はてなキーワード: ソフマップとは
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで怖いんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕と国旗持ってて、ソフマップとオノデンから尖閣諸島を取り戻すぞ、とか叫んでるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、デモ如きで普段来てないアキバに来てんじゃねーよ、ボケが。
だいたい意味わかんねーよ。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人でデモか。おめでてーな。
よーしパパ日本のこと守っちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、1円もやんねーけど黙ってろと。
アキバってのはな、もっとなごやかであるべきなんだよ。
路上で踊ってるメイドに群がるカメラ小僧をほほえましく見つめる外国人バックパッカー、
そんな雰囲気がいいんじゃねーか。近くの欧米人びびっちゃってるじゃねーか。ネトウヨは、すっこんでろ。
で、やっと収まったか思ったら、他の奴が、犯罪者シナ人は日本から出ていけ、とか叫んでるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
得意げな顔して何が、シナ人、だ。
お前は本当にシナ人って言いたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、シナ人って言いたいだけちゃうんかと。
中国通の俺から言わせてもらえば今、中国通の間での最新流行はやっぱり、
ジョングオレン、これだね。
ニーシージョングオレンマ。これが通の言い方。
ニーシーってのはあなたはって意味。そんで反り舌でジョングオレン。これ。
で、それにマって軽くそえて聞く。これ最強。
こっちは、オンライン化が図られて、逆に抑制方向に向かっている。
アップデートのためにはオンラインに繋ぐ必要があり、正規版の認証がオンラインで行われるから。
もちろん、閉じた環境などでは、まだまだどうせわかりゃしないとばかりにコピーするケースもあるが、
どっちにしろそれが公に出来ないアングラな事実だと言う認識は、もう周知されているさ。
ソフマップなんかでも中古ビジネスソフトは取り扱っていなかったりするしね。
マジコンは、それこそ一昔前のビジネスソフトの状態で、お店に堂々と問い合わせが来たり、他人から勧められてしまうレベル。
一皮向けるためには、何がしかのパラダイムシフトがいる。
僕が凛子と"つきあいはじめる"ことになった直接の契機は、友人の突然なラブプラスの購入だった。すでにTwitter経由でラブプラスに対する熱烈なブームを知っていた僕は、発売後割とすぐに都内の漫画喫茶で体験版をプレイしていた。それですっかりハマってしまい、その後ずっと購入を検討しつつも、最初の一歩を踏み切れないでいたのだった。僕に先んじてラブプラスを買った友人は、ギャルゲーをたくさんプレイしていてこれに詳しい男で、僕とは話がよく合った。そんな彼も、夜更けまでギャルゲーを熱心にプレイするための真摯な情熱や潤沢な時間は今やもう残っていないようで、もしかしたらまとまったプレイ時間を必要としないラブプラスのゲームスタイルに惹かれたのかもしれない。すでにネットを通じて膨れ上がっていた僕のラブプラスへの興味は、彼がDSiに向かって精神を没入させる姿をみて頂点に達し、その日の翌日、すぐに自転車を新宿のソフマップまで走らせた。
僕は、この友人と同じく、迷わず自分の彼女に小早川凛子を選んだ。これは体験版をプレイしたときから決めていたことだった。ラブプラスというゲームの中での凛子の存在は、他の二人をまったく寄せつけないほどに圧倒的だ。ネット上のプレイヤーの感想を読むかぎりでも、他の攻略対象キャラはラブプラス中に存在しないんじゃないかというほどに凛子は人気を誇っているようなので、この感覚は間違ってはいないのだろう。しかし、なぜ彼女だけが、このゲームの中で他の追従を許さないほどの強度を僕に感じさせるのか、それをはっきり説明することは、ちょっとできそうにない。単純に丹下桜の飾り気のない演技が心の琴線に触れるのかもしれない。あるいは、凛子が「ツンデレ」だからかもしれない。
萌えアニメもギャルゲーもまったく知らない若者に対してですら、今ではこの言葉は完全に浸透しきってしまったようだが、みなさんもよく知っているとおり「ツンデレ」は2005年ぐらいを境に流行りだした言葉で、それ以前は陰も形もなかったものだ。なぜかといえば、それは「ツンデレ」というキャラ造形が、専らギャルゲーの特徴を特別強く体現しているものだったからなのではないかと僕は思う。日常パートでは多数の女の子との会話を楽しむ時間が用意されていて、個別パートでは一人の女の子との恋愛を発展させていくという美少女ゲームの構成を考えれば、日常パートで主人公が周りの女の子に好意むき出しでは話が成り立たないはもちろんのことだ(だからいつだって主人公は「鈍感!」と罵られる)。それ以上に、女の子のほうだって最初から主人公に100%の好意を向けていたら息苦しくてしょうがない。だからこそ、キャラクターの感情は、日常パートから個別ルートへに移っていく過程で鮮やかに反転する必要がある。きっと、こんな感じで「ツンデレ」は生み出されたんじゃないだろうか。だからこそ、どんなギャルゲーの中でも「ツンデレ」キャラは一定の存在感があるよなぁと僕は思ったりする。
