はてなキーワード: 性善説とは
更生の可能性は誰にでもあるだと?
問題は、その人を無罪や執行猶予や懲役にした場合、将来、隣人として迎え入れなければならないという点である。
民間人による裁判員制度において重要なのは、前例に従う事や更生の可能性を判断する事や、更生の為の努力を国や保護観察官に求める事ではない。
罪が無い、あるいは、罪を償ったと判断された人と、隣人として付き合っていけるかという点からの判断が、民間人裁判員に求められているのである。
この観点から考えれば、被害者と加害者、どちらが隣人として付き合っていけるかという事以外に、考える事は無い。
隣人として付き合っていける人であれば、情状酌量を認め、そうでない人ならば、求刑を越えてでも死刑を求めるべきであるとなる。
裁判官は、法廷と官舎を往復する生活で、前科者が隣人や職場の同僚や後輩になる可能性がまるっきり無い。それゆえに、性善説で浮世離れした判決を平気で書いてしまう事がある。
民間人裁判員制度は、始まったばかりである。素人の判断には問題があると主張している人がいるようだが、犯罪者の更正において最大の問題は、社会が受け入れるかどうかであり、これは、法曹専門家には判断できない事だから、素人の、市井の人々の、実際に隣人として受け入れる事になる人々の、判断が求められるのである。
無罪や仮出所有りの懲役刑を選択する場合、被告を隣人として受け入れられるかどうかを、改めて問うべきであろう。死刑廃止論者だから死刑にするべきではないが、仮出所されて近所に越してこられるのは困るから、仮出所無しの無期懲役が望ましいなどというのは、刑務所で人間を健康に老衰で死ぬまで生かしておくのにかかるコストを税として負担する覚悟が求められる。
更生の可能性を具体的に考えたければ、自分が同じ犯罪を起こす可能性と、同じと考える事である。この程度の事は、自分でもやってしまうと考えるのであれば、更生の可能性は高くなり、逆に、ここまでひどい事はしないと考えるのであれば、更生の可能性は無いとなる。裁判員には、弁護人の忌避枠によって、女性や若者といった、更生の可能性のような根拠の無い主張に流されやすい人が採用されやすい傾向にあるが、そういう人々にこそ、出所してきた人と隣人として付き合えるのか、健康なままで天寿を全うするまで税金で無駄飯を食わせるのか、といった、本音の議論を与えてみる事である。
なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?
しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督に尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督はリアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。
つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。
CASSHERNは、人間の感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)
CASSHERNのクリティカルさというのは、そう、ブライのセリフに集約されている。
「つまり、憎しみとは、人間也!」
さらに、キャシャーンはキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味のモノローグを語っている。
・人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)
これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説がベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。
しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間に
「憎しみとは、人間也!」
というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画のテーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。
このテーマを容認できない人にとっては、監督の独善、ということになるのだろう。
伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼の儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士や三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。
しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。
しかもキャシャーンは抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこの映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。
が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。
では、鉄也の懺悔は無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画のテーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズの「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。
さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエス・キリストの物語を髣髴とさせる。
だから、キリスト教圏では、この映画は日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。
過去に、日本のアニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジが救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジは人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造の映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。
もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオの誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械の触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。
ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画のひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画の黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。
80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹の逮捕とホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清や三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画のシステムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画をとりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。
無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というその姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズでカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的なプロレスファンは旧来のプロレスのシステムを破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。
従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターがカリスマ化していく作品としては、「最強伝説・黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。
すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。
僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督の製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERNが賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。
そしてこの映画のテーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。
このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的な能力が皆無なので……。
(04/5/1 本田)
入れてみたけど、なんだか「関連リンク」の発想が根本的に間違ってる。
あれだけPVじゃない、とかいっておきながら未だにPVを流してあげるという発想。
しかも「してあげる」という上から目線だし。
噂では1割アップするという話だけど、データはないから信憑性はない。
どうせ仲間内でテストして「1割くらい増えた気がする〜」ってことでしょ。
だいたいブラックリストに登録されたら流れてこない、でも流れ出ていく。
よーし、あいつを仲間はずれにしちゃうぞーってなったらさ、もはや流出するばかり。
試しにブラックリストにアルファブログを順番に登録していったらどうなったと思う?
