はてなキーワード: 感情移入とは
コミュニケーションの基本は「相手の立場になって考える」ことが大切、共感することが大切ってよく言うけど、そんなことって男に本当にできるの?
自分は毎日帰宅後、晩御飯を食べながら、妻とその日一日の出来事、娘2歳の事、時には政治のことなど1時間ほどおしゃべりします。
ほぼしゃべっているのは妻。自分はいつも聞きながらどんなリアクションをすれば彼女が喜ぶのかと考える。
・女性は問題を解決してほしいのではなく、話を聞いて共感をしてほしいのだとは、はてなでなくともよく聞く話。
・「へぇ」「そうなんだ」「すごいね」これだけで2時間大丈夫と石田純一も(たしか)言っていた
妻が語る「今日、こんなことがあって、そんなとき(娘)がこんなことを言ったのよー」
我思う(別にその状況は面白いとは思わないが、きっと彼女はそのときおもしろく感じたのだろう、ここは共感するところだな)
我答える「へぇーそれはおもしろいね。(どうだっ共感したぞ?)」
妻、不機嫌になり「反応うすい、どうしてそんな応え方しかできないの?私としゃべるのつまらないの?」
我うろたえる(おかしい、声のはりが足りなかったか?それとも口角が上がってなかった?)
我応える「え、そんなことないよ、もっと聞かせてよ、それでどうしたの?」
妻、気を取り直し「それでね、こうして、こうやったのよー」(と、娘のモノマネをする)
そこで、その妻が娘のモノマネをする様子が滑稽だったので、自分は思わず「ぷっ」と笑ってしまった。すると彼女も「でしょー?おもしろいよね」と満足げな顔をする。
彼女は、自分が「相手の立場になって考えて」頭でひねり出した反応では満足しない、
おもしろいなら、心から笑い、
かなしいなら、ともに涙を流し
苦しいなら、自分も苦しみを感じ
なければ、それを感知し、共感として認めず「あなたは本当にコミュニケーション能力がないのね」ということになってしまう。
でもね、例で自分が「ぷっ」と笑ってしまったのは、そのときの彼女の気持ちに感情移入して笑ったのではなく、モノマネをしているその姿が面白かったからなんです。
男で、本当に相手に共感して、一緒に感動したり、悲しんだり、映画やドラマを見て泣いてしまうなんて人は本当にいるのですか?
みんな本当は共感してないけど、コミュニケーションのテクニックとして「共感したフリ」をしているだけだよね?そうだよね?
だれか、俺もそうだと言ってくれ、
それとも自分は何か脳に欠陥があるのか?
http://anond.hatelabo.jp/20090222003132
「星のカービィ」失敗への軌跡(改変編)
放送前
・漫画版ではしゃべっていたのに、カービィが喋らないことが発覚しブーイング。
・キャラクター設定を含めた大部分をアニメオリジナルの設定で仕上あげされ大ブーイング。
放送開始
・大事な「カービィが魔獣とのバトルを通じて星の戦士として成長していく」という物語を端折りまくった展開。
以後にわたって感情移入を阻害される。
・子供には分からない謎のパロディが続発。「オタアニメ!星のフームたん」では土曜朝7:30放送なのに
大人のおともだちが見た結果、視聴率7.8%という異常事態が発生。
・バトル展開は序盤と、終盤の5話で終わらせる急逝。詰め込みによる演出の空回り。
・「デデデ大王が禁書し、本を焼き払う」「森を切り倒し、燃やす」「カービィがコンビニを荒らす」
「カービィが人を襲い、カセットコンロを他のキャラに投げつける」その違和感にブーイング。
終了後
・第1話から第39話、第49話(特別盤)までしかDVDが発売されず、以降は発売される見込みが全く無い
(全100話)。エイベックスが「売り上げ不信」という形で発売を中止したからだ。
さらに、製作総指揮・カービィの産みの親である桜井政博がHAL研究所を退社したことで事で第二期への展開が不可能になり、
視聴者に「より原作をを手に取らせる求心力の低下」というメディアミックス物としての失敗が明確になった。。
何より一番の失敗は、「一見失敗していないように見えてしまっていること」
VHSでは全話出ているらしいんですが・・・続きだしてくださいよエイベックスさん。「とらドラ」は全話DVD化されるからいいよね!
