はてなキーワード: いのまたむつみとは
いのまたむつみ先生の業績を雑に語ってインプレ稼ぐ人が出てこない
仕方ないので自分が口火を切ろうと思う
自分たちの世代にとって、いのまたむつみ先生はジャンルファンタジーの擁護者であり守護者だった。
ライトノベル黎明期を支えたイラストレーターだが、元々はアニメのキャラデザ、作画監督で有名で、特に幻夢戦記レダとウインダリアのキャラデザで、ファンタジーアニメといえばいのまたむつみ先生、というイメージを植え付けられた。
ロードス島戦記より前、ファンタジーアイコンといえばビキニアーマーだった時代、レダのイラストがファンタジーアニメというニッチの存在感を支えてくれていた。
(ロードス島戦記のディードリットでファンタジーアイコンがビキニアーマーから耳長エルフに置き換わる。ディードリットの衝撃は耳の長さもさることながら、ファンタジーなのに肌色の多いビキニアーマーじゃなくちゃんと布で覆われつつファンタジー鎧だとわかる格好をしてることだった。コンプティークのディードリットヌード扉絵がプレミア価格なのは、ビキニアーマーじゃないちゃんと服着てるヒロインが脱いだからこそで、それだけ衝撃がすごかったのだ。耳長エルフが世界的に広まってしまった現在だと該当コンプティークのプレミア価格は億超えしかねないぐらいだ)
いのまたむつみ先生のレダが他のビキニアーマーと違うのは、やはり、ビキニアーマーなのにエロ方面に振られてなくて、あくまで綺麗な姿として描かれてたことだと思う。ドリームハンター麗夢だとロリコン絵柄ということになってしまうし、都築和彦先生のザナドゥも思春期男子には刺激が強すぎて広告だけで繰り返ししこらざるをえなかった。
そんなビキニアーマーという黙ってるとすぐエロになってしまうグラフィックを、エロの手前にとどめて一般へ訴求するに足るラインにしてくれたいのまた先生の功績は大きい。
先日、ジャンルファンタジーがマンガ雑誌編集に拒絶され描かせてもらえなかったという話題がバズっていたが、ジャンルファンタジーが市場として認知されるのはテレビゲームで十分に裾野を広げた後に、映画ロードオブザリングが世界的ヒットした21世紀以降で、それより前、ジャンルファンタジーは「ストーリーを展開する前に説明しなければならない設定が多すぎて一般層に届けるのは難しい」という認識だったと思う。レベルとスキルとエルフとドラゴン、といったテンプレが準備され誰にでも通用するとみなされる以前は、ファンタジーアイコンとしてキャッチーさで客を捕まえらえる要素は少なかった。ファンタジー黎明期を支えてくれたのがビキニアーマーというアイコンであり、そのビキニアーマーをエロくなく綺麗に描いてくれたのが、いのまた先生だった。イーノ・マータがエロの女神じゃなく美の女神なのはすごく大事なことだった。
次いでいのまた先生キャラデザのウインダリアもRPG以前のジャンルファンタジーとして重要な作品だった。ファルコムのイースのネタ元ではラピュタが挙げられることが多いが、ラピュタとほぼ同時期に上映されていたウインダリアもネタ元だった。イースの名前の由来はフランスの伝説の町イス(Ys)だけど、イスの伝説をイースより先に採用したのがウインダリアのイサ。ファルコム出身の新海誠はウインダリアからネタをちょくちょく拝借してる。ラピュタやウインダリアが上映されていた当時、「火吹山の魔法使い」などのゲームブックは既に発売されファンタジーブームに火がつきかけていたが、アニメーションはSFアニメが主流でファンタジーアニメは殆ど存在しないに等しかった。なのでウインダリアは貴重な供給元だった。
ドラクエ11でルビス伝説の設定が全部無かったことにされたのはちょっと悲しかった。まあ、あれを二次創作じゃなくて何で公式設定として認めてたのか、その辺の事情もよくわからんけど。そして何故だか「まおゆう」でルビス伝説の話に触れられてるのがよくわからん。さすがにルビスの名前は直接は出てこないけど、カリティクスだかルビスの名字が出てきてたな。
