はてなキーワード: 失望感とは
新しいipodtouchが発売される。値段も安い。
だから3世代を買ってみた。(つっこむな)
twitterはiシリーズのサービスだからi関係のつぶやきが多い多い。
そして、皆が皆そろって絶賛してやがる。
そしてtouchをいやいやながら買ってみたのだが
スマホやiphoneなんて世間では少数派かもしれない。だけれど、twitter上では多数派。
きっと、少数派きどっていたら、多数派になっていましたよとかそんな感じ。
後、そういった皆がいいと言っているものに、自分が染まる事に対する嫌悪。
自分は人と違うものを持ちたかった(iphoneは世間では少数派だけれども)というこれまでこだわりとおしてきた事に対する諦めに似た何か。
ああ、これで、自分もネットの中のカジェッターな人と横一列かとかいう失望感。
結局、最適化されるんだよ。皆がユニクロ着て、ipadとか持つことが、効率いいわけだから。
こういう事に対して自分は気持ち悪いって感じる。
iシリーズが自分になじめない理由は、自分らしさを消して大衆を持ってきているところだ(カスタマイズできるけれど足りない)
何か、人の持ち物を触っているようなそんな感じ。
ガラケーだと機種とキャリアがかぶる事ってあまりないんだけれど、iシリーズは色とかケースでくらいしか差別化できないしiphone,ipodtouch,ipadあたりになってくると、1,2色しかないわけだからなおさらそれは感じる。
661 名前:('A`) 本日のレス 投稿日:2008/01/07(月) 00:28:13 0
何というか、俺のときは就職氷河期ど真ん中でね。
社会に見捨てられて不遇だけ受け続けたっていう実感だけ
強くあってさ、その見返りとして社会にまったく期待してないんだよね。
もちろんマスゴミにも。
数年でその会社ごと整理されてしまったやつ、
インドネシアで起業して津波のニュースのあと行方不明になったやつ、
過労死したやつと自殺したやつ、高校の同級生も大学の友達も何人もいる。
そんな中で醸成された価値観が
いうやつだと思うんだ。それが外に向いた場合は、堀江支持に回るような、
「既存の体制をぶち壊して一矢報いてやれ」という反骨心に回ったり、
社会、知ったことか?ぶっこわれちまえばいい」みたいな
感じになってしまうんだろうし。
いずれにしても上の世代が俺らをこんなにしたという失望感と、
下の世代は苦労しらずでぬくぬくしやがってという嫉妬と、
それらの落としどころの社会への無関心と。
もちろん、そんなヤツばかりじゃないんだけどさ、
持つ人多いだろうし、ただ、そういうレッテル付けへの反発も
また反骨心の表現方法の1つだと思うんだよね。
俺も朝日の記事読んだとき「勝手にロストジェネレーションとか
つけてるんじゃねーよ」って思う気持ちもあるしね。
共産主義信奉だったりの方向に向いたんだろうけど、
その反体制であるはずの連中もまた、
体制以上にひどい連中だと気づいてしまった今では、
そういう反発心みたいなものの表出する場所がなくて、
社会に対する強烈な無視こそが抵抗の手段だというような
表現方法を取っているんじゃないかと思う。
最近ほとんどニコニコ動画を見なくなり、代わりにyoutubeを毎日毎日見るようになった。
最近自分が見た動画を元に、未知のおすすめ動画をトップページの中央に載せてくれる。
さらに、そのおすすめのリストが毎日ちょっとずつ変化するので、「今日はどんな動画がおすすめされてるかな〜」というワクワク感で毎日訪問することになる。
チャンネル購読で海外のニュース(FOXとかAPとか)を登録しておくと、トップページのチャンネルを際限なくクリックしていくだけでニュースをチェックしていける。
メインのナビゲーション手段のカテゴリが使いにくいのはなんとかしてほしい。
「自然」カテゴリに飽きもせずパンツレスリング動画が氾濫しているのは、本来の自然好きな自分に大きな失望感。
もう少しちゃんとしたカテゴリ分けにならないか?
なら、HALTANのブログを一通り読んでみろよ、それしか書いてないから。
評価していた人や言説が、実は、、、と分かってがっかりするというのはよくある話で、そのギャップが大きいほど失望感も大きくなるのは当然だ。そもそも、ホロコースト=トリアージ問題が勃発した初期にも、猿には失望したということをHALTANは書いていたはずだよ、たしか。そもそもは南京事件で知られている猿のことをHALTANもそれなりに評価していたんだよ。
僕からしたら気づくのが遅いということなんだが、猿も「所得の再配分」でごまかすとか、「ポル・ポト」の件では鬼の首を取ったようだとか、やればやるほど馬脚をあらわしてるんだ。全く、バカな話だよ。
幼い頃の虐待によって心に闇を抱える者に接する。
さまざまな人格障害、子供では稀な統合失調症、解離性同一性障害、何時間も手を洗い続けている強迫性障害なる者もみたことがある。
その多くが15歳未満の子供だった。
その中で性教育は重要な課題であった。性的虐待を経験している子供達の多くは、
・二度とまともな性交渉ができない
・あるいは見捨てられたくないという過度の不安から、やりたくもないセックスを、
などがある。要するにまともじゃないわけだ。
普通に育ててもらっていれば、普通と変らぬ大人になったであろう被害者達。
10代の少女が妊娠したとき、関係者はそろって「人工中絶」をすすめた。
その少女は性的虐待により精神を病み10歳の頃から施設で暮らしていた。
13歳の夏、吐き気と貧血を訴え診察を受けた結果、妊娠5週であると診断された。
彼女は泣いた。父親が分からないことを泣いていたのではない。手術が怖いからでもない。
こんなに無知で幼稚で避妊もできない子供が、なんと命の大切さは理解していたらしい。
彼女が泣きながら腹部をさすっている姿を見た。
「手術」を頑なに拒否し、周りの説得も耳に入れず「産む!」の一点張りだったが、現実は彼女の希望通りになるはずはなく、
手術の日を迎えた。
もともと重度の鬱病も発症していた彼女が、より一層失望感に溢れているのは誰が見ても明らかだった。
「もう二度と、私のような子を増やしちゃいけないよね・・・。ごめん・・・・」
なにも言えない私。
「でも、この子はきっと良い子だから、いつか他のお母さんから生まれてくることになるよね?その時この子は、幸せになれるよね?」
もちろん、そう答えるのが精一杯な私。
いつだって犠牲になるのは弱いもの。だからこのように身をもって知る前に、自分で自分を守る術を学ばせないとならないはずだった。
…というのを高校のころから続けているわけだが。
毎年誕生日の前の数日、生まれてきたことが本当に辛くなるようで、
毎年この時期1度は空元気が切れてはスイッチが入ったように朝までぐずっている。
自分にはFランでも大卒の弟1(家業の跡取り)と今国立院生の弟2がいる。
幼いころ仕事の忙しい父とは滅多に遊んでもらえず、母親中心の育児を受けていた。