アフィ厨サイトばっかりになったよ。そりゃそうだよね、PV欲しいもんね、彼らは。
結局さあ、zenbackのzenが「善」という性善説に基づいた設計になってるけど、
実際にはトラックバックスパムと一緒で悪い奴らの温床にしかならないよ。
しかもその関連リンクは広告だっていうし。規約10条は見た方がいいよ。
http://zenback.typepad.jp/blog/terms.html
関連記事やTwitter、はてブ、リファラーの表示は選択制。
しかし関連リンクは表示義務がある。
どうやらその関連リンクの中に広告を紛れ込ませようという魂胆らしい。
もしかしたらアフィ厨サイトから金とってるかもしれないね。
もちろんその金はシックスアパートが巻き上げて、zenback貼った人におこぼれはないよ。
まさにカモがネギしょってやってきた、ってもんだ。
人並みに仕事はできるし、それ以外の人間とは普通にやっていけるので(苛めるような人間とも大人としてつきあっている)特に問題はない。
分かっているけれど、嫌がらせをされるのは、そういう隙が自分にあるからだ。
性善説が染み付いているのか「普通、そんな非常識なことしない」って考えが先にたってしまっていて
いざ嫌がらせをされて、一瞬後にそういえばコイツはそういう奴だった…!と思い出す。
思い出して、ものすごく悔しい思いをする。
一ヶ月くらいは覚えていて、ガードできる。
けれど、それを過ぎるとすぽーんと忘れて、無防備に接して痛い目に遭う。
そういう根っからの陰険な人間は信用しないで、
ちゃんと覚えていれば被害に遭わない。
あるいは、全部忘れてしまえば嫌がらせや、騙されてからも「こいつからは前もあんな酷い目にあった。またか」と悔しい思いをしなくて済む。
忘れてさえいれば、どんだけ不愉快でもそれは偶発的で、不幸な単発事故だったと笑っていられる。
どちらかといえば、後者が望ましい。
陰険な相手の挙動を注意しているのはとても疲れる。
その鈍さをフル回転させてガードしていれば疲れるのは当たり前だ。
嫌なこと、全部忘れられる方法、ありませんかね。
ネットを外部から総括する人間は、なんでネットユーザーを一枚岩の性悪説で一刀両断したがるのだろう。
ネット-非ネットの関係に限らず、自分の所属しない文化に直面すると、どうしても悪い面・不快な面のみがクローズアップされるらしい。
ちょっと前まで2chやってる人間は、全員ネット右翼で、自分以外の集団は叩き潰そうとする匿名の無責任なクズたちの集まりだ、という(特に年輩の)意見が多かった。いまでもそう思ってる人も多いと思う。
私は案外、ネット匿名性善説の立場であり、どこかでなにか盛り上がっていれば、必ずそのアンチが出現する。意外とバランスがとれているものだ。ひろゆきが辞める辺りまでの2chの運営は、ほぼ放し飼い状態であったのに、10年近く秩序は保たれ、暗黙のルール・規範が生まれ、使用者ひとりひとりが自分なりの倫理観を持って書き込み等を行っている。
これは凄いことではないか?ホッブズの「万人の万人に対する闘争→リヴァイアサン」という図式通りには行かなかった。もともと「日本的価値観」を有する者同士がユーザーだから極度の無秩序にならないのは当然なのだが、それに加えて「(日本)ネット上の暗黙の価値観」が時とともに醸成されてきたことは、ディープなネットユーザーほど感じることだと思う。
当たり前のことだが、自分の感じていることは他の多くの人もそう感じている。自分にとって不快な現象は、不快な対象において、その全面を覆っている気がするが、それは多分錯覚だ。国保?朝青龍?ネット上には擁護者が無数にいるし、そもそもそんな問題に興味のない人間も無数にいる。反対者の存在だけに目が行って「自分以外の人間はみんなクズだ」と思うのは、傲慢や偏見というより、単なる無知なのかもしれない。
ttp://hibikan.at.webry.info/201002/article_141.html
本日付の朝日新聞の投書欄。兵庫県の校長先生が、私の周辺の在日の人は皆まじめで普通の人。参政権を与えることで何か問題が発生するとは思えない。仲良くしましょうみたいなご意見。
例によって、対立する意見の投書は掲載しない朝日新聞(苦笑)。