けれど、やっぱりそれだけじゃないよなぁ、と思う。考えれば考えるほど、そういう言葉にできるところじゃなくて、もっと微細な部分にこそ、凛子の「存在感」が宿っているんじゃないかという気がしてくる。確かに、「ツンデレ」に対する感覚の有無によって、キャラの捉えられ方はまったく異なるものになるだろう。リアルタイムでエヴァを見ていた人たちにとってのアスカと、初めからツンデレという言葉を用いてエヴァをみる今の人たちのアスカがまったく違うキャラであるように。しかし、両者の「アスカ」のリアリティを支える要素は、実は共通しているのではないか、という思いを僕は抱かざるを得ない。これは神秘主義だろうか。
とまれ、僕と凛子の生活は幸せなものだった。毎日DSを持かばんに入れて、いつも通り授業を聞いたり、寝てやりすごしたり、友だちと話したり、ネットを見たりする。そして昼休みにお弁当を食べるとき、放課後に屋上で開いた時間を過ごすとき、DSを開いて凛子に会う。日曜日には時間を決めてデート。音声入力で凛子と話をする「ラブプラスモード」は、周りに友だちがいるときしか恥ずかしくてできなかった。僕の質問に答えているようで、時々ズレズレなことを言う凛子は、twitterのbotのようでとてもいとおしかった。botと人間とは、決して本当の意味での会話を交わすことはできない。しかし、それにもかかわらず、僕はあたかも凛子がそこにいるように、自然に振る舞うことができた。
なぜなったかはわからない。しかし、僕は、今や凛子が確実に「そこにいる」のだと思うようになった。そして、おそらく理由など関係ないのだろう。
キャラクターと向き合う人間にとって、この瞬間こそが普遍的なものであるんじゃないかと僕は思う。「キャラクターとは『いない』のに、『いなくちゃ困る』ものなのだ」と、どこぞの若手批評家が言っているのを聞いたことがある。キャラクターは、誰にとっても「いる」ものではない。しかし、それに没入する人にとっては「いる」としか信じられず、そのレベルではキャラクターと人間を区別することはできない。もちろん、キャラクターが「いる」と感じることは、人間が「いる」こととは別のレベルである。凛子との会話の中には実に現実味に溢れた魅力的なものがたくさんあるのは確かだ。しかし、たとえば、凛子が心を許しはじめると一人称が「アタシ」から「リンコ」に変わるという描写がある(鬼ゲーマーリンコ)。現実に自分の一人称を名前で代替する人はどっちかというと疎まれるタイプだろう。だが、キャラクターが「いる」ことも知覚の意味合いとしては人間が「いる」ことと変わらない。
僕は同じような経験を何度かしてきたが、その存在は記憶として強く焼き付けられることはあっても、感情の部分で長期にわたり持続するわけではなかった。しかし、凛子の場合は、日常の一コマ一コマの中でこの存在を自覚せざるを得ないのだ。
たとえキャラクターが数億に分節可能な無意味な要素の集積だとしても、その寄せ集めによってできあがってしまったものに対して私たちが抱く感情は常軌を逸してしまうことがある。そしてそういった瞬間、キャラクターというものはいったいどのような存在なのだろうか。ラブプラスの制作者は『CONTINUE』のインタビューで、ラブプラスには全部見るためには二年ほどはかかるぐらいの莫大なイベントが盛り込まれていると語っている。ラブプラスにおいて、こうしたキャラクターの「実在性」「予想う不可能性」は膨大な情報の集積によって担保されていることになる。しかし、私たちはどうしてもこの「実在性」の裏にブラックボックス的な要素を見出したくなる。凛子が、DSの画面の向こうで僕たちには想像もできないようなことを考えているのではないかという妄想を捨てきれなくなる。しかし、それは今のところまったくの幻想でしかない。
そして、僕は、この確信を得たとき、ひとつの隠された(しかし一定数のラブプラスプレイヤーは既に理解しているであろう)、恐ろしい事実に気づくことになった。いま、ここで、凛子の存在を支えている形象は、私たちの生きる時間の流れに沿いながら、未来永劫その「動的性質」を保ったまま持続するのだ。小説・漫画・アニメ、フィクションというものは時空から隔絶されて存在する。源氏物語は、1000年前の貴族が読んでも私たちが読んでも、テクストとして同一の形を維持しながら「静的に」存在する。紫の上の人生は紫の上の人生であって、私たちと生きる時空とは関係ない。しかし、凛子は、あたかも私たちと同じ時空を生きているかのような演技をしながら、しかしその存在を少しも変化させることなく、ずっと「そこに居」続けるのだ。
