はてなキーワード: 村上隆とは
もうタイトルどおり。これだけ日本橋行ったりしてるんだが、いわゆる萌え系(絵)の棚にはなるべく近づかないようにしてます。
「どれを指して萌え系?」
「どれもおんなじだろ」
という意見もあるかと思いますし、ものすごく線引きが難しいんですけども。
私の小学校高学年から中学生あたりまでの時代で使ってた言葉で言うと、パソパラで出てきた絵であり、PC98で一時代を築いたエロゲーの絵なんですよね、あれってそのまま。いや、直系の子孫というか(苦笑)
エロゲーはアダルトビデオやエロ本と同じく、性欲処理に使用するだけのツールであって、それを持っていることすらも恥ずかしく、押入れやベッドの下や机の引き出しの奥などに秘匿するものでした。そこにあるけどもないものとして扱われる、日陰の存在でしかなかった。たとえそこで使われているシステムだとかシナリオだとか絵が秀逸であれ。エロ、というジャンルに属しているという一点のために、さんざんお世話になっておきながら、後ろめたいだけのものでしたね、私にとっては。エロはエロじゃん、ってバッサリでしたよ。まぁ当たり前っていえば当たり前ですかね。逆に言えば、後ろめたいものだからこそ存在しえうる表現方法でしかないだろうと。いくつもの条件付で評価したり酷評しなくちゃいけないジャンルなのだ、と。
萌え系の絵も、それを盲目的に肯定する層すらも、私はそう見てますね。エロゲーで使われてる絵の文法を押さえてるものなのは間違いないですし、実際原作がエロゲーという例もかなり多かったりしますしね。限りなくエロゲーに近いか、ヘタするとそのものでしかないジャンルだと。いくら村上隆が評価されたりボーメの鬼娘やふんどし巻いた女の子のフィギュアがカルティエ財団現代美術館*7に飾られるいまでもね。それはそれ。萌えやエロゲーなんかに興味のない人間がどう捉えてるのか?たとえキャラがかわいくても、エロというジャンルに属してたり、そう見なしうるものは頑として受け入れないし認めないんですよね。そこに実際にはあるけどないものとして扱おうとするのです。いくらテレビで萌えがこんなに広まってます、なんて声高に言ったところでもね。これが現実でしょうし永久に変わることはないと思います。
象徴的なのが2003年に埼玉県健康福祉部医療整備課の監修でエロゲー『水夏』のキャラを使った『水夏 ~おー・157章~』という教育用ソフトが学校現場に配布されかけた事件ですね。別にハダカが出るわけでもなく、手を洗いましょう~くらいの他愛のない内容だったらしいんですけどね。それでも一部の県会議員から
「AV女優を学校の授業に起用するのと同じことじゃないか!エロゲーとはなにごとだ!!」
とクレームがつき、父兄からも問い合わせが殺到。結局配布は直前で撤回されソフトも回収されてしまいました。当時の産経新聞記者だった安藤健二がこの事件を当時紙面で採り上げ、さらに追加取材ののち出版したのがルポ『封印作品の謎』でした。現役AV女優がインタビューで
「私達は人間とは思われてなかったんですよね?」
などと答えてるのが印象に残ってますね。あれから何年も経ってますけど、いま同じことやってもやっぱり認められないでしょうね。萌えとかなんだのって、一般的に単語としては広まってますけども、実際のところそんな言葉すらなかった頃の日陰のままだと思いますよ。
「うわ、オレっていい歳してこんなもの見てるんだぞ~」
と、苦笑いしながらこっそり人目につかないところで自虐的にもて遊ぶべきものだと思いますね本質的にヤバイものなんですから。ヤバイものを扱ってるんだぞと開き直ればこれほどゆかいなものはありませんしね。
真剣に取りくんだり、間違ってもこれがアイデンティティだ、などと言い出したら目も当てられません。本当にただのイタいヤツですからねそうなったら。モノがモノだけに。取り返しがつかなくなる(苦笑)
大々的にメディアで採り上げられたり、いい大人が堂々とショップで買えるいまが異常なんですよ。単に日本の産業界や経済が落ち込んでるから仕方なくもてはやされてるだけだという意見もありますけどね。それにしてもやりすぎですよまったく。オタク的なものって基本的に後ろめたくてめちゃくちゃ恥ずかしいものなんですから。これが世界に誇る文化だ、と日本橋あたりで叫んでるようなヤツはいいかげんに認めたほうがいい。この売国奴が!、と優しく言ってあげたいですね(笑)そういう恥ずかしいものをいい歳した分別のつく大人が頭使って金使っていじくりまわすからこそ、愉悦感を味わうことのできる個人の倒錯趣味なんですよ本来は(苦笑)
