくれた。ただそれだけでは不安は消え去るわけなかった。だけど表面上は普通に振舞っていなければいけない中で、だんだんと不満が溜まっていったのだ。
彼女と別れた夜、初めて泣いた。それまで本や映画を観たって、それに親戚が死んだ時だって泣いたことなかったのに、いつまで泣いても涙が止まらなかった。
それからというもの僕は全ての事に身が入らなくなった。しなきゃいけないはずの勉強もなんのためにやるのか分からなくなった。何をやるにしても彼女の事を考えてしまい、それだけで時間があっという間に過ぎていった。早く忘れようとしても、忘れようと意識すればするほど、どんどん彼女の事を考えてた。
そんな時予備校で一人の女の子と出会う。その子は高3の現役生で、僕のことを好きだと言ってきた。前の彼女とは全くタイプの違う可愛らしい子で、顔のレベルで言ったら彼女の遥かに上だ。半ば自暴自棄になっていた僕はその子とデートした。
いざ話してみるとすごく気が合って、いつまででも話が続いた。それに沈黙しても気まずくなかったし、よく僕のことを好きだといってくれた。性格もとても素直だし、まさに僕の理想の子だ。僕はこの子のことが好きになった。3回目のデートで早くも僕はキスをした。
「違う」
僕が望んでいたはずの子が目の前に現れたのに、僕は全く好きになれなくなってしまった。この子のことを好きになる要因はあっても、嫌いになる要因はない。だけど好きになれない。しかし彼女のことは、嫌いになる要因はいくらでも思い浮かぶのに、好きになる要因は全く思い浮かばない。だけど好きなのだ
その子には本当に悪いことをしたと思うが、その日にやっぱり付き合えないと断った。その子は泣いていた。自分は本当に馬鹿だ。キスしといて付き合えないってなんなんだよ。
その流れのまま僕は毎日を過ごし、結局僕は地方のFランク大学に入学することとなった。とても浪人して入学しましたなどとは言えない大学だ。
大学に入学すると、当然女の子との交流もある。特に自分の大学はグループワークが多く、嫌でも交流することになってしまう。
女の子と喋るたびに思う。「違う」と。
いつも考えるのは彼女のことばかりだ。違う子と話すたびに「彼女だったらこう返してくるのにな」と考えてしまう。もう別れてから何ヶ月も経っているのに。
はっきりいって僕の話はどこにでもある話だ。普通のサエない男に彼女が出来て、あっという間に別れてしまった。大して運命を感じさせるエピソードがあったわけでもなく、なんとなく付き合ってなんとなく別れた。友達に話したところで「もう忘れなよ」と言われるのがオチだ。「なんでそんなに前の彼女に固執するの?」と言われてしまったら僕はもう答えることが出来ない。だけど未だに彼女のことが好きなのだ。
世の中の人は皆、前の彼女のことや彼氏のことを簡単に忘れられるのだろうか?僕にはそれが不思議に思える。彼女と別れてから、彼女といたときより楽しいと思ったことなんか1秒だってなかった。彼女が自分以外の男と笑いあってるところを想像するだけで頭がおかしくなりそうだ。世間では、いろんな人と付き合ってみて、その中から一番いい人を選ぶみたいな考え方があるみたいだけど僕にはよく分からない。
結局自分が一番何に腹を立ててるかというと言うと、それは自分になんだと思う。いつまででも意味もなく彼女のこと好きで、なんでも彼女を基準に考えて、彼女以外いい女はいないと信じきってる。もう別れてから4年近く経ってるけど、未だに考えが変わらない。友達の中には「いつか忘れられるよ」といってくれる人がいるけど、心の中じゃ「忘れられない。忘れたくない!」って思っている自分がいる。色んなことにもっとスッパリと'理由'があれば、僕も楽になれる気がする。理由がないからいつまでたってもその理由を追い求めてしまう。
今日見た夢は本当にハッキリとした夢だった。今でも内容を細部まで覚えていられる。夢の中とはいえ、久しぶりに会った彼女はやはり他の誰よりも可愛かったし、美人だった。多分これからも彼女のことは考え続けてしまうと思う。たとえ目の前に考え続けなくてもよくなる'理由'が出てきたとしても「嘘だ!嘘だ!」と叫んでしまうと思う。
バブル経済最後の頃、Sラン大学を卒業した。大学時代、サークルでイベント企画とかしていた関係でマスコミを志望していたが全滅。結局某端くれの都銀(当時はこういうカテゴリーがあった)に就職した。自分なりに頑張って仕事をしたつもりだったが、社風が合わなかったのか俺がウンコだったのか、やることなすこと全てが裏目に出て、会社から完全に浮いてしまい、鬱病になって1年で退職した。
その後、Ⅰ種国家公務員試験を受けて官庁訪問しまくって、なんとか1箇所だけ引っかかり、今は某省職員として働いている。
「Sラン卒、キャリア官僚、非童貞」って書くと、一般的にはギリギリ勝ち組、中の上くらいの扱いなんだろうか。
でも、全然そう思えないん。むしろ、不幸のどん底にいるような気がしてならない。
この前、Ustで自殺した人がいたけど、彼は現役銀行員だっけ。俺と似たような感じだったのかもしれない。
まず、仕事のきつさの割に給料が少ない。もうすぐ40歳だというのに、額面45万、手取り30万台だ(これでも一応課長補佐である)。残業はほとんどサービス。季節によっては役所で朝焼けを見ない日はない。ってか今頃がそうなんだけど。今日この時間に家にいられるのが奇跡。役所のロッカーには汗まみれのワイシャツと下着が腐臭を放ちながら溜まっている。しかも給与は、毎年、定期昇給分くらいカットされるので、全く増えない。
これでも恵まれてる、とお前らは言うかもしれないが、民間企業に就職した友人は軒並み60万~100万。司法浪人くずれの予備校講師でさえ、手取り50万は超えている。俺は一応それなりの大学を出て、それなりに難関の公務員試験を受かったはずなのに、なぜこうなるんだ。
第二に、仕事がつまらない。何かを企画したり制作したりするクリエイティブなプロセスは全て有識者に丸投げ。役人がすることといったら、ひたすら利害集団との調整と国会議員への根回しとその結果を法律の条文にすることだ。しかも、議員根回しと条文作りには無意味なルールが山程あって、しかも民主党が政治主導とか言ってややこしい調整ごとだけやらずに残してくれているので手間だけはかかる。
第三に、転職が無理。資格もない、職歴は1年でやめた銀行と公務員だけ、留学こそしているけれど、もう少しで40歳、という条件では、このご時世まともな転職はほぼ不可能であると思う。なんだかんだ言って、墓場のような今の職場で飼い殺されるのが、現時点では最もマシな選択なのだ。
こんなはずではなかった。民間に就職した友人は、会社幹部候補の有力若手として業界に名を馳せる存在だったり、労働組合の委員長だったり。学者になった友人は、グーグルで名前を検索しても数万件のヒットがある。起業した友人は、事業が軌道に乗ってきて会うたびに表情が輝いている。外資に行った友人は、資産5億円を余裕で越え、都内の立派なマンションを資産運用と称して買った。
そこまでエリートになれないとしても、もうちょっとマシな人生はなかったのだろうか、と考えてしまう。自殺して一からやりなおせるなら自殺したい。
どこで間違ってしまったのだろう。国立文系を選んだ時点? マスコミを志望した時点? 都銀辞めてしまった時点?