私が先日言及した方も、東京の北のほうで学校の先生をやっていらした方。
成績の悪い子に卒業証書を持たせて「がんばれよ」を声をかければ自動的に給料をもらえる作業を23才から60才まで続けてしまうと、このように疑うことを知らない人間ができあがるのです。
いい年齢をして、政治と法律を性善説で語るこのセンス。あなたたちは最も重要なことを学ばずに定年を迎えておられるようですよ。だから学校の先生は世間知らずと言われるんだ。
「BC級戦犯裁判で米兵捕虜にゴボウを食わせたのが虐待だとして死刑を宣告された事件の【裁判記録】を読んだ(そして涙を流した)」
というエントリを書いてその真偽をid:Apeman氏に質され、Apeman氏の態度を問題にして回答を拒否し、ブログを閉鎖する様子、そしてその周囲の反応をを横から眺めて思ったこと。
古今、こういう「嘘や間違いを指摘されても引き下がれないタイプ」って珍しくもないんだけど、ガメ氏については他の大多数の「ごめんなさいが言えないクン」とは違う点があるのが興味深い。
ふつう、この手の輩は、元々人望がないことが多い。プライドが高すぎて間違いを認めたり謝ったりすることに苦痛を感じる人は、だいたいどこに行ってもすぐに他人と摩擦を起こすので、ネットで継続して書き込みをしていると「またおまえかw」的な評判が付着していることがほとんどという印象がある。
でも、ガメ氏の場合、こうしてボロが出るまではかなりファンの多い「読ませる書き手」だった。「ごめんなさいが言えないクン」であることがバレても擁護者が出るくらい、人気があった(擁護者の「質」はさておく)。
「一目置かれているブロガー」だったらたくさんいるけど、ここまで「ファンがつく」ブロガーって珍しいんじゃないかと思う。
それから、今回の「ゴボウ事件」が起こる前から不思議だったのは、なぜガメ氏の「日本人(日本語native)ではない、英語圏で生まれ育って日本語はいま勉強中の身」という設定をまるっと信じて疑わない人がこんなに多いのかなあ、ということ。
ガメ氏が日本語nativeでないはずがない、自己申告は100%ウソ、ということは子細に検証しなくても感覚的にわかるだろうにと思ってたんだけど。たまたま私が日本語を勉強している外国人と接する機会が多いからなのかもしれない。
日本が大好きで10代のころから日本の漫画や小説やテレビを読みまくり見まくって、大学でも日本語を専攻し、日本語検定1級ももってる、という外国人とも複数接してきたけど、それでも彼/彼女らが書いた文をたくさん目にしていると、やっぱりnativeでないことははっきり分かる。
一方、ガメ氏の文章や文体。あれは「完全に日本語を自在に使いこなせる人間が、あえて崩して書いている文章」にしか見えない。どこにも文法的な破綻はない。ボキャブラリーの豊富さも、文体を崩していることによってよりクッキリと浮かび上がって見える。
「日本語学習中」の外国人の書く日本語を読んだことのある人はわかると思う。言いたいことは分かっても、うまい日本語であればあるほど、違和感を感じてネイティブチェックを入れたくて仕方なくなるんだよね。ロボットで起こる「不気味の谷」現象に似ていると思う。
ガメ氏の文章で、その「日本語版・不気味の谷」を感じることはまったくない。少なくとも私は。
もちろん、そのことは「ガメ氏が英語圏生まれの外国籍であること」とは矛盾しない。片親が日本人だったりして、生まれつきバイリンギャル教育を受けて、日本語・英語ともにnativeのレベルで操れるという可能性は残るからね。
(ただ、ガメ氏の「英作文」を読む限り、英語nativeである可能性は限りなく低いと思う。そう思っている人も少なくないようだけど)
でも、重要なことは、「ガメ氏は自己の属性について一貫して嘘をついている」ということ、そして「嘘を書いていたことを自認している」ことだと思う。
http://www.hatena.ne.jp/gameover1001/
当初は純正日本人であったが些細なことから英語国民であることがばれて欧亜混血であると自称。暫くすると、実は日本語は単に成人してから習った言語であることが露見。本当は(退屈にも)ただのコーカシアンであることが暴露される。
普通に読めば、書いてあること分かるよね。
・その後、英語圏出身であることが「ばれた(←嘘なわけだが)」ため、「欧亜混血」を自称した。
