はてなキーワード: セーフティネットとは
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bradexさんが、ナチスの「25か条綱領」というのを紹介している。
ウィキペディア - 25か条綱領
http://ja.wikipedia.org/wiki/25%E3%82..
<25か条綱領(独: 25-Punkte-Programm)はナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党綱領。1920年2月24日、ミュンヘンのビアホールホフブロイハウスで採択された>。
その25か条綱領には、次のようなものが含まれている。
・我々は、老齢保障制度の大幅な強化を要求する。
・我々は、健全な中産階級の育成とその維持、および大規模小売店の即時公有化、小規模経営者に対するその安価な賃貸、全小規模経営者に対して最大限考慮した国家・州または市町村に対する納品を要求する。
・我々は、我が国民の要求に適した土地改革、公益目的のための土地の無償収用を定める法の制定、地代徴収の禁止と土地投機の制限を要求する。
・我々は、公共の利益を害する活動に対する容赦ない闘争を要求する。高利貸し、闇商人等の民族に対する犯罪者は、宗派や人種にかかわらず全て容赦なく処罰される。
・我々の要求をすべて実行するために:国家の強力な中央権力の確立。中央議会の国家全体および組織一般に対する絶対的な権威。公布された国家の大綱的法規を連邦各州において実施するための階級・職業別の団体の形成。
これを大雑把に言い直せば、「大企業は儲けすぎだからもっと税金を取れ」「老人への保障をもっと手厚くしろ」「大きな店は潰して、小さな店だけにしろ」「不動産を貸したり転売して儲けることは許さない」「高金利の金貸しは許さない」といった話だから、いまの日本でもよく言われているような話である。
これがナチスの綱領であることを隠して、「このような政党があったら支持するか?」というアンケートをもし日本でやったら、支持する人はかなりいるのではないか。「立派な考えだ」「なかなかいいことを言っている」といった反応がおそらく続出すると思う。
ナチスについて少し調べればわかることだが、ヒトラーは「ただの極悪人」ではない。ユダヤ人への弾圧や虐殺などがひどいのは言うまでもないが、上記のように、政策の方向性としては「左翼的な正義」が基調である。いわゆる「悪人」というよりもむしろ、「使命感に燃えた善人」に近いといってもいい部分がある。
実際、ヒトラーは自分が「善」だと強く確信していたからこそ、権力を握ることで「悪」を撲滅しようとしたのだろう。そして、それに一定の説得力があったからこそ、支持を集めて、権力を得ることができたわけだ。
もちろん、ナチスの政策だから全部間違っているということにはならないし、ナチスの政策にも正しいものはあるかもしれない。重要なのは、ナチスの政策が正しいか間違っているかというよりも、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ、ということなのだ。
正誤・善悪によらず、何かを他人に「強制」するという考え方にこそ、全体主義やファシズムへの萌芽がある。何かを他人に「強制」してもいいと考えている人は、自らの無謬性(誤りがないこと)をまったく疑っていない。自らの正しさを確信すること自体は問題ないのだが、それを「他者に強制する」ことから問題が生じる。
自由主義やリバタリアニズムがこの「強制」を嫌うのは、何が正しいのか、何が善なのかということに関して、唯一の絶対的な基準があるということを疑っているからだ。自由主義者やリバタリアンは、つねに異なる意見、異なる価値観を共存させ、多様性を認めることで、社会は発展するし、また社会は安定する、と考える。
自由主義者が政府より市場を好むのも、政府は「強制」するものであり、市場は「自由」な取引で成り立つものだからだ。
私の見たところ、日本というのは「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方がわりと強い国だと思う。そういう考え方の人は、たいてい「悪人」ではなく、むしろ「善人」だったりする。「いい人」なわけだ。しかし、他人に「強制」すべきでないということや、異なる考え方をあえて共存させる「多様性」の重要性については、あまり理解されていないように感じる。
菅首相なども、「善人」なんだけど、「強制」することが問題だとわかっていない人の典型である。左翼的な考えの持ち主はわりとこのパターンが多くて、弱者を思いやる「善人」なんだけど、「強制」することでどういう問題が生じるかがわかっていない、と感じられる場合が多い。こういう人は、弱者を思いやるのはいいのだが、その一方で、金持ちや経営者を「悪」だと決めつけてしまいがちだ。