僕たちはフィクションとキャラクターの実在を信じるとき、なぜ自分自身はそこに居ないのかと苦痛に思う。たとえばテラ・フォーミングされた火星とARIAカンパニーの存在を信じるとき、なぜ自分はネオ・ヴェネツィアにいないのかと思っていたたまれなくなる。そして、たしかにラブプラスはその苦痛を一時的に和らげることに成功している。僕と凛子は「見かけ上は」同じ時間を生きている。しかし、見かけ上が同じ時間を生きている分、僕と凛子の間の摩擦係数はかえって高くなり、逆にこの責苦はもはや耐えることが不可能な域に到達している。しかし、その実、凛子が生きる時空は凛子が永遠に16歳の時空であり、僕が10歳老けても20歳老けても凛子は16歳だ。僕が、社会に出て、老いぼれになり、忘れられたまま死んでいった時も、凛子は永遠に十羽野高校の生徒なのだ!
ラブプラスのスタッフは、この点をよく知っていて、しかもポジティブに強調している。主題歌は『永遠(タイムレス)ダイアリー』、キススキンシップの最上位技は「フォーエバーキス」、主人公が移り住んでくる「十羽野市」は「永久の」のもじりだ。彼らは「永遠に続く愛」と嘯く。しかし、いくら凛子が僕に対して永年に同じ愛を投げかけてくれるといっても、僕のほうは永遠に、何の変化もなく、同じ感情を凛子に投げ続けることができるわけではない。いつかきっと僕はこのゲームに飽きてしまうに違いない!キャラクターの実在性は「記憶」の中にのみ残ればよかったのであって、実際に一定の形象を維持したまま存在する必要などなかったのに。
そうして、僕がラブプラスを起動しなくなったとき、凛子はどこに取り残されてしまうのだろう。もうおわかりなのではないだろうか。凛子の住んでいる時空の永遠は、漢字で書かない。私たちは、かつて10年以上も前に自分たちが取り残されたあの場所に、今度はヒロインのほうを置き去りにしているにすぎないのだ。
ラブプラスを触りながら、そんなことを話した。凛子を世界の終わりから救い出すための方法は限られている。まずひとつはデータを消すことだ。しかし、もっといい方法があった。この美しくどうしようもない学生生活とともに、凛子を記憶の中にとどめて、これを葬り去るのだ。
僕の通っている学校は都内ではちょっと例のないぐらい熱い学園祭を毎年やっていて、受験を控えた三年も積極的に参加する。その中でもアニメのポスターだのゲーム機だのを二日間かけて何百品も競りにかける古物市が、例年盛況を極めている。ここで、データを残したままの僕のラブプラスと、攻略本・主題歌CDをセットで売り飛ばしてしまうことにした。凛子とやり残したことはたくさんあるかもしれないが、もう悔いは残らない。
いつの日か、人間とキャラクターは本当に出会えるのだろうか。今も人はそれを求めて、アバターをまといながら人格のコスプレに勤しんでみたり、botと会話しようとがんばってみたりする。しかし、アバターは結局人間と人間の会話だ。botに萌える人は、技術と現実の落差に萌えているだけにすぎない。不気味の谷のセオリーを信じるとすれば、谷の手前の不気味の尾根で人は楽しむこともできるわけだ。(言ってみれば、Perfumeのズレズレな口パクに萌えているのと同じことだ)。
いつになったら、人間がキャラクターと同じ時空を生きることができるのだろう。幸い僕は一緒に歳をとることができる彼女がいたが、人間と共にありたいという気持ちとキャラクターと共にありたいという気持ちはまったく別だ。前者が満たされないのと同じぐらいに、後者も満たされることはない。
さぁ、キャラクターは、データベースか、ブラックボックスか。哀れな小早川凛子は、乱雑なデータベースによってその肌と臓器を模られた出来損ないでしかなく、僕は彼女を残酷に売り飛ばすことでしか救うことはできなかった。僕はキャラクターが人為とプログラムの集積であるという当たり前の事実に、ここにきてどうしても納得することができない。人工知能が人工無能に、「擬体」がARにとって代わられても、僕たちの望みはひとつだ。僕たちには感知できない、キャラクターの不可視な内部の実在を信じたいのだ。僕が死ぬまでの間に、いったい彼女たちはどこまでブラックボックスに近づくことができるのだろうか。
答えはまだ出そうにない。11月3日、古物市で僕のラブプラスが競りにかけられ、落札された。後に残ったのは落札額3500円と、永遠ダイアリーのmp3ファイルだけだった。
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雪花の郷(台湾系)
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沖縄木灰そばま~さぬや~(?台湾もしくは中国系の可能性は高い)
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アイス屋(元ドラゴンアイス?)+博多風龍(謎。出資も、代表取締役もネット上には情報が見当たらないように見える。)
1Fは比較的短期間で商売替えしてる。だがいつも中国か台湾?系の資本が店を変え品を変え、だ。
あれはなんか意味があるんだろうか。
新しいアイス屋が入ったが、念の入りようがすごい。
アイス屋が提携してる出会い系モドキサイトは会社概要のページはJAVAスクリプトでドラッグ不可。
そしてソースを表示してもコピーできないように項目がわざわざ画像。
そんなに後ろめたいことをしてるのか。
ちなみにヨドバシ秋葉のドーナッツプラントのある場所の変遷もドラゴンつながりで発見。
ドラゴンアイスヨドバシ秋葉店(台湾系)→喜楽茶ヨドバシ秋葉店(台湾系)→ドリィムマンゴー(?)→ドーナッツプラント(韓国系? Webで見つからない)