1~3はそもそもの原作のシナリオがあっさりしてるから、オリジナル設定もりもりで、普通にエンカウントするようなモンスターが幹部の設定だったり、ガルチラ、ガルドといったらやたらとシナリオにガッツリ関わってくる謎のオリキャラが多かったな。2の小説版は結構好きで、敵か味方か謎のポジションを取り続けるオリキャラのガルドが結構いい感じだった。典型的なメアリースーとか言わんといて。
3は魔法使いの仲間のリザと、血の繋がりがあるゾーマの部下のチコとの確執が面白かった。小説版ではオルテガを倒したのはチコという設定になってる。このキャラはいのまたむつみのお気に入りなのかわからないけど、小説版の復刻版では仲間キャラを差し置いて、3の勇者とチコが描かれてる。
4の小説は全4巻で長い。4からはゲームでもシナリオが濃くなってるけど、小説版はそれを上回る濃さを提供してくれたな。なにせ序章と題してピサロとロザリーのエピソードを延々と読まされるもんだから、俺は一体何を読んでるんだという気分になる。エビルプリーストが実は黒幕という小説版設定は、リメイク版4に採用されてたな。さすがにジャコーシュのいう名前は採用されんかったけど。第五章第一部で、各々キャラ視点で勇者と出会うまでのエピソードが語られるのは好き。
小説ドラクエで最高傑作はやはり5。ゲームのエピソードをだいぶ重視するようになったけど、元の話も良いし、さらにそこにプラスアルファで乗ってくる小説版独自の設定が良い。小説版のスライムナイトの設定は公式でも採用されたけど、その後やっぱりなかったことにされてる。やけにあっさりしてる結婚の描写からの砂漠での逢い引きや、過去に戻って主人公がパパスや幼い頃の自分と会う描写は名シーンだと思う。
6の小説は4と5の小説で暴走しすぎたせいなのか、結構あっさり気味。あっさりしすぎてて、あまり印象に残ってない。ただ、黄金竜の正体はバーバラであることを語ってたりとか、ゲーム設定の補完としては良かったと思う。ちなみに漫画版と違って小説版は主人公はミレーユといい感じになる。
7の小説は……全然覚えてないな。つーか、7が長すぎたから、小説版の端折りっぷりも尋常じゃなかったし、会話システムのおかげでゲーム内のテキストも多くて、原作の補完というポジションも取れなかったからねえ。ドラクエの小説が7で止まったのは必然だったか。
テイルズはそもそもファンタジア(藤島康介)→デスティニー、エターニア(いのまたむつみ)→シンフォニア(藤島康介)→リバース(いのまたむつみ)→レジェンディア(中澤一登)以下略だから『この人でなければならない』感はない
どこかの誰でも描きそうな絵になってった
あと、等身とかパースとかどんどん狂ってって、なんか俺が老人だからなんだろうけど、俺の子供の頃のレダとかウィンダリアとかの頃を懐かしんだり
そういえばカナメプロだったか、プラレス三四郎とかもいのまたむつみでなかったか
ボックスで買ったんだけど、箱の絵が全然違うというか、なんかもう誰?って感じで…
ご冥福をお祈りいたしますけど、晩年はなんかなー、という感じでした
「ドラクエ3の女僧侶とか、女賢者、今でも新しいエロが供給されて凄いね!聖剣3のリースさんですら供給は途絶えがちなのに!やっぱり鳥山明ってすげぇ!」
TARAKOの訃報にお続き、いのまたむつみの訃報が報じられたおかげで、すっかり出すタイミングを失ってしまったのここで供養する。ザーメン。
意図的に似せるというのはそういうことで
もともと、個が売れるには個性が居るので、自然と他人と違う絵柄を求めていくって部分もある
連載当初は「◯◯のアシだな」みたいな漫画も、大体はきちんと個がついてくる
高橋留美子の劣化コピーとかではなく、普通は一己の創作者になりたいわけだから
AI絵はそういうのと無縁なんだよね
絵柄に著作権はない
だから、堂々と「同じような絵柄」が出力される
ファン活動としての創作でいのまたむつみや藤島康介の絵柄を真似ることはあっても
あれを「使ったやつが悪い」と断罪するなら、似た絵柄の出力は悪と認識してることになる
ビビットアーミーの広告サイコー♪これぞ新しい表現の自由の幕開け♪♪