「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方は、まさに「パターナリズム」である。それは、親が子供に対しておこなう場合であれば許されるだろうが、社会のなかで他者に対して「強制」をおこなうことは許されない。しかし、この「強制」が唯一、合法的に許されているのが政府である。
よって、政府は「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方の危険性や副作用をよく理解して、どうしても「強制」を行使しなければならない場合にのみ、きわめて慎重に行使すべきなのだが、日本政府はそれをあまり理解しているようには見えない。最近また大店法の話が出てきたりしているのを見ても、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」ということを、むしろ無邪気に信じているかのようだ(特に民主党は、以前からこの傾向が目につく)。その規制が経済をブチ壊すことを理解できないのだろう。それも経済産業相が、である。
民間人は「ゲームプレイヤー」であり、政府は「ゲームデザイナー」である。企業や民間人は、政府のような「強制」力を一切持っていないのだから、社会問題になるような「構造」問題に対しては、企業や民間人には責任が生じようがない。これは「システム」の問題なのであり、よって責任があるのはもっぱら、「強制」力によって制度設計をおこなった政府である。それなのに、民間の企業を「ワルモノ」扱いして、その行動をさらに規制すれば問題が解決すると考えているのだから、まるで逆だ。セーフティネットは必要だが、市場を規制してもセーフティネットにはならない。
http://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-program
関連エントリ:
http://mojix.org/2010/01/23/libertarianism_kimo
どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する
http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei
地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)
「仕事」ではなく「人」を守る。
http://www.j-cast.com/kaisha/2010/06/23069426.html
「雇用」は国民生活の基盤であり、その安定確保は国の最重要課題であります。一方、派遣切りなど、解雇が行われた際、すべての責任を企業に負わせることも問題であり、政府と企業が一体となった労働環境を整備しなければなりません。特に、「解雇規制」を緩和すると同時に、企業における「柔軟な経営」を行える環境を整備するなど、企業の持続による「雇用の安定」につなげます。また国としては、「同一労働・同一賃金」「社会保障の充実」「労働環境の法整備」を前提に、失業対策として、生活の安定が保証される「手厚い失業給付」「充実した職業訓練プログラム」の再構築など、強力なセーフティネットを構築します。
http://www.jimin.jp/jimin/kouyaku/22_sensan/pdf/j_file2010.pdf
日本中で明かりが消えていっている――文字どおりに.『信濃朝日新聞』の一面には,街灯の3分の1を消して節約にはげむ試みが紹介された.青森から鹿児島まで,日本中で同じことが行われたり検討されている.
一方で,青函トンネルから首都高まで,かつて先見の明ある輸送機関への投資で世界を驚嘆させたこの国は,いまでは道路をつぶしているありさまだ:多くの県で,地方政府は維持できなくなった舗装道路を砂利道に戻していってる.
そして,かつて教育を重んじた国が、いまや教育を切り詰めている.教師たちは解雇され,各種施策は取り消されていっている.沖縄では,学年度そのものが劇的に短縮されつつある.しかも,あらゆる徴候は今後のさらなる削減を示している.
「他にどうしようもないんだ」と聞かされる.基本的な政府機能――過去何世代にもわたって提供されてきた基礎サービス――の費用はもうまかなえないんだ,とね.たしかに,景気後退で傷手を受けた県・地方政府が金欠なのは事実だ.でも,政治家が少なくともいくばくかの増税を検討する気にさえなれば,そう大した金欠ってわけでもない.
