https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo8/gijiroku/020901hg.htm
「「障害者」という用語は、先天的か否かにかかわらず、身体的ないし精神的な能力における損傷の結果として、通常の個人的生活と社会的生活の両方かもしくは一方の必要を満たすことが、自分自身で完全にまたは部分的にできない者を意味する。」
友人/恋人が全くいない人は、明らかに個人的生活・社会的必要を満たすことができていない。夏休みの予定は純白、LINEの通知はグループか公式アカウント、結婚より孤独死にリアリティーを覚える。こんな状況は明らかにおかしい。
インセルと発達障害は似ている。本人の性質のために本人が望むように暮らせず、場合によっては周りの人間がコストを強いられるという意味で。しかし、少なくとも日本では、両者の原因は大きく異なって理解されている。おおざっぱにいえば、前者は本人に問題があるとされ、後者は社会・組織などの構造による抑圧だと考えられている(=社会モデル)。
そしてその理解に従い、想定される対処法も異なる。インセルは個人に問題があることになっているから、その苦労は本人の努力不足あるいは本人が差別的な考えを抱いているためだとされる。一方発達障害は社会構造が本人に苦労を強いているのだから、社会の側が変わるべきとされる。学校や職場などの制度改革。
私は「人間関係障害」をつくることで、人間関係がうまくやれない人を自己責任論で切り捨てるのではなく、社会モデルでとらえ包摂すべきだと考える。
すでに「人間関係障害者」に対する悪魔化は始まっている。人間性が悪いからだ、人間的魅力がないからだ、差別的な思考をもっているせいだ、相手の主体性を尊重しろ、そもそも友達/恋人がいないことを悩むこと自体他人を自分の満足のためモノ扱いしているetc…
こうした心無い発言は、現実的でないうえに「人間関係障害者」の苦しみを正当化し、さらなる孤独へ追い込むものだ。そもそも友人/恋人ができるかどうかは社会構造の問題だ。あらゆる社会のしがらみから自由なtinderで、恋人が作れる男は全体(tinder利用者全体ではなく、男性全体)の何割いるだろうか?
想定される反論:人間関係は個人的なもので社会は関係ない/そんなやつと友達にならされるやつの気持ちを考えろ/そもそも友達・恋人がいないと辛いというのがおかしい、自立しろ他人を使うな
実は上の3つは同根だ。「そんなやつのために自分がコストを払うのは嫌だ」という「おきもち」を優先するために、様々な理屈をつけて自己責任論に追い込もうとしているだけだ。こういう論法を使う輩は自分の使う武器があまりに広い範囲を爆撃していることに気づいていない。勉強は個人的なものなんだから東大に女子がいないのは勉強しない個人のせいだ、発達障害者と働かさせられる同僚のことを考えろ、金がないことに悩むこと自体金に支配された精神が悪いのだ…
人間関係障害は十分に社会問題。そして社会問題を解決しようとすると一部の人が損したり、以前よりコストがかかったりするものだ。男性の既得権益の解体も、少人数制学級も、色覚障害に対応したデザインも、誰も損せずタダで実現できるものではない。しかしもちろんこれらの方策は行われるべきものだ。同様に、人間関係障害にも対処すべきなのだ。
具体的にどう包摂したいか教えてくれよ