はてなキーワード: エヴァンゲリオンとは
殆ど寝むれなかった。会社でも昼飯が食えない。調子が悪い、途中ゲロを吐いた。
心配してくれる後輩。何故か嫌味を言う自分。すまない、今度おごってやろう。
17時。
今日は残業できない。足早に駅前へと急ぐ。大変だ、時間が無い。
タクシー乗り場で彼女と合流。あまりの混み用に列を無視して運転手に2人で懇願。
他に待っている人もいるのに。最低だ。でも遅れる訳にはいかない。
18時45分。
吐きそう。緊張が頂点。密かにポケットに入れてきたウイスキーを少し飲む。
でも駄目だ。全く酔わない。
店内に入った。
何ておしゃれなお店だ。正直言って苦手。
普段チェーン店か屋台くらいにしか行かないからだろう。自分にはキツイ。
あれこれ考えている内に店員がやってきた。
そして案内されて店の奥へと向う。
ヤバイ。足が震えてる。軽く眩暈がして来た。
帰りたい。逃げ出したい。今ここでスッと消えたい。
ふいにエヴァンゲリオンの台詞がでてきた。
「逃げちゃ駄目だ」
部屋の前まで案内された。
戸…個室だ。隔離された空間。吐きそうだ。
実際今日は5回程吐いている。それでも吐きそうになる。
密室で何分、いや何時間だろうか。尋問にも似た質問をされ続けるのだろう。
トイレに行って一端落ち着きたい。
メモを読み返す。あるであろう質問の答え方、敬語、自分の生い立ち、仕事、人生観、将来…
そして彼女への気持ち。色々考えていると少し落ち着いた。
そしてトイレを出ようとした時ある事に気付いた。
もし、もし万が一、だ。彼女が先に部屋に入っていたとしたらどうすればいいんだ。
自分は一人でノックして入るのか?入ってからどう言えばいいのだ。
名前だけを言うのか?ちゃんと返事してくれるのか?
きっと声が震える。足もふらつく。怖い。
部屋の前まで戻った。
そこには彼女が居た。待っていてくれた。
思わず涙目になる。彼女は何事かとびっくりして心配してくれた。
ああ、きっと自分は間違っていない。大丈夫、問題無い。
彼女が私をチラッと見る。
私は彼女を見て頷いた。
「お父さん、連れてきたよ」
部屋の中にはお父様とお母様。
私の品定めの為に今日はいらっしゃったのだろう。
ここから30分程は思い出そうとしても良く思い出せない。
彼女の話題が中心だったと思う。ガチガチの私はロボットの様な動きとドモリ気味な喋りで何とか会話していた。
そして1時間くらいが経過した。
少し酒が進み・・少しずつ打ち解けはじめた頃お父様が切り出した。
「○○くん、君が娘を好きなのは分ったよ」
「恐縮です」と言った。
使い方あってたのだろうか。
「それで今後もあるだろうし…ちょっと色々質問させて貰いたいんだ」
そういうとお母様がお父様にA4の紙を渡した。
「えーと、まず仕事は何を?」
「販売店のスタッフをやってます。」
「具体的に何をするの?」
「レジ打ちとか仕入れを決めたり。たまに本社に行って事務を勉強させて貰ったりもします」
「面白い?」
「…はい。」
「ふーん。それで収入はどれくらいなの?」
「・・・」
「ん?」
「あ、えっと、残業とか、特別収入とかもあるのではっきりとは・・」
「大体でいいよ、年どれくらいなのか教えてくれればー」
「えっと・・」
本当の事を言う方がいいのだろうか、それとも少し多めに言う方がいいのか?
少し考えたが嘘をついてもどうせすぐばれるだろう、本当のこと言おう。
「260万です。」
言った。本当に言った。
彼女のことは真剣だ。嘘は付きたくない。
だから正直に行った。
「・・・」
沈黙。
何だこの間。誰か喋ってくれ。お願いだ。
「プフッ」
お母様。
「あ、ごめんなさい。でも…ウフッ、ウファファファファファ」
お母様が吹き出した。
「ワハハハハハ」
お父様も笑いだした。
笑い声。バカにされてる。これは絶対自意識過剰なんかじゃない。
心の声が聞こえる。今までもこうした笑い方を何度かされた。だから分る。
覚悟はしてきた。でも苦痛に変わりはない。
「ちょっと!!」
彼女が怒ってくれた。
嬉しい、けど情けないな。
私が幸せにできるんだろうか。自信が揺らぐ。
「ハハハ、すまんすまん」
「いえ。」
短く簡潔に、だ。
お父様。
「ちょっとお父さん、…フフ、この方、大卒じゃないのよ。そんな言い方酷じゃありません?」
お母様。
何だよコイツ等。笑いながら喋るな。
本音は
(ぶww底辺wwwwプギャーwwwwww転職は?ねぇねぇ?転職は?wwwwww)
(あwwごめんw高卒だった?wwあはwwwwじゃ、無理かwwごめんねぇwwwww)
何だろ。はぁ。でも仕方ない。
「まあ若いんだしまだまだ可能性があるもんなあ。少し距離を置くことも大切だよ、ねえ母さん。」
「そうよねえ。他に貴方に合う女性もきっと一杯いると思うわよ」
何このコンビ攻撃。
「はっきり言うとあれだ。僕には君が娘と釣り合うようにみえないなあ」
「私もそう思うわ、お父さん。」
はっきり言われた…
「ところで○○君は明日早番なんだよね。そろそろお開きにしようか。」
「もうお話も十分したしねぇ。あらヤダ、もうこんな時間だわ。でましょうでましょう。」
お父様、明日休日です。そしてお母様、私にもう少し喋らせてください。
ここでお父様が予想外の一言。
「○○君、今日はごちそう様。」
え? 俺払い?