厳しく、そして本人は三女で下に長男という構成の姉弟関係に生まれた母には長子の気持ちなど理解できない部分が多いようで、
どちらかといえば男男女の一番上の父ならそれなりのシンパシーを感じられるのは父だが
母が嫁いだ時点ですでに病んでいた叔父(後述)の病理を一切説明していなかったらしい等が後ろめたかったのか
聞くべき愚痴すらもまだ小学校の高学年くらいだった娘に父は丸投げしていた。
わたしは母にとって「娘」で有り「弟たちの姉」で有り「家族の愚痴などを話す為の夫」だった。
流石に耐えきれなくなった時、父に「お父さんが聞けばいいことまでわたしが聞いている」と泣いたら
「娘一人なんだから聞いてあげなさい」と返されてわたしは一体何なのか解らなくなった。
母が怖かった。
集団生活が怖かった。
鬱屈していた。
無気力だった。
多分行き遅れて居候し続けていた大叔母や
精神を病んで居て入退院を繰り返し居候していた行動が予測できず恐ろしい叔父に
母は子供らを関わらせたくないと必死だったのは解らなくはないし、
子供らがならないようにしたいと思ってたのも解ってる。
人との関わり方も苦手で「苛められっ子」だったと自称するのは実に馬鹿げていてみじめなものだが
自分という人間をカテゴライズされると「苛められっこ」だったのは否定できない。
苛められたとき、「こなくそ!」と反抗的になるのには幾つかパターンがあって、
わかりやすいのは反抗を反抗で示すパターンでだと思う。
ならわたしの場合はどうだったのかといえば
「苛められるならならば自ら「苛められっこ」になってやる」
といった後ろ向きな反抗をしていた。
反抗することで更にいじめられるよりも、
いじめられっ子というポジションを維持することで何とか自分を保っていた。
他人との関わり合いが凄く苦手で、苛められっこを演じることで
「疎ましがられる者」というポジションを得て、それからどうかしようという余力が無かった。
居場所がないことより「疎ましい存在」という位置づけでも居場所を得たかったんだといまだとそう思う。
今となってはそのころに演じすぎた「苛められっ子」の意識が抜けきれず、
「どれが一体自分なのか」「自分は一体どういう人間だったのか」それがほとんど思い出せないし、どうしたらいいのか解らない。
母には「一番上でしょう」と言われ
父には「お母さんの話を聞いてやれ」と言われ
弟たちには軽蔑され
学校ではただでさえ少ない友達にも話せる内容でもなく
教師にはただただ失望感を覚え
それでも休ませて貰えることはなく
泣くことも一人でしか出来ず
笑うのも叫ぶのも億劫で
親は多分何も期待してないというのはもう何年も前から自覚していて、
おまけに不倫ばかりをし続けた挙句50近くまで居候し続け、結局死ぬまで独身だった大叔母のことや
長女だということもあって追い出しがかかってこのところ結婚しろ結婚しろとうるさい。
結婚はしたい気もする。でも相手はいない。
仮に夫になるかもしれない人が出来たとしても、こんな自分を受け入れてもらう自信がない。
自分に自信がない。
せめて自分の子供(いつできるのか・作るのかどうかは解らないが)が出来たなら一番上の子に
「お兄ちゃんだから」「お姉ちゃんでしょ」というような言葉は言わないようにしたい。
それが元で歪ませたり折らせたりするのが厭だ。
ここまで書いてきてこんな自分よりも大変な人など幾らでも居るだろうに
「自分が可哀想」というのか「自分が辛く感じている」と思うことが厭で仕方ない。
そう思うことすら、優越感の表れなんだろうか。
自分が何をしたくて何ができてどう考えてるのかどうしたいのかどうすればいいのかわからない。
とりあえず発作を鎮める薬は飲んで今はちょっとだけ楽になってはいる。
よくこういうことを言うとさ自分がそこから出る努力しろとか環境を変える努力をしろとか
それ系のことを言われるんだけど、そういう努力する気力すら沸かせる事が出来ないのが一番つらいのに、
そういうことを言う人はいとも簡単にぽっと言ってしまうけど、無責任な言葉だなぁと感じるよ。
だから人と話しているときにそういうことを言わないようにしてる。
人様の悩みや苦しみなんかを聞いて聖人面してどうこういったり
人の言動を断罪するようなそういう資格なんて多分ないのだから
http://anond.hatelabo.jp/20070303100408
エンカウント率が尋常じゃないくらいに高いね。たまにボコられて瀕死状態になったりする。医療代?
全部自己負担です。
経験地がなかなか上がりづらいです。長くやっていれば経験地が上がるわけではありません。
リセットしようと思っても、人生はリセットできません。しようとしても、「何でみんなの迷惑かかるようなことをやるんだ」
「マンションが貸せなくなった・・・」「残された人はどうするんだ」ということを言われます。嫌でも生きなきゃいけないんです。
全てのキャラが深い人間性と歴史を持って登場しますが、それを創ったのは人間です。ゲームを創ったのも人間です。
グラフィックは綺麗です。が、盲目の人はそれが見れないので「風のリグレット」で我慢してもらいましょう。
BGMの種類がほぼ無限で選曲自由、ですがJASRACに怒られたり削除されることもあります。
人間が作ったとは思えない、とんでもなく複雑で洗練されたシナリオ・・・もあるのですが、打ち切り、投げ出し、夢オチ、カオス、
修羅場などもあります。そう甘くないのです。
リアル出産システム採用。自分と、相手の遺伝子を半分ずつ受け継いだキャラを生み出して、その子に自由に色々教えて育てることが
できるのですが・・・親がアレだとどうしようもないですよね。そうなった場合の保証はこちらにもあいません。
ぬこっつー生き物が登場するんだけど、これがちょーかわいいんですよ。ですが、一方で飼い主に捨てられたネコが安楽死という名目で
ガス室に送られ、炭酸ガスによって殺処分されている。それが現実なんです。
食いきれねーほどの種類の料理があるんですが、それが食べられない人たちもいます。買うのにお金必要だし。
説明書?ありません。攻略本?あることはあるんですけど、たまにガセ情報、ニセ科学、ウソ知識、誤字脱字などがありますからね。
未だに明らかになってない謎が山盛り・・・ですが、世の中知らない方がいい謎もあります。謎を追ったがゆえに殺されて
コンクリート詰めにされ東京湾の海底に沈められることもあります。
友達と一緒に協力して遊べるが、友達がいません。
無料?いいや、人によって金はかかるし、金をかけなければ十分な育成が出来ません。
本気で自分を愛してくれるキャラがいたりするように思えるでしょう?「バハラグ」みたいに寝取られたりしますよ、このゲーム。
ゲーム内で別なゲームやったりアニメ見たり出来るが、はまりすぎると廃人になったり、魔法使いになれたり
お金が必要です。違法な手段で獲得しようとすれば、ヤクザより怖い警察と刑務所のお世話になります。
住む場所が必要です。死ぬまで親には頼れませんよね。
登場キャラと本当に心を通わせることが出来ますが、裏切られることもあります。裏切りイベント発生!