・さらにその後、「日本語は成人後に学習した」と「露見(←正しくは「自称」)」した。
・最終的に、「ただのコーカシアン(文脈から、「日本人の血を引いていない純然たる白人」の意味であろう)」だと「暴露された(←もちろん、正しくは「自称した」)」。
ここまで自己の属性をコロコロと変える人の自己申告を信じてあげるほど、性善説には立てない。少なくとも私は。
そういう意味で、ガメ氏と山本七平との類似性を指摘する意見が複数出てくるのは、ごくごく自然なことだと感じた。
で、冒頭の話とつなげると、ガメ氏がこれまでイタい人扱いされることが少なく、むしろファンが多くついていたということの理由の一つとして、「ガイジンを装っていた」ということがあるように思う。
もちろん、ベースにあるのは、ガメ氏自身の知識や体験に基づいた、面白い文章にあったことは間違いない。でも、「ガイジンが書いた」という設定によってその文章に上げ底感というかスパイスというか、プラスアルファがついてきていたこともまた間違いないと思う。
そして、そこかしこに見え隠れしていたちょっとズレた自己顕示欲やプライド、それに起因するプチ炎上なんかが看過されてきたのも、やはり「ガイジンだから」という、ある意味差別的な視線に包まれていたことによるのではないかな、と。
ガメ氏が「日本語nativeではない」と騙っていた目的や動機については、わからないし、知ったことでもない。
ただ、そうして「ガイジンを自称すること」によって発生するいろんな副次的な効果まで計算したうえで、「ガメ・オベール(Richard?)」というキャラを作っていたのだとしたら、けっこう怖いことだなあと思う。
でも、最後の撤退のヘタレっぷりを見る限り、そこまでの深謀遠慮の能力があるなら、Apeman氏に対するあの対応によって自分の信望がどれだけ失墜するかを想像できないはずがないわな、という気はする。
追記(1/31)
upした後にアカウント削除してプロフィールも読めなくなっちゃったね。改変はしてないよ。魚拓とってないけど。
ゲーム屋(ifeelgroovy.net)の「シャチョー」とガメ氏が同一人物だという説もあるようだ。
私は「シャチョー」のブログやゲーム屋のサイトはほとんど見ていなかったので論評できないが、もしそうだったとしても驚かない。
それくらい、ガメ氏の書いていた内容は荒唐無稽で嘘にまみれていることが明らか。何が本当なのかまったく見当がつかない。
まさか写真くらいはどこぞのパクリではなく自分で撮ったものなんじゃん、とは最初思っていたけど、それもわからない。
年齢も20代を自称していたけど、「ガラスの十代です」「あんたおっさんだろ」ではないが、知識の幅や深さだけでなく、世代臭というのか、雰囲気と一致しない。
「モニ」との話に関しても同様。「モニ」の描写(はてなキーワード参照)からしても胡散臭すぎて。
恋愛経験・結婚経験や社会経験などは、むしろ豊富だと思う。「最近結婚した」というのが嘘。
ただ、それにしては煽り耐性がなさすぎるんだよな。癇に障る批判をしてくる相手に対しては、人格を徹底的に貶めないと気が済まない。
でもそういう性質ってあんまり世代関係なかったりする(50代60代のオッサンなんかでもいっぱいいる。むしろ多い?)から、それはそれで矛盾はしてないというか。
別に「ガメ氏はちょっと英語ができて海外経験も豊富なゲーム屋経営のただの日本人のオッサンが中の人で、ゲームの宣伝が社長自身じゃみっともないから社員にPRさせるという自作自演をしてるうちに独り立ちしちゃった別人格」とか信じてるわけでも主張したいわけでもない。
仮にそうであったとしても驚かないくらい、ガメ氏の書いてきたことのうち「実社会に繋がっている部分」については支離滅裂だ、というだけ。
予算委員会の議論を見たけど、なまじな討論番組より面白かった。で、鳩山さんを支持してるわけじゃないけど、次の点は直したほうがいいと思う。
質問に対する答えを考えるための前置きとして長くなるというより、
クネクネと自問自答しながら、あっち行きこっち行きして結論にたどりつく。
だから発言に無駄が多い。もっと短く出来るはずだ。
それに、話が長いということはそれだけリスクも大きいということ。
