はてなキーワード: 大人になるとは
数日たって見てみたら、ものすごくブックマークされてて、かなり驚いた。
しかもそのコメントとかを見てみると、なんだか半分くらいのコメントは僕のいいたい事とズレていて、しかもそういうズレたコメントをしている人は何故か怒っている口調で、よくわからない。まあ僕の書き方がよくなかったんだろうけど……結構誤解されるもんだな。普段は「思っていることを言えばちゃんと伝わる」ような気がなんとなくしてるけど、こういうときに「あ、そうだ、違ったんだった」ってあらためて気付く。言わなきゃ伝わらないけど、言ったとしてもちゃんと伝わるかどうかは結構分からないんだって。その原因はいろいろあるんだろうけど……このことにようやく最近気がついてから、とんちんかんな返答が帰ってきたりしても「あ、そうか、この人には伝わっていないんだ」と意識することができ、以前のように何度も分かりやすいよう誤解の生じないよう、わかってもらえるまで説明を繰り返す、ということもなくなり、スルーが出来るようになった。これが大人になるという事なのだろうか。
でもうっかりするとそれを忘れて説明しようとしちゃったりするんだ。まだまだだなあ。
競争っていうから
「お前達、それは道徳に反しているぞ!」と立ち向かいでもすんのか
彼らの方へ同調するって事だろ、それは。
楽なほうに逃げているだけだね。
他人の考えに自分の考えを揺さぶられて、そっちに飲み込まれちゃっただけだね。
結局、理想とか、自分の中の正しさが、損得とかに負けただけ。
いつも思うけど「それが大人になるってことだ」って言い方って結局、
『自分の中で「これでいいのか?」って何となく引っかかってるけど
でもそれを追求するのが面倒だったり怖かったりするから
「それが大人になるってことだ」、って変に肯定的に捉えて「だからこれでいいんだ
自分は何もダメなんかじゃない」って思い込ませたい』、だけなんだろ。
だからといって「それが大人だからしかたないんだ」とか開き直ってる内は
まだまだガキなんじゃねーんすかね。
下手に自己弁護するくらいならどっちかにふっきれてみりゃいいものを。
結局周りがどうだろうが最終的に「自分が」「損得で」考えたってだけの結果じゃん。
損得で考えた時点で、道徳でもなんでもないだろ。
もう、気づいた。
いわゆるチャラい人っていうのかな、
そういう人がずっと嫌いだった。
何にも考えてなさそうだし、メール送っても返してくれないし。
携帯のアドレス帳に何人入っている、とか、自分の交友関係とかを見せびらかす人がほんとうに嫌いだった。
なんで、そういうことを自分の世界だけにとどめておけないのか。
俺は、そういうことからは縁遠い人。
嫌って嫌って、自分はそういうにはなるまいと誓っていた。
でもね、
そうやっても、なんにもいいことは無かった。
やっと気づいた。
自分は彼らとは違う人間なんだ、って逃げていては駄目だ。
彼らと競いあわなければならないんだ。
満員電車の中で立っている場所を少しあけてあげることが俺にはよくあった。
少し、自分が苦しい思いをしても、それがいいことなんだろう、と思っていた。
一方、ドア側の人は、たとえ、閉まるドアに飛び込んでくるサラリーマンがいたとしても、直立不動。
なんて冷たい人たちなんだろうって思っていた。
でも、今は思う。彼らが正しかった、と。
自分が卑屈になって場所を譲っても、感謝されることは無かった。
自分が苦しい思いをすることは無い。
自分も競い合って、満員の中での自分の陣地を確保しないといけない。
多分、小学校にやった道徳の時間の価値観からすれば、この行動は間違っているんだと思う。
あの教科書に書いてあったことは、もう信用しない。
それが大人になるってことなんだ。
子供の頃から最近まで、大人になるってことは一人でいられるようになることだって思ってたんだよねー。
何事にも鈍い自分がコンプレックスで、どうにかどんくさい枠から脱出しようと必死だった。
女の子同士の内緒話が羨ましかったけど、入れてもらえなくて、気づかないふりをした。
自分はどんくさいからあそこには入れないんだなー、あの子達とは違うんだと思うと、やるせなかったけど同時に気分が楽になったな。自分は一段下だから仕方ないってさ
思春期後半で背丈は人並みくらいになって、必死の鍛錬で喋る能力もそれなりに身につけて、
コミュニケーション能力は人並み以上かなって思えるようになった。
自分はあの子たちと違うっていうことが昔は絶望的に嫌だったのに、気付いたらそれがゆがんたプライドになっててさー
違うところをどんどん作りたくて仕事がんばったりふんばったり
なんか繊細だったはずなのに強いねタフだねって言われるようになってて、
えっ大人ってそういうことじゃないの?って周りを見渡したら