イベントねぇ・・・いいことだらけではないよ。喪失とか、裏切りとか、盗まれたりすることとか・・・。
盗まれたものが帰ってこない時の失望感は大きい。
私は29の男。
都内で一人暮らしをしている。
29にもなって、いまだに母親とうまく接することができない。
母親は、いまだにあれやこれやとわかっている、細かいところに口を出してくる。
非常に子煩悩であらゆるところに対しておせっかいを焼きたがる母親である。
記憶力が悪くなってきているらしく、同じことを何度も言われる。
「あー、はいはい。」という感じで答えているが、内心はイラっとしている。
というのもそのおせっかいというのが本当に私のことを考えての言葉ではなく
「自分はこんなに子供のことを考えているいい母親なのよ。」という考えのおしつけ
にしか感じ取れないからだ。
口論にはなったりしないのだが、そのようなそっけない態度を取られるのは傷つくらしい。
ときどき「○○ちゃん(いまだにちゃん付けで呼ばれている)からみたら私なんて馬鹿に見えるんだろうね。」
といったことを言ってくる。こういうのもイラっとする。
母親はあらゆることに対して(料理や家事、健康など)努力するとか、よりよくしようという
考えをもっていなく「自分はこれでいいのだ。自分がただしいのだ。」とおもっている頑固な性格だ。
その延長で「子供のことを考えているいい母親」を私に押し付けてきているように、感じている。
母親は専業主婦であり、子育てだけに心血をそそいできた子煩悩である。
そのせいもあってか、未だに子離れができていない。
「こんなにいい母親としてがんばってきたのに、学校を卒業したら子供が振り返ってくれない。」
ということに対して失望感や悲壮感を抱いており、ときおり、そのようなことを伝えてくる。
これもイラっとする。「なら、早く自分の趣味でもみつけて子離れしろよ!」と思ってしまう。
私としては、自分がもっと大人なって冷静に母親の性格や行動をうけとめられればよいのだが、
帰省して本人を目の前にして「いい母親なのよ」という様々な押しつけを受けているとイラっとしてしまう。
けんかしたりはしないのだが、だんだんコミュニケーションをとるのが面倒になり、食事時以外は自分の部屋に籠ってしまう。
そういう自分もだめだなあ、もっと大人にならないとなあとおもって、実家から帰るといつも憂鬱な気分になってしまう。
母親への不満や自分への不満をかいてきたが、基本的にはもっとお互いに自立した良い関係を築きたいなあと思っている。
そのためには、私がもっと大人に成ることも必要ではあるが、母親の子離れも必要なのではないかとおもっている。
どうやったらそれが達成できるのだろう。母親が亡くなる前にそういう状態になりたい。
このようなことで悩んでいる方や自分はこういう風に解決したよ、こういう風に乗り越えたよ、
という方がいらっしゃれば教えていただきたいです。
長文、乱文失礼しました。
http://anond.hatelabo.jp/20081116133036 の新人君が、昔の自分にほんのちょっとだけかぶるところがあるなあと思ったので、空気を読まずにつらつらと自分語りをしてみる。
数年前、勤めていた職場が突然無くなったことがある。そのころ俺は、親元を離れて社会人として働き出してから一年経つかどうかの生きていくこと自体にわりと必死な頃で、不幸なことに金の蓄えが殆ど無い時期だった。そして来月からは収入が無くなってしまう。このサバイバルは思い起こすと稀有で貴重な体験だが、当時は社会に対して大きく失望し、ただただ途方に暮れるしかなかった。
当時は今にも勝る不景気、いわゆる就職氷河期の真っ只中で、普通の就職、転職市場に対して得も知れぬ失望感がある上に、仮に面接を受けて首尾よく採用となっても、給与がもらえる前に俺の貯蓄が底をつくかという状況だった。しかしなぜか危機感をそれほど持っていなかった俺は悠長に、そして高望みしつつ職探しを続け、程なくして予想通りに金の蓄えは無くなり、八方塞がりとなった。
もうどうしようもなくなったが、有り余る情けなさから親には相談できず、結果として友人に一ヶ月分ほど生活費の無心を受ける。半年以内に全額を返さないと小額訴訟を起こす、というエールを受けて俺はようやく職探しに本腰になった。
本腰にはなったが、とはいえすぐに金が必要だったので、さっさと働きだすことができる方法を選択せざるをえなかった。ネットで調べるうちに派遣会社というものが就労するには手っ取り早そうだということを知り、某社へ早々に登録、仕事を斡旋してもらうことにした。
フットワークの良い派遣会社だった。登録フォームから送った翌々日にはその会社の支店へ行き、営業担当を相手に色々と自分のできることをアピールした。パソコンはかなり得意だと伝えた。営業担当は「それならばすぐに仕事を紹介できますよ」と言った。実は当時の俺が得意だったことは、パソコンを扱う仕事をすることではなく、秋葉で買ったパーツでパソコン自体を組み立てることだったが、そこはあえて伝えないでおいた。
それから一週間ぐらい、俺はその営業担当に連れられて、名前を聞くだけでも萎縮してしまう超有名な会社の一室で顔合わせと称した面接を受けていた。面接相手は嫌味な男で、しきりに営業担当に対して前任者が辞めたことについての愚痴を言っていた。嫌な奴だと思ったが背に腹は変えられないので、みなぎるやる気を必死にアピールした。一瞬だけ俺は松岡修造のようだった。とにかく金が無いのですぐには辞めないという、自信を超えた確証があった。
そしてめでたく一つの仕事が与えられることになる。サーバの運用監視というものだった。
サーバの運用監視といっても、一般に言われるようなラックの立ち並ぶデータセンタの如きではなく、全国各地の拠点に配置されているタワー型のファイルサーバをリモート監視、保守するという特定の顧客に特化したものだった。正味なところトラブルは年に一度あるかないかだが、契約上どうしても監視を続けなくてはいけないそうだ。サーバ自体も相当古かったが、当分リプレースの予定も無いそうで、つまり数年は安定した身分が保証されている業務ということになる。やった、これで借金は返せる。俺の心は小躍りした。
で、肝心の仕事内容だが、これがまたベタベタのルーチンワークで驚いた。決まった時刻に決まった操作でサーバの正常動作を確認し、excel のワークシートを印刷したものに丸を付けていくだけの、まさしく刺身の上にタンポポを乗せるかのような仕事だった。ごくまれに腐食したタンポポが見つかったりもするが、そこは既に定められたフローで対処し、新しいものと交換すればよい。
個人としてどう動けるかどうか、そんなものは全く関係がない仕事で、歯車大募集という風情だ。前任者が退屈すぎて辞めたというのは容易に想像できた。ただ幸いなことに、当時の俺は個としての評価に価値観を見出すことはなく、どころかエンジニアとして大手の企業に潜り込めただけで世界が大きく開き、前職よりも自身が尊大になったと感じていたのだった。
最初の三ヶ月は充実していた。エンジニアという肩書きのもとに仕事をしているというだけで自分に酔うことができた時間だった。そして俺は excel 製のチェックシートに綺麗な丸を書くことばかりが早くなっていった。
俺の上司と言われる人間は、ひどく適当で放任だった。彼は当時まだ三十半ばであったが、既にこの大きな会社で、己の生涯を終えると決断しているが如きで、ルーチンワークの正確さと、仕事の合間を見てさりげなく、かつ頻繁に煙草を吸いに行く挙動と、後方を通る人影を警戒しつつのネットサーフィン技術については目を見張るものがあった。そんな彼を俺も見習い、業務中にいかにさりげなく 2ch を見るかを模索したものだった。
そんな彼の元で、俺は自由闊達に教育された。基本的に日常業務さえ過不足なくこなしていれば、あとは時間の使い方を制約されることもなかった。その日常業務と呼ばれるルーチンワーク自体は二時間足らずで終わるので、図らずも俺は一日に六時間もの自由な時間を与えられることになった。次第に 2ch を見ることにも飽きていった。
そして半年、とうとう持て余した暇を浪費できなくなった俺は、遊び半分でコードを書き始める。ネットの情報をもとに試行錯誤を経て、初めて作ったのは WEB ベースの監視チェックシートだった。そう、あの綺麗な丸をつけなきゃならないやつだ。定時になると決められた手順でサーバの稼動確認を行い、正常動作が確認できた時は勝手に丸が付くようにした。最初の一ヶ月ぐらいはこっそり運用し、いろいろと修正を加えて動作を安定させた。
さすがに印刷すると excel と少し体裁は変わるが、上司の彼はそれを好んで使ってくれた上に、顧客への提出フォーマットを変えることまで働きかけてくれた。のちのち彼に理由を聞いたが、「いや実は俺も丁度めんどくさいと思っていたところだった」と言ったときには笑ってしまったが。それ何年も続けてたくせにな!