冗談かと思ったらお父様とお母様はさっさと店からでていってしまった。
残された彼女と自分。
払わせる訳には行かない。財布が空っぽ。給料日までまだ10日程あるのに。
店をでた。
気遣ってくれる彼女。でも優しさが痛い。
1人になりたい。その晩一人酒。彼女と自分について考えた。
きっと自分と来ない方がいい。でも彼女と居たい。
誰かが言ってた言葉。人様に迷惑をかけるな、人を巻き込むな。
その通りだ。きっと俺は害になる。お父様達にとっては害虫。ゴミ虫。
しかし怖い。資格に通るのはいつになるのか分らない。
きっと今でなきゃ一緒になれないだろう。でも今一緒になっても上手くいかないだろう。
互いの幸せを考えると… 「別れ」の2文字がでてくる。諦めなきゃ駄目なのか。
親の力は強大だ。今日の惨敗は彼女との今後に大きく影響するだろう。
憂鬱だ。
先日、元ゲーム雑誌ライターで、元書店員、元メディアワークス編集者という、
非常に珍しい経歴をお持ちのTさんとお会いして、話をする機会に恵まれました。
買い手を『洗脳』して作品を買わせようとしているとのことです。
それが当たり前になってしまったと……
「エヴァンゲリオンというアニメが流行ったことがありましたよね。
エヴァンゲリオンを売れという指令が下って、電撃の系列雑誌すべてで、
エヴァンゲリオンの特集を組んだんです」
その結果、エヴァンゲリオンは売れに売れました。
でもTさんに言わせると、エヴァンゲリオンは、ウルトラマンや女神転生など、
ただ庵野監督の好きなモノを集めて作ったモノで、最後は予算も時間もなくて、
グダグダで放り投げてしまったものだそうです。
本来は、そこまで騒ぐような作品でもなかったのに、企業の商業戦略によって、
エヴァはおもしろい、深い、謎があるという情報がメディアで繰り返し流された結果、
ユーザーは洗脳され、エヴァ一色に染まってしまったのだとか……
「正直、怖かったですね……あれは洗脳ですよ。
僕に言わせればエヴァンゲリオンなんて、数ある作品の1つに過ぎなかったのに、
それをおもしろいんだと散々雑誌で煽らされた。その結果、エヴァは売れに売れてしまった。
そこで、出版社は味を占めてしまったんです。
ああっ、ユーザーというのは、情報で簡単に洗脳できるのだなーって」
本当かどうかは知らない。
それにしてもTさんの芸風って時間が経っても変わらないね。
via アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本
まあ、どのくらいの数のNHKアニオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らないNHKアニメの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、NHKアニメのことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女にNHKアニメを布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う4期、10分×14年のアニメは避けたい。
できれば2クール、長くても70話にとどめたい。
あと、いくらNHKアニメ的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
朝ドラ好きが『おはなはん』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
NHK知識はいわゆる「テレビまんが」的なものを除けば、さわやか3組程度は見ていた
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「CCさくら以前」を濃縮しきっていて、「CCさくら以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。長さも70話だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなNHKアニメ(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「NHKアニオタとしてはこの二つは“コメディ”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のファンタジーアニメオタが持ってる古代中国への憧憬と、小野不由美のオタ的な考証へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも小野不由美な
の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラを世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「攻殻機動隊だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これがアメリカでは大人気になったこと、
ハリウッドなら3D実写映画になって、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
NHKでこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりアニメは少年少女のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「無人惑星サヴァイヴ」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける伊藤和典の思いが好きだから。
断腸の思いで削りに削ってそれでも2部構成、っていう尺が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
前半・田菜編を俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
押井や富野だったらきっちり横浜編だけにしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて田菜編を作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ伊藤がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でナディア見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
エヴァよりも前の段階で、庵野の哲学とかアニメ技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品がテレビアニメでこの時代にかかっていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくアニメ好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるエヴァンゲリオンでしか庵野を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
佐藤の「目」あるいは「絵づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない学校祭を毎日生きる」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそアニメ版『学園アリス』最終話は追試以外ではあり得なかったとも思う。
「祝祭化した日常を生きる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
源はムリョウにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうギャルゲー風味の育成をこういうかたちでアニメ化して、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にNHKを選んだ。
CCさくらから始まってNHKで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降のひきこもり時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
まとめエントリを作ってみました。
あわせてお読みいただければ幸いです。
まあ、どのくらいの数のアニオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らないアニメの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、アニメのことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女にアニメを布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う3クール、4クールのアニメは避けたい。