他人に相談しても「キャリア官僚なんて恵まれてるんだから、贅沢言うな」としか言われないので増田で愚痴らせてもらった。この死ぬまで続く絶望から逃れる方法はあるのだろうか。
漫画やアニメやゲームは娯楽ではなく、本当に、これ以上なく、逃避先ってことなんだよな。
登場人物に自分を投影して、無能である(と自分自身本当は感じている)自分や、そういった評価をする他者を忘れるための。
幼稚だとか未熟だと言われるのがまさしくなんだろう。
「漫画やアニメやゲームという趣味を持つから幼稚で未熟」というのは必ずしも当てはまらないというのは正しいけれど、殆どの場合、実際自分が「幼稚で未熟だから漫画やアニメやゲームという趣味に傾倒している」のだということを認めたがらない。
というよりも自分の年齢的に自己が確立できていないなんて思ってもみないんだと思う。
人に認められる(例えば恋人ができる、とかでもいい)といった経験が思春期以降ないから、自己の確立が中途半端なんだろう。
人に(最悪、人として)認められず、人を通しての自分の姿しか自分自身見えてなくて、それが原因の言動でまた人からの評価が下がる悪循環。
結果、ある種の全能感を得られる漫画やアニメやゲームに逃避する。
だから思春期から成年に至るまでに通り過ぎてしまうはずのものが、未だに続いている。
勿論当て嵌まらないヲタもいる。
それも踏まえると大体、大きく分けて3つ。
1.生み出すヲタ
何らかの活動を行なっていて、それが他者に認知されている(評価を得ている)タイプ。
発信するものは大抵創作物で、絵や文章や音楽やプログラムなど、多岐に渡る。
活動の中で人と関わり、自己を確立させて逃避ヲタを卒業する人間がいるグループ。
大体2.にシフトする。
しかし、ここで自己の確立に失敗し留年(浪人?)した人間は創作することで得られる評価と今の自分の位置に依存する(もしくは過去の自分の唯一の栄光に縋る)
2.生み出す必要がないヲタ
人間関係の確立や、それを通しての自己の確立は済んでおり、逃避目的ではなく、あくまで娯楽であるタイプ。
ライトオタ、にわかと呼ばれ、リア充とされることも多く、3.のグループに所属するヲタから見下される場面がよく見られるが、現実における周囲からの印象は逆であるケースが多いと思われる。
過去、1.のグループに所属し、何らかのきっかけで衝動的に生産活動を再開する場合もあるが、それも1.のグループに所属した頃と違って逃避ではなくあくまで娯楽、もしくは経済的な必要に駆られてという理由に集約される。
3.消費するだけのヲタ
逃避することしかできない。しようとしない。
1.の生み出すヲタになる願望は大多数が持っていると思われる。
しかし、逃避するために行なう「生み出す」活動の過程において、最低限の認知がされるまでに突きつけられる現実(無能、才能なしといった言葉や人との差)を恐れ、それからすら逃避していたり、実際に突きつけられて心が折れた結果、このグループにとどまっている。
ごく稀に、達観して自己の確立が完了してしまう者もいなくはないが、人間関係の構築は不得手なままであるため、第三者の視点からすれば逃避ヲタを卒業したと認識されるのではなく、名誉職を与えられるに過ぎない。
ヲタ分類、ヲタ論なんて今更ではあるけど、自分の中でまとまったので。
何か補足とか違う捉え方があれば教えて。
一人くらい常に前向いてる奴がいると思ってた。
目標とかあって、尊敬できるような奴がいるって思ってた。それ信じて浪人しなかった。
でもいなかった。横見て合わせて、後退する。
以下の条件に一つでも該当しない人は異常であり、人格的に欠陥があります。
3.BMI24以下
4.財布の中に年齢×1000円以上入っている。
5.貯金が年齢×100000円以上ある。
6.家事の「さしすせそ」が一通りできる。
7.部屋が散らかっていない。
9.家の中ではなく、自宅の外を中心とした趣味を持っている。
13.海外旅行に行ったことがある。
15.15歳以降の人生の中で、彼氏/彼女がいた期間がいなかった期間よりも長い。
16.なおかつ、少なくとも1年以上続いた相手が少なくとも1人いる。
17.愛してもいない相手とのセックスは考えられない。
18.性欲の対象とする範囲は自分の年齢を基準に決まる。無条件に若い男/女が好きなどと言うことはない。
19.『今度の休み、遊びに行こうぜ』と言って付き合ってくれる友人が3人以上いる。
20.初対面の人とでも会話を持たせることができる。
23.敬語が一通り使える。
25.思想的に極端に左右に寄っていない。
26.五大紙のどれかを購読している。
27.TOEICで600点以上取れる。
29.漢字検定二級が取れる。
元増田です。
そう要約されてしまうと少し誤解があるかも。俺はどちらかというと「受験システムをくぐれるぐらいの能力がなければ(研究者として)見込みがない」「ある程度のレベルで基礎をまとめる機会として受験はちょうどよい」というのが主張なわけ。基礎トレとして受験勉強程度のことは「必要だ」、というのが一番わかりやすいと思うけれど、決してそれで「十分だ=優秀だ」とは言っていないんだよ。
でも今の日本の受験システムの勝者には「ハック型人間(受験ハックの購入ができなければ勝てなかった人間)」が多々混じっているのも事実だと思うんだ。
個人的には「学力低下」議論は信じないことにしてる(「下の世代は学力が低い」と言われなかった時代というのを聞いたことがない)んだが、そういうことはあるのかもしれない。あるいは、少子化の結果「基本型」の人間だけでは定員が埋まらなくなって「ハック型人間」が潜り込む余地ができているのかもしれない。