ちなみにそのアプリケーションは、そりゃもちろんいま思うと酷い出来だったが、当時においては周囲になんとなく評価されたこともあって、一定の達成感をもたらしてくれた。それがきっかけでコードを書くっつうのが意外に楽しいことで、もしかしたらこれで飯を食うべきなのかな、なんて勘違いをしたり。
暫くして俺は退職することになる。まあその後のことは想像にお任せする。
で、ここから元増田に対しての話だけど、そういう尖った新人は変に縛らずに、もちろんやることはやった上での話なんだが、時間見つけて自由にさせてやりゃいいんじゃないかなと思う。組織的には難しいのは想像に易いので、いきなりじゃなくていいと思うんだ。例えば新人の考えるルーチンワーク改善案と、それを実現する成果物はどういうものかを論じるだけでも大きな前進だと思う。そうすりゃもしかしたら奴は、その成果物を勝手に作り出すかもしれないんだぜ。実現させるためにプライベートを割いて色々勉強しだすかもしれないんだぜ。そうして得た知識は、彼が増田に感じた恩義の分だけ戻ってくる。困ったときに助けてくれる存在になる可能性があるんだぜ。
個としての人格を殺してルーチンワークをさせることは組織としては簡単だが、死にたくないと主張している人格を殺す必要も無いだろうと思う。殺したが最後、血飛沫に塗れて掃除するのが大変なことになる。殺すぐらいなら活かしたほうが、お互いにとって良いことである可能性のほうが高いのは自明だろう。
最後に、自分の人生において、周囲が意図したかどうかは定かではないが、個を活かすことができる環境に偶然でも潜り込めたことを感謝したい。コードを書く機会と出会わなければ死は必定だった。それにしても、今もあのサーバは動いているのかな。
ちょいとwikipediaで調べ物してたら、どんどん深みにはまってしまい、どういう訳だかここに辿り着きました。
自分もこれを書いた彼と同じ、エホバの証人の二世です。
ただ彼とちょっとだけ違うのは、自分はスパッと排斥されちゃった(=絶交または追い出された)身だって事。今29だからもう10年前の事になるけどさ。
色々とあの頃の事を思い出してたから、ついでにどんな感じでエホバの証人の世界から出てきたのか、書いてみようと思う。
まず排斥の直接の原因は、年頃の男の排斥原因No.1であろう、おにゃのことのエッチ。汝姦淫を犯すなかれに背きますた。
ただその「罪」を犯したのは17の時で、排斥になったのは19の時。2年間は「罪」を隠し続けてエホバの証人としての生活を送ってた。
その間に高校を卒業して、小さい頃から良くしてくれたお兄さん的エホバの証人がやってる会社で働きながらも、普通にエホバの証人としての活動。でも乗り物好きが講じて、いつの間にかバイクで峠の走り屋さんなんて事もしちゃってた。
あの頃はつらかった。
結婚前にエッチしちゃったっていう罪悪感、警察から逃げ回りながら反社会的な走り屋やってる事への罪悪感、もっと女の子と遊びたいっていう欲求、もっと堂々と(は社会的に無理だけど)バイクで遊びたいっていう欲求、そしてそして、子供の頃から「全能の神」として教えられてきたエホバは、色んな罪を犯してるのに気づいてないじゃん!っていう失望感。
そんなドロドロした感情を「抑圧」するのに限界が来て、19の時に母親に告白→長老による尋問で悔い改める意思が無い事を伝え→排斥になった。
それを告白した時の母親は、激怒するでも無く、「告白してくれてありがとう」って。
その何とも言えない悲しそうな顔を見た時は、少し自分のした事を後悔して、悔い改めてエホバの証人としてやり直そうかとも思ったけど、このままじゃ自分がダメになると思い、そのまま排斥になった。
で排斥されてからもう10年。
今は、あの時エホバの証人としてやり直さないで、本当に良かったなって思ってる。
エホバの証人としての立場を失うと同時に、当然職も失って色々と大変だったけど、やりたい事を自由に「選択」できる生活は悪くない。
女の子ともたくさん遊んで痛い目も見た。バイクでレースやったりして身体的にも経済的にも痛い目を見た。外国に住んでみたりもした。今は自分の会社を作ろうかどうしようか悩んでる。ここでも痛い目に会うかもしれないけど、自分で「選択」して好きな事をやっていける。これはとても素晴らしい事だと思う。
ただ、こうやってやりたい事を貪欲に「選択」してるのは、むしろエホバの証人として生きてきた、約20年の「抑圧」からの解放感がそうさせてるのかもしれない・・・とも思う。
そうだとすると、今の自分は本当の自分ではないのかもしれないけど、そう感じたら止めるっていう「選択」も自由にできる。やっぱりそれは素晴らしい事だ。
だからと言って、エホバの証人の人達が間違っているとは言わない。
今考えればだけど、あの教えはとても理にかなってると思うし、その教えを守ってる兄弟姉妹はイイ人達がほとんどだった。外からは得体の知れない不気味な新興宗教に見えるかもしれないけど、中にいる人達は優しく温和な普通の人達ばかりだった。俺の知る限りでは、莫大な寄付を要求される事も無ければ、生理的に不快・不可解な儀式がある訳でもない。
ただ、それを、エホバの証人として神に仕えて生きて行くことを、本当にその人が「選択」したんであれば・・・。
そう考えると、それを「選択」する事ができなかった二世は、可哀想な存在なんだと思う。
つらつらと書いてみたけど、今の自分の立場は、エホバの証人を否定もしないけど肯定もしない。
母親と妹はまだエホバの証人だから、これから訪れるであろう葬儀やら結婚やらで出てくる宗教問題は頭が痛い。同じエホバの証人と結婚した妹の式は、兄としてとても往生した。
小中学生の頃から集会で100人を越える人を前にして話をする事に慣れたり、奉仕活動(よく家に来る宣教のあれね)で初めての人と話しをする事に慣れたりした事なんかは、今の自分に確実にプラスになってるとは思うし、今の自分の性格の土台を形作ったのも、確実にエホバの証人の環境だと思う。
けど何かしらの日常会話でエホバの証人のことが話題にのぼると、思わず避けたくなるのも事実。はてな村民のクセして増田でこんな事書いてるところなんて・・・まだ心の中にわだかまりがあるんだよ(ノд・。)
ただでさえ難しい宗教問題。自分や家族にも関係してくると、さらにややこしくなるね
まっ。根底にある宗教問題から勃発する戦争なんかに比べると、俺のこんなわだかまりなんて、ささやかで他愛ない問題だけどさぁ・・・。
ちょっと遅い話題ですが、いよいよMac OS X 10.5がリリースされましたねー。
世界中でどんどん売れ、今までシェアの薄かった日本でも売れているようで、凄いことだね。
(売れた数=満足している人の数、かどうかは別としても。)
でもこうなると昔からのMacユーザーにとっては困っちゃうことがあるよね。
だってMacの魅力の半分は、「それがゲイツ製じゃない」ってことであり「未来のスタンダード」であり、
つまるところ「世界にはびこる悪を一掃するレジスタンス!」ってところなわけじゃないですか。
みんながみんなMac使い始めちゃったら、もう
「MacをプログラミングやWeb制作に活用して俺ってばギーク(笑)」
とか
「えー!Windows?Windowsが許されるのは20世紀までだよねー」
とか言う相手がいなくなくなっちゃうんです!