みんな私より助け合って暮らしてた。あれ?弱みを見せられない人になってた。
内緒話が誰にもできないんだ。
と思うんだけどね、たぶんいずれは大人にならなきゃいけないんだよね。
というより、社会にでるとみんな確実に「大人になる」んだよなあ。だから、だいたいの大人が言うことは同じなんだよね。
だったら、早い段階で気がつくほうがいいと思う。(といっても自分で気づく意外に方法はないんだけど)
とにかくひねくれた若者で、
さぞ音楽が好きそうにデカいヘッドホンをつけて街を歩いたり、女のヒモのような存在にあこがれて、そんな生活をしてみたりもした。とにかくマイノリティに憧れた。映画も音楽も、まあなにもかも"大衆的な"ものはダメだと思っていた。学校で会う、普通のダサい大学生のことは完全にバカにしていて、外で会う同じようなマイノリティ(のふりをしていただけかもしれない)な価値観を持つ友人と、とにかく"一般"を小馬鹿にしていた。
変わったきっかけがなんだったかはわからない。学校には行かず友人もいないため留年して現実を見たからか、まずまず長い旅行(という行為がまたかっこいいだろうと思って)をしたことかも知れない。わからないが、ある時ふと、「ああ、そんな細かいことまで、誰も見てくれてはいないんだなあ」とおもった。
どんな音楽を聞こうが、どんなアートが好きだろうが、そんなことは他人にとってはどうでもいいのだ、と。センスが良いとか悪いとか、そんなことより大切なことはあるのだなあ、と。今思えば当たり前だけど、そのころは自分の聞いている音楽や見ている映画や、そのスタイルというものに自意識を持っていたのだとおもう。なにも自信を持つものがない中で、それだけが人に認めてもらえるとおもったのかもしれない。
とにかく、「俺は特別だ」というような自意識がすっと消えた。そうしたら、なんでもできるようになった。社会復帰をして、ある組織のリーダーをやった。思ったより向いていて、1,000人の前でスピーチをする機会なども与えられた。冬になり、本屋で就職活動のコーナーにいくのも恥ずかしくなくなった。その後の就職活動も万事うまくゆき、みんなが入りたいという企業からいくつもオファーを受けた。結局、日本のド真ん中のような会社に入った。どんどん社会のメインストリームに近くなっている。これからもそう進むのだとおもう。
それでも、昔好きだった音楽や映画の好みはかわらない。家でそれらに耽溺するのも昔と変わらない。ただ、昔のようにあからさまに主張をすることはなくなった。今思うと、あのときふと気がついたのはパブリックとプライベートの区別がついた、ということなのだとおもう。それが大人になるということだと、今では思っている。まあ、若いうちからわかっている人のほうが多いんだろうけどね。
結婚して一年半、妻が妊娠した。今までどうしても子供を作る気にはなれなかったけど、不思議な使命感のようなものに動かされて子供を作ってしまった。
おそらく順調に事が進めば今年の終わりには私は一児の父親になる。しかしその姿が全く想像できない。
自分は果たして子供を育てることができるのだろうか。仕事ではそれなりに成果をあげてきたし、これからも頑張れる自身はあるけど、子育ての自信は全くない。はっきり言って子供は全く好きじゃないけど、自分の子供は好きになれるのだろうか。
不安と心配ばかりが先行してしまって、どうしていいのか分からないのが正直なところだ。子供が出来たら喜ぶ人の気持ちは分からなくもないけれど、私はとても喜べない。
青年が不安を抱えて大人になるように、学生が心配しながら社会人になるように、これもまた通らなければならない道なのだろうか。あまりにも責任が重大すぎて、どう消化していいのか見当がつかず、仕事も手につかない。
高校生以下の子供たちが書いた内容は、それがかなり稚拙なものであっても、とてもほほえましいと感じます。
大人が書いた、「さすが大人だ」というような文章の、それがはてなのホットエントリに上がってくるのを見ると、衆愚というのも、なかなかだな、と思います。
たとえば、ときどき上がってくるsuVeneさんの記事はさすが成熟した大人だなと感じます。
でも、きっとsuVeneさんは、若い頃からかなり成熟した大人だったのだろうということが、容易に想像できます。
一方で、自分が子供の頃に通り過ぎ、いま思い返すと赤面してしまうような幼稚なレベルの文章しか書けていない「さすが中二だ」というような内容の話を大人がブログ記事に書き、それがはてなのホットエントリに上がってくるのを見ると、人の成長のスピードというのは個人差が大きいなと感じます。
たとえば
http://anond.hatelabo.jp/20070313105332
とかを読んで、そんな感想を抱きました。
なぜ、このような残酷なほどの差がつくのでしょうか?