ただそうだとしても、基礎型の人間がハック型の人間に押しやられてしまうということは多分ないと思うし(幸い、日本の大学教官は層が厚いので、トップ大に入れなくても復活の機会はたくさんある)、基礎を理解できないならハックぐらいはできるようになって欲しいなあと思うところもあるので、それがそれほど深刻な問題なのかどうかはよく分からない。俺自身がお仕着せの「ハック型」のメニューをこなせる気がしないから言うわけではないが、ハック型の人間はそれはそれで社会の中に居場所を見つけることができるんじゃないかとも思ってる。特に司法試験とかMBAとかに通ったりするためにはそういう能力が必要な気がする。ハックしかできなければ研究者になるのは無理だろうけど。
オマケに、受験産業がますます受験ハック型になっていっている結果、ますます自分でモノを考えない受験ハッカーが増えているように感じる。そして、そのことに結構な人間が危機感を抱いてる。少なくとも、オレが少し前まで関わってた「現代の大学受験の最前線」あたりでは。
もしそれが、仕向け方によっては基本型になったかもしれないような受験生がハッカーになってしまうということだとすれば、それは確かにもったいないことだとは思うけれど。あーでも確かに、俺の知ってる範囲で言うと、中高一貫校で塾や予備校に高2以前から通い出すような奴はその手の連中かもしれないなあ。そういう奴はたいてい、塾や予備校で遊びを覚えて浪人するか、あるいは旧帝大医学部みたいに過当競争になってるところを受けたりするかそのどっちかだったから、まあ結局落ち着くところに落ち着いてるんじゃないのと思ってたけど。
まあ、そんなこといちいち配慮したらごくごく「無難」な文章になっちゃって、こんだけブクマがつく(愛される)記事にはならなかったかも、と考えると、非常に複雑なんだがw
いや実際、俺は増田に記事を書くときは八つ当たりを兼ねて釣りまくることにしてるんだけどね。それこそライフハッカーみたいに世の中の流行マンセーな人種が俺は大嫌いだし、増田に書いて憂さ晴らししたくなるときってのはそういう奴が頭に来たときなので、ここぞとばかりに挑発的なことを書きまくるんだよ。そうすると、はてな民は「これはひどい」タグを付けられる記事を探しまくってるから、結構な確率でホッテントリに入ってくれるもんだよw
http://anond.hatelabo.jp/20101005212233
すでに慣れてしまったので別に親元離れなくても我慢できるし、そもそも話さなければいいのでそのへんは大丈夫。
進路間違えたとかは最初は縁故で昔からよく行っていて高校はいってバイトしていたところだったんだけどそこの支配人と喧嘩になって(自分は社長命令で動いていたのに)いけれなくなって
学校ルートで就職探したらいいところなくて、うだうだしてたあっという間に今になってしまったって感じで。
こんなことになるなんて思ってもいなかったから、家金ないんで今更って感じなんですよね。だからどうしようかと
一年浪人して大学行くのに結構抵抗があったんだけどあなたの文章で吹っ切れました。頑張ってみます。
http://anond.hatelabo.jp/20101005212606
改善しようとしてもまずはグループの輪に入っていかないとだめなんですよ。入ろうとしても帰れって言われるときあるから。
まぁ頑張ってみます。まだそれなりに仲の良い人いるし
ほんとうに弟さんが中学校の先生になりたいのであれば、教育学部を受ければいいと思う。
と増田は心配しているけれど、逃げではなく、大きな目標があるのなら耐えられる。
私も浪人したくなくて私学に行った。親には迷惑かけたが、専門の勉強面白くてしかたがない。
今の日本の雇用情勢、親の経済状況を考え、国立理系工学部を薦めていた。
多少、勉強もしているようだが、9月に入っても中々模試の偏差値が上がらない。
そんな中、弟が提案してきた。
・中学の教師になりたいので工学部ではなく教育学部を受けたい。
・今から私立に志望校を変更したい。国立でなくても一人暮らしさせてほしい。
・浪人は絶対したくない。現役で受かったとこに行きたい。
教師になるのと国立大学にはいるののどっちが難しいか知ってる?
1年受験勉強も続かないのに、臨時教師、教師浪人で何年も耐えられるの?
9月にセンター諦めた人のほとんどは私立目指してもFラン大にしか受かってないよ
これは、なんか違うかなーと思った。
まず、才能というものに関してはなんとも言いがたい。
私は美大の予備校でデッサンなどを教えていますが、才能の無い子にあった事が無いので。
あえて言うなら、途中で辞める子は才能以前の問題だと思うけど。
正直、センス無いなーって感じる子はいる。
センスのある子と無い子の違いは、美大に受かるレベルに持っていくのにどれだけ手間や時間がかかるかです。
でも時間がかかってもみんな美大に受かるレベル以上にはなれる。
ちなみに、小さな予備校なので毎年ほぼ全員、専門学校含めどこかしら受かっています。20人中0〜3人は浪人と言う感じ。
時間がかかるなら才能ないね、って言い方もできるけど
いやいや、時間がかかっても最低限のレベルにはなれるんだから、やっぱり才能はあるでしょう、という言い方も出来る。
そんな先生をやっている立場からいうと、
このアニメーター志望の高校生は未熟なだけで、基礎を教えてあげれば確実に伸びる。
いや、確実かどうかは本人次第。本人がやりたいなら確実にうまくなる。
そして、本人がやりたいなら、何十社でも何百社でも就活をしてもらう。
本人がもう嫌と言うなら、それも受け入れる。
でも、本人がまた挑戦したいというならとことん付き合う。
本人がやりたいなら見捨てずにそのレベルまで導いてあげる事じゃないですかね。
もちろん、技術的な事だけでなく、あなたの言うような自分自身を客観視する姿勢なども教えて。
本人がやりたいというのを止めて、OLの道を歩ませるのはどれだけ幸福なのでしょうか?
ていうか、OLなめんなって思う。OLがいばらの道じゃないとでも?