そこで、とにかく周囲の人にMacを使うのを思いとどまらせ、
自分の先進ユーザーっぷりを自慢できる相手を確保しておくための例をまとめてみました。
基本的なやり方は相手のためではなく、自分の優越感のためにMacを勧めるってことです。
ちょっと難しいけど、既に色んな人が実践してるから、頑張ってみてね。
日本では超重要。もう基本中の基本ですこれ。真摯なmacユーザーの多くはこのスキルを既に取得しています。
「こんな機能も無いようじゃあ、もう今の時代ダメだねぇ」
行間に「そんなOSを使っている君もダメダメ人間だよ(笑)」っていう感じを込めるのがすごく重要。Macの話題を振るたびにイラっとさせることで、Mac=「なんかイライラするもの」という刷り込みができるはずです。
選民思想的な宗教団体の勧誘っぽいニュアンスでもOK。「君もパーソナルコンピュータの新しい段階へ行こう!」とか。
あと、他のOSがMacに勝てる要素など無い!って態度も重要です。「それ、Macでも出来るよ?」とか言ってやると、凄くいいです!
良識のある人間なら、おいしい話には罠がある、ということを知っています。
そういう用心深い人間を狙い撃ちにするなは、欠点を提示せず、Macの完璧超人っぷりをアピールしまくっちゃうのがいいです。セキュリティが完璧で、機能が完璧で、スキンが完璧で、UIが完璧で、どうして君がこのOSを使わないか理解できない!言えば言うほど、疑り深い人間を及び腰にできるね。
さらに、聞かされていない欠点について本人が自分で発見した場合の、失望感を高める効果が期待できる。「セキュリティが完璧と聞いてたけど、なんか発見されてるじゃん!」とかなったら、これはもうMacに対する信頼はガタ落ち。
これがもし予め、「公開直後だから、まだセキュリティは完璧じゃないかもねー」などと話してしまっていては、この失望感は出せないよね。
分かりにくい言い回しなんて難しそうだけど、意外と僕らにとって一般的な言葉が、ライトユーザーにとっては謎の単語だったりするんだよね。
たとえば
みたいな単語を並べてやるだけで、非常にうさんくさいコア向けOSということをアピールできるし、なんか凄いことを言ってるギークだ!というイメージもついて一石二鳥!
なんか数字だけ大きいだけで具体的にどうなのか分からない表現はうさんくさい上に、話している側としては非常に理性的、理論的なつもりになれるので多用しましょう。
例えば
「Mac OS X 10.5では、なんと300以上にも及ぶ新機能が搭載」
とか。(小数点があると効果的。)相手は、「へぇー、凄いねぇ」とか言いつつ、むしろMacがこれだけ眠い話題を生み出すことに関心します。
これは、よく訓練されたMacギークでないとちょっと難しいですが、適当に拾ってくるだけでもそれなりに効果があります。特に過去のこととか、開発人の人柄とか、抽象的なコンセプトがいい感じ。 ジョブスの追放から復帰にいたる至る経緯とか、CPUをIntel製に変更した経緯とか。
Macユーザーには興味があるけど、そうじゃないユーザーにとってどうでも良い話を上手にチョイスしよう。
最後にやってはいけないことをあげておきましょう。平等で客観的で謙遜したことを言うのはやってはいけないですね。
「それぞれのOSに良いところがあって、君も色々使って自分に合ったOSを試してみたらいいよ」
とか言うのは危険すぎます!
下手したらMac使ってしまうかもしれません。
でも、平等で客観的に見せかけて、実は主観的なことを言うのはとても良いです。
「それぞれのOSに良いところがあるけど、Mac以外を使うなんてことは考えられないね」
とかは、信者っぽくてグッドです。
なんか、こういうのもあるよ!ってのがあれば追加するんで、教えてください。
ちなみに、これらのノウハウは「はてなブックマーク」ってサービスでも応用可能だから試してみてね。
元ネタ:「FireFoxなんて使ってたまるか!と思わせる6個くらいの方法」
読んだ瞬間これはFireFoxじゃなくて、Macのことだと思った。FireFoxってそんなに熱心に薦める人はいないし、IE使ってるからって馬鹿にする人なんていない気がする。「相手の使っているものを見下す」「欠点をまったく挙げない」っていうのはむしろこれはMac信者だろう。例えば
Q35:Windowsしか知らないプログラマーはどうですか?