それに,インフレから守られた長期国債をほんの1.04%の低利で売れる日本政府は,ちっとも金欠なんかじゃない.日本政府は地方政府に援助を提供してぼくらの子どもたちとインフラの未来を守ることができるし,そうすべきだ.
ところが東京はほんの申し訳程度の助けしか出してない.それも,しぶしぶにだ.赤字削減を優先しなくちゃならん,と自民党員や「中道」民主党員は言う.ところがその二の句を継いで言い放つ言葉ときたら「富裕層減税は維持すべし」だ.この先10年間にわたって60兆円の予算コストでね.
実質的に,われらが政治階級の大多数は,優先順位をはっきりさせてるわけだ:日本の上位2%ほどの富裕層にバブル時代の好況時に支払っていた税率にもどすのを頼むか,それとも国の基盤が崩壊するにまかせるか(道路なら文字どおりの「崩壊」だし教育なら比喩的な意味ので「崩壊」ですな),この2択をつきつけられた彼らは後者を選んでいる.
これは,短期でも長期でも破滅的な選択だ.
短期では,県・地方での削減は経済の脚を大いに引っ張り,とてつもない高失業率を永続化してしまう.
菅総理のもとで浪費的なまでに政府支出がなされてるとかわめく声を聞くときには,県・地方政府のことに留意しなきゃいけない.そりゃまあ,みんなが思うほどでないにせよ,日本政府はたしかに支出を増やしてる.でも,県・地方政府は支出を削減しているんだよ.両方を足し合わせると,実は大規模な支出増加は失業手当みたいなセーフティネット・施策でなされているだけ.これは不況が深刻なせいでコストが急増したから増えてるんだ.
つまり,刺激策は失敗したとさんざん吹聴されてるけど,政府支出全体をみてみれば,刺激策なんてほとんど打たれてないのがわかるんだよ.県・地方政府の削減がつづく一方で日本政府の支出が尻すぼみになっているいま,支出増加から反転しつつある.
でも,富裕層減税をつづけるのだって財政刺激の一種にはちがいないんでしょー? いや,それはないって.教員の職を守れば,まちがいなく雇用援助になる.そうじゃなく億万長者にもっとお金をあげたってそのお金の大半は死に金になるのがオチだ.
じゃあ,経済の未来はどうなんだろう? 経済成長に関するあらゆる知識は,教育水準の高い人口と高品質インフラが決定的に重要だと告げている.いま台頭しつつある国々は,道路,港湾,そして学校の改良に猛烈に力を注いでいる.ところが日本ではその逆をやってる.
どうしてこうなった? 反政府のレトリックを30年間もつづけた論理的帰結ってもんだね.なにかっていうと,課税で集まったお金はかならず無駄金で公共部門はなにもちゃんとできないと多くの有権者に信じさせてきたレトリックのことだ.
反政府キャンペーンはいつも決まって無駄遣いと詐欺への反対という体裁をとってきた.キャデラックを転がす「福祉の女王」宛ての小切手だの,むだに書類ばかりつくってる役人の群れだの,そういうのに反対するかたちをとってきた.でも,もちろんこういうのは神話だ.右派が主張するほどの無駄や詐欺なんて控えめにみてもなかった.キャンペーンが功を奏したいまになって,ほんとうは何が攻撃対象だったのかぼくらは目にしている:すごい富裕層以外の誰もにとって必要なサービス,公衆全体のための街灯やほどほどの学校教育みたいな政府が提供しなきゃ誰もやらないサービスが攻撃対象だったんだ.
この長年にわたる反政府キャンペーンでもたらされた結果,それはぼくらが破滅的なまでに道を間違えたってことだ.いまや日本は明かりのない暗い砂利道で立ち往生している.