富野さんって偉そうだよね。自分の仕事がOLの仕事より大変だとでも思っているのかしら。やーね。下品で。
夢を諦めてOLになるのって、なりたくてOLになってる人に失礼だし。
大体、この番組(NHKのニュース?)は、未熟な志望者を時間かけて育てる余裕が今の企業には無いと言う事をいいたいわけで
世間知らずな高校生が無謀な夢を見てるよ、なんて事を伝えているわけではないのですし。
そうするとますます高校大学で、即戦力になる技術を教えなくてはいけない、伸びるのに時間がかかる子は容赦なく切られる
つまらない世の中になっちゃうよね、とニュースはいっているのでしょう。
あなたがデザイナー志望の子と触れ合う時間は短いから、夢を諦めさせるのが責任あるなんて思っちゃうのかもしれないけど
触れ合う時間が長い先生という立場になると、あのひどい絵を描いていたこの子がここまで伸びたのだから
なんとしてでも希望を叶えてあげるのが先生の責任だ、って思っちゃいますよ、やはり。
逆にそう思えないとなると、ちゃんと教えてこなかったということで先生失格ですよ。
ちなみに誰だって伸びます。前述した通りです。
試しに、あなたのところに来るデザイナー志望で飛び抜けて未熟だけど熱心そうな子を弟子にしてご覧なさいよ。
私の言ってる事が嘘じゃないと分かるから。
でもね、分かってますよ。あなたにだってそんな余裕は無いでしょう。
だから、あなたはこういうしか無い。
即戦力以外は、夢を諦めろ。
19歳の時に、会社帰りの地下鉄で、反対ホームの女子高生に「なにあの男
キモ~イ」と写真を撮られたことがある、それ以来若い女性は苦手だ。
また、それ以来、顔はどうしようもないけど、服装とスキンケアを徹底的に
男性・女性誌問わずファッション雑誌を読みあさり、セレクトショップにも
足を運びまくった、スキンケアも女性以上に気をつけた、ヒゲも濃かったので、
15万かけてレーザー脱毛してツルツルの肌になった。もともと童顔なのもあり、5歳くらいは若く見られるようになった。
アニオタで気持ち悪い僕でも、やっぱりセックスはしたいし彼女が欲しかった。
22歳の時、大学(浪人してたから少し年上だった)で好意を寄せていた女性から告白された、生まれて初めての彼女だった。23歳で脱童貞をし、その彼女とは
5年付き合った。初彼女は、清楚な見た目で比較的かわいいといろんな人に言われるタイプだった。花火大会や買い物、遊園地、動物園、今までエロゲの中で
妄想していたデートを、現実に行うことができて嬉しかった。しかし、服装は
少しマシになっても、所詮、顔が彼女と吊り合ってなかった。街を歩けば、中高生から「なにあのカップル男キモくね、全然吊り合ってないしw」(実際に言われた)と言われたり、なんでこんな男と付き合ってんだという目でしょっちゅう見られた。辛かった。
僕はオタクだ。基本的に内気で人には優しいと言われる(そこしか褒めるところがないのだろう)、初彼女にも優しくした、女友だちなんていないので、浮気もしないし(できない)、風俗にも行ったことがない。だけど、それだけしかない。
やさしいだけじゃ女性は満足しなかった。基本的に非リアなので話が面白くもないし、糞真面目すぎる性格が付き合うには物足ないのだ。性欲も普通以下だと自覚していて、セックスも淡白なのも拍車をかけた。
5年付き合って、結局浮気されてフラれた。相手はトークの面白いリア充みたいなやつだった。初めての彼女に振られて、ものすごく精神的にダメージをうけた。失恋って
こんなに辛いのかと思った。本当に死ぬ直前まで追い詰められた。
1・2ヶ月ほど、うつ病で求職して、少し失恋の痛みも忘れかけていた頃、リハビリも兼ねて、外に出るようになった。いつも同じ店でランチを食べるように
なった。その店で働いていた、ウェイトレスの女性を「ちょっといいな」と
思うようになった。
オーダー取りに来てもらうときに、少し話をするようになり、一ヶ月ほど通った
時に向こうから告白された。
古い友人からは(オタクだけどリア充)、「好意を寄せた女に告白させるって
すげぇな、どうやるのか教えろよ」とか茶化された。
思うに、見た目清潔感を保ってて(ヒゲも全くないのできれい)、服装も可もなく
不可もない格好(オタクによくいる変な格好はしない、誰がみてもわかるブランド物も持たない、いわゆるキレイめカジュアルでどんな女性でも「悪くない」と評価される格好を心がけている)で、優しそうな印象だから、おとなしそうな女性には
好感がもてるのかと思われる。
二人目の彼女なので、前の失敗を生かそうと思ったが、結局4年目で浮気されてフラれた。
「浮気されるのは男が悪い」とよく言われる。自分も概ね賛成である。
僕に魅力がないから、他のよさそうな男と浮気するのだ。見た目は、お金かければ、少しは良くなる。ただ、内面はどうしようもない。中高と女に囲まれて
きたリア充とは土俵が違いすぎるのだ。経験をつもうにも、もう遅すぎる。
最近の就職活動に関する報道を見ていると、新卒と既卒では企業の採用方法が違い、結果として大学を卒業するまでに就職が決まらなければその後の就職活動は何かと大変だそうだ。そのため、「卒業後2年は新卒と同じ枠で採用しましょう」などという動きもあるらしい。残念ながら、物事の本質を見ない議論だと言わざるを得ない。
いきなり個人的な話をするが、私は大学院に入ったばかりのときに婚約した。就職が決まったら結婚するつもりだったが(後に実現する)、就職活動は思いのほか大変だった。
理系の大学院生だった私は、就職活動では日本のメーカーを中心にまわり、うまくいかなかったら公務員試験を受けるつもりだった。企業の人と会うたびに現実の厳しさを思い知った。
「学生結婚するの? 前例がないなー。うちに入ってもらうのはちょっとどうかな」(会社と関係なくないですか)
「最初の年は地方の支店まわりだからきついと思うよ」(ちゃんとがんばりますけどね)
「結婚を何年か延ばせないんですか」(会社ってすごく個人的なことに介入してくるんですね)
「うちの初任給知ってる? 実家の援助があるの?」(そんなものはない)
「赤ちゃんでもできたんっすか」(そんなことはないが、なんというデリカシーのない言い方)
別にこちらから学生結婚の件を持ち出したわけではないが、それが世間話であっても「家族構成は」のような質問をされるとこの話題は避けて通れない。隠してもよいが、内定後「どうして言わなかった」と怒られることも避けたい。
話には聞いていたが、私が就職活動を通して学んだのは、多くの企業において画一的な人材が求められるということだ。
新卒でないとダメ、新卒でも二浪はダメ、新卒で浪人してなくても結婚するような奴はダメ。
あたかも能力は二の次であるかのように。