あと、いくらアニメ的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
映画好きが『カリガリ博士』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
アニメ知識はいわゆる「テレビまんが」的なものを除けば、ジブリ劇場用アニメ程度は見ている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「エヴァ以前」を濃縮しきっていて、「エヴァ以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。長さも2クールだし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなアニメ(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「アニオタとしてはこの二つは“映画”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSFアニメオタが持ってる宇宙への憧憬と、JAXA監修のオタ的な考証へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも谷口悟朗な
「童貞的なださカッコよさ」を体現するハチマキ
の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラを世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「ルパンIII世だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これがアメリカでは大人気になったこと、
アメリカなら実写テレビドラマになって、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
日本国内でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりアニメは子供のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「あらしのよるに」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける原の思いが好きだから。
断腸の思いで削りに削ってそれでも2時間20分、っていう尺が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
クゥの長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
宮崎や富野だったらきっちり1時間40分にしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて2時間20分を作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ原がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でコナン見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
ナウシカよりも前の段階で、宮崎の哲学とかアニメ技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品がテレビアニメでこの時代にかかっていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくアニメ好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるジブリ劇場用アニメでしか宮崎を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
押井の「目」あるいは「絵づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない学校祭を毎日生きる」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそアニメ版『らき☆すた』最終話はビューティフルドリーマー以外ではあり得なかったとも思う。
「祝祭化した日常を生きる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
源はビューティフルドリーマーにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうジュベナイル小説風味の恋愛をこういうかたちでアニメ化して、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にハルヒを選んだ。
エヴァから始まってハルヒで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降のアニメ時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
追記
私だったらタイトル選んで紹介されるより、一緒にツタヤ行って「どのへんいけそう?」とか聞いて自分で選ばせてほしいな。
何選んでもバカにしないで、内容解説してくれたら彼を尊敬する
最終的に狙うのは、まさにその状態ですね。
このセレクションのキモって、「エヴァンゲリオン」のところで書いているように、あくまで
「オタクが非オタのためにどこまでオタ臭を出さずにアニメを説明できるか」
『脱オタクファッションガイド』と方向性は真逆だけど、狙っていることは同じ。
それができそうなのが私の場合この10本ということであって、シチュエーションとしては彼女の方が
「ちょっとアニメのことが聞きたいんだけど、何を見たらいい」と聞いてきた場合を想定しています。
そこをディープさを感じさせずに見せられなかったら、なんのためのオタクだよと。
『千年女優』は頻繁な場面転換が人を選びそうなので、それよりは正統的なカット割りのゴッドファーザーズを。
女性原作者のファンタジーアニメはいいと思うんですね。守り人は最終候補に残しましたし、『彩雲国物語』も
チャングムとの比較という点で、長くなければぜひ入れてみたかった。
(10本目から守り人を外したのは、07年テレビアニメで一番非オタにとっても見応えのあるものだと思うがゆえに、
逆にここに入れなくてもいいかなという理由で)
あえて『ハルヒ』以外は原作のないアニメを並べたんですけどね。
プラネテスも時かけも押井うる星も、オリジナルの範疇でしょう。
だからハルヒに乗り気じゃなかったのかな俺は。
連続ものについては、なにも短期集中でなくともいいと思う。
興味がなくなれば自然と見なくなるし、逆に興味が出れば自分からみたがるもんだろうし、
そこそこなら忘れないうちに続きをゆっくり見ればいいんだし。
後段については、それ故に「彼女の方から言い出した」という設定にしているというのもありますね。
彼女が積極的に興味のないものを、いかにオタ的暑苦しさ鬱陶しさを抜きにして、かつ
オタ世界の魅力をあっさりと受け入れてもらうか、そのセールストーク的コミュニケーション訓練が主眼ですから。
基本は「脱オタ」方向なんですよこれ。
これってまさにその確認をするための作業なんですよね。
もしそこで「差がない」と思いこんでしゃべったら、たぶん破局一直線だろうし。
むしろ、差があることを認めてこそ、オタと非オタが相互に肯定しあってうまくやっていけるんじゃないかと
そういう期待はあるんですけどね。脱オタとは、オタをやめることではないと思ってます。
そいつは素敵すぎるぜベイベ。その狂気に触れ共感しつつ、あくまで正気を保ちたいぜ。
そんなパーフェクトジオングみたいな珍妙な生き物居るわけ無いでしょ?
10本程度では酒に慣れる程度で酒の味が分かるようになるかというとどうか?
普通に好奇心が強いだけなんだけどな。そして染まりはしないが理解しようという気はあると。それだけの話だよ。
それに、誰も10本で酒の味をわからせようなんて言ってはいない。だから「軽く紹介」なんだし、きっかけ、入口。
『美味しんぼ』で偏食を直したカツ丼みたいなもん。あるいは今の漫画なら『神の雫』。
基本目が細くて等身が細めのアニメが中心だな。
まあ、萌えに踏み込む必要はないしね。後半はそれこそ「おめでとう」だよな。
お勧めされると逆に引く
いや、レコメンドでは全然ないのだけれど。
「オタが考える非オタのためのアニメ十選」っていう企画じゃない。
……なんでハルヒ?