仮想空間の表現としては新しいのかもしれないが、
冷静な判断ができないので判断保留。)
主人公が夏希が好きな理由が、
「高校で一番人気の先輩」以外に無く、
夏希はそもそも侘助が好き。
劇中で2人の仲が深まるエピソードが無かったせいで
最後のラブラブぶりには唐突さを感じた。
いくらでもやりようはあったと思うんだ。
たとえば、主人公が親戚一同の前で、弔いに戦いましょうといった時に
その発言に対する夏希のリアクションを挟むとか。
また、背負ってるものが
佳主馬、侘助に比べて、
主人公と夏希は薄い。
主人公はよそ物だから仕方ないとして、
あそこで全部を背負って戦うのが
夏希っていうのはよくわからん。
金田伊功を送る会
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去る7月21日、心筋こうそくのため死去した金田伊功(かなだ・よしのり)を送る会が開催されます。日本のほとんどの(著名な)アニメーション関係者が参加する予定です。 故人の活躍の幅広さと功績の大きさを実感できる催しにしたいと思います。 業界関係者だけでなく、一般の方の参加も歓迎いたします。
開場=18:30 開式=19:00~21:00
入場無料 ※但し、入場券(座席指定)が必要です。
会場 杉並公会堂大ホール 定員1,200名
入場券(座席指定)が必要です。当日は配布いたしません。
参加ご希望の方は下記よりお申し込みください。
締め切りました。
会場には消防法により規制される定員がございます。定員に達し次第、参加を締め切ります。
参加資格は特にありませんが、お子様、特に5歳未満の幼児は入場をご遠慮下さい。
締切り:定員になりしだい締切ります
発送:8月24日すぎに到着するように入場券を発送いたします。
当日の催し:関係者によるスピーチ、代表作の上映などが予定されています。
平服でご来場ください。アニメーターのふだんの格好で良いという意味です。短パン、Tシャツでも良いのでは。アロハはどうでしょうかねえ。もちろん弔意を表すスーツ姿でもけっこうです。
主催:有志一同 共催:アニメーション制作各社一同 事務局:アニドウ
協力:日本アニメーター・演出協会、他
ご質問はなるべくメールでお寄せください。
入場券の申し込みはメールでは受け付けられません。
発起人 ※順不同/敬称略 7/31更新
高林久弥(日本アニメーター・演出協会世話人)
黒沢守(スクウェア・エニックス・コンテ班)
上妻晋作(スクウェア・エニックス・コンテ班)
芦田豊雄(日本アニメーター・演出協会 代表)
宇田川一彦(日本アニメーター・演出協会 副代表)
松元理人(トムス・エンタテインメント専務取締役)
原康晴(コロムビアミュージックエンタテインメント代表執行役社長兼COO)
自分語り(了)
http://anond.hatelabo.jp/20090113152435
の6を、文字数制限を避けるために別立てにしました。
6.書いたものの元ネタは全部↓ココにあります。
DENPAレポ
DENPA!!! at EVER Aoyama - EVENT REPORT
http://www.digitaldj.jp/2008/02/16_160000.html
フォトレポート:オタク文化とクラブ文化の融合イベント「DENPA」1周年パーティー
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20379628,00.htm
【レポート】サブカルチャーと音楽、そしてアバターとのコラボイベント「DENPA-電刃-」
http://www.secondtimes.net/news/japan/20081118_denpa.html
アニメとファッションとクラブが融合したイベント「DENPA(電刃)」
http://coolsummer.typepad.com/kotori/2008/06/denpa-2.html
またDENPAに行ってきたよ
http://coolsummer.typepad.com/kotori/2008/09/post-2.html
俺もDENPAに行ってみた
みんな“DENPA!!!”に行ってみません?