そんなある日。とある外資系企業で採用担当者と会う機会があった。留学した経験もない上にTOEICも受けたことがない私は外資系なんて眼中になかったが、会社説明くらいは聞いてみようと思ったのだ。
採用担当者は日本語のできるアメリカ人だった。いろいろと仕事の話を聞いた後、
担当者「他に質問はありマスカ」
私「近々結婚しようと思っているんですが」(会社的にどうなんでしょう)
担当「おおっ! すごいな。おめでとう」
私「(この会社は嫌な顔をしないぞ……)結婚している上で何か留意することはありますか」
担当「奥さん働いてるの?」
私「いえ、できれば働かない方向で」
担当「オー専業主婦だね。きみはもしかすると亭主関白のタイプではないか。そういうのもいいねHAHAHA」
担当「就職前に結婚する学生さんはあまりいないけれど、関係あるのは税金関係だけじゃないか? 結婚する日にちは確定しているの?」
私「はい、一応」
担当者「一つ質問なんだが」
私「はい」(やや緊張する)
冗談とわかってはいたが、妙にうれしかった。外資系の「実力主義」を嫌悪していた私だが、初めてそういうのもいいかなと思った。
新卒偏重に話を戻そう。企業は本人の実力や潜在能力(ポテンシャル)に加え、いろいろなところを見て採用を決める。性別・年齢・国籍、私の場合は配偶者の有無。そして新卒かどうか。
企業が営利を目的に活動する以上、経営判断として新卒の学生を優先的に雇用する企業はあってもよいのかもしれない。ただ、これは「規格外」の人を排除する、わかりやすい言葉でいえば就職差別であることに気づいてほしい。
一番大切なことは企業が未経験者の採用過程において本人の実力以外の余計な属性で門前払いをしないこと。新卒だろうが既卒だろうが未経験者のエントリーはまとめて受け付けて、書類審査、筆記試験など一緒に行えばよい。志願者が増えて大変? それは企業の人気が高まったと受け取れば良い。面接官の人数が足りなければ書類審査を厳しくすればよい。なによりも、この現状で「既卒の未経験者も歓迎」というのはかなりポジティブな宣伝になると思うのだがどうか。
企業の方に属性にかかわらず「できる」人材を採用することが長期的な利益になると認識していただきたい。そして、新卒優遇という悪しき習慣が一日も早くなくなるように、地球の反対側から願っている。
もしくは竜宮城から戻った浦島太郎状態か、ウサギとカメのウサギ状態。
だから必死に彼女を作ろうと試行錯誤して努力してた。だから高校の頃は結構モテてたらしい。
高校までで3人と付き合って大学浪人中に最後の彼女と別れたから6年以上彼女いない。
大学に入って何人もの女の子と飲みに行き、そのうち何割とは寝た。ただ彼女はつくらなかった。
浮気とか面倒くさい。遊ぶなら独り身で堂々と遊びたいとか思ってた。
20代後半に突入し、このままでいいのかと思ってまとも恋愛しようと思ったけどやり方がわからない。
出会いはあるけどこの人と付き合いたい!と思うことがない。
その原因みたいなものを考えてみた。
2番目と4番目が痛いと思ってる。高校生の恋愛レベルで止まってるし。
恋人のいる生活って何?おいしいの?っていう感じ。
(大学以降の)独りでの生活>>>(高校までの)恋人のいる生活
比べるのがおかしいとはわかってるけどくらべてしまう。
あと、女の子とも飲みに行くだけってことがほとんどだったからデートらしいデートをしたことがない。
しゃべるのが目的だったら飲み屋が一番だ!って今でも思ってる。
進学校から浪人した挙句Fラン大にしか受からなかったことの反動からか、
自己評価を一度最低まで下げてしまったせいで、
基本的に何事も自分が悪いと考える癖ができてしまった。
というか、そう考えることで逆に自分を成長させようとしてる。
とりあえず自分が悪い、もしくは劣ってる→だったらそれを直せばいい、的な感じ。
このやり方が正しいのかどうか分からないんだけど成長はしてると思いたい。
他人に対しては壁を作ってるなぁ。
本音を出しても理解してくれないだろうとか離れてくだろうと思う。
だから誰にも本音を話さないかな、特に異性には話したことがない、というか話せない。
一番気の許せた同姓の先輩には、「君は狼みたいだ」と言われた。
俺の場合は、自分の中で恋愛をするまでに超えるべきハードルを設定してるから
それを超えない限り自分の中ではスタートラインにすら立てない。
こんなハードルすら超えられない人が誰かに愛されるわけがないと考える。
だから人を好きになることを脳が拒否するし、あからさまなサインにも反応できない。
先日、高校の同窓会に行って恐かったというか、びびったこと。
Aとはもともと中学、高校で同学年だった。同じクラスになったことも1度ある。
私がAについて知っていたことは、ほぼ噂程度で、大人しいとか人見知りだとかちょっととろいとかその程度。後は非常に口が悪い人と友達であるとか。
浪人して予備校に入ったところ、その人が居たのでこんにちは、と挨拶した。向こうもこんにちは、と返してきたので少し世間話をしてみた。
Aはもともと大人しい人で友人Bの友人でもあったが、私はあまり話したことがなかった。
今日は暑いねとかたわいもない会話だったがAはなぜか途中でこっちを見なくなり、私は嫌われてるのか、とショックを受けた。
特に嫌われるような事をした覚えもなく変な話をしたわけでもなかったので、もやもやしつつその場を離れた。
こちらから話しかけたりはしなかったし、向こうからも話しかけられなかった。
時々Aを見かけたが、大抵一人で周りを拒絶しているかのような雰囲気で、何か恐かった。
噂はいくつかあって、おどおどしてていうざいとか感じ悪いとかフィギュア収集が趣味とか、決していい物ではなかった。
予備校では追いつめられた人も少なからずいたけど、それとも違う感じで関わりたくないと思うようになった。
大学に無事入学し、後期も半ばという時に友人Bと遊んだ。
Bが言ったことにびっくりした。
「この間Aとあったんだけど、クリスマス3人で集まったりしたいなーっていってたよ。予備校で仲良くなったの?私全然知らなかった」
「いや全然話してないよ。でも私、なんかあの人に嫌われていると思ったんだけど。」
「全然そんな感じじゃなかったよ。むしろ君に好感もってる感じ」
それで予備校で会ったときに話しかけた話しをしたところ、
Bは、「あの人具合悪いと愛想悪くなるから。クラブでもそうだったよ。それじゃないかな。
でもあの状態のあの人は確かに嫌だよね。私はもう慣れたけど。じゃあクリスマスの話は断っておくよ」
予備校時代の雰囲気から考えると具合が悪いとかそう言う感じではなかった気がしたが、AとBは友達なので悪口をいうようなことはやめておいた。