というべきなんだよ
──「富野由悠季の世界」展を拝見して、富野由悠季監督のキャリアをあらためて振り返っていただくと、ご自身でも言及されているように『機動戦士Vガンダム』以降のお仕事はフェーズが変わったのではないかと感じられます。それまでほぼ毎年のようにオリジナルアニメの新作を手掛けていた富野監督が、新作から数年遠ざかり、久々に発表された作品が『ブレンパワード』でした。ガンダムシリーズから新たな路線に踏み出したのは、何がきっかけだったのでしょうか。
富野:『ガンダム』を20年近くやってきて、はっきりと行き詰まりを感じました。行き詰まりを感じた一番の理由が「ニュータイプ論みたいなものを立ち上げておきながら、それをハウツーとして示すことができなかったこと」です。『ガンダム』をやっているうちに冷戦は終わったのだけれども、じゃあ冷戦が終わったからと言って世界中がまとまっていくかというと、まとまってはいかなかった。具体的に言うと、それぞれ主要国家のトップにいる人物たちが、必ずしもニュータイプ志向を持ってる人ではなかったという現実を突き付けられたからです。それで挫折するしかなかったということです。
だからもう『ガンダム』をやっていられないと思った。あと、『ガンダム』は構造だけで見ると、旧来の戦記物に則っているわけだから、戦記物ができる人や好きな人に任せれば良いと思いました。20年くらいやってきて、戦記物はやっぱり体力的に若くなければできないということもあって、年を取ってから戦記物をフォローしていくには、古代史を扱うような歴史的な学識を持つ必要があるということが分かってきた。そこでどうしようかなと考えたときに『ブレンパワード』に行きついたということがあります。
――今、富野監督は「ニュータイプ論のハウツーが確立しなかった」ことに挫折を感じたとおっしゃいました。富野監督は人々の多くをニュータイプにしたかったということなのでしょうか。
富野:いや、多くの人だけではありません。人類そのものがニュータイプにならないと、これ以後一万年という単位で人類は存続しない、人類を存続させるためには人の革新……というよりも、社会の革新をしなければならないんだと考えています。ですから、総体がニュータイプにならなければいけないということです。
――富野監督はガンダムシリーズでニュータイプを新しい感覚を持つ人類として描いています。劇中では、ときには距離や時間を超えてさまざまなことを感知したり、意思疎通をしたりする。具体的にはどんな人間の到来を期待していたのでしょうか。
富野:それについては、実はこの数年で具体的にニュータイプが現われたということが分かりました。
――なんと…! それはどんな人なのでしょうか。
富野:将棋の藤井聡太竜王とか大谷翔平選手です。将棋も野球の世界も勝負事です。何億通りの手がある中で、藤井竜王は勝つ手を選ぶことができる。僕は将棋のことがまったくわからないけれど、「この人がニュータイプなんだ」ということがわかった。それに気づかせてくれたのは先代の竜王であり、永世七冠である羽生善治さんの言葉です。羽生さんは、藤井竜王のことを「自分があまり見たことのない局面でも対応力というか、適応力みたいなものが高い」と評していまする。天才が、新たに現われた天才のことを評価しているんですよ。
大谷選手は大手術を受けた後でも基本的な身体のケアをつづけ、社会人としての基本としての勉強をつづけています。しかも壁を相手に投球練習は毎日つづけている!! 彼のスポーツマンとしての基礎の積み上げこそニュータイプ的と言えます。時代の移り変わりとともに、レベルの違う才能と人物が出てくるんだと感じられる好例です。ほかにも、工学の部分でも蒙が啓かれるような事例を承知しています。それは電動航空機の開発です。まだ決して大型機ではないのだけれど、それがすでに開発されているということは、僕のような世代にとってはもう腰が抜けるような事例でした(2018年7月、JAXA、航空系企業、電機系企業、経産省が航空機電動化コンソーシアムを設立)。工学や電気関係では、そういうことが起きている。そういう開発者たちは30代や40代だろうと思うけれど、彼らのような人たちに続く若い世代は、さらに違うものを作ってくれるでしょう。