http://b.hatena.ne.jp/entrylist?url=http%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2F
カテゴリ 一般 キーワード 詳細 4 users このエントリーをブックマークに追加 2007年03月13日
タグ 社会 論 教育 はてな匿名ダイアリー 増田
カテゴリ 読書 キーワード 大人になる 子供 詳細 6 users このエントリーをブックマークに追加 2007年03月13日
タグ 人間 心理 anond 人間交際 はてな匿名ダイアリー 論 はてな フッ をち
カテゴリ 読書 キーワード 詳細 5 users このエントリーをブックマークに追加 2007年03月13日
タグ 学歴コンプレックス 増田 一般 無知の知 誰もが無知である 無知な分野が違うだけ 無知は力である
カテゴリ サイエンス キーワード 政治 理系 詳細 13 users このエントリーをブックマークに追加 2007年03月13日
タグ 増田 理系 政治 hoge politics 生活 …… topics joke
以下たくさん…
(http://b.hatena.ne.jp/entrylist?mode=rss&url=http%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2F&sort=hot&threshold=3)
を追っかけて体裁整えただけで「はてな匿名ダイアリーリーダー」ってツールだと言い張れそうだな!
だれか たのむ
http://anond.hatelabo.jp/20070312102201
それをデジャブと呼ぶのを知ったのはずいぶん大人になってからだ。
絵を描くときに構図が頭に浮かぶような感覚で見たことが無い風景や見たことがある風景。
そしてその前後の短い時間。人の行動。言葉。ものの動き。
悔しいことに見たことあるとわかっていても、同じ通りに行動してしまう。
頭の中に溜まった経験の部品が何か面白い具合に組み合わさって現実に起こりうる事態を想定するのだと思う。
なにかの拍子に物が机から落ちるさまを想像する。
無意識下において自分が体験したかのように脳みその中にしまわれる。
落下するときには自分の知らないような落ちかたはしない。
人との会話もある程度想定できる。
周りの風景も補完できる。
だから「それ」が起きた時に、ほんの短い先の未来だけ読むことができる。
未来の細切れをためておくとそれとであったときに楽しかった。
スポーツをやっていたときにも、事故に巻き込まれたときなどに役に立った。
人間のこういう予知能力はギャンブルとかでも役に立てばいいのにね。
大人になると知ってる世界ばかりでつまらない。
だから予想を裏切ってくれる人やものに期待してしまう。
http://anond.hatelabo.jp/20070304225934
まるちょにぶくまでDISられた。確かにもう別に傷ついてるから平気w
というより、本当は自分でもわかってたんだ。見切られるに値する男になってしまったなと。
だから追いかけられなかった。
ただ今でも好きだし一緒にいたいなとは思う。老後に縁側でお茶飲むような落ち着いた関係でいたい。
これは増田だからみせられるおいらの弱音。
いいおとこになるように頑張ってます。
というより自分の目指すもののために一回しゃがみこまなきゃいけなかったんだ。
ここからどれだけ飛び上がれるかはわからない。
ただ、それを一緒にみてもらえなかったのは寂しいなと。
今は自分に自信がないから新しい恋をみつけたいともおもえないのでよけいに引きずってる。
責任どうので支えられないとかあったけど
http://anond.hatelabo.jp/20070304194822
一緒にいたいかどうかを一番大事にしたいよね。
大人になるといろいろ他のことを考えちゃうのでそうも言っていられないのが悲しいところ。
この振られて引きずってる男の気持ちを最初に書いたのは俺ではない。
すくなくとも男側でもおれ以外に何人かいるみたい。
女性側の視点で答えてた増田の人もひとりではない感じだし。なにか面白いね。
なんかいろんな思惑とか経験とか体験や思想がいりまじり面白かった。
>元カノへ
めちゃめちゃ後ろを向いてるけど。俺は前にすすむんだ。
俺が思い出せるのは過去だけ。思いをはせるのは未来。過去を見ながらだけど未来に進むようにがんばってるよ。