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_38c2.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-0243.html
オタク第一世代の証言から
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_7bb2.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_12a6.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_b05b.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/08/post_b082.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_10.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_11.html
70年代は変な時代だった
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/70.html
第二世代から見た「オタク問題史」
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-8515.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_82ee.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_29d1.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_1b43.html
村上隆さん、ごめんなさい
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/08/post_fab6.html
[オタク]DENPAが従来のコスプレダンパ文化とどう違うのか誰か教えて欲しい
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20081221/denpa
おっさんその2
http://anond.hatelabo.jp/20081224135706
[考え事]越境現象においてメイド喫茶が果たす役割
http://d.hatena.ne.jp/chintaro3/20081231/1230728340
超ライトオタクは誕生していない。ぬるオタが歴史から抹消されている
http://anond.hatelabo.jp/20081222122907
おたく→オタク→ヲタク⇔クラバー 「DENPA!!!」 ???
http://d.hatena.ne.jp/no-spoo/20081224
http://anond.hatelabo.jp/20081224085025
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20081222/p2
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20081224/p1
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20081225/p1
http://d.hatena.ne.jp/yuki-unlimited/20081229
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20081224
[オタク]「超ライトオタク」が流入してきたとしても、既存のオタク文化とは住み分けが行われるだけ
http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20081226/1230217279
[オタク][ファッション]「超ライトオタク」は、オタク文化に流入してきているのではない。オタク文化を自分の文化に持ち帰っている
http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20081226/1230217280
オタクとはなにか
http://web.soshisha.com/archives/otaku/index.php
同年代からはむしろスゴイと思われていたような
http://d.hatena.ne.jp/p_wiz/20080128/p11
オタク文化大勝利!!
http://anond.hatelabo.jp/20081220191940
[オタク][culture][history] 昔からあったことをさも最近起こったことように語られても
http://d.hatena.ne.jp/lakehill/20081223/history_of_otaku
http://anond.hatelabo.jp/20081224095913
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20081227
http://d.hatena.ne.jp/sskhybrid/20081227
http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-266.html
2008 ニコニコ 雑感 まとめ
http://d.hatena.ne.jp/triqster/20090106
オタクとか
http://d.hatena.ne.jp/strange/20081224
http://d.hatena.ne.jp/mokkei1978/20081225/p1
オタクの濃さについて
【雑記】・「上の世代に対抗するには……」
http://funuke01.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-264f.html
http://funuke01.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_29f7.html
【萌え】・「本当は萌えと特撮オタクは直結していかないといけないんだよ。」
http://funuke01.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-6305.html
【雑記】・「何かがすでに死んでいる件について」
http://funuke01.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_17c3.html
その他
http://www.kt.rim.or.jp/~tfj/talk/excerpts-musicalBG.html#15
オカノ通信
http://www2u.biglobe.ne.jp/~captain/sub1.htm
DENPA!!!行って来ました。
ここ5,6年で一番いいpartyでした。
掛け値なしに楽しい!!!
昼間っからやってるのも健康的(←こう書いて「おっさんに優しくて」と読む)で◎。
内容、客層、ロケーション、料金すべてに満足できる、レベルの高いイベント。
ここまで"熱い"のは昨今ではかなり珍しい。マジおすすめ。ちょっとでも興味のある人は、一刻も早く行くべき。
とまぁ、ここまで書いて小休止。
自分は↓これ書いた人。
http://anond.hatelabo.jp/20081223011009
自分語り(補)
http://anond.hatelabo.jp/20081223215937
自分語り(転)
「良いイベントだなー。こんな良いイベント久しぶりだー」と強く思ったのですが、
どうも悶々とするものがあり、それをこの2日間考えてました。
んで、marquee ( vol.70「次世代ファンタジー特集」に電刃の特集あり) とかユリイカ増刊号『初音ミク』とか買って
まだわからなくて悶々としてたんですが、主催者の"点と線"さんのブログを見つけてちょっとわかった気になったのでコメントします。
以下はアリバイとして書き残したい文章。もしかしたら読む人によっては不快に感じるかもしれません。
でも、申し訳ないけど気分を害すような文章をアップします。
(なので過去の『自分語り』で不快に思った人は読まないで下さい。)
冒頭の佐々木渉氏へのインタビュー『生みの親が語る初音ミクとアングラカルチャー』が抜群に面白い。
これだけで1,200円出す価値があります。今現在、初音ミク関連の資料として最も価値のあるものじゃないでしょうか)
きちんと書いてる暇がないので。
では先に進みましょう。
//////memo//////
[前提]
自分語り133 - DENPA!!! 「超ライトオタク」 言説
http://www.technorch.com/2008/12/133---denpa.html
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html
慟哭 (3)
http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1019.php
栃内新,左巻健男 編『新しい高校生物の教科書』講談社ブルーバックス,71頁より
[目次]
1.「慟哭 (3)」を読んで
3.人類知に帰ろう
4.あなたはどう思ってるの?