カリオストロの城くらいで。
つーかムリにアニメなぞ媒介にせんでもええやん。
だからハルヒじゃない10本目、いいものあったら教えてくださいと書いたわけで。
カリ城はどうしても「ルパン」という枠があるので、先入観のないものを。
別にアニメでなくとも、漫画でもなんでもいいと思います。今回はたまたまアニメだと。
…(^ω^;) ((((((^ω^)
そう言いたくなる気分はわかる。けど、ここで目指しているのはそこからの脱却。
可能か不可能かはこの際おく。できると思ってるから書いた。
b:id:fuldagap 愚の骨頂
オタ世界的読解を捨てるわけじゃない。けれどそれは俺個人のもので、彼女にそれを知ってもらったり
まして共有してもらう必要もないだろ。
けれど、彼女がそういう俺の存在を許容してくれるなら、彼女に理解できる範囲で、俺という人間を
彼女がオタじゃあ意味がない、けれどせっかく自分と違うものの見方をしてるのに見守ってくれてるだけじゃ勿体ない。
彼女の感性を汲み取り、俺のコミュニケーション能力を向上させたい。
それくらいの貪欲さは持っていたいものだなと思ってる。
結果として彼女によって俺のコミュニケーション能力が引き上げられたらいいな、という期待を
もつくらいには貪欲でありたいなと思っている。
(tekitousphere - wideangle Weblog 2008-07-23「コミュニケーションの目的は……!」ということ。
での御指摘を受けて、改めました)
むしろそういうほうがアリかも。ありがとうございます。
あと、http://anond.hatelabo.jp/20080723070944にお返事を書きました。
http://twitter.com/wideangle/statuses/865446462
うへー……。
http://twitter.com/wideangle/statuses/865447639
結局「俺の」「能力」なのか。
お気持ちはよくわかります。私の書き方が悪かったですね。
そこで期待しているのは所詮は反射的効果に過ぎません。
そこに期待してもいいだろう、程度のもので、それを得ようという強固な目的意識まではない。
そこであえて「これってSF読みが女の子に贈ってしまう地雷なんだよね」と前置きして贈るってのは
どういうもんなんだろうなと。
そこでそういう風俗を面白がることのできる人もいるだろうけど、それがどういう面白がり方かと
考えてみると、あんまりいい結果になりませんよね。
全部好きな作品からのチョイスですよー。
「勉強のため」だったら『天使のたまご』が確実に入るし、そんなリストはそもそも表に出せるものじゃないです。
種明かし……だよね?天然で書かれたものならあまりにも狂気。ネタ文なら種明かしなしの方が完成度高い。
この場合、どちらともとれるような書き方がいいのかなと思いまして。
そりゃそうです。だから「俺の10本」でしかあり得ないし、「他人の10本」が知りたいです。
そして、女の子が主人公のアニメで女の子が感情移入できるものって、かえって少ないような気がしています。
そこの議論こそ、大切ですよね。
全くです。返す言葉もありません。
だから、見せることなく脳内に入れたまま墓場まで持っていくアニメのリストに結果としてなってしまってもいいんです。
順番に意味はないって書いたじゃん/あんなもん「話せばわかる」なんて思ってるやつの方が希少でしょ。
あれこそ正に「見て感じてしゃべる」ためのアニメだし。だからここに入ってるんだし、話せそうもないなら打ち切ればいいだけ/
長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。
「疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。
なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在の人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。
じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。
「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」
「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」
「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」
「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」
「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」
「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」
「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」
「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」
「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」
「その人を手当てすりゃいいじゃん」
……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。
「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家や行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。
例えば教育。そもそも公教育制度って、政治や社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像を国民に保証する」ことにあるわけです。
だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。
警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。
他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味で改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列的未来に投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。
だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来に投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルやマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?
いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングのチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうをリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級のリングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級のリングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。