――新しい想像力を持った人たちが、新しい時代を切り開く。富野監督が待ち望んでいたのはそういう方々だったんですね。
富野:藤井聡太竜王や大谷選手を見ていると、ギトギトしていないでしょう(笑)。ギトギトした人間が何億人もいたら、地球が潰れていくんです。ニュータイプにならなければ、地球は保全できないという考え方は、つまりそういうことです。おそらく、あらゆるジャンルの新進、若手の世代はこういう人たちがいるだろうと思います。僕がとくに想定しているのは現代のコロナ禍を経た、現在5歳や6歳の子どもたちです。免疫学的にも、彼らの中からニュータイプが出てくるのではないか。そういうふうに期待をしています。
『ブレンパワード』以降は、「当たり前に暮らすということの重要性を、アニメでもやるべきなんじゃないの?」という思いが大きくなった
――『ブレンパワード』についてもう少しお聞かせください。『ブレンパワード』の制作前は、ニュータイプにたどり着けなかった挫折感があったということですが、その中で富野監督が『ブレンパワード』にたどり着いたのは、どんなことがきっかけになったのでしょうか。
富野:挫折感から、僕は鬱病を患ってしまって、一年近くほとんど外に出られなかったんです。そこからリハビリをしていく中で、何を考えるかというと「なんで人間は鬱になるのか」ということでした。そこでたどり着いた答えは、健全、つまり普通の生活をしないと鬱になってしまうんだということです。それだけのことだと思ったんです。この健全とは何かというと、自分ひとりだけの問題じゃなくて、親子関係、子どもから両親がどう見えているか、周囲の人間関係も含めてのことです。普通であるということ。そういう当たり前の環境を維持するということ、それが人の暮らしにとって一番大事なんだということがわかった。
そのときに企画していた作品のタイトルが『ブレンパワード』だった。ブレーンという言葉を使うことで、知的な方向に行こうと思っていたんだけど、「いや、そうじゃないんだ」と。知的な回路を形成するためには、当たり前の健全な生活をしていないとやっていけないんだとわかった。じゃあ、その最もシンプルな話、つまり親子の関係を正面切ってやってやる、と思ったわけです。それで主人公たちの家庭環境(主人公の伊佐未勇とクインシィ・イッサーの姉弟は、研究者である父母から顧みられなかった)やジョナサン(・グレーン)みたいなキャラクター(優のライバル。ジョナサンは母のアノーアに屈折した愛情を抱いている)ができあがったんです。だから、東京が水浸しになっている、みたいな話がやりたかったというわけではないんです。
――地球の各地が自然災害で荒廃しているという『ブレンパワード』の世界観は、当時としてもインパクトがあったと思います。
富野:なんでああいう設定がいるのかというと、要は「アニメとしてのだまし絵」なんですよね。その設定があったほうが、アニメっぽく見えるから。あくまで技法論にすぎなくて、別に水浸しになった事件を描くわけではない。そうではなくて、ものすごく簡単に言っちゃうと「ママは僕のことを優しく育ててはくれなかった」という親子関係のことをドンとやっちゃうことが、一番良いことなんですよ。そういうものをアニメとして描く中で、もう少しだけ、リアルなものと接触できる作品を作れないかと思っていたんです。
――人間関係の中でも一番シンプルな「親子関係」に焦点を当てることで、普通のこと・健全なものを模索しようとしていたんですね。
