2020-10-12

教養要求されない趣味の素晴らしさ

自分能力要求されない趣味ほど素晴らしいものはない。

聖書を諳んじられて、音楽技術を把握していて、花言葉理解できる奴だけがかるという映画のワンシーンを称賛する人間の浅ましさよ。

そうだな。

樽のディオゲネス・ラエルティオスが語ったのと同じだ。

「チンチンをシコると気持ちいぞ!これ豆な」

だ。

だが、その素晴らしさを彼自身理解できていたのかは疑問だ。

冷笑的に世界揶揄するために語った言葉を、彼のシンパ面白がって広めただけに思える。

性器に摩擦を加えると流れる電気信号が神経を介して脳の報酬系と結びついているというのは非常にありがたいことなのだぞ?

とはいえ性欲にも問題があって、単純に弄りすぎると痛くなる。

擦る場所性器から肛門に変えればいいだとか、妄想による興奮のみを楽しむにしたって同じだ。

性欲の解消は肉体を消耗していく。

なにより問題があるのは、性欲の最も素朴な解消法である異性性交を行うと妊娠という非常に悩ましい出来事がつきまとうことだ。

また、それは今や社会と混ざり合って単なる性欲の解消がひと目につかない場所で行わない限りは法的な処罰対象となりうるようになっている。

一部ポルノ単純所持違反考慮すれば、トイレに籠もっての自己手淫以外に安全と言える方法はないのやもしれぬ。

同様に簡単に解消できる欲求として睡眠と食欲がある。

睡眠は地味に厄介で、たった1日の寝すぎが一週間続く生活リズム崩壊の始まりとなる。

食欲の解消は、そこまでスピーディーな影響を及ぼすことは少ない……いや歳を取るとわずかな暴飲暴食、いつもよりたった1000kcal多い食事いつまでも胃腸で処理しきれずに数日ほど不快感が続くことだってある。

肉体的欲求の解消は教養必要とする度合いが低いのだが、肉体を媒介にするが故にオーバーランによって不快リバウンドが発生するリスクが大きい。

なんだかんだいって教養を要するのだ。

では、真に教養の要らない趣味とはなんだろう?

最も広く用いられるのは大衆音楽の類だろう。

大衆音楽は非常に素晴らしい。

鼓膜への振動がいい感じであるというただそれだけで楽しめる。

クラシックのようにその技巧への理解必要としないし、高音質であることすら求めない

宗教的な背景への理解不要であり、現代社会的な価値観で紡がれる散文詩理解するのに必要なのは単にその時代を生きてきたことぐらいだ。

内容の極めて単純な動画漫画文学の類も非常に良い。

中でも文学はただ文字が読めればいい。

漢字が難しいのなら子供向けの本を読めばいい。

児童文学を読むのが恥ずかしいというならハリーポッターについて語れる老人の数を考えてみればいい。

ハーマイオニーを知らないジジイの多くは単にアルツハイマーが進行しすぎているだけだ。

動画自分に向いた作品を選ぶことが出来れば楽しむのは難しくない。

ただ、動画表現の幅が文学よりかなり広がるため、NOT FOR ME問題が起きやすい。

向いてない動画はさっさと消して次に行くのがコツだ。

これはザッピングと呼ばれる技術テレビ放送が始まった頃に産まれ生活の知恵だ。

漫画は、本当に難しい。

ただし消費のしやすさにおいて文学動画より上なので、一度文脈を覚えてしまえばかなり人生が楽になる。

が、文脈を覚えろという時点で、今回の話題にそぐわない。

同様のものビデオゲームがある。

これも文脈理解によって遊びの幅が広がる文化なのだが、それを掴みきれない人間は単に綺麗な絵が動くだけの画面を延々とポチポチして変わりゆく絵を見るぐらいしか出来ない。

絵をザッピングする(これは先程紹介した動画ザッピングを絵に対して行うということだ)のならば、ゲームよりSNSの方がいいだろう。

これには3つの処方がある。

イラストSNSピクシブ、skeb)と呼ばれるものを使う場合は好きな作品を探すのが容易だし、クオリティが高い作品出会いやすく、同一作者の別作品にもアクセスやすい。

スクレイピングSNSタンブラーInstagram等)を使う場合は、同一作者の作品を探すのは難しくなるし、作品の質もばらつきが出るが、ザッピングという行為を楽しむのには理想的だ。

個人的おすすめなのがミニブログSNS(ツイッターマストドン)で好きな絵柄の作者を大量にフォローしてしまうことだ。これを行うことで自分だけの最高のイラスト空間が完成する。

さて、様々な低次元趣味を紹介したが、どれも一定位以上の教養必要となることが分かっていただけだろうか?

特に最後イラストザッピングなどまさにそうで、単に綺麗な絵をペラペラ見たいという未就学児童レベルの娯楽ですら効率化を目指すにはある程度知恵を絞って情報収集する必要があるし、日々自分生活を向上させる意欲を要求される。

悲しいことだ。

もしも、明日の朝、君が猛烈な頭皮神経痛に襲われ、次に目覚めたベッドの上で知能指数が下限を超えて測定不能になっていたとしたとき、君は何を楽しみに生きればいいのだろう?

食事を楽しもうにも、食べ過ぎればお腹が痛くなるという当たり前のことを理解する知性さえ失っていれば、それは満たされぬ精神的苦痛と満たされたのちの肉体的な苦痛に挟み込まれ苦悶の儀となるだろう。

ならば、何がある?

祈ることだ。

ただ、心を無心にし、無心を目指すことだけを目的に祈る。

なにもしないことを目指す。

すべてを失った人間に出来ることはそれぐらいしかない。

この世界で最も低次元の娯楽とは祈ることなのだ。

それも、神へ祈るのではなく、いわゆる禅、瞑想のたぐいだ。

無心を目指すことだけが最後に人に残された娯楽だ。

禅を高尚だと崇めるものよ、瞑想こそが格調高い儀式だと宣う者共、恥を知れ。

それは、三大欲求にさえ見捨てられた物に残された最後の娯楽、この世界底辺だ。

そこから、そのふてぶてしい脚をどけよ。

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