だから、庵野監督も大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンをテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)
なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨)ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。
ポルポトや文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学的世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。
……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神や知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列的進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。
「疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェの運命愛もちょっと似てるかも。
……でもこれって、
「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中の世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」
という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論やポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女のジジイ!
例えば、
「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」
「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずくで正義を押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」
とか、
「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」
「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」
「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」
「ライダーは二人も要らない」
「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」
「貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」
「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」
「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」
(半年後)
とか。
この春、女に振られて、なんだかヤケクソになって、出会い系サイト「Yahoo!パートナー」に登録した。三十路のオタク。
前回http://anond.hatelabo.jp/20080531014648書いたように、アクセスのあった8人のうち、連絡を取ろうと思ったのが5人。そのうちの1人(A子さん)が、この24時間で4本ぐらいメールをくれています。なんだか僕と波長があったと思ってくれたみたい。スペックは、
嬉しいのか......正直、微妙です。
A子さんのプロフと1度目のメールを見ている限り、ちょっと重そうな子だなあと思ったのですが、僕とやりとりをしているうちに、なんだか弾けてしまった感じになった。本人が質問し、僕が答えているんだけど、会話になっていない。レスが明後日の方向に行きだした。
たぶん、というか確実に、A子さん、スピリチュアルな世界にかなり関心を持っているみたい。「本人にカウンセリングが必要な心理カウンセラー」って感じです。中沢新一とかそっち系が好きそう。他者との人間関係が気まずくなる経験を繰り返すことで、"自己分析"を行うのではなく、"自己の救済"となる何かを求めてしまっているのでしょう。
オレ、そっちの世界は全くダメです。サイババとか江原とかそこら辺は全く肌が受け付けない。「エヴァンゲリオン」とか好きでしたが、そっちの世界について語ろうとするごく一部のオタクたちに嫌悪感を示していた。小さな時から血液型占いとかやっている女の子たちとは距離を置いていました。
さて、どうしよう。意外と住所は近そうだし、アプローチすれば食いついてくるかもしれない。でも、問題は、自分があっちの世界に、どこまで対応できるかということ。
一回目の時のブクマで、1d:sanzunokawaさんが、「"現実はそんなに甘くない"と言うことを学ぶには良い場所かも」と書いてあるのをさっき見て、つくづく考え込んだ。
そもそも女と別れたから出会い系という自分も動機が不純だ。いや、過去に付き合った女の子のうち3人は、ちょっとメンヘルが入っている感じだった。そういう人たちを受け入れてしまう素地が自分の中にもあるんだろうか。非モテだった過去に対する何かのこだわりがあるんだろうか。
何年か前、とある風俗でお世話になった女の子に、「あのテレビの江原さんによく似ているね」と言われたことがある。体型は確かにスピリチュアルカウンセラーの江原啓之みたいな感じだ。顔も話し口調も……、いや考えるのはよそう。
とりあえず、しばらくはA子さんと連絡を続けようと思う。心の中で「おい、あんた大丈夫か」と思っているのに、どこまで仮面を被れるのだろう。そこまで器用な人間ではない。
思えば私の高校生のときにエヴァンゲリオンが始まった。その頃すでに森博嗣は世に出ていて、それでもなんとなくタイトルを見たか見ないかというくらいでした。その頃私は宮部みゆきと北村薫の子供だった。
いわゆる世紀末を越えて、その名を冠したアニメの影響やフォロワが周りに現れ続けていた頃私は緩やかに行き詰っていた。
学問の壁というべきか、私は師匠に恵まれなかったといえば傲慢になりますが、少なくともベストフィットの環境ではなく、それを乗り越える精神もなく、茫漠とした、とらえどころのない人生を送っていたと思う。これは本当に傲慢とも思われかねないし、上から見下すわけではないのだけれど、世の中を見るとその茫漠とした人生をずっと過ごしている人がいることを感じ、かわいそうではなくつらいだろうなと思う。世にいる、自分の存在を確立しようとして、営業成績よりもずっとあいまいな評価基準の世界に身を置いてそれでもがんばっている人たちよ、幸せであれと思う。
世紀末からゼロ年代にかけそして今このゼロ年代が終わろうとしている、言い換えると完全にゼロ年代しているこのとき、森博嗣が終わるというのだ。カクレカラクリなどと言う爆笑コメディ(あるいは世界初2時間忍耐ドラマ)をもスイッチバックとしてスカイ・クロラが押井守の手によって現れようとしていて、しかもそれはすでに完成している。