6.参照元
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1.「慟哭 (3)」を読んで
慟哭 (3)
「あー、デュシャンか。理解理解納得納得」って感じです。
こう言ったら失礼(ネタバレ)かもしれないけど、電刃はデュシャン - ウォーホール - 村上隆のラインの音楽・ファッションverなのねと。
この流れだとたしかに「○○論」は確かに意味を成さないっす。「意味を成さないように働く機構」という罠・舞台装置だから。
(便器語ってもしょうがないし。まぁ、人類史上もっとも「すごい」便器なんだけどw)
次のエポックメイキングな事象はアキバのホコテン復活の時かもーとか妄想しちゃいました。
(補)
レディ・メイド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%89
「泉」に関する個人的な解釈は、「心のヒダへの"effect"を芸術とするなら、
便器にサインして展示会に出しても芸術作品として"アリ"なんじゃね?」と提案している作品。
デュシャンは「美術を"effect"とするなら、『美しい』でも『怒り』でも『恐怖』でも何でもいいじゃん」と
「美術(芸術)」を「拡大解釈」できる素地を作っためっちゃ偉大な人。
(それまでは「真善美」を追求するファインアートが主流だった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88
ウォーホールは「キャンベル缶も芸術作品じゃね?」と言った人。
(余談ですけど、村上隆は美術史的「文脈」をきちんと押さえてるから海外で評価が高い。
美術史をちゃんと踏まえ、理論として一貫しており、装置として実際に働くから「海外の美術界」では評価されています)
ガイジン「あー、そうかもそうかも!!」
(電刃は村上隆と違って商売っ気が今のところなさそうに見えるから、反発(というか"やっかみ")も少ないかもしれないですね。)
(ニコニコではちょっとあるみたいだけど)
(補の補)
電刃は「オタク等々を拡大解釈させる"装置"である」と言いたいだけ。
電刃を「芸術作品だ」とは言ってない。「芸術作品」という評価は「解釈が拡大する運動性」において無意味。
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html より
はてな民に対しては「気持ち悪い」かもしれませんが、
ホントは「パラレルワールドで幸せそう?に学校に行くシンジ(を描いた庵野監督)」が正解じゃないですか?
(「気持ち悪い」は悪い意味ではない。↓参照)
映画エヴァンゲリオンの最後、「気持ち悪い」ってどういう意味?
http://news4vip.livedoor.biz/archives/50801624.html
俺は電刃行って目の前ですんげぇかわいい長門がぴょこぴょこジャンプしながら踊ってて、
それ見ながらガン踊りできる幸せに絶頂を迎えそうになったけどなー。
「現実」を住みやすくする手立ては、陳腐な言葉(≠「仲良く」)の中にすでにあるのになぁと。
「アメリカヲチしようぜ!!」でいいような気がする。オバマ的な意味で。
(別にEUヲチでも構わない。もちろん)
3.人類知に帰ろう
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html より
正直なところ、その違いって、テクノウチ君の考察のように参加者が共通してポジティブかどうかじゃないかなとw
それで終わりじゃ駄目なの?むしろw。
(中略)
僕や参加者がそうだと言ってるんだからそれでいいじゃないと思うんだけども、
それでも解釈(知的経験の枠)の媒介を人は要求する社会学の囚人なので、
僕なりにそれ用の答を探求してみたんですが、もとよりそんなつもりはないので嘘はつけないなあというどうしようもない始末。
庵野監督が『気持ち悪い』でEVAを終わらせた心境から遠くはないです。