短文にしてあげ足をとられるリスクを避けなければ。
ホンモノの坊ちゃんだから、下々と対話するのに低姿勢を気取る。
個人対個人ならそれでいいんだけど、一国の宰相がその姿勢だと困る。
それに低姿勢が身についてるから妙な敬語がとれない。あれは不自然で、耳障り。
文末はもっとすっきりさせなければ。
話を聞いてると、友愛概念にしろ外交問題にしろなんにしろ、馬鹿正直に答えすぎている。
人がいいのは分かったが、たとえば友愛だけでアメリカや中国と仲良くなれるはずがない。
外交問題については、あまりにあっけらかんとしていて、
日米中の三国で仲良くやれると楽観してるのが見てとれて不安だった。
ひどいブレーンが無茶を吹き込んだもんだと思う。
世界経済の不均衡。
バランスの取れた経済を実現するには、それを実現できるだけの民度が必要である。
国際会議における決議は同床異夢が普通であるが、世界経済の不均衡を是正するという合意に対し、貧しい側は豊かな側から無条件での富の移転が行われると考え、豊かな側は貧しい側が豊かになれるように努力すると考えるという相違が、いきなり出てきている。
貧しい側は何時までたっても富の移転が行われないという不満を持ち、豊かな側は何時までたっても民度を上げる行動が行われないという不満を持つ。お互いに合意を無視したと詰りあい、G20は無意味な集まりだったという結論へと向かう事になるであろう。
友愛には、まず、友として付き合える相手であることが前提になる。道徳や常識が一致するか、少なくとも、相手のそれを尊重する態度が必要になる。政治的安定や正当性を維持する為に歴史を捏造するような人々を友とするのは、無理がある。
敵の選挙区だから公共事業を止めるとか、敵に肩入れしていた組織だから診療報酬の引き下げるとか、可哀想だから母子加算を復活させるといった権力を私する者と、友になれるかというと、難しいであろう。権力を持っている間は、上手くおだてれば踊ってくれるから人は集まるだろうが、権力を失えば、集まっていた人は去っていく。そのような打算でしかない関係を友愛というのであれば、辞書を書き換えなければならない。
人間がなぜ家族や社会を作るのかという常識に対し、生まれた時から存在していたし、ルールを逸脱した方が個人的な利益が大きくなるからという理由で、自分勝手な主張をする人とは、同じ社会の構成員としては、暮らしていけないという事になる。そういう人を区別する動きに対して差別だ男女不平等だ経済の不均衡を放置していると反省せずに騒ぎ立てるようになると、説得自体が不可能となって行くのであった。
健全で成長できる社会を作るには、個人が社会を支えられるだけの能力を持っていなければならず、能力を安定して供給するには家族や血族というまとまりが必要である。個人の権利には義務が存在し、権利を主張するばかりで義務を果たさない人ばかりが増えていくと、社会自体が存在意義を失ってしまう事になる。
国際社会は、その存在意義について懐疑的な人が増えているが、さりとて、ダメな国を消滅させるわけにも行かないから存続しているのであって、ダメでも国家や社会にしがみついていれば生きていける、ゴネ得が期待できる分だけ、ダメな方が有利という、間違った考えを抱かせる原因となっている。
サヨクやリベラリストが権力を持つと、戦争や争いごとの原因を撒き散らす事になるというのは、何時までたっても変わらないようである。
完全に同意。
連中はそれが正しい行為だと本気で信じてる節があるからどうしようもない。
そもそもは政治家が省庁毎の縦割り行政の権益を地元に還流してたからであって
官僚の独断でなにかをやってきたなんてことはない
お題を与えられたらそれに答える、それが官僚
良いか悪いかの判断はしない
法律で決まっていること、年度予算で計画されたことを毎年実行しているだけ
日本列島改造論なんて素敵な例だよな
実際それで豊かになったんだし
だれが夢を示してくれるのか
明日の豊かさのために
どこから利益を得るのか
全部ひとっくくりでどうやっていくか説明してくれないものかな
内需拡大とかいったって
減り続ける人口が10年で元に戻るわけじゃなし
100年とは言わないけれど
30年後くらいを考えて今何をするのかって言って欲しいよなあ
他の誰でもいいんだよ
もとい
ましてや国だぜ?