http://anond.hatelabo.jp/20090221185555
それは、だれにでもできることじゃない。 実行力、忍耐、計画性、マネージメントなどの組み合わせの賜物。 自信を持っていい。
ただ、モテることに必要なのはそれではない。
クラスの人気スターは、誰にでも「すごい」と認められはするけど、「認める」のと「好きになる」/「感情移入できる」のは違う。
ヒエラルキーが自分より上だと、劣等感を拭いきれなくて取っ付きにくくなることが多い。
相手と同じ目線・・・つまり、相手は自分と同じくらい価値があるとうメッセージを込めて、付き合ってみるといいとおもう。
価値があると認められたいのなら、まずこちらが相手に価値を与えないと行けない。
それが難しいなら、雰囲気だけでもとっつきやすくしておくのはどうだろう。 とくに何もやったりいわない。 だけど会釈は良くするし、でしゃばりもしないし、足を引っぱりもしない。
たぶんいい噂は流れる。 何をみてもねたむ連中はねたむけどほっとけばいい。 だれだってそういう人は話を聞くだけで相手にしない。
そして、絡む機会がきたら、控えめに少しずつこちらの手の内を明かしていく。 もちろん、相手の親近感を勝ち取ることを目的として。
だから、「ほら、すごい?」というものより、「こんなんなっちゃった><」的な「スキ」を見せながら。 それで親近感を価値とってから「ほら、すごいでしょ!」とたまにやってみるといい。
他己ウケってはてなブックマークで検索してみると、電通がつくった資料が出てくると思う。 基本的に年齢層は違えど、増田には価値がある資料だとおもう。
実際に嘆いてるだけじゃなくて、何か価値がある(少なくとも俺と増田的には)ことをやっただけですごいと思う。 後少しだ。 一流の機材はそろえたんだから、あとは慣すだけだよ。
「人に好まれる」ってのは二種類ある。いや、二段階ある。
ある人への好感度は、「どれだけキライか」による減点と、「どれだけスキか」による加点の二段階で決められる。
「どれだけキライか」というのは、「生理的にキモチワルイ」とか「振る舞いが気に入らない」とか。「距離を置きたい」と思われるポイントが高いほど = 上げ足を取られればとられるほど、好感度は下がる。 これは、ある種の自己防衛。 第一関門。 ここで肝心なのは、墓穴を掘らないこと。これに限る。 増田が書いたことは全部これだ。 生活習慣とか。 立ち居振る舞いや見てくれの全体的な水準とか。ここで自分をレベルアップするには、こういうクセや臭みを無くすことだ。 相手にイヤだと思われる口実を無くせばいい。ちなみに、意識してクセを直すことは簡単だ。すぐにできる。 大切なのは、意識しなくてもそうなるように自分を鍛えること。 クセがない状態でいる方がラクだと思えるようになればいい。
わかりにくいけど、歩き方、姿勢、声の出し方も減点対象。無論爪垢も。 エチケットとかマナーでくくられるものはすべてここだ。持ち物や服装もここだ。消費パターンも変えないといけない。 とにかく、違和感を感じるところがすべて対象。基準はもちろんちょいオサレな一般人。 もちろんメンヘラは対象外。
徹底的にクレンジングしよう。
期間は人によるけど、1年くらいを目安にすればいいかもしれない。 もっと長いかもしれないけど、習慣を書き換えるのは時間がかかることだ。
ある程度やってると、嫌われる要素がほとんどなくなってくる。 つまり、減点は0に収束していって、そのうち気にしなくても良くなってくる。というか効率が悪い。それでも、もしかしたらまだモテないかもしれない。それには理由がある。
ポイントが引かれることはなくなったけど、同時に足されもしないから。 好感度がずっと同じだから。だから、今度は相手に気に入られるためのスキルを身につける必要がある。しゃべりが面白い。自分と共感が持てる。小難しくないけど博識だ。明るくて朗らかだ。なんだか自信を与えてくれる。自分のことを大切にしてくれる。 けなげながんばりやさんだ。ネタがいちいち面白い。などなど。とにかく、相手が自分と付き合って、心地よく感じればいい。 点を取りに行けばいい。あなたじゃないといけない理由、みたいなもの。