(関係ないけど社会学部だった僕の卒論は「社会学は永遠に社会そのものを追い越せない」というものでした)
(中略)
これは大変ありがたいことですが、DENPAはアカデミックな言説に幽閉されるよりも、ただ好きなものを好きという幼児的で野蛮で原始的な本能に基づいているのも事実です。それもコンプレックスをいだかず堂々と。
僕らは学論の探求ではなくエンターテインメントの探求をしている。
不恰好でも感動はほんものだ。
そのシンプルな行為がこんなにもやりにくく、珍しがられる時代になってしまったんだなあ
と感慨深くなりました。
marquee(vol.70)「次世代ファンタジー特集」より
文字打ちが大変なので割愛。
「アート(引用者注:「学問」という意味も多分に含まれてる)はどこに行き着くために問い続けてるかわからない」というインタビュアーの質問に対し
点と線さんが社会学のフレームで世の中をすっきり見れるように、
若い子にもその手段をゲットできるような仕組みを作ってあげたいなーと思ってみたり。
年下の子に「学問楽しいよー。いや、むしろキモチイイとすら言える!!」としか俺はまだ言えてないけど。
(カウンターカルチャーであるはずの「学問」が、「幽閉」する機構として働く日本の異常性がアレなんだよなぁ)
学生運動とか創価学会とかオウムとかプロザックとかと変わんない気がします。
最近は「死なない程度の失敗ならおk(死なない程度に納めよう)」という考えの人多し)
鶴見済ですら
http://tsurumitext.seesaa.net/category/3920016-1.html
と言ってるのだから、たとえ手詰まりでも「ポジティブであればいい」とは言わない方がいいんじゃないかなーと思ってみたり。
まぁ、アメリカとかEUは全然手詰まりに見えないので、「手詰まり」こそが共同幻想な気がしますが。
(個人的にはバンクシーみたいな手法が好き。愛しつつコケにする系。音楽だとBUBBLE-Bさんとか)
バンクシー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC
BUBBLE-B / アムロケット
4.あなたはどう思ってるの?
オタクって何?
オシャレって何?
疑問に疑問でお返しします。
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「面白い」とか「なかなかのもの」とか言ってくれた人ありがとう。
全レスすると「キモイ」とか言われちゃうので、指摘してくれたコメにのみ応答。
clonicle 言っていることはまっとうだが、「ジャンクフード」(=人によっては取るに足らない虚像)だと発言することでテクノウチを決断主義者に仕立て上げるのは悪質
「決断主義」って言葉の意味を調べましたが、よくわからなかったです。
fuldagap「「ジャンクな物でも『おいしい』と感じる人が大半になったよ』って書いてあるだけだよ?」が微妙に誤読な気も。「化学調味料うめえ」じゃないかなーとか。総じて現役/引退オタクの自己正当化合戦に見える
そうです。たしかに「化学調味料うめえ」なのですが、
化調まで抽象化しちゃうとかえって伝わりにくいかなーと思い「ジャンクブート」にしました。
(「化調」に対応するのが「ビート」だけになっちゃうので。音楽的広がりが欲しかったので「ジャンクフード」と表現しました)
fuldagap 「全員「アツイ」から、濃淡は金・環境・時間の差でしかなかった」ってのは「アツ」くない人が見えにくかった時代がゆえの偽史だと思うなあ
「『おたく』とアイデンティファイされるようなファナティックな人々」が母集団ですから。
y_arim ぼくの知る限り、昔だってヌルいひとはいた。だけど時間の経過とともに彼らは「卒業」し、一貫して熱かったひとのみが生き残った。すると「昔は誰もが熱かった」という言説が生まれる。「元ヌルオタ」をどう語るか?
(『タイム・マシン』のエロイ的な意味で)幸せで「語り」に対してモチベがない人々に無理に語らせなくていいのでは?