今私は森博嗣の理解者でもなく信徒でもなく、ただ個別に1対1で感じ取るだけの独立した存在になっている。
だからその映画や、これからこれまでの著作について私のみがわかっていると言うのは精確ではない。
正確に言えば、「私の森博嗣理解は、私にだけ最高の価値がある」ということになる。
だからこのまま消えていっても私には十分な読むだけの文章が、森博嗣の書いた文章が残った。それでいいはずだった。
だがそれでも現れては消える、この寂漠とした空気はなんだろうか。
これで4歳いや失礼、14歳またまた失礼、24歳におなりになったとのこと。
足かけ3年もの間、貴女の成長を生暖かく見守って参りましたが、相変わらず精神退行を起こしていらっしゃる件について、深く嘆き悲しんでおる次第であります。
さて、増田は遠方ゆえお会いしに行くことができませんが、タイニーカフェさんは“出会い喫茶”なる飲食店に時々お勤めをなさっていると知りました。
是非一度お話させていただきたいところでありますが、この機会は他の増田諸君に涙を飲んでお譲りいたします。
ところで先日、id:tinycafe_yokoを取得して再びはてなにお帰りいただいたのを、増田は生暖かく歓迎しておりました。
ですが僅か一週間ほどで退会なさった件について、何か増田に至らぬ点があったのだろうかと、非常に心苦しく思っておるところでございます。
通算8個目のアカウントでございましたよね。
いえいえ、何も貴女が気に病むことではありませんよ。
増田はきちんと理解しております故。
貴女は毎月末から月初にかけての10日ほど、いつにも増して著しくお心が不安定になられ、結果としてありもしない通報だの訴訟だのを公言してしまうのだ、と。
平静を取り戻される際には恐らく、その間の言動について激しく自責の念を感じていらっしゃるのでしょう。
はい。勿論増田は承知しておりますよ。
貴女は他人の書いた文章を3行以上、読解できないことも。
ですからあくまでもこれは増田のチラシの裏代わりでございます。
4歳いや失礼、14歳またまた失礼、24歳のお誕生日、ともあれおめでとうございます。
貴女が一刻も早く、年齢相応の言動がおできになれる日が来ることを、心からお待ち申し上げておるところでございます。
それから、ここからは私信となりますが。
今回、タイニーカフェさんのはてな復活について、こっそりとご自分のブログにて応援を表明されていた方がいらっしゃいますね。
彼女の主張、行動がどのようなものであるかをよく把握していらっしゃらなかったようで、だから貴方は観察が足りないって指摘されるんですよ。
昔から言われているじゃありませんか。
http://peer2peer.blog79.fc2.com/blog-entry-875.html
そもそも問題はそこじゃないのだろうか?昔のニコニコ動画で実現されたとおり、アニメをアーカイブ化し無料で見せることですることでひとを集め、その広告費を稼ぐというモデルが成立するのだろうか?それが成立していたのなら、製作者側の怠慢といえる。製作者はバンダイチャンネルなどで課金して収益をあげようとしているのに、ニコニコ動画がそれを無料にすることによってきちんと利益をあげることができたのだから。しかし過去のニコニコ動画で実現されたモデルはきちんと成立したのだろうか。多分成立しないのではないのかと思う。アーカイブ化は収益率が悪化しやすいからだ。コンテンツというのは新しさが重要であるため、過去のコンテンツを全てアーカイブ化するのはすこぶる効率が悪い。コンテンツは新しいものが見られる傾向にある。ニコニコ動画でもランキングに入るのはその日や前日に投稿されたものが多い。一部の例外はあるものの、新しいコンテンツが見られる傾向にあるし、同じコンテンツで見ても投稿日にアクセスを稼ぐことが多い。だから古いコンテンツをお金をかけてアクセス可能な状態にしておくのは非効率なのである。ほとんどアクセスされず広告費が稼げないコンテンツなのに、維持費をかけるのは無駄だ。こうした無駄は技術的革新がないかぎり、長期的に大きくなっていき収益を圧迫する。例えば月にn個のコンテンツが投稿され、投稿された月にしか見られないとしよう。はじめの月にアクセスのあるコンテンツの割合は100%である。しかし次の月には50%、そしてその次の月には33%のコンテンツにしかアクセスがなくなる。一年後に収益に寄与するアクセスのあるコンテンツの割合は8%にまで減少する。これはニコニコ動画に限らず、図書館などでも同じだ。だから図書館は非営利目的の公立のものか私立大学の付属のものしかない。後者でもそれ自体で収益をあげるモデルで営まれていない。コンテンツのアーカイブ化は構造的に非効率なのであり、ビジネス向きではないのだ。多分技術革新か新しい収益元がないかぎり、そのうちYouTubeもニコニコ動画も廃業するか、過去のコンテンツの切り捨てをはかるだろう。特にニコニコ動画は成長が著しい反面、「死」を迎えたコンテンツの拡大も早く収益悪化につながるので新しい収益元を見つけなければ、そうなる可能性は高い。こうしたことはありえないと思うかもしれないが、実際にブログの最大手のFC2ではきちんとこうしたことを考慮しているふしがある。FC2ブログの利用規約には次のような一文がある。
FC2ブログの基準として以下の定義のブログ上で広告が挿入されます。
【非アクティブ状態】
一ヶ月以上にわたり新規投稿がされない場合、所定の広告が挿入されます。
http://blog.fc2.com/kiyaku.htmlまた無料のホームページの利用規約にも
7. 三ヶ月以上の更新が見られないサイト
三ヶ月以上の更新が見られないサイト、または登録から三ヶ月以上更新が見られないユーザーは削除する場合がございます。
http://web.fc2.com/kiyaku.html古くなってアクセスがなくなったと考えられるコンテンツを一定の基準で判断し、それに対して新しく収益をあげられるようにするか削除しているのである。これを私と同じ考えでやっているとは限らないが、最大手であり大きな容量を提供するFC2だからこそコンテンツの「死」に対して対抗しているのだと勝手に思っている。それぐらいコンテンツのアーカイブ化は非効率的なのだ。だからアニメをアーカイブ化し、それによってひとを集め広告費で稼ぐというモデルは成立しないと考えられる。多分技術革新がないかぎりできるのは今のガンダムのように一週間という期間を区切ってネットで配信するというビジネスモデルだろう。
ただいまのニコニコ動画にはアニメは関係ないということだけは付け加えておく。確かに昔のニコニコ動画はひどかった。ガンダムやエヴァンゲリオンなどの有名なアニメがアップロードされていたし、新作のアニメもすぐにアップロードされていた。しかしいまは違う。いまではきちんと削除されているし、新作もすぐに削除される傾向にある。実際に
この作品において独特の形態で提出された「きみとぼく―世界」の短絡性、中間的媒介たる社会や国家といった共同体の方法的後景化という手法は、本作品から数年後(2004年以降)に「セカイ系」のジャンル名で包括され、さまざまな作品群を先駆するものとなった。「セカイ系」は別名「ポストエヴァンゲリオン症候群」と呼ばれ、事実上、エヴァ現象(第3次アニメ大ブーム)以降発生したものではあるのだが、これが「エヴァ系」という、閉じた非生産的な桎梏を抜け、今日的で生産的な、つまりより開けた「セカイ系」という一固有ジャンルを獲得するにいたる過程には『最終兵器彼女』(以下、『最彼』)が『ブギーポップは笑わない』などと並び、決定的な役割を担ったのであった。