これも背景に大きく依存する。 家庭での会話が活発で、かつ洗練されたものであるなら、その経験をそのまま家の外に持ち出せば「トークが上手い」というポイントを得る。親や環境によって健全な自尊心がはぐくまれているなら、あなたはその自尊心をほかの人に分けてあげることができる。「なんだか安心できる」の称号を得る。
いろいろ方法論を書いたけど、これは一般人同士のやりとりをよく観察していれば自然とわかってくる。 少しずつ。 仮説を立ててはそれを修正、の繰り返しで、自分なりのものさしを持てるようになる。
増田は「死にたい」と書いたけど、そこまでプレッシャーを感じながらステップ2が遂行できるかちょっと怪しいと思う。 ステップ2には心のゆとりが必要不可欠だ。 相手に気に入られたければ、まず自分が相手を気に入らないといけない。 ただ性欲に駆り立てられてるだけ、非モテのレッテルをはがしたいだけとかの理由じゃ、絶対思ったより早く限界が来る。 というより、フラストレーションを制御しきれなくなる。
ステップ1を実行することで自信をつけてくれればと思う。 いちばん簡単なのは、自分がクリアしたことができていない人をちょっぴりバカにすることだ。 でも、人をバカにしてエネルギーを得るのは基本的に幼稚なことだから、あくまで緊急措置として。 幼稚な精神はステップ2の大きな弊害になるよ。
あと、気をつけないといけないことは、ステップ1とステップ2は正反対の作業であるということだ。 いや、作業ではないけれど。
ステップ1は、「削る」ことに主眼を置いた。 常に神経を張り詰めた状態ともいえるし、何をするにもまず短所が目につくようになる。ある意味自分につらく当たることだ。 (自分の短所も同様に挙げられるようになっていなければあなたはナルシストもしくはメンヘラもしくは天才。)でも、ステップ2ではそれらを「あたりまえのこと」として、気にも留めないことが求められる。「なにか楽しいことないかなあ??」なんて朗らかで明るい自由な心を持つことが求められる。 ステップ2では「加える」んだ。周りに優しくすることだ。周りの人のよすがとなる。感情移入してもらう。(あくまで自発的に。) 基本的に、これらのことは生身の人間に本気で関心を持っていないととてもできないことだ。
だから、もし自分が人間嫌いだってわかったら、それを直すサブルーチンが必要になる。
たぶん2では不安になると思う。「削ること」はきりがないけど、どこかで妥協しなくちゃいけない。 初対面の場の周りの反応を見て、しばらくつきあってもあまりひかれるようなことがなければ機は熟しているサイン。
まあ、こんな感じで、人と付き合えるようになっていく。ステップ1、ステップ2とわけて書いたけど、もちろん同時にやってもいい。 でも人は生理的な拒否感に一番素直に従うから、先に1を終わらせるようにした方がいい。完全に分けた方が効率がいいと思うけど、人による。
・人は好意を向けられると好意を返したくなるもの。(ただしあまり急激すぎると感受しきってもらえない)
・人は嫌う理由がない人は嫌わない。
・人は毎日顔をあわせてる人はなんとなく好きになる。(ウザがられたら減点。)
・人は久しぶりにしか会わない人も、それなりに好きになる。(忘れられたら意味なし。)
・人は少しづつ好感度を上げていくと、最初から好感度が上がっていたように感じる。
・人は1度目教えを乞われるとすこしいい気分になる。2度目教えを乞われるとちょっと面倒になる。3度目教えを乞われるとウザがる。(時間調節でチート可能)
・人はうれしいことは少しづつ、いやなことは一度にやってもらったほうが、好感度がいい。
・どうしても克服できないことは、前向きに開き直ることで、同じ境遇の人から親近感をもってもらえる。
・なかなか気付きにくい無意識は、実は人を呪っていたりも、溺愛していたりもする。育てられた環境による。
まあこういうことを気にとめておけば、試行錯誤の役に立つだろう。
それじゃ、がんばってね。
http://anond.hatelabo.jp/20090121011339
この増田の言うように、
中高生とか若年層でヤオイにはまってる腐女子はそんな気がする。
年齢が20代中盤以降の腐女子は、エロ世界そのものを覗く為というより
カップリングを通じて擬似レンアイを楽しむって感じだと思う。レンアイの消費。