ジャンプの発行部数見れば、「いた」ことはわかりますから。
mkd5 オタク 「おたく」のうち岡田氏の守備範囲が「オタク」となったってことかなあ/「(淡から濃に行かない奴は、そもそも「おたく」と呼ばれていない)」これがヌルオタなのでは
「ヌルおた」は言語矛盾を引き起こしますが、「ヌルオタ」は新語なので好きに定義しちゃってください。
『竹熊健太郎氏との対話(1)』での解説が一番しっくり来るのかなぁ。
「おたく全般」にまで広げちゃっていいのかどうかはまだ自分として決めてないです。
6.参照元
は文字数制限を避けるために↓こっちに移動。
http://anond.hatelabo.jp/20090115000935
おまけ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1756156
フック
(追記)
ああ、そうかそうか。書きたいこと書き殴ってたらレポ忘れてた。
"DENPA!!!"に行ってきたよ。
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20090113/p1
お三方とそう変わらない印象。
3Fではアニソン流してカラオケノリでオイオイって感じ。2Fと3Fの交流はぼちぼち。曲や3Fの込み具合次第かな。
ロンドンナイトは行ったことないけど、普通のライブとか新宿で昔やってたグルービー・ロックキャラバンとかと相似。
僕は2Fで「普通に」踊って楽しんでました。
テクノウチさんの時間は、3Fのお客さんが大挙していらっしゃいましてまったく踊れなかったので、僕的には一番…w
NHKの方(ETVのカメラマンさん)は「アンディー」かなーっとちょびっとヲチしてました。
(こっそり追記)
metamix きちんとオーガナイズされてる良イベントだっていうのは分かったけど、
その先があるのかどうかをもっと知りたい/クラブピーポーには文化考証なんてどうでもいいんですよ。
要はその現場があるかどうかだから。
「その先」「現場」ってのがどんなものをイメージしてるかにもよるなぁ。
「Dir en grey」なのか「RYUKYUDISKO」なのか「初音ミク/ニコニコ」なのか「third summer of love」なのか。
「超ライトオタク」や「越境」云々は主催者も意図してない(?)「バズワードでのプロレス」(@inumashさん)なんで、
どの層がたくさん「ひっかかる/ひっかかってる」かにもよるかと。
(まぁ、お客がみんな「かっこいい/かわいい」と書かれているってことは、
ちょっとキモ目の"いわゆる"「おたく/オタク」はあまりいないってことでもあるような気がするのはきっと気のせい。)
(昔に比べて非寛容な人が減っただけのような気がするのもきっと気のせい。)
【佐々木渉】 三年くらいしたら「初音ミク?そんなのもあったね」で良いんですよ。(中略)
まあウチも営利団体なのでもしかしたらヴァージョン・アップ版とか出すかもしれませんけど(笑)。
ただ、引くタイミングは考えないといけませんね。初音ミクにまで泥を塗って、
グダグダと退いていくようなやり方は、やっぱり不味いので。
ユーザーさんからも「『ぷよぷよ』を作った会社(株式会社コンパイル)が辿った末路を、よく調べておいて下さい」という
(独り言)
http://d.hatena.ne.jp/aoahcw/20090102/p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/aoahcw/20090102/p1
そうかそうか、普段オナホに触れてない人はそういう反応をすんのか。
市販されているオナホ、特に最近多いアニメイラスト物への回答だと思っていたんで、
そっち方面の話が出てくるとは正直思わなかった。
(今回のホールに関しては、とらドラではなくて、つんエロの2次創作って感じだろうしhttp://www.onaho.net/teikakaku/tunero.html)
↓この人とかは、あんな物は表現物じゃない、みたいな事とか書いてたけど。
http://otasyou.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-8dc6.html
http://otasyou.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-7a6f.html
等、「オタクとエロ」の現状に対する、良い回答になってて、十分立派な表現になってると思うんだよなー。
(近いうちに絶対、村上隆みたいな現代アートの人がオナホを題材にした作品出すと思うよ!)