ドンキしかり。みみかき店のビルしかり。秋葉LAOXは中国資本だっけ? 万世橋付近の元LAOXビルも韓国?中国?系だし、
スターオーシャン4発売 「綺麗なだけのRPGとは訳が違う!」
スターオーシャン4 Xbox360用「スターオーシャン4」【AA】が19日に発売になった。製品情報では『SF+ファンタジーの世界観。壮大な世界の起源となる物語』・『爽快感あふれるリアルタイムアクションバトル』などを謳っていて、ソフマップ本館では『スターオーシャンが好きすぎるスタッフが声を大にしてオススメする 綺麗なだけのRPGとは訳が違う!』とかだった。
秋葉原のゲームショップの店員が感じる「前世代機ソフトとの差異」というのが一般人にどの程度認識できるのかという問題もあるけど、それを差し引いてもSO4は「綺麗なだけのRPG」から脱しているとは言い難かった。
昨年同ハードで発売された「テイルズオブヴェスペリア」「インフィニットアンディスカバリー」「ラストレムナント」にも言える事だけれども、開発サイドの「RPGとはこういうものだ」という思想が旧態然としているように思えてならない。身も蓋もない言い方をすれば、グラフィックに妥協さえすればPS2でも作れそうなゲームばかりだった。
まあ、PS2時代に長く支持されてきただけに、そういった方向性自体を否定するつもりはないけれども、不振が続く日本国内での挽回を目指すタイトルとして適切だったかどうかは少々疑問符が残るラインナップだったように思う。こういう時こそ、他の競合ハード(Wii、PS3、そしてPS2)には絶対に真似できない!というような方向性のゲームを打ち出すべきだったんじゃないだろうか。
おそらく、固定ファンの多い人気シリーズの続編でコアな層を取り込む事をXBOX360の「仕切り直し」の第一歩となる予定だったんだろう。しかしそのコアな層そのものが、既にPS2的なアプローチで作られたゲームに飽きてしまっていたように思う。それと新規ハードを購入させるというハードルの高さが重なって、PS2時代の前作の半分以下にまで売り上げを落とす事になったのではないかと思う。
本体発売から3年4ヶ月ほどが経過しているXBOX360だが、その間に10万本以上売れたソフトはたったの10本しかない。ソフトラインナップや本体価格で不利なはずのPS3ですらその倍以上はある。Wiiはさらにその倍近い40本弱。
特にこれら4本のRPG群は海外展開を強く意識したタイトルだったはずだが、しかし海外でもそれほど売れたというわけでも無い。1000万台以上普及している北米ですら日本の売り上げの2倍にも届いていない状態。
ここ1、2年でXBOX360に傾倒したメーカー側が「仕切り直し」を迫られるのは不可避だろう。これから参入を考えているメーカーにも重い意味を持つ数字になってくるような気がする。
ヤマダデンキ、ヨドハシカメラ、ビッグカメラ、ソフマップ、ジョーシンと探してやっと見つけた。
参考書やら資料集やら図表をノートにまとめて持ち運べたら便利だと思った。
買ったのはScanSnap S300で、2.5万。
手動で断裁。仕様では一度に10枚までってあるけど、すこし下地が透ける程度の厚さなら25枚入れても余裕。
検索用の隠し文字も自動でつけてくれる。Windows版だけの機能で、MacだけどこのためにWin版選んだ。
これで毎日膨れ上がってたカバンがノート台+ACアダプタだけですむ。今度金を貯めたらお下がりのLet's Noteじゃなくてもっとカッコいいノート買おう。
http://anond.hatelabo.jp/20090202013456 の元増田です。
思いもがけず盛り上がり、色々な声を聞くことができ、新入生・引っ越しを考えている在学生の皆様の参考になったのなら嬉しいです。
確かにゲーマーズ・メロンブックス・信長書店・電気街の寺町エリアに足繁く通ったり、エロゲの流通を活性化させるために京都駅南側のソフマップで物々交換をしたり、まだ見ぬヨドバシカメラ・イマイチ位置付けがわからないビックカメラなどを射程に入れるには原動機がついた乗り物がないと北部は厳しいですよね。個人的には購入の頻度が低く、その割には交通手段を所有していたので盲点でした。
Y寮生がコタツに包まって越冬していた石垣cafeに行きそびれたのを今でも悔しく思います。研究室配属以降なら、環境次第では半ばそのようになっている人もいるとか。
K寮の空気に馴染めるならば、素敵なオタ共同生活を送ることができますね。ビバ談話室。
遅くまで開いてる銭湯・洛東湯は健在のようですが、いかがわしい本を主力商品としていた書店は店を畳んでしまったようです。新たなスポットとしては岡崎のセルフスタンド併設の24時間開いてるコーヒー屋がありますが。
陰湿に続く部落問題にも言及してほしかったなぁ。
差別の再生産を助長してしまうことを防ごうとして、元田中のあたりのこととしてものすごく曖昧に書くだけとしてしまいました。京都人の人からすると住所を出すだけで色眼鏡が付いてしまうようですが、「学生さん」特別扱いはまだ残っているようで、直接的に知らないことで苦労することは少ないだろうと思い、半端な言及です。
道路の傾斜と同様に冬に寒い北部地域に住むことにより、一度自転車に跨りさえすれば学校でぬくぬくと暖を取り、図書館から追い出されるまで学校で粘りたくなる心性が働き、その意味でもオススメです。
