社会未履修で売り抜け卒業組の現役大学生が署名活動で後輩のピンチを救うべし。もしくは「後輩の卒業を認めないのであれば俺たちの高校卒業資格も取り下げやがれ」と学内デモ行進。卒業証書を燃やし丸筒の蓋を鳴らしつつシュプレヒコールの波を通り過ぎてゆく。
通っていた高校の普通科理系クラスでは現代社会と地理しか勉強した記憶が無い。一応センター試験の地理は自己採点で99%は取れたが、社会1科目のみなんで当然役に立つ筈も無く結局社会科は合否に無関係な地元の工学部に進学したんだなぁといまさらながら。
不思議なのは、あしあと自体はずっと減り続けている(過疎時代と大差無い)にも関わらず、書き込みに関しては流れを保っていること。初期の頃は書き込みの激しさに比例してあしあとが存在していた・・・ような気がする。つまりこれはアクティブに書き込む「住人」が土着してしまったということなのだろうか。
5行以上読めない
そういや、あしあと機能ってあんまりあてにならないってみんな気づいてる?
以前、結構ブクマされたことがあったんだけど、ブクマしてて確実に読んでるはずなのにあしあとに載ってない人が多くて、割といい加減な感じだった。
理想は実現されないから理想というんですよ。
「はてなブックマークで話題になるブログとならないブログの違い」という記事が注目を集めていたようなので、遅まきながら言及してみる。
先ずは周辺記事から目についたものをピックアップ。
アルファクリッパーの影響力なんてそんなに大したものではないんじゃないか、という話なのだが、その根拠が「アルファクリッパーがブクマした記事が全てホッテントリになるわけではない」というもので、元記事とかみ合っていない。
元記事をよく読めば分かるが、元記事は別にアルファクリッパーがブクマしたら必ず話題になるなんて主張しているわけではない。
例えば、あるブログの記事をアルファクリッパーが十回ブクマしたとして、そのうち九回までが1userのままだったとしても、残りの一回でブクマ数が伸びて話題になれば、それは十分「話題になるブログ」なのだ。
そして、そのようなブログはそうした機会すら得られないブログに比べてはてブで話題になるという点において絶対的に優越した地位にある、というのが元記事の主張である。
なので、「アルファクリッパーがいくらブクマしても全然話題にならないブログもある」と言うのならともかく、個々の記事単位でホッテントリにならないものもある、と言ってみたところで反論として成立していない。
また、アクセス数の話にしても、はてブがアクセス増に必ずしも結びつくものでないことは以前から指摘されていたことであり、これも反論になっていない。
アクセス数が少ない=はてブへの影響力も少ない、ではないのだ。
(アルファクリッパーのブクマ数・アクセス数への影響力については、「萌え理論Blog - はてブのアルファクリッパーの影響力」も参照)
「流動的」「癒着」「支えあう」といった言葉の意味が曖昧で、正直、何を言いたいのかよく分からない。
おそらく、常に同じ人がアルファクリッパーであり続けられるわけではない(なので、アルファクリッパーを囲い込む必要は無い)、という主張なのだろうと思うが、やはりそれも反論としては不十分だろう。
アルファクリッパーが移り変わるものであるという主張が正しいとしても、それは単に囲い込まなければならないアルファクリッパーが変遷するというだけで、アルファクリッパーを囲い込むことの重要性自体が否定されることにはならないのである。
この他にもいくつか関連記事を読んでみたが、どの記事も元記事の内容にあまり深くつっこんで書いておらず、元記事に対して適切な反論を加えることができていないように思う。
そこで、ここで改めて元記事を検証することで、そこに潜んでいた問題点・レトリックを明らかにしてみようと思う。
過去のブックマーク界隈を思い返せば自明であるように、ブログの記事がブックマークされるためには、完成度の高い記事である必要は全くない。隙の多い記事である方が、ブックマーカーの言及欲を刺激してブックマーク数は伸びる。
斬新な視点も必要ない。ブックマーカーは何度同じ話題を繰り返しても平気である。
真理を突いている必要もない。はてなブックマーカーの眼力が大したものではないことなど、あえて言うまでもないことだ。
先ず指摘すべきは、この記事が、ブログの「質」というものを非常に限定的に捉えているということだ。
少し考えればわかることだが、ブログ記事において重要なのは、ここに挙げられている三つの要素、完成度の高さ・斬新さ・真理を突いていることに限られない。
例えば、文章の分かりやすさや構成力、情報量なども記事において重要な要素であるし、そもそも完成度の高さや真理を突くことが要求されないネタ記事や体験談のようなものの場合、当然「質」の意味も変わってくるだろう。
ブログの「質」というものを語るのであれば、そういった諸々の要素を総合的に考慮した上で語られなければならないはずであるが、この記事はその中から恣意的に三つの要素だけを抽出し、あたかもそれだけでブログの「質」の全てを説明できるかのように語っているところに欺瞞がある。
また、それら三つの要素にしても、「必要が無い」ことと「あっても意味が無い」こととは異なることに注意しなければならないだろう。
少なくとも、斬新さ及び真理を突いていることについては、それが必要でないというのが正しいとしても、それを備えていた方がよりブックマークされやすくなることだろう。(ブックマーカーの判断力の高低が様々である以上、的外れな内容の記事で関心を引けるブックマーカーの数は限られてくるし、同じ話題を繰り返すことを好まないブックマーカーにブックマークされるためには斬新さも必要となる)
完成度の高さ(これも曖昧な言葉だが)については微妙なところもあるが、完成度が高いことはそれ自体が大きな魅力となり得るものであり、完成度の低い記事が言及欲を刺激するのと比べて、どちらが多くのブックマーカーをひきつけるかは一概に言えるものではない。