(形は違えど皆何かしらやってると思う。ドラマ・小説・ギャルゲー・映画 etc)
漠然とある「女」という生き物に、現実の自分が叩きのめされる。これは言い過ぎだけど。
(勿論ちゃんと「用意された物語」にウットリできる女性もいるんだが)
ええっと何が言いたいかというと
ヤオイの世界は、女にとって、自分の性を引きずらないで良い世界ってことです。
消費される側の性/受け入れる側の性/に生まれなかった人には分からんかもしれない。
町をあるけばグラビア女性の写真がバンバン出て、「女」が商品化されてるこの世界で
選択の余地もなく女に生れ落ちたこと、いずれ「女」になること、
これに対して疑問や苦痛や違和感、ある時期にある種の喪失感を感じたことがない人には
なかなか分からん世界だろうと思うんだが。
言っとくが全ての腐女子についてじゃないよ。
何かの機会がない限り皆が皆はまるものじゃないからな。
http://anond.hatelabo.jp/20090120000623
なんでこんなに気持ち悪がっているのかわかりませんが、
自分も腐女子とか何だよ意味わからんちんと思ってた時期がありました。
スーパー菊門ゾーンにヘブンズドライブするの読んで何が楽しいのよ。と。
んで、もう4,5年前なんですが、完全な腐女子では無いけどヤオイ的なものが
「俺の金剛スティックをインディア!!インディア!!しないかい?」と。
それは完全に無視されたんですが、本当に聞いたのは
「男と男がセブンスヘブンしてるの読むってどういう心境!?」と。
そしたら自分としては腑に落ちる回答をもらったのでした。
彼女が言うには女の子としては恥ずかしいけど、正直エロな事には興味がある。
それならエロ動画、エロ漫画とか見ればいいでしょとか思うかもしれないんだけど、
それはちょっと怖いんだとの事。出てる女性が自分に置き換えられるので、
なんだか直感的にいうか生理的に受け付けられないらしいんです。
ヤオイであれば男だらけなので自分が過度に感情移入せずに、ちょっと興味のある
エロの世界をのぞくことができるんだ。というのが彼女の主張でした。
偏見みたいなものが一気になくなったのでした。
他の魅力もたくさんあるんだろうとは思いますが、まぁなんでもいいや!
ただなんか今、テレビに中野腐女子シスターズが出てて微妙に腹立ったので駄目!
http://anond.hatelabo.jp/20090110181359
こ、これは、とても重要なことが書かれている気がする。「その人の生命を体内に受け入れることができない」は名言。これはある。すごくある。
わたしの場合、30年以上生きてきて、セックスしたい人は1人しかいなかった。ちなみに、出来なかった。したい相手とはそんなものなのかもしれない。
絶対無理な人というのもいる。そういう人は5パーセントくらい。ただ、後述するように、なんらかのきっかけで性愛対象として意識したときにしか分からないので、実際はもっと多いのかもしれない。
そして、その他9割以上の男性は可能な人だ。きっかけがあれば可能だけど、きっかけが無かっただけ。こういうのもビッチと呼ばれるのだろうか。わたしの場合は、この9割の中にはあまり差がない。イケメンだろうが高収入だろうが、(わたしに)親切だろうが不親切だろうが、あまり関係ない。ただ、そういう機会があるかないかだけ。受け身の性だからこんなもの。
そして、絶対無理な人。
もう絶対無理、無理無理無理無理カタツムリ級に無理。
この男とするくらいなら舌噛み切って死ぬ!って勢いで無理。
そして、そういう人が近くにいると、なんというか、他の人に対しては全くそんなこと思わないのに、その人の場合だけ性的なイメージでいっぱいになることがある。その人と接しないといけない期間中は寝付きが悪く、その男の子供を孕む悪夢みたいなイメージで汗びっしょりで目覚めることすらある。近くにいる間は一瞬も気が休まらず、神経がピリピリしている。本能が全身で警告を発してる感じ。
心配性な男性のために言っておくと、ここまで嫌な反応が出るのは、なんらかの性愛を予想させるアクションをした人に対してだけで、ただの仕事仲間とかの間は全然思わない。