またその衝撃的なエンディングが議論を巻き起こした『まほろまてぃっく』に対しても本作品は非常に強い影響を与えている。
こういうオタクがオタク文化の中で比較して格調高く書き記して満足しているところに非常に虫酸が走る。
作品及びクリエイターを悪くいうつもりはまったくないが。
その衝撃的なエンディングなんてしらんわwwww
エヴァとしか対比できないのかwwwww
ポストエヴァンゲリオン症候群なんてのもオタク文化の中でしか言われてないだろwwwww
と思うのは俺だけではあるまい。
夕食を食べている時に、アパートで一緒に住んでいるインド系アメリカ人Yは言った。
『同じガイナックス制作でも、フリクリは好きなんだけど、エヴァは嫌いだよ。
1話2話は見たけど、後はすっげーつまんなくて、見るのを辞めちゃった。』
アメリカではシンジ君のような内気な少年タイプの主人公はあまり理解されないと言う。以前ネットで見つけた
"アメリカオタクが選ぶ好きなアニメキャラクターアンケート"みたいなページでシンジ君がボロクソにけなされていたのを
思い出す。Yも優柔不断なシンジ君が嫌いなんだと思った。でも、Yの次の発言は少し予想外だった。
『映画版のエヴァ(古い方)も最悪。でも、唯一、テレビ版の最後の二話は最高だった。』
え、という感じだ。おめでとう、で終わるテレビ版のラストは日本のファンには不評だった。作者自身もテレビ版の最後を上書きするように
映画版を見た。映像美がクライマックスに達するのも、哲学的な主題に一応の結論が出されるのも映画版のエヴァだ。何でテレビ版の
最後は良くて、他は駄目なんだろう。Yは続けた。
『宗教的すぎるんだよ。キリスト教のさわりだけかじったようなストーリーが受けつけないんだ』
あ、と思った。かなりEye-openingな発言だった。
キリスト教的価値観はアメリカという国の根本的なものを形成している。
宗教的自由を求めて移民してきた中産階級達が設立者となった国である。妊娠中絶の問題も
ゲイの婚姻問題もIntelligence Design(笑)も、アメリカの政治のジューシーな部分を占めるのはキリスト教(もちろんプロテスタントが主流)
が関係する政策論議だ。宗教右派からの支援に頼っている政治家だけでなく、民主党左派系の政治家達もキリスト教へのリップサービス無しには
国民多数からの支持を得られない。
そんな国である。キリスト教教育に関しては日本より何歩も先にいっている国である。
そんな国で、旧約聖書だの、リリンだの、キリスト教を土台にしたストーリーのアニメが受けるか否か。
作者はアメリカンアニメギークのポリティカルコンパスのぶれ具合を全く知らないのであるが、
まず、聖書の教えに忠実でないストーリーは保守・右派には受けないであろうことが予想される。
更に、Evangellionという題名がEvangelical(宗教右派とほぼ同意語で使われる)を連想させることから
宗教右派にあまり良い印象を持たない左派(都会のスタバでラテを飲みながらThe New York Timesを読む人たち)
にも支持を受けないに違いない。
キャラの性格云々よりも、宗教的なストーリー故に、エヴァンゲリオンはアメリカで受け入れられにくいのでは無いか、Yと話している
時にそんな仮説が浮かんだ。作者は余り覚えていないが、Yに好評だったテレビ版のラスト二話は、
More philosophical, but less religiousだったと記憶しているが、まぁ、定かではない。
そんなYは今、ファイル共有ソフトでDLしたアニメ版ひぐらし(Free Fan Sub)に夢中だ。園崎魅音と梨花ちゃまがお気に入りだそうだ。
グローバル化の波を感じずにはいられない。
10年ぶりにエヴァンゲリオンを見た。なんてことだ。ミサトに感情移入することが多かった。特に、シンジ君との食卓の場面なんて、痛々しくておもわず左手で顔を覆ってしまった。
これが10年という時間か。もう28歳だもんな。10年前はシンジ君に感情移入して、一緒に世界に対して混乱していたけど、今はそんなことない。ゲンドウひどい!鬼!シンジ君は悪くないよ!大人がしっかりフォローしろよ!と思ってみていた。途中、なぜか何度も涙が滲んできた。シンジ君を抱きしめてあげたい。俺は男だけどそう思った。
ヤシマ作戦の戦いは、以前のTV版よりもシンジ君がヒーローとして成長しそうな熱いものに仕上がっていて、希望を与えてくれる。ほとんどの登場人物が精神を病んでいるとしか思えないディスコミュニケーションな物語の10年越しのリメイクで、今後、俺はどのような感動をしていくのだろうか。ミサトさん、シンジくん、アスカ、レイ、その他のみんなは、物語が終わる頃には少しでも幸せになれているのだろうか。そんな結末は10年前にたぶんみんなが望みながら、そんなのはエヴァらしくないとも分かっていて、そのようなアンビバレントな感情は今、俺の中ではそれでも幸せな結末を望む方向に大きく振れている。
セリフにセリフが被る演出ってほとんど見たことがいないんだけど
何でやらないの?やれないの?伝統?
エヴァンゲリオンの発令所のシーンで、ゲンドウのセリフの後ろでオペレーターの声が聞こえる、みたいに全く関係ないセリフがバックに流ることは少なくありませんが、確かに、相手を遮るような形でセリフを重ねて言い合いをするような演出は、あまり見られません。
これは、海外ドラマなどではよくある演出なのですが、日本人の国民性なのかなんなのか、どうも台本にしてしまうと相手の発言が終わるのを、行儀よくまっているようなやり取りが多い気がします。
最近の作品では、海外ドラマの演出を意識して作られているGONZOの『RED GARDEN』で、4人のヒロインが好き勝手に喋ったり、言い争ったりとセリフが交錯する演習が取り入れられていました。絵にセリフをあわせるアフレコではなく、セリフを先に収録するプレスコという方式で制作されたこのアニメは、ヒット作とはいえませんが、演出の可能性を提示した隠れた意欲作といえるでしょう。
続編となるOVA『デッドガールズ』もでているので、興味がある方はぜひ。
こんな事はわざわざ言うまでもなく全員分かっている事だろうが、どうも暗黙の了解が故に
「本当に理解らない」人間がいるようで。一応言っておかなくてはならないようだ。
一つの場に集まり、みんなで見る事で楽しくなるのは「らき☆すた」に限った事ではなく、
すべてのアニメに言える事である。いや、アニメに限った事ですらないのである。
例えば映画。
誰かと一緒に映画館で映画を見た帰りに喫茶店で会話に花を咲かせる、なんていう
どこでも誰でも当たり前に行われている光景は、まさにその「場」としては最小の物であろう。
それが「らき☆すた」の場合はたまたま極々最近隆盛したニコニコ動画がその「場」として作用しているが、
ニコニコ動画以前にも、何年も前から2ちゃんねるでアニメについて語り合う楽しさを誰もが体験しているはずである。
どんなアニメも、ネットを介して意識を共有する事は楽しい事なのである。
歴史をたどれば12年前の「エヴァンゲリオン」の時ですらパソコン通信という場が作用していたのである。
だから「らき☆すた」を肯定する時に「みんなで見てるから面白いだけ」と言うのは正しくないのである。
どうもこの論調を持ち出す人は、「らき☆すた」が評価されている事を苦々しく思っているものの、
この論調を立てることで“仕方なく”肯定しているように見える。
いわば免罪符にされている感がある。……そこまでして何が彼らを「らき☆すた」に駆り立てるのだろうか?