DanKogai:ご愁傷さまです。UNIXなどを知ってしまうと、あまりにムカつくことが多いよ。タダならともかく、Windowsを使うくらいなら、Mac OS XやUbuntuでもいいんじゃないのかな。同様に、インターネットという技術に毒されていないようなプログラマーがネットにつながっていないゆえにすごい発想をするということもあるかもしれないが、それは1000のうち1つくらいで、ネットワークを意識しているかどうかは近代戦闘における空軍の有無と同じくらい決定的といえるかも。
うぅぅんに対する批判ってワケじゃないし、上記事が自分の感じるまとめ記事のくだらなさをズバリ指摘してるワケじゃないんだが、要するにはてなブックマークがくだらないと思うのは、そのブックマーカーの関心と自分の関心が食い違ってるからそう感じてるんだということなんだろうけど、それは自分は違うと思う。大多数のブックマーカーはそんなに自分の関心を確固として持ってるとは思えないんだよね。
なぜなら、本当にその分野に関して関心があるならまとめにある程度の情報なんか、とっくに知ってて当然。2chのスレッドのレベルでもそう。というか、まとめというのは2chのテンプレ、つまり知って当然、これからスレッドで情報をやり取りする上で求められる前提知識でしかないんだよね。なんでこの程度の情報でこんなにブックマークされるんだ?ということが山ほどあった。
この構図ってどう見ても、誰か影響力のある人間が示して、悪意を込めていえば扇動して、それに対して門外漢・素人衆が殺到しているに過ぎない、と思うんだ。この素人衆の殺到、あまり好きな言葉じゃないが、ネットイナゴ現象が、本当に価値のあるページが上位に来ず、くだらない煽り記事、取るに足らない記事が表出してしまう一つの要因なんじゃないかと思う。そして、それだけ(メディアリテラシーだの疑似科学だのいう割に(それにしたって、多分に煽りの要素が入ってたわけだけども))扇動に弱いブックマーカーというのが、はてなブックマーク、いやネット全体に感じる不安であり、失望感なんだよなぁ。
というか、ネットでマスプロモーションしてどうするんだ、っていう。
じゃあ、太田光が以前に何か言っていたような、ネット免許制(笑)で衆愚を排除しようってわけじゃないけど。そんな事したらネットの特質性と、それから来る優位性が消え去って、それこそにネットオワタ。
書いてから気づいたがこの人とほぼ同意見だった。
だから、ブクマ数で評価するというのは限界があるよ。仕様上の限界。「被お気に入り数」が高い人間がブクマしてるとポイントが上がるとかにしないと、はてブ全体の質が下がってしまうね。
こういう風に票に格差というか、偏差を設けるのもいいアイデアだと思う。直接的に質を確保する方法ってわけじゃないけど。
僕は、当時浄土真宗、蓮如上人の「白骨の御文章」で「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」という言葉が好き
(すっと心に入ってくる感じがしてました)で浄土真宗や仏教の教えを調べていました。
熱心にとまでとはいきませんが、心の拠り所としていました。
僕はあえてその話を出しませんでした。
「いや・・自分は学会を信仰するつもりはないんです。宗教って心の拠り所だから自分でよく考えて決めたいんです」と断りました。
「いや、それだったら増田さんにぴったりだ」
「何がぴったりなんですか?」
「きっとって確証あるんですか?」怒るのもバカらしいと冷静な対応をすることにしました。
「幸せって・・幸なんて個人差もあるし、基準もないのにどうして皆が幸せになれるって、今、ここで判るんですか?具体的に説明して下さい。」
「それはお題目を唱えれば判るんだよ」
男性はそれでも物腰柔らかく、しかし目の奥には何やらギラギラしたものと、視線の焦点がさだまっていなかったのを覚えています。
「お仏壇がなければ、このお守りを持てばいいんだよ。お守りを持って常に念じれば幸せになれる。」
「は?これもらえるんですか?」
「これは売ってる。」
「いや、買うって・・別に加入するつもりもないのにお金出しませんよ。宗教入るのにお金払うんですか?」
「自分の壁を越える勉強なのですよ」
「いや、勉強って勉強なら自分で決めて投資しますから。」と段々飽きれてきました。
そこで男性が「ああ、そろそろ夕食でも」と急に奥からお皿一杯に寿司が出てきました。さも用意してあったかのようです。
「まーまー、とりあえず」と男性が勧めてきました。
友人も「そうよ、増田さん。食べましょう」と。
雰囲気的にちゃぶ台返しをしたい気持ではあったのですが、心中では絶対に加入しないと決めていたし、
友人はこれからもつきあいが色々と良い意味で長くなりそうだし・・とりあえずごちそうになりました。
食べているともう一人男性が帰ってきました。
「こんばんは」
「どうも、こんばんは。すいません、お邪魔してます」と僕は挨拶しました。
「いや、いいよいいよ。食べて食べて」と職人さんは言いながら自分の斜め前に座りました。テーブルが四角だったので丁度、ナナメ顔横になります。
最初の男性が「増田さんは彼女さんを亡くされて、今、色々と迷って話が聞きたいと・・」と職人さんに言いました。
僕は、「え・・いや、ちが・・」と言いかけましたが職人さんが先に言い出しました。
「ほー、それは・・辛いことでした・・ね・・。人間、誰しもが・云々」と最初の男性と同じことをいい始めました。
「この本尊にお題目を唱えればちゃんと幸せになれるから大丈夫だよ、自分を信じて一度入会してみないか?」
「宗教って自分で決めるものだと思うんです。勧めていただけるのはありがたいのですが、自分は現在加入するつもりはないので、今日はお話だけ聴いておきます」
「いやいや、増田さん、それは良くない。貴方の事を思えば今、入会を決めるべきだ。」
流石にカチンと来ましたが、一呼吸おきました。
「宗教って心の拠り所だと僕は信じてるので、自分の信じるもの安心するものを信仰するのが宗教ではないのですか?
僕は貴方たち勧めてくれた宗教について今は特に興味もありませんよ。」
「五行?」
「五行の内容はこの経典に書かれているもので・・云々」何やら書物を出して見せてくれましたが、よくわかりません。
「池田先生は、この五行を勉強し人の道に立って自分の壁を越えれば必ず幸せになれるとおっしゃる。わしも読んで勉強してるけどいいこと書いてあります。」
「それと本尊となんの関係が・?」
「本尊はあくまでも自分自身。その自分に願を掛けそれを乗り越えて幸せを目指すのですよ。」
(もう昔の話なのでよく覚えてませんが)
その時点で訳がわからなくなってきました。
何が幸せになるのかがよくわからないのです。
長ったらしい講釈は出てくるのに結論が「幸せになれる」しか言いません。
職人さんにも男性にも「貴方たちは何が幸せになったのですか?」と聴きましたが「幸せになれた」としか返答してくれません。
宗教に具体性を求めるのは愚問かも知れませんが、どうも彼等の言ってる事には信憑性が感じられないです(個人的に)。
それよりも、彼女が亡くなった後に失望感から救われるような言葉も出ず、自分たちの宗教ばかり「幸せになれる」「学会は素晴らしい」「学会は世界でも一番です」
しか言わない事に腹がたってきました。
最後はとりあえず「機会があったら集会をまた覗いてみて」と言われ帰れる事になりました。
「最後に、増田さんのためにお題目を唱えましょう」と皆で唱えましたが、クチパクで帰りました。
これは僕の経験談であって必ず何処でもとは限りませんし、宗教を否定するつもりもありません。
ただ、人の気持を考えない彼等に今でも憤慨するばかりです。
http://anond.hatelabo.jp/20070227104233
・正直なところ、つまらない面子だなーとしか思いません。
・うへー、人と付き合うのって大変なんだなーと改めて思ってしまい、質問してしまいました。
・正直なところ僕は対等な関係でいたいんですよね。もう少しいうと、実際は対等でなくても、対等でありたい!と思う人が好きなのです。
・1000円で何か借りを作るなんて気持ち悪くてたまりませんし、どうせご馳走するのなら(1000円でご馳走したとはいえない気がしますが)残りもどうにかしろよと思ってしまうのですが。。。
どうなんでしょ。質問者が彼女に言われたことに痛く傷ついてるのは分かるのですが、相手の考え方を理解しようとせずに「へえ、なんとまぁ、世の中っていうのは、ワタクシメにとって全く理解出来ない習慣があるんでござますんですね。」って、プンプンしてるのがちょっとね…!