富野:先ほどの質問に基づいて言うと、『ガンダム』は旧来のメカもの、戦記物の体裁に則っている部分があるんだけど、『ブレンパワード』以降は基本、心の問題……つまり「当たり前に暮らすということの重要性を、アニメでもやるべきなんじゃないの?」という思いが大きくなっています。僕が「『ガンダム』の富野」だったことで、ずっとそれができなかった。『ガンダム』の後期では自分でプロダクションを立ち上げて、新たな作品に出資しようと考えたこともあったけれど、僕にはそれをするだけの能力がなかった。実務者になれなかったという自分の能力論もあったうえで、スポンサーに理解してもらえるように、永野護くん(メインデザイン)に手伝ってもらったりして、なんとか『ブレンパワード』をかたちにした、ということです。だから、中途半端なところはあると思いつつ、とにかく『ガンダム』から脱出するための作品でもあったとは言えます。
思想や理念があったから、技術者たちを動かすことができた。だから、アニメのことだけを考えていたらダメなんです
――『ブレンパワード』ではメインデザインのいのまたむつみさん、永野護さん、音楽の菅野よう子さんといったベテランだけでなく、脚本の浅川美也さん、カナン・ギモス役の朴璐美さん、のちの『∀ガンダム』ではデザイナーとしてゲーム業界から安田朗さんといった才能を、アニメ作品に起用しています。その背景には、富野監督にとってはどんな思いがあったのでしょうか。
富野:これは『ガンダム』から教えられたことです。僕がやったことではなくて、当時の録音監督(松浦典良)の采配で古谷徹さん(アムロ・レイ役)と池田秀一さん(シャア・アズナブル役)を呼んでくれた。他の声優さんも、声優専門ではない方が多かったんです。そういう人選を見せられていましたから、それこそ20年30年経てば今度は僕がやらなければいけないことだろうと、当たり前のように思えたわけです。それでやってみたというだけのことです。むしろ思ったよりも、それが成功していないという意味では、本当に人を見る目がない、育てる力がないという自覚をしています。
――富野監督作品参加以後も、みなさん大きな活躍をされています。
富野:結局、上手く行っている人たちっていうのは、もともとそういう才能を持っていたんですよ。全部、彼ら彼女たちの力なんです。僕が彼らに刺激を与えたとか、インプットしたという記憶はあんまりありませんね。人を育てるということは、本当に難しいことです。これはわからないんですが、おそらく触っちゃいけないんです。触らないで、出会ったときの関係で、その人の持っているものを見つけだす。それ以上のことをしては絶対にいけないんです。これは実をいうと、愛の問題にもつながってくるんです。
――愛ですか!!
富野:愛し合っちゃうと、一点しか見えなくなるんです。正しく接することができなくなる。その瞬間にとらわれてしまって、相手が今後どうなっていくのかを考えられなくなる。正しい距離感で、この先を考えて相手と正しく接していくものでしょう。ちゃんと愛を育むことが大事なんです。
――そういった愛のお話は教育論にもつながりそうですが、そういった考えは、富野監督はアニメ制作の中でお気づきになり、考えを深めていかれたのでしょうか。
富野:もちろんです。僕は基本的に絵を描けないし、原画や動画を今もチェックしているのですが、腹が立ちますもん。「なんでアニメーターは画が上手なんだろう」「なんで線が綺麗に描けるんだろう」って。しかも、彼らは平気で何十枚も描いてくるんですよ。
――ははは。
富野:でも、そういう優れた技術を持っている人たちがいるから、僕は作品を発表できるのであって、技術を持っている人たちの総代に立つには、技術論ではなくて、理念を持たなければいけないわけです。そういう思想があったから、ここまでやって来られたんでしょう。
――思想があるから、約50年にわたるキャリアで監督として活躍してこられたとおっしゃるわけですね。
富野:思想や理念があったから、技術者たちを動かすことができた。だから、アニメのことだけを考えていたらダメなんですよ。「マンガ絵が好きだからって、マンガが描けると思うな」という考えにもつながります。この話って、何にでも通用するでしょ? 僕が文化功労者のお礼のコメントの中に「アニメのストーリーテリングは万能である」と書いたけれど、そういうことなんです。あれは良い文章になったなと思っています。僕がアニメの制作を通じて描いてきた思想は、どんなものにも通じる。それがあるから作品に公共的な意味が出るんだと思っています。