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わがままって言うけど全くわがままを認めない社会ってのも誰かのわがままで作られた社会、例えば封建社会みたいなもんだと思う。
信頼を与えることは、それを利用して楽をしようとする甘えとの表裏にもなるけど。
だけれども、そのバランスの極になるもの(対どころか3つも4つも極あるだろうけど)を話し合える、
つまり相手の言い分や感情も含めた価値観を理解できてないのが現状だと感じました。
ブクマで結局どういうものを求めているのか解釈しているもの、旦那であったり社会で会ったり奥様コミュであったり
ってなってるけど、そのどれも「余計なお世話機能」も持っているなーってのが引っ掛かった。
でも、この人たちに子育ての方法まで理解を求めるのは全く現実的ではないし、
誰もそこまで求めていない。
んじゃ何を求めているの??ってのが問題。
さらにその人たちに求めてもいいんだろうけど、助けてくれる対象ってのが那であったり社会で会ったり奥様コミュであったり
それらの何かってのを断定することがそもそもできないなーと思いました。
社会に助けてほしかったことってタイトルだし、そういう文脈だけど、本当に「社会が子育てを支援する社会」を目指しているのか?って
読んでいて思った。
ある程度は支援しなければならないだろうけど、元増田で求められているようなことを行えるのって何か?ってのが疑問で
それを感じてる人も多くて、元増田のような人の方が社会で子供を育てようと言いきってないように感じた。
理想論に偏りすぎている人いるって感じがした。
つまりお前に責任があるんだからきちんとなんでもやれってこと。
でも実際のところ無理だろう。
「人間だもの」ってのが全くその通りで、それを認めたうえでじゃあどうしようかって言うことも大切で、
それがないと結局同じ問題起こると思う。
親として責任があるといったうえでも、その弱さがあることを認めてもらうことが大事だと感た。
簡単に言っちゃうと甘えさせてやれよぅってことになるけど。
でも弱いって部分あるし、ほんとにダメなことなんだろうけどそこ汲み取れないと崩壊すること多い。
…なんか考えていたら鬱病患者とセーフティネットみたいな話なってきたw
あと、>そんな調子のいい「社会」はどこにも用意されていません。そして、用意する予定もありません。
ってのが唯一腹立った部分。
そうでない社会の部分も確かにあるだろうけど、そういうこと目指してる社会の部分ある。
どっかの胡散臭く見えたりする団体だったり、行政だったり、研究機関だったり、個人だったりするけど。
実績ぶっちゃけほとんど出てないけど、むしろそういう団体のせいでこんな現実にしたかもしれないけど
誰かのためなんかを社会に問いかけて解決しようとしている人否定してる。
夫婦のつながりをセーフティネットにするのは(イスラムの一夫多妻制、カトリックの離婚禁止)は世界の風潮から難しいよね。
ネパールとかバングラディッシュとかって30代くらいまで家事手伝いが許されるじゃん。
家事労働を労働にするなら10代から労働力として扱われるともみられるけど、社会に見放されても家族、主として親に守られる。
その代わり親の老後の面倒がセットでついてくるけど。
中韓もそれに似てるけども。
でも、そういう制度って晩婚化、早く言えば女性の社会進出で崩壊しちゃうんだよね。
ってことで親子のつながりをセーフティネットにするのもむーりー。
女性の社会進出、というより、人は人生の主人公になれるなんて幻想が悪い気もするけど、たぶん個として生きる方向に生活スタイルは進化してるんじゃないかと思う。
たぶん文明の発展と連動してる。どうしようもなく強い流れ。
止められない。
ってことは、社会が守るしかない。
でも、それを資本主義の世の中でどうやってやるんだろう。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100801
この手の話題に言及するのはこっぱずかしいので増田で書かせてもらう。
こんだけ逆差別が騒がれても、まだまだ片親の貧困率はOECD諸国で下のほう。
現時点で、この日本でシングルマザーに対する最大最強のセーフティネットは実家だと思う。
でも、現実的に考えて実家がセーフティネットとして働くのは、両親との年齢差が一定未満の場合だけなんじゃないかと思う。
助けてもらいたいとき、親世代が70歳じゃ無理だろう。
65歳、かなり厳しいがそんなもんが上限のボーダーラインだろう。
親世代が65歳までに、末の子供が3歳まで成長すれば、なんとかなる。
言い換えれば末子誕生は親が62歳のときまで。
さらに言えば、仕込みは親が61歳のときまで。
統計を調べる必要もなく、その例にもれる人々、子供は小さいが親は65歳以上って家庭が増えてることは確かだ。
平均初婚年齢が30歳に近づく今、結婚した時点で親が65歳なんてのは珍しくもなんともない。
きついわなぁ。
俺は男だからそれほど関係はないけど、女性は考えたほうがいいと思う。
というわけで、自分の子供には、俺が65歳になるまでに末子が3歳になるように人生設計をしてもらいたい。
親(俺)が61歳のときまでに末子の仕込みを完了しなくちゃいけないとする。
子供は2人で十分な気がするが、少し余裕をみて子供を3人設ける場合を考える。
3年に1度出産として、長子(俺の初孫)は俺が55歳のときまでに仕込まれていないとダメなのか。
女性の平均初婚年齢が現在だって28歳だもん、俺の娘(いないけど)はいったい何歳で結婚するんだ?