さらに心配性な男性のために言っとくと、そうなったら相手本人に対しては嫌ってることは隠しませんが(社交辞令で期待させて実力行使に出られたら嫌だから)、必要な会話はするし、女性同士でキモいと言い合ったりもしないし、感情の激しさの割に表面的には穏やかです。
そしてここからが不思議なのだが、無理な理由は全く説明不能。どんだけイケメンだろうが評判が良かろうが駄目な人は駄目だし、逆もある。理由を強いて言語化すれば「不健康そうに見える」ことだと思うのだが、自分から見て絶対無理でも他の女性が受け入れた(それも渋々ではなく積極的に)例も見ているので、自分にだけ不健康そうに「見える」のではないかと思う。全く本能としか言いようがない。このことを自覚するとき、自分は子宮で生きていると思う。この言い回しは女性には評判が悪いようだが、一面の真理があると思う。これだけ強く本能にドライブされてコントロールが全く効かない、「無理なものは無理」から一歩も動かせないのは、この件だけだからだ。
なお、絶対無理と思ってしまった相手については、その後の言動から、やっぱり駄目な人だったと思うことが多いのだが、その意味で自分の勘は正しかったと確信するケースばかりなのだが、しかし、嫌いという感情が先にあってその理由を無意識に探しているのかもしれず、慎重に受け止めるように心がけている。本能に基づいた個人的な感情を社会的な場面に持ち込まないように注意している。
これは本能としか言い様のないもので、本人には変えようが無い。また、自分が絶対駄目だと判定した人でも、他の女性にとっては好ましい相手であることもある。自分にとって駄目だからと言って、その男性が普遍的に駄目なわけではない。ネットなどで男性が特定の相手とセックス出来ないことを嘆いているのを見ると、さらに特定の相手が受け入れてくれないことを普遍的に駄目だと解釈しているのを見ると、理由のないことで拒絶されている男性と、生理的嫌悪感と戦っている女性の両方に(勝手に)感情移入して、胸が苦しくなる。努力では変わらない。さっさと次行け。としか言いようがない。
最近、恋愛の成立を、なんでもかんでも努力や普遍性に帰する風潮があるが、何割かはこのように努力のしようがないものが混在していると思う。それは生物としての相性なのかもしれない。しかし男性にとっては殆どブラックボックスで、理不尽さが募るだけだろう。数をこなせば、このような構造が見えてくるかもしれない。とりあえず理由無く拒絶する側としては心苦しく、たった1件の事例で落ち込んでないで数こなして下さいと思っている。
http://anond.hatelabo.jp/20090110022742
「好き」でなくても、「嫌い」でなかったら、
一緒に生活していけばそのうち情が湧くのでやっていけると思う。
ちょっと上の世代はみんなそうしてたんだし、
ただ、この話、
積極的に嫌いにカテゴライズされるような相手だったんだろうなあ。
そんなところにスペックだけは高い相手との話が来て、
周囲は乗り気で、断るなんてとんでもない、勿体無いモードで、
そんな雰囲気におされて本人もちょっと洗脳されかけてる。
回ってくるような男性だから、
見合いの浅いやり取りだけでも分かる明らかな欠点を抱えた人物で
これまでにも色んな人に断られてきたんだろう。
背景としては、こんなところだろうか。
(こんなこと書くと、見合い相手に値踏みされる男性側に
逆にこの推測が外れてて、特に欠点もないけど、
飛び込んでみるのもありだと思う。
元増田へ
まだ20代なんだから、今回の話を断って次の話を待ちましょう。
親や親戚がうるさければ、自分の収入で紹介サービスに登録しましょう。
今回の相手のスペックに未練があったり、こんな条件の相手を断るのは
身の程知らずなんて余計なことを考えてるかもしれませんが、
今後の生活のためにドライになりましょう。
釣り合わない話には裏がありますよ。
正社員で収入もあるそうなので、無理に条件(収入)のよい人を求めず、
広い範囲の中から気の合う人を探しましょう。
> http://anond.hatelabo.jp/20090106154017
原則
原則として、俺は知性あるものに最大限の尊厳(人権と同程度)を認めたい。ここで「知性」の基準は、言語的な(あるいはそれと互換性のある)意思疎通が可能であるかどうか。多少なりとも論理的な対話ができること、と言い換えてもいい。