しばらくしてAがBに私の連絡先を聞いたが、Aが苦手であることを正直に話して忙しいからとBに断ってもらった。
この2年後ぐらいにAの暴言が原因でBがAを縁を切った。謝ったら許そうかとも思っていたらしいが、結局Aは謝らなかったそうだ。
Bと話をしていたら、Aが話しかけてきた。Bと仲直りしに来たかと思ったが私に話しかけてきた。
世間話をした後、再度連絡先を聞かれた。本人を目の前にすると断りにくかったけど、忙しいからと断った。
Aはまだ話そうとしてきたが、逃げた。
それだけといえばそれだけだけど、ちょっと恐かった。
Aは女だからちょっとで済むけど、男だったらと思うと恐ろしい。
私はサボり魔である。筋金入りで予後不良の。
幼少の頃から厭なものから逃げ続け気がついたら三十路になってた。そんな私はサボり癖が元で精神を病み社会生活を送れない体になってしまった。
ふつうの精神疾患なら投薬と適度な休養で概ね治るはずなのだが、私の場合はサボり癖という精神疾患の根元になるものがあるので質が悪い。投薬も5年以上続いているし、休養も自分でもうイヤだと思うほど取った。でも治らない。ある程度回復したと思い就職活動して仕事を始めるが長続きしない。そしてクビになってまた精神的にダウナーになり休養が必要になる。こんなのを何度も何度も繰り返した。真面目に職歴書いたら30近くになるんじゃないだろうか。20代もそんなのに翻弄され暗黒の時代、黒歴史になった。気がつけば三十路である。もう後はない。
少しづつ焦りだしてきた私はふと考えた。何故こんな風になってしまったのだろう、と。
私のサボり癖の根元を語るには幼少の頃からの話をしなければならない。
私がまだ幼稚園にも入る前の事だ。当時の私は英語に非常に興味を持っていた。よく買い物に出かけた横浜駅のジョイナス地下駐車場は英語でブロック分けされていて、それを見て初めてアルファベットという物に触れた。何故か判らないけどアルファベットが非常に気に入ってしまい英語という物に少しづつはまるようになった。
ある日TVで英語教室のCMをやっているのを見て母に「これかよいたいー」とせがんだことがある。母はその申し出に協力的で父に頼んでみる、と言ってくれた。それを聞いてワクワクしていたのを覚えている。
しかし父は「まだ習い事するなんて早い!」と、私の幼い願いを一蹴した。英才教育なんて言葉があった時代か判らない。グローバル化のグの字もまだ無い時代だったし英語の将来性を見いだせなかったのかもしれない。ともかく私の願いは絶たれてしまった。
そのことについて父を恨むつもりはない。でもちょっと根に持っている。だってもしその時英語教室に通っていたら私の人生は大きく変わっていただろうと思う。飽きっぽいけどのめり込む時はとことんのめり込む私のことだ、通訳とか外資系でエリート・・・なんて言わないけど少なくても英語には不自由しない人生を送れたかもしれない。
ある春の日のこと、私は父に呼び出された。そして「出かけるぞ」みたいな事を言われ、半ば強引に車の乗せられて駅前のダイエーに連れて行かれた。何が起こるのか全く判らない私、何も言わず私の手を引っ張る父。?マークを頭に3つくらいグルグル回しながら連れられて行き着いた先スイミングスクールの上の階の階段を下りた先の小さな部屋だった。父は「ほら行け」と言わんばかりに私をその部屋に置いてどこかへ行ってしまった。
何ここ何が起きるの?
幼いながらも恐怖した。
部屋には私と同い年くらいの子供が数人いた。大人も何人かいて、何か冊子のような物をを配っていた。私の順番がきて冊子を渡される。そこでようやく理解した。冊子の中身は全て英語だった。
父がどう心変わりしたのか判らないけれど、私は数年越しに英語教室に通うことができたのだった。
しかし、だ。
それは遅すぎた。
小学校3年の私はもうすでに英語に対する興味を失っていた。正直、いまさら?だった。
それから4年間英語教室に通った。楽しいこともあったし、友人もできたけど根底にあったのは「苦痛」だった。
その苦痛が形としてでることがあった。それは「逃避」。有り体に言うとサボリだ。一人で自転車でダイエーに行くのでサボることがバレることは基本的に無かった。何度か買い物に来た母親にサボってコロコロ読んでるところを目撃されて大目玉を喰らったことがあるがそれでもサボる事は止まらなかった。年数が経てば経つほどサボリはエスカレートしていき週一回の教室に月3回サボるなんて酷い事態になることも多々あった。何が厭だったのかは今となっては思い出せないがサボりたくなるくらい苦痛だったのは覚えている。
初めの頃は問題もスラスラ解けて楽しかったのだけど、ランクが上がって難しくなってくると少しずつ「苦痛」になってきた。苦痛になると私は逃避を始める。サボリ始めたのだ。きっかけは些細だった。友人が「今日サボんね?」と言ってたのだ。それに乗ってしまって後はそのままズルズルと・・・。これも週二回の教室で月数回しか通わない程になり公文の講師のおばちゃんに「ちゃんと毎回来なさい!」と毎回言われたものだった。
それから中学に入って少しして英語教室は辞めた。学校でも英語の授業が始まったしこれ以上受ける意義を当時の私は見いだせなかったのだ。
公文はサボリながらも中学卒業まで続けた。高校受験の時はさすがに真面目に公文で勉強した。でもそれは友人が周囲にいっぱい居たからであって、私一人だけだったらどうなっていたかは判らない。
一番の志望校じゃなかったけど目標にしていた地元の公立高校に入学した。
高校時代は楽しかった。今までの人生で一番楽しかった。友人もたくさん居たし、心から楽しいと思える授業もいくつかあった。そのせいもあって驚くことに三ヶ年皆勤で卒業式の時に表彰されメダルを貰った。
なんというか極端だな・・・と。
しかし、その影にも私の逃避、サボリ癖はあった。
高校では三年間図書委員だった。特に理由はなかったけれど図書委員になっていた。
図書委員の活動は図書室の貸出係の業務と月一回の委員会活動があった。貸出係は昼休みと放課後に当番であったのだけどこれに私は全くでなかった。当番は殆ど放課後だったのだけど、早く帰ってゲームしたい盛りだった私はとにかくサボってサボりまくった。たぶん3年間で10回出てないんじゃないかと思う。委員会は強制参加なので仕方なく出たのだがその時よく「貸出係をサボる輩が居ます。ちゃんと出ましょう!」とほぼ名指しで委員長に言われることがあった。挙げ句には「てめぇいい加減にしやがれ!!」とキレられたこともある。それでもゲームがしたい、寝たいばかりにさっさと自転車で家に帰る自分が居た。救いようがない。
この頃まではサボっていても何とか回っていた。学力はそこそこあったしテストでも苦手科目の数学以外はそれなりの点数を取っていた。