俺が現在28歳、今この瞬間運命の出会いがあって結婚して脅威の命中率で受精させたとする。
長女誕生、ストレートに大卒だとして社会にでるのが22歳、28で結婚すると、長女が結婚したときに俺55歳。
けっこう厳しいぞ。
子供3人は諦めてもらうか、10代で産んでもらうかだが、10代で産ませたくはない。
娘(まだ受精卵ですらない)よ、子供3人は諦めろ。1人でいいじゃないか。
なにがいいたいんだ、俺は?
つまり、実家以外のセーフティネットが発達しない限り、少子化はとまらんということ。
実家に頼れない女たちが増えるということはさっき上で書いたとおり。
実家に取って代わるセーフティネットの発達は望めないと思うんだ。
女で稼げる商売となると、水商売か風商売しかないだろうから、水商売と風俗に供給過多が起きるよね。
というより、今だって供給過多な気がするよ。
痛いニュース(ノ∀`) : 生活保護で暮らす高校生「市役所に、生活が苦しいなら野球部の部活を辞めればいいと言われた」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1512163.html
子供がどの家庭に生まれるかなんて結局のところ運でしかない。なのに運悪く低所得家庭に生まれた子供は時間削ってバイトしろだの、大抵の子供が普通にやってる部活動をやめろだの、税金もらって感謝しろだの乞食だの言われる。これは肯定すべきことなの?
ただ運良く高所得家庭に生まれただけの人間にこれを積極的に肯定する権利があるの?一体どういう理由で?逆の立場だったら悔しくないの?単純労働のバイトに時間を費やすってことはその分勉強等の機会も失われるってことで、将来性についても全くフェアな状況じゃないよね。
実際問題として誰も助けてくれないだろうし、俺だって財産の分配なんてしないよ。でも甘えだのと口に出して積極的に批判するのは違うんじゃないの?
あとこういう話になると必ず血税・他人の税金ってキーワードが出てくるけど、税金って一括に集めた金を国家が運用してインフラから社会システム、そして貧困などへのセーフティネットも含めて保障するための契約なんじゃないの?同意して払ってるんじゃないの?インフラは享受するけど貧困対策に税金が使われるのは許せないの?
税金に感謝しろ派の人達は常日頃から自分より高所得の人達に感謝してるの?高所得者ほどより多く税金払っているんだから、中流家庭に生まれてチャンスはいくらでもあったのにまともに稼げず最低限しか税金払えない人は、インフラや社会システムを享受できることを常に高所得者に感謝しないといけないよね?人の稼いだ金で飲む水は美味しいですか?