自分の味方をしてくれる人が欲しくて質問したの?って感じがします><。
個人的には、このシチュエーションの場合は100%払います。
例外は彼女が自分より年上で、彼女と2人での会計は彼女が払う場合が多いとき。
この時、おごることが出来る権利は彼女にあるので、彼女の出方を待ちます。
具体的にしないと盛り上がらないので、質問者26歳・彼女25歳・後輩23歳としましょう。
メシを食ったところは、ラボエムとします。高くないけど、そこそこ小綺麗なところ。
今は、食事が終わって、カクテルを1、2杯注文しています。
後輩の学生時代の思い出を聞いたりして盛り上がった会もそろそろお終い。
後輩がトイレに行くために席を立ったタイミングで、ウェイターを呼んでお会計を頼みます。
後輩が席に戻ってきたあとで、テーブルに運ばれるカードとサイン用の伝票。
(カードは、アメックスグリーンか、三井住友VISA(もしくは銀行系)辺りかな。デパートとかガソリンスタンド系とかは駄目。アメックスゴールドとか、ダイナーズは「へー、金持ちなんだ(フラットな発音で」と言われる可能性があるので今回は却下。若いけど、安定した収入があります的な感じを狙う。)
後輩は彼女に向かって「お会計は?」と尋ねます。
彼女は『今日は私たちがおごるね。』と言い質問者のほうを向きます。そこで全く問題ないという笑顔を作ってうなずく質問者。
どうしても払いたいと言うなら、(貴女の気持ちは分かるけど、ここは僕たちに払わせてくださいネ。という笑顔を浮かべつつ)千円だけ受け取ります。
ラボエムを出て、路線の違う後輩と別れる場所まで来ました。さよならを言う前に質問者は、後輩に向かって「今日は貴女が居たおかげで、楽しく食事の時間が過ごせました」とかなんとか。内容はどうでもいいんだけど、あんたが居てくれて良かったっつー好意を伝えて別れます。
人によってはウザ過ぎて嫌いかもしれないけど、打率は低くはないんじゃない。
…ていうか別に普通だけど。
つーか、彼女と二人だったら別にどうでもいいんだけど、自分の知らない彼女の友達・彼女の知り合いと会うときは、(彼女の顔を立てるために)良い印象を持ってもらえるよう努力することが必要だよね。自分のパートナーに恥をかかせないってことね。
彼女をパーティに連れて行ったら、すげーその場で浮いてたりしたらイヤじゃん。文化がどうのっていうよりもTPOの問題かなって思う。そんな訳で、知らない人のところに連れて行かれる時とかは「どう振る舞えばいいの?」って聞くことが多い。
質問者のシチュエーションだと、自分が全部払うのが一番打率が高そうだから全部払うのを選択。自分の趣味趣向はどうでもよくて、彼女が自分にどう振る舞って欲しいかが選択基準。つーか、そんな場合は払っておいた方が問題少ないから、考えずに払う。どっちにしろ数千円の違いじゃん…。
質問者みたく、割り勘主義を押し通してもいいんだけど、もうちょいコミュニケーション力が必要かな。
一緒にメシ食おうっていうシチュエーションになった時に、軽い感じで「ウチは割り勘主義だけど平気?」とか言ってみる。まとめて支払うと、払ってくれるのかなという期待感を持たせてしまうのでお会計はみんなで見る。
ポイントは、期待感を持たせない(=失望感を持たせない)ということ。
ナンダカナア…って思う気持ちも分かるけど、その場では彼女の思うとおりに振る舞ってあげて、後で二人になったときに「今日はこんなにお前の思う通りに振る舞ってあげたんだから、ナースのコスプレしてセックスさせろ!」とか言うのが平和なんじゃないかと。
つーか、質問者何歳なんだろうね。俺22歳男。
「はてなブックマークで話題になるブログとならないブログの違い」という記事が注目を集めていたようなので、遅まきながら言及してみる。
先ずは周辺記事から目についたものをピックアップ。
アルファクリッパーの影響力なんてそんなに大したものではないんじゃないか、という話なのだが、その根拠が「アルファクリッパーがブクマした記事が全てホッテントリになるわけではない」というもので、元記事とかみ合っていない。
元記事をよく読めば分かるが、元記事は別にアルファクリッパーがブクマしたら必ず話題になるなんて主張しているわけではない。
例えば、あるブログの記事をアルファクリッパーが十回ブクマしたとして、そのうち九回までが1userのままだったとしても、残りの一回でブクマ数が伸びて話題になれば、それは十分「話題になるブログ」なのだ。
そして、そのようなブログはそうした機会すら得られないブログに比べてはてブで話題になるという点において絶対的に優越した地位にある、というのが元記事の主張である。
なので、「アルファクリッパーがいくらブクマしても全然話題にならないブログもある」と言うのならともかく、個々の記事単位でホッテントリにならないものもある、と言ってみたところで反論として成立していない。
また、アクセス数の話にしても、はてブがアクセス増に必ずしも結びつくものでないことは以前から指摘されていたことであり、これも反論になっていない。
アクセス数が少ない=はてブへの影響力も少ない、ではないのだ。
(アルファクリッパーのブクマ数・アクセス数への影響力については、「萌え理論Blog - はてブのアルファクリッパーの影響力」も参照)
「流動的」「癒着」「支えあう」といった言葉の意味が曖昧で、正直、何を言いたいのかよく分からない。
おそらく、常に同じ人がアルファクリッパーであり続けられるわけではない(なので、アルファクリッパーを囲い込む必要は無い)、という主張なのだろうと思うが、やはりそれも反論としては不十分だろう。
アルファクリッパーが移り変わるものであるという主張が正しいとしても、それは単に囲い込まなければならないアルファクリッパーが変遷するというだけで、アルファクリッパーを囲い込むことの重要性自体が否定されることにはならないのである。
この他にもいくつか関連記事を読んでみたが、どの記事も元記事の内容にあまり深くつっこんで書いておらず、元記事に対して適切な反論を加えることができていないように思う。
そこで、ここで改めて元記事を検証することで、そこに潜んでいた問題点・レトリックを明らかにしてみようと思う。
過去のブックマーク界隈を思い返せば自明であるように、ブログの記事がブックマークされるためには、完成度の高い記事である必要は全くない。隙の多い記事である方が、ブックマーカーの言及欲を刺激してブックマーク数は伸びる。
斬新な視点も必要ない。ブックマーカーは何度同じ話題を繰り返しても平気である。
真理を突いている必要もない。はてなブックマーカーの眼力が大したものではないことなど、あえて言うまでもないことだ。
先ず指摘すべきは、この記事が、ブログの「質」というものを非常に限定的に捉えているということだ。
少し考えればわかることだが、ブログ記事において重要なのは、ここに挙げられている三つの要素、完成度の高さ・斬新さ・真理を突いていることに限られない。
例えば、文章の分かりやすさや構成力、情報量なども記事において重要な要素であるし、そもそも完成度の高さや真理を突くことが要求されないネタ記事や体験談のようなものの場合、当然「質」の意味も変わってくるだろう。