(俺が捕鯨に反対しないのは、鯨に知性があるといっても言語的な意思疎通ができるほどではないからだし、喋る豚(ジブリ映画にいたな)がいたら多分俺はその豚を食べない)
胎児はこの意味で「知性」をもたないから、俺は人権を認める必要を感じない。堕胎が「人権」の侵害だとは思ってない。
ただ、胎児は遠くない未来に「知性を獲得すると見込まれるもの」ではある。未来に人権を獲得するもの、という意味で、なんらかの尊厳が認められるべきだと思う。ただしこの「胎児の尊厳」が、例えば「無条件の生存権」を含むかどうかには議論の余地がある。(強姦による妊娠、重い遺伝性疾患、母体の人権の扱いなど)
「妊娠12週」や「胎内外」といった基準に合理的な意味は感じない。「知性」という基準から考えたとき、いずれも「人権」を認めるには値しないと思っている。しかしその胎児・乳児が将来知性(例えば言語)を獲得し始める時期にはばらつきがあるし、どこからが「知性」だと認めるか、あるいはその知性をどう測定・評価するか、確たる方法論は何もないのが今の人類だ。
だから何がしかの基準を一律に適用して、「ある時期からは人権を認めます」というのは妥当な判断だと考える。「妊娠12週」が最適な基準かどうかはわからないが、少なくとも今の人類には十分現実的な一つの基準だと思う。
医学的な定義はともかく、ここで「死」とは、知性の回復が見込めない状態、としよう。
脳死・昏睡した人間は、言語的な意思疎通が一切できないわけで、(観測可能な)知性はない。しかし生体組織としては機能する肉体は持つから、知性の回復が「まったく見込めないわけではない」という点が問題になると考える。結局のところ、評価基準は「どの程度知性の回復が見込めるか」という点に集約されるんじゃないか。
ある程度以下しか回復の見込みのない脳死者に、人権(生存権など)が全面的に認められるべきだとは思わない。
しかしもちろんだからといって、いきなり生ゴミ焼却処分っていうわけにもいかないとは思う。なんらかの尊厳は必要で、それは「脳死者のために」というより、その脳死者に尊厳を認めていた「遺族(?)らのために」認められる尊厳だと考える。
その具体的な内容はともかく、「知性」を対外的に(言語による意思疎通、という外部とのインタラクションの上に)定義した以上、尊厳もまた対外的に、外部とのインタラクションという枠組みを踏まえて考えられるべきだ。感情移入の問題、というか。知性ない胎児に尊厳を認めるべき、という認識もこれに依拠してる。
では生命とはなんだ?
いや横なんだが。
「人でなければ人権は要らない」「生命でなければ尊厳はない」を前提にしているようだが、例えば法律は「人権」とこそ呼ばないが、生命のない「法人」に権利能力を認めて保護している。そもそも「何が生命で何が生命でないか」なんて、未だに確たる定義がないしな。ロボットが自己繁殖能力と知性を備えたとき、それを生命と呼ばれるべきかどうかなんて、SF以外じゃまだ誰も真面目に議論してないぜ。現在の人類の認識だと「生命」じゃないのは確かだが、それじゃそもそも「人権」なんて概念自体、「人には人権がある」という思想自体、数百年前には想像すらされていなかったろうしな。
>あなたの感情移入だよ?
知性持つものにはすべからく尊厳が与えられるべき、と俺には思える。そして今のところ人類に「知性」をはかる手段は、「知性があるように見える」という外部からの推論しかない(cf. チューリングテスト)。
言い換えれば、お前の母親を称しているモノが、仮にヒトを模した知性あるロボットだったとして、それでもお前は「ただの感情移入だよ? 権利なんか与えなくていいよ?」と言えるのかどうか。
それって依存って言わないんじゃ?
強いて言えばただの感情移入。
甘えたい、甘えられたいと言っているようにしか聞こえないよ。
とは言っても、大抵のスポーツなら自分がやるのは楽しい。下手でも下手なりに楽しめる。
楽しみ方が分からないのは観戦のほうだ。
スポーツニュースとかでJリーグの入れ替え戦とかのサポーターの様子を見ると、うわー…、ってなる。
何なの?あれは何であんなに盛り上がってるの?
なんて言うの?究極の機能美?ただ速く走るだけで美しいとかそういうの?