つーか高校生までの子供なんてほぼ税金払ってないんだから皆人の金で育ててもらってるようなもんだろ。
とにかく、もうちょっと相手の立場に立ったり、叩かれてる人が本当に悪いことしたのかとか色々考えてからものを言えよ。
増税で底辺層は餓死とか病死とか言うけど、死に至る問題になりえるのはあくまで底辺層だけということを忘れがちな気がする。
そういう人のセーフティネットは必要だろうけど、90%以上は生活レベルを下げればいいだけ。
旅行に行かなくたって、老人は死なない。
孫の入学祝にランドセルを買ってあげられなくたって、老人は死なない。
風呂に毎日入れなくたって、死なない。
国産肉を輸入肉にしたって、死なない。
思うのだが、そもそも、医療保険の掛け金がに応じてというのがおかしい。
病気になりやすい人(高齢者)は高く、なりにくい人(若年者)は安いのが民間の常識。
年金だって、払いきれないなら掛け金を高くして支払い額を低くすればいいだけの話。
セーフティネットの部分だけなら、高額医療費制度だけで十分だと思う。
公的な医療保険がなけりゃないで民間の保険が参入してくれば問題ないじゃん。
民間
だって入院だけじゃなくて、風邪引いただけでも降りる保険を出すでしょ。
年金なんか個々人が自分で銀行なり証券会社なりで加入すればいい。
個人的には年金も医療保険も公的なのは全部廃止でいいと思うんだけどさ、やりたいなら賦課方式やめりゃいいのに。
賦課方式をやめればほぼ瞬間的に社会保障の財源問題なんか解決じゃん。
大幅に負担増して福祉削減すればろくに貯蓄もできず失業や老後のセーフティネットもないわけだから飢えや病気に苦しむ不潔な生活を送ることに変わりはないんでないの?
では、私が知らなかったそういう経緯があったとしましょう。しかしあれに反応した一般の人の中には、私並みに無知な人も大勢いたのでは?
繰り返し私は書いていますが、18歳未満のセックスを禁ずることで、コンドームやピルを手に入れられなくなる事の弊害は、どのように考えますか?
禁じれば手に入らなくなるという理屈がわかりません。未成年者に対してポルノの販売は今でも「建前上」禁止・自主規制されているはずですよ。
そして、「建前上は杓子定規で実質はザル、そしてセーフティネットがきちんと存在する」という状況こそが大事だと思います。下でもう少し詳しく書きます。
そもそも、危険性では圧倒的に低い酒やタバコにしたところで、「酒はやめておいた方が自分のためだよ。どうしても無理でも一気飲みだけはやめておきなさい」なんて生ぬるい教育が通ると思いますか?
まさに今、大人が子供に対して、酒との付き合い方として教えているものじゃないですか?そしてそれを私も支持します。
これが一般的なのか私も自信がなくなってきましたが、私は高校生のうちから期末試験や文化祭の打ち上げで普通に飲酒していました。高校教師や親はそれを黙認し、「一気飲みはするな」とだけ言ったものでした。
いや、あなたの過去に関して言うならば、私もそんなものだった(期末試験ぐらいでは飲まなかったが)し、高校卒業後大学合格の報告に行ったときには、恩師がお祝いに飲みに連れて行ってくれたこともありましたよ。形式上は卒業していなかったわけだから、今ではちょっと考えられないかもしれませんね。卒業式後に野球部員が飲酒していたせいでどこかの高校が非難を浴びて甲子園を辞退させられた一件の時は、なんといやな時代になったものかと唖然としたものでした。
それでも、高校時代は建前上は「飲酒がばれれば停学」だったし、実際に限度を超えた人などで処分を食らっていた人もいます。私の学校は締め付けが緩いことでむしろ有名だったのですが。「やめておいた方が自分のためだよ」なんて甘っちょろい忠告だけというよりは、もう少し緊張感があって、建前は建前としてきちんと生きていましたよ。ハレの日のみ多少「武士の情け」があり得るという暗黙の了解はありました。