一人でアニメを見て、そのアニメについて誰とも会話する事なく、一人で消化し、満足する。
そんなやり方でないと作品を肯定できないのなら、これほど寂しくて、惨めな事はないだろう。
このエントリーを起点にしたやりとりが面白くて「らき☆すた」というテレビアニメ作品に興味を持った。正にしろ負にしろ見た者に大きな影響を与える作品みたいだ。早速ニコニコ動画で視聴してみた。
私は映画や漫画は人並み以上に愛好し、アニメも以前はよく見ていたが(90年代後半の頃のこと)、今は時間的束縛が大きいテレビアニメというジャンルはあまり見ない。話題になったアニメ映画をぽつぽつと見るくらいで、嵌まったと言えるテレビアニメ作品は「ビーストウォーズ」くらいだ。なので、私にはオタク的教養が欠けている。さらに私は二次元にフェティシズムを感じない。エヴァンゲリオンを友人が熱心に勧めるので、一応最後まで視聴したが、ロボットのアクションと最終二話の実験的手法を面白いと感じたくらいで、キャラクターに熱を入れる人たちの心理はあまり理解できなかった。したがって、これから記述する文章は真の愛好者にとっては的外れなものかもしれないし、既に語り尽くされた内容かもしれない。
まず「らき☆すた」が特殊なアニメなのは間違いないだろう。あるあるネタとパロディの羅列に「内容が薄い」「創造性が無い」と厳しい指摘をすることはできる。だが、らき☆すたの面白いところはまさにそこで、キャラクターたちが取り留めの無い会話を繰り広げるところだ。作品内で登場人物たちが、言ってしまえばどうでもいい話題で無駄話をするというのは今までにもあった。クエンティン・タランティーノのレザボアドッグス冒頭がその代表に当たるし、日本だと石井克人や宮藤官九郎が似たようなことをしている。だが、それは作品内の一シーンに使われるのみで、らき☆すたのようにそれだけで構成されているというのは珍しいだろう(石井克人の「ハル&ボンス」がそれに近いが、この作品は話の主が犬と餅という極めて非現実的な設定だし、二者の掛け合いはコントに近い。らき☆すたの会話にコント的要素は少ない)。しかも、らき☆すたは話題が日常のあるあるネタや、現実にあるアニメネタ、オタクネタであることで、視聴者とアニメキャラクターたちの間で話題の共有化がされ、あたかもアニメキャラクターたちと自分が同じ場所に存在しているかのような感覚を呼ぶ。これがニコニコ動画での視聴になると面白さは倍増し、アニメキャラクターたちとの雑談に擬似的に参加しているかのような気分になれる。それが、この作品の魅力だと言って間違いないだろう。
らき☆すたはアニメとは言えないのかもしれない。このアニメが視聴者に提供するのは心躍るストーリーではない。らき☆すたが提供しているのは「楽しい空間」だ。カラオケ、ボーリング、ゲームセンターなど外に出れば楽しい空間を提供するサービスはいくらでもあるが、私はテレビでこれをやっているのを見たことない。らき☆すたは世界初の「空間」を提供するアニメである。それゆえ、斬新であり、特殊であり、傑作なんだ。話題になるのも無理はない。こんなアニメは誰も見たことがないのだから。
「らき☆すた」って一話だけ見たけど何が面白いのか分からなかった。
「ガンダム」や「エヴァンゲリオン」、「涼宮ハルヒ」とか「ローゼンメイデン」なんかを毛嫌いしていた私だけど、実際見てみると作品としてとても印象深く、根強いファンが付いている事実に心から納得したものだけれども。
そういえば私は音楽において「X JAPAN」とか「LUNA SEA」を毛嫌いしていたけれど、ライブDVDを友人から借りて見てみると、その音楽性やパフォーマンスに心底驚嘆し、当該バンドに根強い信者が付いている事実に心から納得したものだけれども、最近の「ガゼット」とか「アリス」とかいういわゆるV系バンドを”最強”とか言っている連中にはなんの共感も生まれなかった。
秀作にはやはり秀作に相応しい納得感があるものだと思う。しかし「らき☆すた」にはそれがない。「らき☆すた」はガゼットやアリスと同じくらい空っぽである。カッコだけのスカスカ大根なのだ。
スカスカなものに対してヲタはなぜあそこまで情熱的になれるのだろう。おそらくそれは教養がないからである。教養とはまず過去を知ることから始まる。過去を知らないのだ。「綿矢リサ」すげー、サイコー、とか言ってる自称文学ファンに「ドストエフスキー」を読ませると必ず閉口する。「らき☆すた」ヲタにも同じ臭いを感じる。
そりゃ説諭したくもなりますって。
レベル0の人は、サザエさんやドラえもんなどの国民的アニメしか見たことがありません。オタクが見るようなアニメに関しては存在すら認識していません。世の中のほとんどの人は、このレベルです。
レベル1の人は、子供との付き合いでアニメを見ます。休日の朝や夕方のアニメについてはそれなりの知識がありますが、子供と一緒に寝るため、深夜アニメには縁がありません。
レベル2の人は、レベル1の人たちと同じようなアニメを見ています。ただし、子供のためにではなく自発的に見ています。キャラクターの名前もよく覚えています。このレベルにある人は1年で別人のようにヤバい人になっている可能性があります。
レベル3の人は、深夜アニメや独立U局に手を出し、いわゆる萌えアニメなども多く見ています。ネット等でオタ仲間と交流し、より多くの知識を吸収していきます。実況板に入り浸っている人たちは、主にこのレベルです。
レベル4の人は、声優陣や製作スタッフなど、アニメ作品の周辺知識に詳しくなります。オマージュやリスペクトなどを分析して評論家気取りの文章をネット上で公開したり、作画監督による絵のクセを分類したり、アニメを楽しむというよりは分析の対象にしている人たちです。
レベル5の人は、アニメが好きなあまり業界に飛び込んでしまった人たちです。このレベルにある人は、過酷な業界の現実を目の当たりにし、アニメに対し複雑な感情を抱くようになります。ちょっと気を抜くと、あれほど必死に集めたグッズを焼き捨てて田舎に帰ってしまうかもしれません。
レベル6の人は、アニメ業界で上層にいる人たちです。レベル5で猛烈な下積みを行い、チャンスと才能に恵まれた人だけがこのレベルに到達できます。このレベルにある人は、作品の内容の一部、あるいは全てを決定する権限を持っています。このレベルの人たちは、アニメが好きなのか嫌いなのかよくわからない発言をすることがしばしばありますが、心の底ではアニメを誰よりも愛している人たちです。