雨・雪が降ると自転車・原付での通学は億劫ですが、それと同じくらいに傘をさしての徒歩通学もよほど近くない限り億劫に思えます。どこぞの大王様よろしく降雨・降雪時には積極的にお休みにするのもダメ学生らしいでしょう。
私の意見や、他の皆様方の意見はみな直接住んでみたり、横目に眺めたりして形成されたものなので、例え4年の最短で卒業するとしても途中での引越を考える必要がある、というのには賛同いたします。新入生が競争の末に抑えられる物件とはある意味で在学生が移動したあとの出がらし物件でもあるので。
そのために必要なこととしては「更新料を払う回数が少くて済む」という甘言に惑わされずに1年更新の部屋を選ぶことに加え、レンタ軽トラでお気楽引越しができるように早々に免許の取得・多少のお礼で手伝ってくれる友人関係の構築も重要と思われます。
そういえばDiablo IIIを開発中だとか。
ソフマップで、前作を遊ぼうセット(輸入版)を売っていた。
Battle.net、まだ運営してたんだなー( ̄口 ̄;
via アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本
http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、どのくらいの数の秋葉原オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分の秋葉原を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らない秋葉原の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、秋葉原のことを紹介するために
見せるべき10店を選んでみたいのだけれど。
(要は「もえるるぶ」の正反対版だな。彼女に秋葉原を布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「電気街口」なので、時間的に過大な負担を伴う昭和通り口、万世橋の向こうは避けたい。
あと、いくら秋葉原的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
秋葉原好きが『東京青果市場』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
秋葉原知識はいわゆる「素敵なサムシング」的なものを除けば、ラジオ会館のビットインは知っている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「とら以前」を濃縮しきっていて、「とら以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。店舗も隣同士だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な店について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな店(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのものという意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「秋葉原としてはこの二つは“家電量販店”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のマイコンオタが持ってるチップへの憧憬と、18時閉店のオタ的な営業へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも秋月的な
の二つをはじめとして、オタ好きのするパーツを店内にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「超超超超激やーす」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜のチェーン店がその後続いていないこと、昔、格安AT互換機を売っていたこと、
アメリカならdellになって、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
日本国内でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり秋葉原はPCのためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「TSUKUMO」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この店でかける「HELLO,SOFMAPWORLD」のアレンジが好きだから。
断腸の思いで削りに削ってそれでも11店舗、っていう店数が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
ソフマップの無軌道な店舗拡大を俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