頭で考えると陸上競技とかはそれで納得出来る。
でもこういうのは頭で考えることでもないと思うので、スポーツ観戦が好きな人、誰か僕にスポーツ観戦の楽しさを教えてくだパイ。
となるとやはり僕は物語を求めているのだろうか。
Jリーグの入れ替え戦の件は、チームや選手のバックグラウンドが分からないからとかか。
いやでも、それまで見たことの無い篤姫の、何でも無い回をちらっと見ただけで
泣きそうになってしまったぐらい感情移入しやすいんだけど。
昔、常備敵として女の子なかよしグループ内に置かせてもらっていた。どこのグループでも、ちょっと生き様の違うおとなしめな子を「出来の悪い子」「頭の悪い子」としてグループ内に一人置いて、その人をみんなで毎日ちくちくして親睦を深めるという慣習が広く行われているところだった。
わざわざグループに置かせてもらっていたのは、一人でごはんを食べている人がいるとクラスその他の景観が悪くなるから、という理由だった。自分としては一人でごはん食べる方が断然楽なので、できればそうしたかったけど、実際に一人で食べたりしたら周りの迷惑になっている自覚がないとみなされ、大勢の人につつかれてしまうので、小さめのグループに常駐させてもらっていた。
自分は「努力する才能がない」ってカテゴリでつつかれてた。増田見て思い出した。増田書いて思い引っ込めることにした。
自分が置かせてもらっていたグループの女の子達は、「うさぎとかめ」のかめにやたらめったら感情移入してる人達で、努力する人が最後に勝つのよ、という会話を事ある毎にきゃっきゃしながら言い合ってた。一人勉強ノートが何冊目に突入したという自慢をよくされた。努力して順位が上がったの、これは価値ある順位よ、という話をテスト順位が貼り出される度に聞いた。
自分は勉強というか家庭学習の習慣が一切付いていない、宿題すらできない駄目人間だった。今もそうだけど昔からそうだった。授業中も一切寝る気はないのに毎日夢の中ワンダーランドで、ノートは夢日記帳だった。
テストの出来は学年 200人中の 10位以内くらい、グループの中ではトップになることが多かった。グループの女の子達は、お昼ごはんを食べながら、努力せず取った点数は薄っぺらい、努力してる私達(一名除く)って深いという話を、気持ち程度のオブラートにくるんで、目の前でぽいぽい投げ合ってた。家でペットボトルにバター入りココア詰めて持ってきたら昼にはココアが冷めてバターが固まってた時より気まずかった。わざとテストの点を低くしても常備敵という立場は変わりようがないので、そういうことはせず、ただじっと耐えた。
実際に「努力する才能がない」っていうフレーズを直に言われたことはない。自分の脳内でずっと鎮座してるだけだった。言ったら今日の増田並みに波風立ちまくるのが予測できたから、言わなかった。彼女らの持論は、「才能は(私の中にいないから)敵である、そして、努力は才能ではない」というものだったから、無駄にケンカ売ることにしかならなかった。
普段から彼女らは才能とその顕示を嫌悪して、叩いたり牽制したりしていた。労せずにテストでいい点取るというのも才能のひとつとして認識していたらしいので、自分がその辺の話題に触れることはなかった。触れなくても貼り出されるからあんま意味無いけど。
努力できる能力を才能として認識してしまうと、努力自慢ができなくなるので、「努力は才能ではない」と断定していた。言ってる事とやってる事が裏腹だったけど、誰もそこにつっこむ人はいなかった。つっこまない方が平和だったから。
卒業文集のひとことに、「うさぎとかめ」って真理をついてる、みたいなことを書き合って、グループのみんなはめいめい自分の知らない学校に進学した。自分は毒にも薬にもならないことを書いて、地理的に一番近い国立大に進学した。先生に「ちょっと努力すればもっと良い大学でもいけるよ」って言われたので、じゃあ自分にとってほぼ一択じゃんてことでそこだけ受けて受かった。書くの忘れてたけど今までの話は高校の頃の回想。十年くらい前。
努力の才能があればお昼ごはんのおいしさを最大限発揮できるなあと当時は考えてたけど、それで努力努力言いたがる人、見せ付けたがる人になっちゃったらみっともないなあとも思った。
努力下手な頭の悪い子のまま大きくなって、知性おいてけぼりな自分語り未満を書くような増田になったけど、元々満足値のボーダーがそう高くもない性格なので、毎日幸せに暮らしてる。お昼ごはんのおいしさ 120% 発揮させてる。ココアにバターは入れなくなった。