ブログの「質」というものを語るのであれば、そういった諸々の要素を総合的に考慮した上で語られなければならないはずであるが、この記事はその中から恣意的に三つの要素だけを抽出し、あたかもそれだけでブログの「質」の全てを説明できるかのように語っているところに欺瞞がある。
また、それら三つの要素にしても、「必要が無い」ことと「あっても意味が無い」こととは異なることに注意しなければならないだろう。
少なくとも、斬新さ及び真理を突いていることについては、それが必要でないというのが正しいとしても、それを備えていた方がよりブックマークされやすくなることだろう。(ブックマーカーの判断力の高低が様々である以上、的外れな内容の記事で関心を引けるブックマーカーの数は限られてくるし、同じ話題を繰り返すことを好まないブックマーカーにブックマークされるためには斬新さも必要となる)
完成度の高さ(これも曖昧な言葉だが)については微妙なところもあるが、完成度が高いことはそれ自体が大きな魅力となり得るものであり、完成度の低い記事が言及欲を刺激するのと比べて、どちらが多くのブックマーカーをひきつけるかは一概に言えるものではない。
大体において、アルファクリッパーが巡回しているブログの中にも、ブックマークされやすいブログとそれほどでもないブログがあることはある程度はてブを知っている人間ならすぐ分かることなのだから、ブックマークされるためにはアルファクリッパーが巡回していること以外にも何らかの要素(ブログの「質」、ジャンルなど)が絡んでいることは明白であろう。
よって、ブックマークされるかどうかは記事の内容によっても左右されるということができ、ブックマークされることはブログの「質」と何の関係もないとする元記事の主張は過剰な物言いであることが分かる。
さらに、ブックマークされる機会をどのようにして得るかという観点からも、アルファクリッパーの巡回先にならねばならないとする元記事の主張に批判を加えることができる。
というのも、はてブで話題になろうと思えば、アルファクリッパーの巡回先になる以外にも、様々な方法があることは経験上明らかだからだ。
例えば、その時話題になっている記事について言及したり、有名ブロガーにトラックバックを飛ばしたりすることで無名のブログが話題になるなんてことはざらにある。
他にも、ニュースサイトで紹介されるといったパターンもあるし、荒っぽい方法としては、わざと炎上を誘発することで人を集めるというやり方もあるだろう。
このように、ブックマークを集める方法が多様に存在している以上、話題になるためにはアルファクリッパーの巡回先にならなければならないとする元記事の主張は簡単に否定されるのである。
ただ、こういった方法にはその時限りの効果しかなく、継続的に話題になる機会を得るためにはやはりアルファクリッパーの巡回先になるしかないのではないか、という疑問も湧く。
「話題になる」の前に「継続的に」と一言添えるだけで、元記事の主張は極めて真っ当な主張であるようにも思えてくるのである。
しかし、ここで少し考えてみて欲しいのだが、なぜ巡回先に入れてもらうブックマーカーは「アルファ」でなければならないのだろうか?
アルファクリッパーとそうでないブックマーカーの間には、本当にそれほど大きな違いがあるのだろうか?
元記事も述べているように、記事がはてブで話題になるためには、多くのブックマーカーの目に触れる機会を持つことが必要となる。
多くの被favを抱えているアルファクリッパーが重視されるのもそのためであるが、ここで忘れてはならないのが、注目エントリーやはてブニュースの存在だ。
これらは、ブックマーカーがアルファかどうかなどといったことに関わりなく、ブクマ数が閾値に達すれば記事が掲載されるというものであり、事実上、ブックマーカー間の影響力の格差を縮減させる機能を果たしている。
つまり、ブログ側としては、何もアルファクリッパーにこだわらなくても、自分のブログをブックマークしてくれるブックマーカーを数人持つことができれば、それだけで話題になる機会を確保することはできるのである。
無論、アルファクリッパーの影響力に比べれば、そうでないブックマーカーの力によって記事が表舞台に出ることは少ないであろうが、少なくとも、アルファクリッパーが巡回先になることが必要であるとする元記事の主張はアルファの優越性を絶対視し過ぎており、不当なのである。
さらにもう一つ付け加えると、ブックマーカーの影響力は、実のところ、外からは非常に判断しづらいものであるということ述べておく必要があるだろう。
一見無名で被fav数も少ないブックマーカーであったとしても、被fav数の多い大旦那クラスのブックマーカーのお気に入りに入れられていたりすれば、間接的に非常に大きな影響力を及ぼすことがあるし、コメントの有無、タギングのし方、一日あたりのブックマーク量などによっても影響力は左右される。
つまり、ブックマーカーの影響力とは単純に知名度や被fav数から判断できるものではなく、他のブックマーカーとの関係や本人のブクマ態様等によって変動し、そのため、ブックマーカーにおけるアルファ概念の確立は非常な困難を伴うのである。
元記事には、そういった点についての配慮も無く、アルファとそうでないブックマーカーを単純に区別できるものとして捉えているところにも問題がある。
以上見てきたように、元記事の主張には明らかな誤りが多数含まれており、その内容自体は暴論と断じていいだろう。
しかしながら、今この記事を書きながらも、私の中に何か虚しさのようなものがこみ上げてくるのは何故だろうか。
私がこの記事を書いたのは、冒頭に挙げたような例を除いて、ブックマーカーたちやブロガーたちの元記事に対する反応の多くが元記事の内容を肯定するようなものであったことに危機感を覚えたからであるが、そこで彼らが漏らしていたはてなブックマークの現状に対する不満や失望には、むしろ共感を覚えていた。
新規に発掘されるブログが少ない一方で、一度有名になったブログは、「質」の低いどうでもいいような記事でも盛んにブックマークされて注目エントリーや人気のエントリーを賑わすという現状。
そんな現状に対する失望感が多くのブックマーカーたちの間に広がっていたからこそ、あの記事は、その粗雑な論理にもかかわらず、多くの支持を得ることができたのだろうと思う。
その「質」というのはお前の価値基準に過ぎず、ブックマークする人々はそれぞれ違った価値基準でブックマークしているのだから文句を言う筋合いは無い、というような正論も、彼らの失望の前では何の意味も持たない。
そのような相対論によってしか正当化を図れないという事実こそが、まさに彼らの失望の対象に他ならないからだ。
結局のところ、はてなブックマークは、我々一人一人の理想とは異なる、別の「何か」でしかなかった。
そして、その当然の事実について、もう誰もが気づき始めてしまったのだということを、あの記事への反応は示していたのだろうと思う。
その諦観は深く、このような記事を書くことの意義を私の中で危うくさせるのである。