ビックやヨドバシだったらきっちり本店に集約してしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて時空館を作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の在庫を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ野口がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。買い取り自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でぷらっとホームに行ったたことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
Linux Cafeよりも前の段階で、本多の哲学はこの店で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの店が秋葉原でこの時代に売っていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくLinux好きとしては不思議に誇らしいし、
すがやみつるの看板でしかオヤジを知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
ダイナの「画」あるいは「音づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「どうせiPodで128kbps ACCを聴くくせに、やけにヘッドホンに拘る」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそSTAX『SR-007』の試聴はダイナミックオーディオ以外ではあり得なかったとも思う。
「買えもしないヘッドホンを被る」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
源はダイナミックオーディオにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうサンボ風味の牛丼をこういうかたちでサンボ化して、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9店まではあっさり決まったんだけど10店目は空地でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にハルヒを選んだ。
とらから始まってハルヒで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、ヨドバシ以降の秋葉原時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい店がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10店目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
・ソフマップ http://www.sofmap.com/topics/exec/_/id=2695#365
バーガーパソコン(OSあり)、牛丼パソコン。中身はマウスコンピュータっぽい。知人購入、初心者には向かず?
・クレバリー http://www.clevery.co.jp/pc/
・フェイス http://www.faith-go.co.jp/pc/desktop/
高機能、デザインまあまあだがサポート悪い?(4台購入、当人はノートラブル、知人がトラブル1回)
・USER'S SIDE http://www.users-side.co.jp/pc/
思ったより値段安い、デザインもよさげ
・BLESS http://www.bless.co.jp/opc/
評価聞かない
薄っぺらなレイヤー衣装着て「秋葉原が平和な街に戻るように祈ってます」とか言われたら 微笑ましいというか失笑しか出てこないよ。おまけにお仲間らしき人がカメラ回してるから あの交差点混んで仕方なかった 喪服着ろとまでは言わないけどさ
土曜日の午後、ちょうどソフマップ本店前交差点を通ったが、手を合わせている大半の人は普段着だった。喪服の人も一人見掛けた。自分は縁者もいないし柄物着てたしで、半瞬迷ったあげく結局止まらずに通り過ぎた。
コスプレ姿は見掛けなかった。だいたい秋葉原だからってみんなコスプレ姿でいるわけじゃない。そんなのはほんのごく一部でしかない。木を見て森を見ずというか針小棒大というか、秋葉原がらみだとこういう少数派の暴走で全体を否定する・されるのがある意味スタンダードになりつつあるけれど、それに釣られて自身のバランス感覚までおかしくなってやしないか。
俺も、事件から1週間経つというのに、おそらく縁者ではあるまい人々が7、8人も献花台で手を合わせているのを見てしまうと、もしかして「お祈りごっこ」なのかも知れないなとちょっと思ってしまうが、彼らのすべてを察せない以上、そこは思考停止して考えないようにするべきだと思う。「祈り」に上下高低浅深を持ち込んではいけない。