元増田は(小さい子供のいるシングルマザーだから)平均的な人よりは大変な状況にあると思うし、本人の主観的には頑張ってるんだろうけど、その主観的な大変さというのは文章からよく伝わってくるけど、だからすっかり感情移入してるコメントが多数出てるわけだけど、大変だからって何言っても許されるわけじゃないと思う。
既に指摘が出てるように、自分が言われて嫌なこと(女は楽だ)を他人にそのまま向けていて(男は楽だ、父親は楽だった)、見事なカウンターになっているというのがひとつ。
もうひとつ気になったことは、これ、男の中でも楽してる人と、女の中で大変な人を抜き出して対比させながら語っていて、ネットにありがちな女叩きの逆バージョンになっていることなんだよね。
たぶん本人的にはわざとじゃないんだと思う。世の中には女に厳しい場面も男に厳しい場面も両方存在しているんだけど、自分サイドに厳しい情報ばっかり気にしてて印象に残るというプロセスが蓄積されてこうなったんじゃないかと思う。逆に男に厳しい情報ばっかり気にして見てたら、すぐ似たような文面は作れる。実際その手のエントリよく出回っているし。
しかもこういうマイナス面ばっかを(無意識に)探して記憶に溜めておく人というのは、身近にそういう人がいる人はピンと来るだろうけど、自分が人からよくしてもらったことは当たり前でスルーで、悪いことばっかりいつまでも覚えていてコレクションしてるんだよね。そういう性質に生まれちゃったら本人さぞかし辛かろうと同情するんだけど、やっぱり接してて気分のよいものではないよ。実際の本人を目の前にしてみたらまた別の印象を受けるかもしれないけど、少なくとも、あの文面に表された思考はその手の人そのものだと思った。
シミュレーターというビデオゲームという媒体に課せられた最大の使命に忠実であるあまり、その内部に「物語」を他のどのゲームより性急に孕まなければいけなくなった…それが「RPG」というシステムの不幸な生い立ちではないでしょうか?
もう一度考えてみましょう。
我々はなぜ「RPG」にここまで惹かれるのでしょうか?
小説、映画、コミック、そしてアニメーション…これらの媒体を通して語られるありとあらゆる「物語」は学校、そして家庭…どれほど身近な舞台装置をもってしても、我々にとって既に<遠すぎる>ものです。
しかしこの「RPG」だけが、主人公に自らの姓名を入力することによって、画面上の主人公の言動を意のままに操ることによって、我々に、小説や映画がとうに失ってしまったある種の「一体感」をもたらしてくれるのです。
「東京ラブストーリー」よりも「北斗の拳」よりも、そして村上春樹も小説よりも…「ドラゴンクエスト」に、そして「ファイナルファンタジー」に胸を躍らせた少年時代を過ごした方も多いでしょう。
「しかし」です。
はたしてそれは「ゲーム」にとって幸せなことだったのでしょうか?
無論、ここで言う「ゲーム」とは「ゲーム業界」のことでも、いわゆる「ゲーマー」のみなさんのことでもありません、あくまで「ビデオゲーム」という一つのシステムのことです。
<物語>は諸刃の凶器です。どれほど卓越したシステムを内包していようとも、ゲーム中の<物語>がユーザーに与える快・不快はその印象を残酷なまでに左右してしまいます。
この事実は我々にまたしても不幸な命題を突きつけることでしょう…我々が、そして「あなたがた」が求めているものは果たして「知的刺激」を求めるべき<ゲーム>なのか、それとも感情移入によって現実世界では決して得られないカタルシスを得るために求められる<物語>なのか…?
無論、その双方を同時に満たすのが総合芸術としてのビデオゲームではないか…確かにその通り。しかしこの問いを<物語>の側から照射するとどうなるでしょうか? …純粋に<物語>の器として、「ゲーム」は果たして構造的に耐え得るのか、と…。「誰でも勇者になれてしまう」「誰でも<勇者である><主人公である>と規定されてしまう「RPG」は果たしてそれ自体単独で<作品>たりえる<物語>は語りえるのか…?
我々にとって、そして「あなたがた」にとって「RPG」は最後の砦だったのかもしれません。TVドラマに憧れれば現実の立ち位置に愕然とし、少年漫画に没頭すれば逃避であると罵られる現在、「RPG」は我々に残された唯一の<物語への道>だったのかもしれません。
しかし…いや、「だからこそ」我々はこの「RPG」をめぐる不幸な環境について自覚的であるべきでしょう。残酷なことかもしれませんが<あなた>は主人公ではない。