しかし、だ。努力する者としない者。その差をまざまざと見せつけられることになると当時の私は知らなかった。
高校二年の冬のこと。そろそろ大学受験も視野に入れなければならなくなってきた。周囲でも予備校に入学して対策を講じる者が増えてきた。
私も「予備校かー、どうしようかなー」と脳天気なりにも意識し始めていた。ある日、図書室の前にあった予備校案内のチラシを見て何枚か持ち帰り検討し、その中から一行選んで入校することにした。両親は特に何も言わずに入校を許可し私は予備校に通うことになった。
地域ではマイナーな予備校だったが友人もいることが判り喜び勇んで予備校行く・・・はずだった。
予備校は私が想像していた以上に過酷なモノだった。英語は毎回英単語テストがあったし数学は高校よりもずっと高度だった。正直ついていけなかった。ついていけない結果はテストでダイレクトにアウトプットされる。志望校合格ランクDとかEとか当たり前だった。
今までどうにかなっていたモノがどうにかいかなくなってしまった。劣等生。そんなレッテルを貼られた気がした。
高校3年になって予備校に行かなくなった。辞めたわけでなくサボるようになった。劣等生な自分を認めるのが厭だった。劣等生であるという事実を突きつける予備校に近づきたくなかった。英語の授業は友人が来いとうるさかったので月に数回出た。数学は全くついていける気がしなかったのでチューターの人に怒られるまで殆ど出なかった。高3から受講し始めた化学は授業がすごく面白かったし得意科目で余裕でついていけたのでこれだけは出席率が高かった。それでも7割ってところだけど・・・。
がんばった者とがんばらなかった者
逃げなかった者と逃げた者
大学受験--
無論私はボロボロだった。無惨だった。
センター試験で自己採点。数学は2点だった。得意の化学でも5割いかなかった。
死を覚悟した。
一般入試が始まった。
私は高校担任教師の薦めで無名のFラン大学の化学科を受けた。目標にしていた大学は「絶対に無理だからやめろ」と言われた。返す言葉もなかったので大人しく言われた大学を受験した。
結果。補欠合格。
はは、引っかかちゃった。
当時の私は安堵した。浪人生活をしないで済んだから。浪人は落第者で敗北者だと思っていた私は本当に喜んだ。
でも、気がつかなかった。おまえは運が良かっただけだ。
だって・・・「努力したのかい?」
大学生活が始まった。中学からずっと同じの友人が一緒の学校だったので初めはよく一緒に登校した。学科は違ったので登校と昼休みくらいしか一緒ではなかったけど知る人が居ない学内ではとても安心できるものだった。
大学1年の授業は楽しかった。特に有機化学と分析化学が好きだった。2年から生物化学の授業があってそれを目標にしていきたいと思った。
しかし、異変は訪れる。とある教科を落としてしまった。有機化学の概論。難しい授業だったけど好きな授業だった。ただ落としただけなら来年取り直せばいいだけなのだが、この授業はとても大きな、そして致命的なものがあった。
偏屈で有名だった生物化学の教授が設けたハードル。私はものの見事にそれに引っかかってしまったのだ。
何かが壊れた。
大学2年。目標の生物化学を受講できず腐った。さらに悪いことにほかの授業が難しくなった。特に物理化学は私が苦手だった物理の概念が入って手に負えなくなってきた。
苦痛になると訪れる甘い囁き
「逃げちまえよ」
それにあがらえる訳がなかった。
初めは大学内の図書館で本を読むだけだった。それから街のゲームセンターになって・・・兎に角大学に近づかなくなった。金だけは親から必要額貰っていたので不自由はしなかった。適当に旅に出て時間つぶして家に帰るとかざらだった。
その差は歴然と表れる。
いままでどうにかなっていたものがどうにかならなくなった。
背中に火を付けられたような感じがした。
兎に角焦った。
焦って勉強をする。でもついていけなかった。下の学年の授業を受けることも多々あった。誰あいつ落とした上級生?だせぇ。そんな声が聞こえてきた気がした
「ニゲチャイナヨ」
でも逃げると今度は留年だ。
逃げちゃダメだ
逃げちゃダメだ
逃げちゃダメだ
14歳の少年は逃げずに立ち向かうことを選択したのに20歳のアホは逃げることを選んでしまった。
不安焦燥感、誰かに笑われてる感覚、必要以上に自分を責める。木の棚にカッターで何度も切りつけて酷い跡が残ったこともあって母親にそれを見られて酷く心配されたことがあった。
ロクな精神状態じゃないときにロクな思考はできない。
真っ暗な夜道の中をひたすら逃げているような状態だった。
次の年の春。私は留年した。
その日私は父親に叱責された。この後どうするんだ、と
ロクな精神状態じゃなかったので思考は回らず兎に角逃げることしか考えられなかった。
がんばるから、がんばるから
この時はそれで何とかなった。
留年生活のことは正直覚えてない。思いだそうとしても頭がアクセス拒否をする。
唯一判るのは焦ってどうにもならなかったこと。そして逃げ回っていたこと。
翌年、再び私は留年した。
二度目の父との対話。
今度はなかった。
そして社会に放り出された私は働かなければならなかった。当時は引きこもりもニートという言葉もなかった。父親には働けと強く言われたので働くしかなかった。
ハローワークにあししげく通って何度も何度も追い返されてとある会社の研究所に拾われた。
そこは農薬を作っている会社の研究所で初めはそこの農場のアルバイトと言うことで面接を受けた。
でも、せっかく化学のバックグラウンドがあるんだしということで話が少しぐらついた。
とっさだった。とっさに私はこう言った。
何でこう言ったのか今では判らない。
しかしそれは項をそうした。「じゃあそういうことなら勉強する意味も込めて」と研究所の助手で採用してくれることになった。
運が良かった。
研究所での仕事は本当に楽しかった。学校で習いきれなかった事も学べた。とにかくがんばったので会社も評価してくれた。
「今はアルバイトだけどがんばったら正社員にもするよ」なんて総務の部長さんが冗談めいて言ってくれた。
本気にしてがんばろうと思った。
でも、なんでなんだろうね。上手く行かないときはとことんうまくいかない。
入社して少し、変な奴が研究所にいると言うのを知った。
「同じ位の歳だし仲良くしたら?」と言われてそいつに会いに行った。
すんげぇイヤな奴だった。
京大大学院卒というのをさりげなくアピールしてFラン中退の私を見下してくる。
正直あんまり関わりたくなかった。
なんでだろうって。
殆ど歳同じなのにあのいけ好かない奴は京大大学院卒で正社員、私はFラン中退でバイト。この差はなに?