小学校の先生がなかなか嫌な(婉曲表現)先生で、何かにつけて「男のくせに~~するな」「男なら~~しろ」というのが口癖だった。私はその先生が本当に嫌で、誇張や比喩ではなく学校が怖くて夜にはよく泣いていたし、割と慢性的に自殺を考えたりしていた。そんな経験があったので、私がジェンダー論や性差別に興味を持つのはごく自然な流れだった。「女性になりたい」と思ったことや、「私はもしかしたら"男性"ではないのかもしれない」と思ったこともある。今となってはそれはトラウマや思春期による揺らぎの一種であったと認識していて、性自認に関しては私はシス男性だと自認しているけれども。
私の初恋は、とある絵本のキャラクターだった。絵本や児童文学を読みながら、キャラクター同士の親密な関係(カップリング)や、窮地に陥ったキャラクター(ヒロピン)などに触れて、何かいけないものを見ている気分で、こっそり楽しんだ。同級生達の、「どの女の子がかわいい」とか、「誰とそれが付き合ってる」とか、そういう話は嫌いだった。その頃から私はフィクトセクシュアルだったと思う。
当時放送していたアニメと言えば、『幻想魔伝 最遊記』とか、『しあわせ荘のオコジョさん』とか。テレビゲームだと『テイルズシリーズ』とか。そういうのを見て育ったオタクなので、「オタクたるもの、男でもBLくらい嗜んでしかるべし!」くらいに思っていたし、今でも思ってる。ちょうどニコニコ動画が流行った世代でもあって、(今の倫理観では褒められたことではないにせよ、)「ホモネタ」でケラケラ笑うのも楽しかった。
先にオタクになったのは私よりも兄の方だった。当時の私は兄を「ホモソーシャル(という言葉は当時知らなかったが)に親和的な人」と見下していたが、兄は兄で色々と思うところがあったと今では思う。兄はあまり頭が良くないので、私のように細かく言語化したりはしないが、おそらく私たちの世代の平均的な「オタク」だと思う。美少女と美少年が好きで、百合とBLが好きで、口では「恋人欲しい」なんて言うけど、内心エロゲで満足してる。そういう人。『ガンダムSEED』が「腐女子向け」と叩かれていたのを兄も知らないはずはないが、兄はそんなSEEDに心からハマっていた。『テイルズシリーズ』については私よりも兄の方がハマっていたから、いのまたむつみの美少年絵は兄の琴線に強く触れたのだろうと思う。
兄が好んだ「ちょっとえっち」な漫画やゲームを、私は内心見下しながらも、それは常に身近にあった。エロ漫画について伊藤剛先生が『MANGAの自由 平成から令和へ』の中で、「あんまいいもんじゃないだろうという感じで、手に取ろうとはしなかった。」と語っているけど、私もそういう感じ。読まず嫌いだった。でも実際にはむしろその中にこそ多様なジェンダーとセクシュアリティが描かれていることに気付いた。セックスをパロディし、時に嘲笑うことが、セックスを相対化するのだと。
少なくとも私にとって、ジェンダーやセクシュアリティの呪いから逃げられる空間が、オタク文化だった。
2ちゃんねる(今は5ちゃんねる)というのは、今も昔も治安の悪い場所だった。大学院生から「無敵の人」まで、全く知識・知能・倫理観レベルの違う人々が同じ空間で同じ顔をして過ごしている。まともな精神じゃできない書き込みなんていくらでもあったが、それはほんのひと握りの底辺の書き込みでしかなかったのだろう。そしてそんな底辺の書き込みの一つは「女性蔑視」だった。当時の私はまだ子供で、ジェンダーとセクシュアリティの話題に興味のある子供だったから、それがどうしても許せなくて、「論破しなければいけない」ものだと思い込んでいた。今思えばそれは逆効果だったのかもしれない。私が来る日も来る日も女性蔑視的な書き込みを「論破」しても、その勢力が衰えることは無かった。昨日論破したばかりの同じような書き込みを、今日も明日も繰り返すような、そんな連中ばかりだった。