しかも「同人」オナホールの名前が「とらアナ!」(http://www.toranoana.jp/)ってのも今の同人界を良く表してるしね。
オタクの人は「自分で作って(手を動かして)いない」=「創作していない」と考えてる人が多い様に思うんで
そういった反応する人がいるのも、まぁ解るけど。
常野でも誰でもいいけど、まじめに今回の顛末をどっかの論壇誌に載せるよう動くべきだと思うんだ。東の「若いやつが騒いでいるだけだから、自分がネットを見なくなれば終わり」とかいう甘い考えは糾すべきだろう。
考えてみなよ。
東は象徴資本を握ってるから、今後もビエンナーレみたいな国が関与する海外向けのイベントとか、村上隆が絡んだ国際的に注目を集める場にコメントを発するわけだ。日本の哲学者・批評家代表みたいな感じで。
そうして注目が集まったところで、どっかのアンチが例の南京がらみの発言を翻訳して、東のコメントをとった新聞社なり出版社なりに紹介すると想像してみる。シャレにならなくね? おおげさではなく、ちょっとした外交問題になりかねんレベル。国内のつまらんゴシップで済んでいるうちならまだしも・・・・・・。
というわけで、これをご覧になった出版業界にコネのある方は、早急に動いていただきたい。
いささか繰り返しになるけど、別に常野やらはてサたち当人、もしくは東本人が執筆しなくてもいいんだ。とにかく紙媒体に載せて、もし役所の人とかが東を何らかの形で国際的な舞台に立たせようと思うときに、資料としてリファーできるようになっていればいい。
大ごとになる前に・・・・・・。
http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html
http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja
以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。
まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。
では。
まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。
「原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったのエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作とアニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。
自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、
ていうことだよ。
なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。
「批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去のアニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダム・エヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。
みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。
また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。
まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、
という流れを「忠実に反映」してると思うよ。
ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。
今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作とアニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作とアニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。
これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作とアニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。
こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評の対象になるかも知れない。ニューヨークの9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀━宇野常寛・ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。
世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメは2008年を代表しうるアニメだからね。
アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?
それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優の演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。
アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術と小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。
けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端な芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメの歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーションの歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)
現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。
相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。
アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクション・パロディ・引用・自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作とアニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。
ヘーゲルは小説のことを「市民社会のブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?
ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。
ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメがステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメ≒コミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーションと歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。