まあ性善説に過ぎるかもしれないが
腐ってるやつを取り除いて
まともなやつを引っ張りあげようとしても
なかなか変わらないんだろうけどなあ
まあさ
あれだ
近視眼的に語るのはやめたほうがいいんじゃないのって思うのさ
明治維新じゃないけれど
国の行く末を本当に思うなら
多少のことは我慢しても
次の世代のために出来ることを考えてもいいんじゃないのかね
戦争で死んでいった人のこととかさ
どこかでみんな繋がってるわけだろ
だったら俺たちだって
戦争にも行かずに
仕事もせずに飯が食えるなんて夢みたいな世界が来ないことに文句言ってないで
とりあえず出来ることをやってくしかないじゃん
働きゃいいんだよ
世界を変える脳がないやつは
俺もそうだけどさ
地道に働いて
税金払って
選挙行って
少しはまともな未来を語ってくれそうなやつを探して
それだけだよ
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0625/247829.htm
これびっくりした。何がびっくりしたって、ほとんどの人がこの「孫を産んでくれてありがとうと言われます、それがなにか不愉快」という人に反発していることがびっくりした。
皆イラつかないのか?不思議だ。
何がイラつくって、この人も書いてるけど「産んで『くれて』」って言うけど別に姑のために産んだわけじゃないんだよね。
たとえば何か、あなたが絵でも漆器でも作っているとするよ。出来上がった瞬間、「わあ、ありがとう私に作ってくれて」とか言われたらどうよって話よ。「いや、お前に作ったんじゃないんですけど!?」って思うでしょ。絵や漆器ですらそれなんだからそれ以上に腹いためた子なんてまさしくそれよ。
ありがとうと感謝の言葉述べてるんだからいいじゃないの、ってのは単なる押し付け、感謝の押し売りだと思う。感謝してるからって何でも許されるわけじゃないでしょうに。「バーカバーカ!……あ、これは俺的には感謝を表現してるからww」とか言われてもそりゃ通らんじゃろ。
別にあなたは関係ないのに、「産んで『くれて』」ってなんか「私のためにどうもありがとう」な顔が嫌なんだよな
なんか「息子と私の〇〇家のために、子産み機が子を産んでくれたわ。どうもありがとう」なニュアンスを感じる。主体が、子を産んだこっちじゃなくて息子と姑、つまり「家」側にある感じ。それが嫌だ。
考えすぎ?とは思わない。だって一昔前は実際そういう感覚だったし、姑世代はナチュラルでそういう感覚の人がまだいるんだよ。その前提で、産んでくれてありがとう、だよ。大体、友達だったら「わぁ、産んでくれてありがとう」なんて絶対言わないでしょう。なぜかっちゅーとやっぱり「家」が絡まないからだよ、友達同士は。
こういう台詞をさらりと言ってしまうってことは、根底に古臭い「イエ」思想があるって事を示唆してるんだよ。
この人はそれをうっすら感じ取ってる。実際、その次についたレスも「イエ思想が強いのでは」というレス。(この人は分かってるね)
まあそういう「ナマイキな」(ってことにされるw何か意見いえばすぐ「なまいき」w)嫁を世間は嫌うからこの反発もある意味分からんでもないけど。
http://d.hatena.ne.jp/hrkt0115311/20090628
というより、あれを「私のために」じゃなく読み取る方が無理があると思う。私からすれば、それこそ言葉どおり読んだら寧ろこっちの解釈になる(と思っているからこそ言ってるんである)と思うが、そう思わない人もいるんだろうとは分かる。ただ、自分の解釈の方を「言葉どおりに読むと自分の解釈になる」と記すほど無神経じゃない。優しい口調のようでいてじつはすごく尊大だよね。自分の解釈の方が正しくてあなたは善意を善意として受け止められない苦しい人だ、という目上目線で最初から語っている。この人いつもそうだけど、はてな夜回り先生にでもなった気なんだろか。
んで、↑でも書いたけど、だったら友達が「産んでくれてありがとう」と言いますか?って話で。言わないでしょ?どんなに仲良くても、そんな言い方はとても不自然。
はてブでも
小町の文章を良く読め。何処にも「私に」などとは書かれていない。 良い作品に出逢ったときに「作ってくださって有り難うございます」と感謝と敬意の念を込めながら心の中で言いながら拝見してみ?