もうちょっといい男になるようにふんばります。
いつかまた逢える日がきたら、そのときはどうかお願いだからお茶ぐらい一緒に飲んで。
子供の頃、大人は大人だと思っていた
自分もいつかすっかり大人になって
行動も考えも服装も、全部かっこ良い大人になるもんだと信じて疑わなかった
小学生の頃、自分の我侭が通らず泣いて助けを求めていたけれど
25歳の私は、自分の我侭が通らないとやっぱり泣いて無茶を言ったりする
中学生の頃、分からないことは先生に聞けば答えはきちんと返ってきたけれど
25歳の私は、今や中学生レベルの数学なんてさっぱり忘れてしまった
大人ならこうあるはずである、という子供の時からの想像でそれっぽく自分を塗り固めて
25歳の毎日をなんとなく過ごしているけれど
いつか来るはずの「大人への変身の日」は待てど暮らせどやってこない
http://anond.hatelabo.jp/20070228032818
どちらも大会で上位成績をのこすような人たちは一般の人たちと比べると群を抜いて身体能力がすばらしい。
だが、水泳で早いからといってマラソンでいい成績を残せるとは限らない。
他方、頭のよさはどうか。
中学高校レベルの頭のよさであれば模試などで測ることができる。
これは教科というカテゴリーごとに頭脳を競った成果だ。
勉強してないのにこんなに上位にいる、勉強しているのに全然成果があがらない。
では大人になったらどうか。
頭のよさはそれを含め仕事で評価されるべきだと思う。
ならばその科目、競技種目は何か。それはその会社がおこなっている業務に他ならない。
会社に勤めているのであれば、経理も研究も関係なくその会社での出世度合いで評価できる。
経理出身だろうが上位管理職に上り詰めたのであればそれは研究職の人たちより頭がいいと評価されるべきだ。
会社を興していたり個人事業を行っているのであれば同業他社との比較で評価できる。
商店街で一番の呉服屋なのか県で一番の呉服屋なのかを比較するのは容易だ。
給料で比較することもできるが、これは少し事情が異なる。電通とマクドナルドでは競技種目が違う。
これを一律に比較するべきではない。もし、自分の頭のよさ(会社での出世の度合い)と比較して成果があがらないのであれば競技種目を変えるべきなのだ。
いくらセパタクローでナンバーワンのプレイヤーになろうともメジャーリーグの年棒にはなりえないのだから。
頭のよさを比較したいのであれば会社とその業界内での出世度合いで測れ。
世渡りのうまさ、人付き合い、上司、部下にめぐまれるめぐまれないがあるだろうが、それを処理し、評価されてこそ頭のよさが証明されるのだと思う。
だって言うだろ?
旧タイトル 「http://anond.hatelabo.jp/20070218013048 に」
(追記 MellowMoon 「"知的障害者"は合法的に犯罪が許されるのだろうか?」は良エントリと思いました。
動画に入っている「服役囚の4分の1が知的障害者」が意味するもの - マル激トーク・オン・ディマンド - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局と、そこで話している山本譲司さんのAmazon.co.jp: 累犯障害者: 本: 山本 譲司もご参照を。MellowMoonさんありがとうございました。)
これはほんとにいろんな問題が絡んでいる。
知的障害者が犯罪を犯してもよい、とは私も思わない。良いわけがない。
彼らが犯罪の意味を知的障害がない人と同じスピードと深さで理解できない、という事実。
さらにそれでも自分の行動に対する責任を自分で取る「権利」を有する、ということ。
これらから逃げていては、解決はありえない。
彼は触ってはいけなかった。なぜなら、触られた人がそれを嫌がっていたから。
(この「なぜなら…」は大いに議論の余地があるけれども、ごく基本的なとこだけ残します)
でも、彼はさわり続けた。
触られた人が嫌がっている、というのを感じることが出来なかったのかもしれない。
触られた人が嫌がることが、彼の中で楽しかったのかも知れない。
問題は、「それはいけないことだ」ということが、彼に継続的に教育されなかったこと、
「言って聞かせたけれど」と先生は言ったというが、
知的障害がある子供は(障害の程度によるが)一回言って聞かせたくらいではわからない。
(この「障害の程度を正確に把握する」という過程も、専門知識の乏しい現場ではごっそり抜け落ちやすい)