富野のペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆。
なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。
でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信の小説のアニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本はアニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。
そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督:大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。
けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野や村上には見いだせないものであって。
くだらないテーマの指摘とか、原作とアニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
大して違わないんだけどねー。さて
後藤によれば、ある世代に生まれたことによってすべてが決まってしまうという考え方は「宿命論」であり、シニシズムやニヒリズムに通じる。
世代論そのものがもはや用済みなのだ、とかれはいう。その代わり後藤が持ち出すものは、古くて新しい文明の利器、科学である。統計と学術的分析をもちい、客観的かつ実証的に事実を導き出すこと。
『おまえが若者を語るな!』がいろいろとすごい。 - Something Orange http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080914/p1
ですが、色々勘違いしてるよね、という。そもそも「時代」というのはアプリオリに存在する客観対象ではなく『論じるという行為によって生み出されるもの』であることは、その本で批判されてるような人らの間では大前提なわけで、「時代なんて幻想です」という批判は彼等からすれば全く痛くないどころか冷笑の対象でしかないと思う。彼等が痛いのは「自分の切り口がもはや有効ではない現象の前で立ち止まっている自分たちに気づいた瞬間」くらいだよね。東浩紀が(あれほど賞めていた)村上隆批判をしていたときは結構痛々しくて気の毒だった。
まあ理系的発想で社会学ぽい言説をぶった切りしたい欲望は分からないでもないけど、それって一歩間違うと単に「物事の繋がりや文脈」が理解できない人=アスペルガー的症状にしか見えないんだよね。自閉症スペクトラムには入らない程度でアスペルガーな人って、ある種の超理系的人間=モヒカン族に多いと思うし、自分も幾分その気があるから分からないでも無いんだけど。また社会学が大概いかがわしいという言説も、もはや使い古されているわけで今更そんな話したくもないんだけど、もしそういう話を全然聞いたことがないなら「反社会学講座」(パオロ・マッツァリーノ、ちくま文庫)でも読むといいと思うよ。
一つ目の理由に対しては、俺はよく美術館に行って、いい展示だと衝撃を受ける(感動する)んだわ。
江戸時代の水墨画なんかが今に伝わってること自体すごいんだけど、その絵が21世紀に生きてる俺に感動を与えてくれる。
それを俺は、たとえば俺の子供にも味わってほしいと思うんだわ。
絵画とか彫刻って、基本的に「ひとつ」しかないのね。印刷されたものなんかじゃ味わえない本物の力があるんだ。
だから、そいつを爆弾なんかで吹っ飛ばされたら困るの。
あ、ちなみに俺が後世に残すべきだと思ってるのは、評価の定まってる古い作品ね。
フェルメールやらレンブラントやら印象派やら江戸時代の水墨画やら。
村上隆は・・・しいて言えば、日本のサブカルが、西洋に受けてるっていう構図で、
江戸時代に浮世絵が海外で評価されてたのと同じよーなもんかと諦めてる。
彼の場合は作品以前に、作品をアートとして認めさせるだけの力があったのは、評価せざるを得ない。
やったもん勝ちになっちゃうけど、どんなもんだろうと、ウン億で売れるだけの商品価値をつけたってのは、すごい実力。
ただの便器に名前付けて作品として出した、デュシャンみたいなもんなんかな。
ただ、純粋に作品としてみたら、ぶっちゃけ萌え系のフィギュアのほうがスゴイんじゃね?w
ただし「芸術」といっても世の中には「商業活動としての芸術」と「人の性(さが)的な営みのしての芸術」があるように感じてしまう。
とりあえずは、売れなきゃアートとして認められない。
売れる=価値がある、わけだから。
描くことを前提にした「表現としての芸術」とはちょっと違う気がしないでもない。
一つ目の理由は。
二つ目の理由は。
一言で言えず申し訳ないが、こういうわけでツッコミました。
http://anond.hatelabo.jp/20080515232145
本当にやってるなら大したもんだが、実際に祖母祖父から古いモノもらって、
それを日常的に使ってから、いってほしい。
おれの父方のバアさんは、家が高度成長期に繊維の商社をやっていたので、
三十年くらいまえの一級品をたくさんもってるんだ。
それを、よろこんでもらうのは、うちのオフクロだけ。
デザインみると、ほかの親戚がことわる理由が、わからんでもない。
こないだの正月なんか、あ、ジンギスカンが歩いてる! と思ったらオフクロだった。
むかしの毛皮のコートって、びっくりするくらいムクムクしてるんだよ。
例外もないわけじゃないが、昔のものを使うのは、簡単じゃない。
そこらのヴィトンのバッグじゃ、五年も持てばいいんでないか。
耐久性もそうだし、あの村上隆の、アホみたいな色合いのカバンなんぞ、
二十年経ってつかえるわけがない。
ブランド物は俺も大好きだし、よく買ってる。カバンはコーチしか使わない。
だけど、これは後で息子にやろう、とか、バカなことは考えないよ。
五年十年、たのしく自分が使えればそれでいいじゃないか。
現代アートシーンで一番熱い人物といえば誰だろうか?
村上隆?んなわきゃない。
http://www.artofthestate.co.uk/Banksy/banksy_graffiti_removal.htm
この落書きみたいなアートを描いたのが謎のアーティスト「Banksy」だ。
これのどこがアートなのだか。
パリス・ヒルトンのCDにいたずらをした人物、といえば少しは聞いたことがあるだろう。
ようするにただのアイコラなのだが。
http://abcdane.net/blog/archives/200609/banksyparis.html
彼(彼女?チーム?)の公式サイトにいけばその情熱がどこに向かっているか少しはわかるかもしれない。
http://flickr.com/groups/banksy/
ストリートに描くグラフティが主にインターネットで拡がっているようだ。
主な作品は美術館に収まりきらず、誰もが見て撮影することのできる屋外の公共物だ。
このほど英タイムズ紙が作品を制作中の「Banksy」なる人物の写真を世界で初めて撮影したそうだがいまだ謎に包まれたまま。
こないだのカンブリア宮殿に村上隆っていう芸術家が出てたけど、彼のやってることは、彼曰く「先人たちへのリスペクト」。そして彼が崇拝するのは宮崎駿。世界では大人気でも日本ではパクリストとして(一部から)認識されてる人を、世界では大人気でも日本では芸術をビジネスにしようとしてる野朗がリスペクトしてる、ていうのが日本の芸大生の一般的な認識のようです。だけどじゃあ、創作活動における「先人たちへのリスペクト」と「模倣」の違いって何なんだろ。連綿として続いてきた、音楽や絵画といった芸術の歴史の系譜をいやでも継がざるを得ない創作活動の中で、完全オリジナルな作品なんて作れるの?それって、先人がなし得なかった要素だけを奇跡的に抽出する一発勝負と同義ではないの?誰かえらい人教えてけれ。