と言ってる人がいるけど、こんな解釈の方が無理ありすぎだろう。その解釈で言えば友人だろうがなんだろうが「産んでくれてありがとう」と言っても自然なはず。でも実際はそんなのは不自然なわけですよ。まず言う人はいない。言ったら誰しもが「えっ…?」と思う。言うのは姑くらいしかない。それはなぜか?となれば上のような解釈にならざるをえない。
私も、という主語が無い事は最初から分かっていたし、そうじゃない可能性も一応考えたが、それだと友人が言った場合不自然なことに対する理屈が通らない。(だいたい、姑が「孫を産んでくれてありがとう」をそっちの意味だけで解釈するのも、無駄に姑性善説すぎる)
単に感謝を述べたかっただけだと言うなら、そもそもこんな言い方する必要がないでしょうに。
「ありがとう」って常にいい言葉だと思ってる無邪気な(別の言い方をすれば馬鹿で無神経)人がいるから困る。
こっちは何もあんたにした覚えはないのに勝手にありがたがられてると不愉快な人もいると学んで欲しいよ、そんな「やさしい」人ならねw
知的な障害がある人とか認知症の人、混乱・譫妄の症状が出てる人に接すると、どこかで怖いと感じてしまう。
決して差別したいとか個人として見下してるわけじゃないんだけど、ふと身構えてしまう。
同居していた祖父が病気の進行と共に夢と現実の区別がつかなくなっていった時、
他の家族が寝静まった深夜に、一対一で話を聞いたり言い聞かせたりしていると
決してここから離れてはいけないと思う反面、今すぐ逃げ出したいような気持ちにもなった。
黒い服を着た中国人の話、屠殺場の豚の話、ありもしない新居の話、上京する前に暮らした故郷の話。
ひとつひとつ頷いて聞いていたけど、私はあの時密かに鳥肌を立てていたし、手足はひどく冷えていた。
大切な家族のはずなのに、ぎらぎらと異様な光を宿した目を見ていると、不安で仕方なかった。
それは本人も同じで、正気に返った時に「なんでおかしくなるのだろう」だとか、
「さっきまで気ちがいになっていた」とかぼやくから、余計に胸が痛んだ。
大丈夫だよ、きっと強い薬を飲んでるせいだよ、寝ぼけちゃったんだねと励ましながら、
私は祖父が「自分が変になっていることを自覚している」ことに安心もしていた。
本当はそれが本人にとって一番つらいことだったのかもしれないのに。
そういう物語めいたものを愚かしくも信じたいと願っているので、
自分が彼らに対して恐怖心を抱くことや、それを表に出すことはいけないことだと思っている。
本当はもっと、どんなことも動揺しないで受け止めたいんだけど、今の自分にはそれができない。
怖がるなんて失礼だと思うのに、この恐怖がどこからくるのか、よくわからない。
おかしい。どうして皆はこんなにも楽しそうなんだ。どうして俺よりも充実した生活を送っているんだ。衣、食、住、学業、趣味、娯楽・・・。全ての面で俺は劣っているではないか。
それだけならまだいい。どうして皆はこんなにも俺の事を蔑み馬鹿にするのだろうか。苦労せず与えられた地位から下を見、自分では大した事をしていないにも拘らず偉そうに見栄を張る。馬鹿馬鹿しい。それに連鎖して俺の人脈が、財産が、全てが無くなるのも悔しい。殺してしまいたい。皆殺しにしてしまいたい。犯罪はしないけどもさ。今までの怒り、この方法か自傷でしか解消できない。
何故だ。
俺は、聖人とまでは行かないが決して人を見下したり等はしない。生きるのに必須である衣に関わる貧困に喘ぐ人達の苦労に対しても少しでも力になればと募金をしてるし、食に関わる屠殺においても日々罪のない命を殺している事に罪悪感とありがたみを感じているし、住に関してもただ屋根があり物置があり寝床があるだけで既に満足している。
なのに何故だ。どうして皆は俺に対してこんなにも危害を加える?