大体において、アルファクリッパーが巡回しているブログの中にも、ブックマークされやすいブログとそれほどでもないブログがあることはある程度はてブを知っている人間ならすぐ分かることなのだから、ブックマークされるためにはアルファクリッパーが巡回していること以外にも何らかの要素(ブログの「質」、ジャンルなど)が絡んでいることは明白であろう。
よって、ブックマークされるかどうかは記事の内容によっても左右されるということができ、ブックマークされることはブログの「質」と何の関係もないとする元記事の主張は過剰な物言いであることが分かる。
さらに、ブックマークされる機会をどのようにして得るかという観点からも、アルファクリッパーの巡回先にならねばならないとする元記事の主張に批判を加えることができる。
というのも、はてブで話題になろうと思えば、アルファクリッパーの巡回先になる以外にも、様々な方法があることは経験上明らかだからだ。
例えば、その時話題になっている記事について言及したり、有名ブロガーにトラックバックを飛ばしたりすることで無名のブログが話題になるなんてことはざらにある。
他にも、ニュースサイトで紹介されるといったパターンもあるし、荒っぽい方法としては、わざと炎上を誘発することで人を集めるというやり方もあるだろう。
このように、ブックマークを集める方法が多様に存在している以上、話題になるためにはアルファクリッパーの巡回先にならなければならないとする元記事の主張は簡単に否定されるのである。
ただ、こういった方法にはその時限りの効果しかなく、継続的に話題になる機会を得るためにはやはりアルファクリッパーの巡回先になるしかないのではないか、という疑問も湧く。
「話題になる」の前に「継続的に」と一言添えるだけで、元記事の主張は極めて真っ当な主張であるようにも思えてくるのである。
しかし、ここで少し考えてみて欲しいのだが、なぜ巡回先に入れてもらうブックマーカーは「アルファ」でなければならないのだろうか?
アルファクリッパーとそうでないブックマーカーの間には、本当にそれほど大きな違いがあるのだろうか?
元記事も述べているように、記事がはてブで話題になるためには、多くのブックマーカーの目に触れる機会を持つことが必要となる。
多くの被favを抱えているアルファクリッパーが重視されるのもそのためであるが、ここで忘れてはならないのが、注目エントリーやはてブニュースの存在だ。
これらは、ブックマーカーがアルファかどうかなどといったことに関わりなく、ブクマ数が閾値に達すれば記事が掲載されるというものであり、事実上、ブックマーカー間の影響力の格差を縮減させる機能を果たしている。
つまり、ブログ側としては、何もアルファクリッパーにこだわらなくても、自分のブログをブックマークしてくれるブックマーカーを数人持つことができれば、それだけで話題になる機会を確保することはできるのである。
無論、アルファクリッパーの影響力に比べれば、そうでないブックマーカーの力によって記事が表舞台に出ることは少ないであろうが、少なくとも、アルファクリッパーが巡回先になることが必要であるとする元記事の主張はアルファの優越性を絶対視し過ぎており、不当なのである。
さらにもう一つ付け加えると、ブックマーカーの影響力は、実のところ、外からは非常に判断しづらいものであるということ述べておく必要があるだろう。
一見無名で被fav数も少ないブックマーカーであったとしても、被fav数の多い大旦那クラスのブックマーカーのお気に入りに入れられていたりすれば、間接的に非常に大きな影響力を及ぼすことがあるし、コメントの有無、タギングのし方、一日あたりのブックマーク量などによっても影響力は左右される。
つまり、ブックマーカーの影響力とは単純に知名度や被fav数から判断できるものではなく、他のブックマーカーとの関係や本人のブクマ態様等によって変動し、そのため、ブックマーカーにおけるアルファ概念の確立は非常な困難を伴うのである。
元記事には、そういった点についての配慮も無く、アルファとそうでないブックマーカーを単純に区別できるものとして捉えているところにも問題がある。
以上見てきたように、元記事の主張には明らかな誤りが多数含まれており、その内容自体は暴論と断じていいだろう。
しかしながら、今この記事を書きながらも、私の中に何か虚しさのようなものがこみ上げてくるのは何故だろうか。
私がこの記事を書いたのは、冒頭に挙げたような例を除いて、ブックマーカーたちやブロガーたちの元記事に対する反応の多くが元記事の内容を肯定するようなものであったことに危機感を覚えたからであるが、そこで彼らが漏らしていたはてなブックマークの現状に対する不満や失望には、むしろ共感を覚えていた。
新規に発掘されるブログが少ない一方で、一度有名になったブログは、「質」の低いどうでもいいような記事でも盛んにブックマークされて注目エントリーや人気のエントリーを賑わすという現状。
そんな現状に対する失望感が多くのブックマーカーたちの間に広がっていたからこそ、あの記事は、その粗雑な論理にもかかわらず、多くの支持を得ることができたのだろうと思う。
その「質」というのはお前の価値基準に過ぎず、ブックマークする人々はそれぞれ違った価値基準でブックマークしているのだから文句を言う筋合いは無い、というような正論も、彼らの失望の前では何の意味も持たない。
そのような相対論によってしか正当化を図れないという事実こそが、まさに彼らの失望の対象に他ならないからだ。
結局のところ、はてなブックマークは、我々一人一人の理想とは異なる、別の「何か」でしかなかった。
そして、その当然の事実について、もう誰もが気づき始めてしまったのだということを、あの記事への反応は示していたのだろうと思う。
その諦観は深く、このような記事を書くことの意義を私の中で危うくさせるのである。