ふむ。ならばもう少し説明しよう。
相手を低い身分に押し込めようとしたり、解らなければヒドいことになるぞって脅迫したりするのは世間一般でよく行われている。
脅迫が犯罪として多くの国で禁止されているのは、それが精神の自由を抑圧するから。
環境が変化しようとも、教条的に同じ公式を当てはめるのみ。どうしてそれが成り立つのか? その概念が成立しないのはいつなのか? そう言うことを議論して、自問自答することで知識の体系は広がっていく。
あなたがプログラマーだったら出会ったことがあるかもしれない。「関数から脱出するリターン文は関数につきひとつ、必ず末尾に置きなさい」って指導する先輩に。
かつて goto 文——プログラムの次に実行される場所を次の行ではなくいろんな場所に指定できる、って機能があった。でもそれはアチコチに飛びまくって訳が分からなくなる、って批判されて消滅していった。そのときにリターン文も実行が次の行じゃなくなるぞ、っていうんで色んなところに置くべきじゃない、行儀が悪いって言われるようになった。
しかし現代では、ガード節——関数の冒頭にリターン文を置いてこの関数では処理できないよ、ってときに早期脱出を図る手法が、関数全体の構造をシンプルにできるって評価されてよく使われている。型システムが発展し、変数の型を厳密にすることでプログラム実行前後で正しさのチェックをしやすくなった。ひとつのリターン文はそこで実行を止めれば関数全体の変数の値を解析できるのでデバッグのしやすさがあったが、正しさのチェックは実質的にデバッグしやすさの代わりになる。
先輩から押し付けられた古い教えを不文律としてそれに盲目的に従っていては、後輩はよりよい製品を作ることはできない。
もし自分が一方的に誰かの強要を受ける立場だったらどうだろう。
自分が最下層にならないためには、自分も他人に同じことをするしかない。
先輩らにその場で「リターン文ひとつなのはどうしてですか?」ってその場で聞くと、たいていブチ切れる。合理的な説明などできない。先輩本人もその原則に従うことを上司に強要されたからだ。彼らが暴言を注意されたらブチ切れる理由もここにある。強要を認めてそれを禁止されてしまったなら最下層の人間になってしまう。怒るのも当然である。
最初に何人かを、暴力で学びを促進する不毛さに気づかない“バカ”、のように申し上げた。
彼らがそういうことを考えてみようとしなかったのは、思考の自由を束縛されていたからだと思う。
おそらくは自身も実際に、お前は田舎ものだとか、勉強についていけないやつはダメだぞ、のように言われてきたんだろう。でもそんな発言は許すべきではなかった。
甲子園に行くやつは皆練習してるけど 必死で練習したからといって甲子園に行けるわけではない 日本語理解出来てるか?
論理は大学で〜つってるバカ、中学はよほど底辺の地域だったんだろうな… たった一文で差別主義者だってことがバレバレである…
せやな 出身だとかを出すのはよくない 「中学時点で勉強についていけなくなった馬鹿」と増田自身を評するに留めるべき
もちろん論理学や集合論を勉強していなくても、そのレベルの論理を理解している人はいる。 でもわかってない人がいても何も不思議じゃない。 自分の基準を敷衍して「日本語理解でき...
そりゃ「人の悪口を言ってはいけません」レベルの話なのか「馬鹿っていうほうが馬鹿なんですー」な話なのか
ふむ。ならばもう少し説明しよう。 練習しまくれば甲子園に行ける? 練習しないやつは甲子園に行けんぞ。 この論理への擁護についた暴言、 中学はよほど底辺の地域だったんだろ...
他人がやるのはダメだが私がやるのは許されるというのがミラーリングやぞ
日本語っつーか論理ね。論理学は理系の大学一年で習う。
論理は大学で〜つってるバカ、中学はよほど底辺の地域だったんだろうな…