しかし、ネット空間というものが、誰もが使う表の空間に成り下がると同時に、そうしたネットの闇はあっさりと自然消滅していった。厳密に言うと消滅はしていないが、その権威はもはや見る影もなくなった。犯罪や誹謗中傷は取り締まられ、多くの暴言も各種サービスの規約によって削除されやすくなった。何よりも、そのような暴言を吐くのは、少数の異常者であることが露呈した。
私は安堵した。しかし、そんな時代になっても、「表現の自由」を掲げて「フェミ叩き」を頑張っている人達がいるらしい。私は呆れた。非実在児童ポルノ騒動の時、表に立って漫画を擁護してくれたフェミニストの人々のことを忘れたのかと。
私はほんの少し、Twitterのフェミニストの人々と繋がってみた。とても勉強になる話をたくさん聞いた。その話は納得できるものが多かった。しかし、次第に違和感を覚えてくるようになった。その違和感がなんなのか、すぐに言語化することは出来なかったが、どうも彼らは「フィクションを性的対象とする」というセクシュアリティについて、全くと言っていいほど無知で、配慮がないどころか、むしろ憎んでさえいるのだ。恥ずかしながら私自身、「エロ漫画」や「えっちな表現」というものを読まず嫌いしていた時期もあるから、他人のことは言えないのかもしれない。しかし、ジェンダー論や文学を研究している大学教授などが、そうしたセクシュアリティについて全くの無知で、研究など出来るのだろうかと心配になった。そして怖くなった。現代の「ジェンダー論」というものは、そのような前提の元に立脚しているのかと。そして「エロ漫画は女性蔑視」のような前時代に封印したはずのトンデモ言説が、再び亡霊のように復活しつつあることを。あの「非実在児童ポルノ騒動の時、表に立って漫画を擁護してくれたフェミニストの人々」ですら、彼らが味方する対象ではなかった。
結局私は苦しくなってTwitterもやめてしまった。トランプが大統領に当選した時、オバマは「国の歩みはジグザグだ」と言った。もしもわたしが第三者の立場であれば、昨今のフェミニズムの暴走も、「ミソジニーに対する反動」として呑み込む事が出来たと思う。「今はまだ無知でも、時間が解決してくれる」と、民衆の成長を待つことができたと思う。でも残念なことに私は当事者だった。私は、性差別を憎む二次元性愛者の一人だった。
とにかく怖くて仕方がない。苦しくて仕方がない。そして、憎い。ああ、これは、かつて2ちゃんねるで女性蔑視の書き込みを見た時と同じ感情だと思った。
今では私は子供ではないから、もう少しだけ冷静に論じたいと思う。でも、行動を多少抑えることは出来ても、感情それ自体を抑えることは難しい。悔しいとか情けないとか。無力感とか徒労感とか。
2ちゃんねるで女性蔑視を批判した日々は無駄だったのだろうか。実際、無駄だったのかもしれない。でも、せめて、それをした私自身のことは誇りたい。誇りに思えるだろうか。彼らをのさばらせた責任の一端は、私にもある。
筆者はそもそもゲームがあまり得意ではないこともあり、今プレイしているのはアズレンだけである。
これは、課金額がそこそこかつ、スキマ時間あるいはながらで楽しめるゲームが、他に見つけられていないからだったりする。
ということはつまり自分が苦手なゲームは、やり込みや高額の課金が事実上前提となっているようなゲーム。
そういうゲームをゆるーく楽しむのも不可能じゃないと思うけど、それは経験上「ゆるーく遊ぼうとすること自体がストレスになって投げ出す」未来しかないと。
でも今人気のゲームって、だいたいこの2つの要素のどちらかあるいは両方が実装されているゲームばっかりに見えてならない。
というか、そういうゲームの情報ばっかりこっちに届く感じで、それだけで自分から探しに行く気力が削がれることおびただしい。
例えばやり込みゲー。
昔はMMOがプレイ時間に比例して有利になるゲームの王道で、もちろん筆者は二度と手を出すつもりのないジャンルだ。
今だとMMOじゃないけどマイクラ、ARK、あつ森なんかは「ゲームから現実世界にログインする」プレイスタイルになるタイトルとして有名でしょ?