それがずっとこびりついて離れなかった。
それはそいつと顔合わせなくても研究所内に居るだけで考えてしまう。
「苦痛」だった。
とにかくとにかく苦痛だった。
また別の日、通勤のバスに乗っていると不思議なことが起こった。
降りるべき停留所に近づくにつれて妙に息苦しくなるのだ。そして頭が真っ白になって「ニゲロニゲロ」って告げてくる。
そして降りるべき停留所が来た。
降りられなかった。
こんなことは初めてだった。なにが起きたか判らなかった。
その日は慌てて次のバス停で折り返して事なきを得た。
それから数日同じ事が何度も何度も続いた。症状はエスカレートする。降りるバス停が延びていき遅刻が酷くなる。それを上司に注意されたら今度は体調不良で休むととっさに電話で言うようになってしまった。
さらに数日して何とか出勤できた日、所属部長に呼び出された。
怒っているわけでなく本当に心配しているようだった。なので症状を正直に話すと
「無理はしないようにしてほしいけど、勤怠が悪いと正直こっちも困る」
と言われた。
その日早退し精神科を探した。
小さなクリニックで老医師がこう言った。
「そりゃウツだ」
そう診断され一日三日分のホリゾンを貰った。
ホリゾンを飲んだけど少しぼんやりしただけであまり変わらなかった。
それからも朝の戦いは続いた。負け戦ばかり。
「大切な話があるから明日は必ず来るように」
と
翌日。何とか私は出社した。
そのまま会議室に連れて行かれた。
そこには研究所の所長と所属部長が居て3対1の面談が始まった。
「単刀直入に言う。辞めてくれないかな?」
総務部長がそう言った。
あぁ、クビか。
後は事務的に話は進みその日のうちに私は解雇された。
どこも悪いところではなかったけれど、必ず不思議なことが起きた。
朝起きて家を出ることはできるけど電車やバスで最寄り駅に近づくと呼吸が荒くなって怖くなる。頭は囁く「ニゲロニゲロ」と
そんな状況に陥り全く出社ができなくなってしまったのだ。
最長で半年、最短で一日。これはクビになるまでの日数。
職歴は正確に書くと30は行くんじゃないかと思う。
ここ1・2年はさらに酷くなり、部屋から出られなくなってしまった。
朝起きてその時点で恐怖発作と「ニゲロニゲロ」という囁きが頭を支配する。
精神科にはもう6年かかっている。
はじめはホリゾンだけだったけど今は抗鬱剤3種類と抗不安薬、睡眠薬まで貰って飲んでいる。
挙げ句には自立支援の申請をして精神障害者手帳まで交付された。
ふと思った。何でこうなってしまったんだろう、と
最近また会社をクビになったので少し考える時間ができた。で、考えを整理するためにこれを書いている。
結論を言うと私のこの病気の根元は「サボり」だと思っている。
「苦痛」からの「退避」。小学校の頃の英語教室からずっと続いているこの癖。これが原因じゃないかと考えている。
おそらくこれは正しい。
正しいことは判ったが対策がわからない。
生来のサボり魔たる私はどうしたら正常の社会的な生活を送れるのだろうか?
そもそも私の病気は何だ?
精神科で投薬治療は受けているがこれだけでは改善にいたっていない。というかここ最近悪化しているとすら思う。直近でクビになった会社では不安の恐怖、あと鬱的思考から自殺をほのめかすメールを送ってしまい大騒ぎになった。
年々悪化しているこの「現象」
いったいこれは何なんだ?
どうしたら治るんだ?
どうしたら社会的な生活を送れるんだ?
だれか、教えてほしい
現役生,浪人生の諸君!そろそろ受験勉強がだれ始める頃だろう.欝って死に場所をググりはじめる頃だろう.
しがない商業高校生が一浪を経てトンペー大学に入学した軌跡……を書くのはやめて,精神がやばくなったときにモチベーションを上げる目的で見ていた受験関係のウェブサイトを紹介しよう.
国公立大学2次科目偏差値分布表http://www.yozemi.ac.jp/bunpu/niji/kokkoritsu/index.html
大学受験ガイドhttp://daigakujk.cocolog-nifty.com/blog/
受験参考書書店http://hikyakusyoten.blog70.fc2.com/
一流大学への道http://www.geocities.jp/grand_father_21/main.htm
大学受験パスナビhttp://passnavi.evidus.com/goukaku/
解法網羅系参考書http://www003.upp.so-net.ne.jp/chief/referencebook.htm
入試難易予想ランキング表http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/rank/index.html
社会不適合者が行くhttp://bbblog0008.blog98.fc2.com/
再受験日記http://resuscitation.blog61.fc2.com/
浪人もアリかなと思い始めたhttp://alfalfalfa.com/archives/11403.html
ろーろぐ.http://ro2n.blog46.fc2.com/
【生活】留年、浪人経験者の生活http://tenkomo.blog46.fc2.com/blog-entry-1623.html
大学受験の辛かった体験をつづっていけhttp://news23vip.blog109.fc2.com/blog-entry-1939.html
テストというゲームで高得点を取る方法http://blog.riywo.com/2008/09/22/225951
後輩たちのためにちょっとだけアドバイスしとこう.有用かは自分で判断してね.
例えば受験勉強の正しいやり方みたいなんがあるけど,あんなんマジで個人差が大きい.ほんと人による.
予備校の予習復習だけを頑張って受かるやつもいれば自習室にこもって参考書がりがりやって受かるやつも居る.
難解な箇所を粘り抜いて自前の脳みそで考えたほうが身につきやすいやつもいれば2時間も3時間も考えて結局曖昧な理解のまま終わるより講師の洗練された分かりやすい説明で10分で片をつけてどんどん次の学習へ移るやつも居る.
多分これが正しいみたいなもんはない.復讐のやり方はあーだこーだとこだわるよりとにかくがむしゃら机に向かったほうがいい.勉強法の議論なんてクソみたいな血液型占いと変わんない.
あと欝って現実逃避するのもいいけど,戻ってこれる確信がなけりゃいろいろと終わる.
自分の場合は映画館とゲーセンだけど貯金の10万が尽きたとこで我に帰った.ガチで危なかった.
ネトゲーとかだと際限ないからね!!
それに夏,秋初め,冬,センター後くらに欝の波がくるけどここは踏ん張りどころ.気合のみ.精神論の世界.
思えば中学、高校時代は夏休みといえば1,2年のときは部活、3年と浪人時代は勉強、その合間にちょっと遊ぶ程度だった。
しかし、今年の夏休みはゆるいサークルに所属してるため、夏休みすべて丸々オフ。
大学1年生のこの2ヶ月何をしてすごせばいいんだろう。
祖父が死ぬ前日、家族は見舞いに行ったが、
受験勉強を口実に僕は行かなかった。
怖かったのだ。
死の半年前に、病室の祖父を見舞った。
物心ついてから身近な人間の死に立ち会ったことが無かった僕は、
衰弱しきった祖父を見てトイレに駆け込み1人泣き続けた。
第二次世界大戦で乗艦していた船が爆撃されても海を泳いで生き残り、
戦後東京に出て一人で事業を起こして成功をおさめたあのたくましい祖父。
無償の愛情の注ぎこんでくれたあの優しい祖父。
そんな祖父が衰弱してしまっていることが信じられなかった。
病室の死の匂いに耐えられなかった。
僕は、人はいつか死ぬということを理解できていなかったのだ。
目を真っ赤にしつつ、何気ないふりをしてトイレから出てきた僕は、
「また来るよ」
と伝えて祖父の元を去ったのだった。
それから祖父が死ぬまで、僕はお見舞いに行くことは無かった。
衰弱した祖父を忘れようとすればするほど、
祖父はこの世で生き続けるような気がしていたのだ。
今思えばなんと幼稚な現実逃避だろう。
祖父はもしかして、僕を待っていたかもしれないのに。
もうあれから10年近くたつ。
今でもあの時の自分の愚かさを思い出すと涙が出る。
間違いなく、僕は一生後悔し続けるだろう。