性善説――人が人に対して必ず善であるという説。俺はこれには当てはまらないだろう。この殺意が根拠だ。そして、それらの原因である皆、こいつらにも性善説は当てはまらない。前述した俺に危害を加える事が根拠だ。これで性善説は俺の中で完全に否定された。
殺してしまいたい。常識のない奴らは皆居なくなればいい。そして、僅かな希望でしかないが消去法で残った人々が俺の中の性善説をいつか肯定に証明してくれる事を信じたい。
横だが。
性善説/性悪説ってのは人間の「生まれながらの」本性の話な。生まれながらにして惻隠の情をもつ善人である(が中には環境次第で悪く染まってしまう者もいる)と見るのが性善説。生まれながらにして野放図な悪人である(から強権的に教化善導していかなければならない)と見るのが性悪説。誰に罪があるかという話ではない。
個々の人間は社会全体のために犯罪を犯さないように努力する必要がある。
目の前に餌があっても、それが社会通念上食べてはいけないものなら食べるべきではない。
で、そういう性善説が通じない人もいるわけで、
食べた人には罪がある。食べられた人に罪はない。
とはいえ、食べられた人は損をすることに変わりはないので、
出来る限り食べられないようにする方が、生きていて幸せだよ、という話。
食べられた人は馬鹿かもしれないが、罪があるとは思わない。
逆の考えは
人間は自分の意志を尊重して自由な行動を取れるべきであって目の前の餌を食べるのは当たり前。
それを分からずに目の前に餌を置くという行為は罪である。
食べた人間に罪はないけれど、罰則を与えないと社会が成り立たないから
結果、食べた人間には罪がないけれど、損をするから馬鹿である。
どっちだろうね。
あれは実は女について語りたいのではなく
一般通念のモテない男像はこうだ
1・めげない果敢な挑戦者
3・女性に憧れやロマンを抱いている
(コミカルで無様で性善説的なコンセプトのキャラデザインだ。)
1・怯える棄権者
(上のヤツより好感を持たれにくいであろう人物像だ。
ついにデート文化や支配的マーケティングとの接続が切れたハリジャンとして生きてゆく。
不可蝕民も長くやってれば悪くない 自由人気取りのそれなりの自負も芽生えてくる。
思春期に嫌な想いと劣等感のみ押し付けてきた恋愛価値主義に折り合わないままのスタイルを形成したぞ!
―そんな時、喪男達が嫌悪し恐怖するマーケティングと恋愛価値主義から手紙が届く
「そんな生き方お辛いでしょう、今からでも頭を下げれば我々のヒエラルキの下積みぐらいにしてあげますよ」
「一生彼女も結婚相手もいなくていいんですか。ほら、電車男とか草食系とかブームですよ。素直になれば恵んであげますよ」
含み笑いを浮かべ、大喜びで乗ってくることを確信した、上から差し伸べられた手。
こいつら金使わず小金溜め込んでるみたいだから、楽しいことを教えればたっぷり絞れるぞ!
普段は爬虫類のような喪男達もここばかりは声を荒げないといけない
「いらねーよ!」と。「とっくにお前らと縁切りしてるだろう!」と。
「結婚しそびれた婚活(笑)女を紹介すれば大喜びで下取りすると思ってんじゃねえ!」と。
成り行き、女をいじめて馬鹿にして喜んでるみたいに見られることが多いがそうではなく、
その背後の支配的価値観の含み笑いに全力で異議を申し立てているだけなのだ
(なので、背後が見えない女、アウトサイダーな変人女や喪女、には寛容で穏やかな反応をすることが多い)
みなさんもネットの女叩きを見たら、
外敵に圧迫を受けてトサカを広げて毒液を吐いてる、普段は日陰でうごめいてる変なトカゲ
と認識するのが間違いが少ないと思う
派遣村の人達を応援している人達は性善説に立っているのだろうけど、批判しているのは↓のような人達を目の当たりにしてきた人達ではなかろうか
「入社日に来ない人もいるから。」
「寮とかひどいことになるから。」
「お金は絶対貸さないように。」
「甘えさせると前借しまくるから。」
こういう人達であっても、働いてもらわないと結局自分たちに跳ね返って来るんだよ?という議論も見るのだけど
この人達を目の当たりにした自分としては期待することができない。
「じゃあ視ねってことか?」と聞かれると、多分、そこまで追い込まれたら職を選ばないで働くんじゃないかな。
最低賃金が低すぎるんだ!という議論をあまりみないのはなぜなんだろうか。
議論の根は深いように思うのだけど、どれをみても何か空回りしてみえるのはなぜだろう。