しかもマイクラとARKは死に要素にプレイヤーキル要素、更にはアイテム全ロスのリスクまであるとか、相当シビア。
それらがないモードや、ヌルくするMODがあるのは知ってるけど、そんな下駄を履かせてもらってまで遊びたいとは思わないし、それだと多分それぞれのゲームの本質がボケてしまいそうなのも気になる。
あと、APEXは聞く限り、モンハンがPvPになって廃課金要素が加わったみたいな内容で、そんな死ぬほどMっぽいゲームが世界中でウケてるとか、ゲーマーやべえと思わされる。
これはまあ稼いでいるソシャゲ大体そうでしょ?
FGOグラブルはもちろん、シャニマスとかプリコネとか、女性向けだとあんスタとか?
特にシャニマスはイラストが驚くほど絵画的でクオリティが高く、プリコネは「赤ちゃんになれる!」と評判で、どっちも興味がなくはないが、実際始めてみたら「そんなことよりガチャだ」ってなるよね多分。
「課金額は家賃まで」を守ってプレイすればとかそういう問題じゃないし。
そうなるともう、体つよつよになる実益を兼ねたリングフィットをやるくらいしかなさそうだけど、どこにも売ってねえし!
かといってダークソウルみたいな死にゲーや、壺男みたいなイライラゲーを台バン発狂しながら遊ぶのもなあ(全然ゆるく遊んでない)。
ドルフロ?そういう艦これライクゲームは艦これだけで十分だから。もう遊んでないけど。
結局、ゆるーく遊べるというのはゲーム作者側にとって稼げないので、メジャーにはなりえないということかな。
(追記)
今やっているのがアズレンだけなのはその通りだが、過去にはバイオハザード、マリーのアトリエ、あとはプレステ移植版のときメモとテイルズ・オブ・ファンタジアが、自分の中では神ゲーだったかな。
あとチョロQは1~3まで遊んだし、これも超楽しかったけど、以降はそれまでと全然違う作風になったっぽくてやらずじまい。
バイオは2・3とやった時点で1に比べて全然怖くなかったので見切りをつけた。ちな無限ランチャーは取ったけどナイフクリアはできなかった。
アトリエはエリーになって音楽が微妙だったのと、内容的に一気にめんどくさくなって(ry
ときメモは本当に最高過ぎて、逆に他のギャルゲーを遊ぶ気がなくなって今に至る。オールクリアしたセーブデータが飛んだのも、今は良い思い出。
テイルズはデスティニー以降のいのまたむつみのキャラデザが個人的に刺さらなかったので(ry
ああそうそう、風のクロノアはラスト感動したけど、プレイのほうは個人的にちょっと難しめで、やはりアクション系は格ゲーと並んで自分には鬼門と思わされたっけ。
まあ、過去を振り返っても仕方ないので、これは敢えて書かなかったのだけど。
私もそいつのことは嫌いだけど、
「無意味な露出」は男女ともに存在したりしなかったりしていて決して偏ってるということはない。いわゆる体型が服の上から明確にわかる「乳袋」に関しても、服の上から腹筋のシックスパックが見える男性キャラクターなんてのもゴロゴロしている。そこに男女の偏りがあるようには見えない。
この辺り言ってることは正しいと思うし、不誠実さも感じられないし、嘘をついてるとも思わない。それが「存在しない」なんて一言も言ってないんだし。
ちなみに私はテイルズシリーズで育ったクチですが、エターニアの攻略本でいのまたむつみ氏の「男の子のへそ出しのこだわり」について読んで「なるほど〜!」とか何か感動した覚えがあります。
「ナーガってキャラの服装がビキニアーマーかどうか」があなたにとってどれだけ重要か知らないが、本論に微塵も影響するとは思わない。むしろ「ビキニアーマーじゃない」なら「昔から多くはなかった」ことの傍証になるのでは?