ましてや若干の性的興味と衝動を伴う問題行動であれば、わかっていても抑制がきかないことだってある。
彼も女の子達も、両方を守るつもりならば、とにかく彼の行動を修正するしかないのだ。
たとえば。
問題が表面化したら即座に、スタッフを一人増やしてでも、彼の行動をきちんとフォローする。
女の子達にも、触られたらスタッフに訴えるように話しておく(いいにくい子もいるからサインを決めておいてもいい)。
彼が女の子を触る度に、その場で「相手が嫌がっている」事を彼に明確に伝えて、
それはしてはいけない事だ、と同じやり方で伝え(両手を組ませるなど、わかりやすい「怒られてるんだよサイン」を作るなど)、
その場で触った子に「ごめんなさい」をさせる。
一回も余すことなく、やるたびに根気よく、1日に何回でも。
2週間??一ヶ月以内ぐらいの短いスパンでこのアプローチをトライして、効果を判定をする。
ダメなら「物理的対策」として、刺激から遠ざけるという選択も必要になるだろう(クラスを移したり、辞めさせたり)。
こういう大人のサポートがあって初めて、触られた女の子はその場で「触らないで」と明確に伝えることが出来るようになる。
むしろそうしなければ、触られた女の子達には
「理由があれば、触られても我慢しなくてはならないんだ。こんなことは些細なことで、いちいち大きな声で言ってはいけないんだ」
という自己否定観が残ってしまう。
(これが歪めば、DVや痴漢冤罪に……なんていう風に広げることも可能だが、ここでは触れません)
知的障害の人が社会に出ることはいいことだ。
しかし、現状は、これまでのように障害者を囲い込んでおける財源がなくなってきたので、
「障害者を受け入れる良い社会にしよう」という正論の尻馬に乗って
結局問題は、全部現場任せ。
降って沸いた問題に、専門的知識もお金も人手もなく、もちろん世間の後押しもなく、
右往左往した挙句に弱い人にしわ寄せてしまう。
そして、しわ寄せを受けて傷ついた人の心から、小さな花がひとつ消える。
はっきり言おう。
知的障害者は普通の人より社会生活能力に劣ることが多いのだから、
社会生活に適応するには、だれかからのサポートなしにはありえないのだ。
(この「劣る」に向き合わないことが、心神耗弱関連の裁判の問題にも絡んでいると思う)
私には、そういう問題に思えてならないのだ。
で、そういう「弱者救済コスト」をみんなで負担しよう、という空気は、今の日本にはとても乏しいと強く感じる。
(そして今のところ政府はそのコストを取ることから離れる方針)
結果。問題は現場に残され、弱い人、優しい人にコストは押し付けられ、社会から「寛容」が消えていく。
知的障害者をサポートするには、専門的知識と人材という「金」がかかる。
世の中には社会福祉や障害者教育を研究してる人がいっぱいいる。
でもそれらを現場に生かす仕組みは乏しいし、現場には人を増やす余裕なんてない。
専門的知識と人材なしに社会に新しい価値観を生み出すことなんて、絶対にできないだろうと私は思うのだ。
優しさと思いやりだけではどうにもならん。愛だけでは地球は救えないのだ。
(まあ、そういうのを政府に頼らずNPOで、っていう「小さい政府維持」のやり口もあるだろうけど、noblesse oblige精神があんまりなくて(違法とかいう意見もあるし)「ボランティアに金を渡す=それはボランティアではない」ってな風潮では、ちょっとむずかしいだろうね??)
それからもうひとつ。
もし、知的障害の子が女の子で、触られるのが男の子だったらどうだっただろう、という仮定を投げかけてみる。
(この話は、病院で看護師・ヘルパーが患者から受けている継続的暴力の問題と似たような構造を持っていると感じたです)
最後に。
17歳の彼女。しんどかったね。触られたこともそうだけど、ずっと我慢させられたことが、しんどかった。我慢しなくちゃいけない理由なんてなかったんだ。あなたは悪くない。きっとこの本音は、周りの人には言ってないんだろう。増田だから言った。あなたは優しくて、正直な人だ。自分にウソをつく人が多い今の世の中で、あなたはとても正直な人だ。これからも自分にウソはつかなくていい。嫌なことがあったら嫌だって思っていいし、言っていい。
で、もしよかったら、たくさん勉強して、世の中にあふれる難しい問題を、自分の気持ち・直感を大事にしながら、自分の頭で考えて、自分の言葉にできるように、なってください。それが大人になるということの一側面だと、私は思います。