性に対してもそういう態度が必要だと私は思います。人間を信用しないゼロ・トレランス方式は教育の場にふさわしくない愚かきわまりない方針だと思います。しかし「建前」は大事です。そうすることで、自分たちのやっていることを真剣に考えるようになるからです。それが一番重要なことです。
児童ポルノ法が取り締まるのは児童買春と児童ポルノです。また、各都道府県にある青少年保護条例が規制しているのは児童との淫行です。真摯な恋愛関係にある限り、13歳以上を性的対象にすることは虐待ではありません。
ところが、出典は失念してしまいましたが、自分の裸を撮ったことで、本人が「児童ポルノ製造」の罪で逮捕されたという話がありましたよ。キリスト教原理主義の強い米国でその種の事件がいくつかあるのはわからなくもありませんが、日本でまでこういうことが起こるのは唖然としました。明らかにこの件については取り締まりの目的と手段が主客顛倒し、そしてそれが余り疑問にも思われていない実態があります。
また、「一部の強硬な人を除いては「規制あるのみ、問答無用」」という状況にあるようには思いません。そうなら、もう規制されてますよ。声が大きい人とアグネス・チャンは目立つので、そのように感じているのかもしれませんが、東京で青少年保護条例の改正が否決されたように、規制反対派は沢山います。私もその一人です。
沢山いますが、それはこの問題に関心を持っている人だけですね。案外キャサリン・マッキノン並の道徳を持っている人は世の中に多いのではないでしょうか。少なくとも、「日本は児童ポルノ大国である」というような(事実としてかなり疑わしい)宣伝がこれだけなされていれば、欧米の過剰規制(アグネス・チャン並の)が日本にも導入される日は決して遠くないでしょうし、未成年者の飲酒に対して世の中がこれほどまでに手の平を返した以上は(プロ野球の優勝記念の「ビールかけ」に19歳の選手が参加できない時代ですよ)、案外抵抗もなにもなくビクトリア朝並の世界がやってくるような気がしてなりません。フランコ・ゼフィレッリ版の「ロミオとジュリエット」みたいなのも児童ポルノ扱いされてしまって不思議はありません。捕鯨問題に見るように、世界には良識という名の狂気は充満していて、付和雷同する人が多い日本の世論なんて甚だ心許ないものです。
そうした狂気から身を護るためにも、グレーゾーンはグレーゾーンとして残しておく必要があると思うのですよ。そうでなければ、結局は全部黒とされてしまうのがオチだと思います。違うでしょうか。だからこそ私は、「白」の領域を無理に拡げようとすることに抵抗を感じるのです。
しかし、児童買春と児童ポルノの製造(これは15歳あたりで線引きすべきと考えるが別の話)を行ったものの罪はもっと軽くすべきであるという、あなたが最初に書いた論には乗れません。
いや、「軽くすべき」というのは「児童を性的主体と認めるならばそうなる」という話であって、それは逆説で言っているのでお間違えのないように。私は本音では「建前上認めるべきではない」という立場なので、「軽くすべき」だとは思っていません。
いやそういう話じゃありません。13歳は、自転車にはどういう危険があるかということを教えれば理解することができます。だからその意味で「自己責任」の範囲内で自転車に乗ることができます。一方でこれが13歳ではなく3歳であれば(外で)自転車に乗せるべきでないのは言うまでもないことで、なぜなら3歳の子供は自転車の危険性が十分に理解できないと考えられるからです。
13歳の子供と性行為の関係は、3歳児と自転車の関係と比べられるべきものです。避妊の知識すらまともに浸透できず、まして子供を育てる能力などなく、そればかりかその年齢で妊娠するだけでも体に無理な負担がかかるということに想像が及んでいないことを考慮すれば、「生物学的・社会的に成熟するまでは性行為をしてはならない」と、「大人」としては言うべきなはずです。もちろん、それは性教育をしなくていいとかセーフティネットを張らなくていいという意味ではありませんが。
それがたとえば、石原慎太郎が「中学生はセックスするなと教えるべき」と言い出すと、フェミはヒステリックに反応するわけです。確かに石原なんかに賛成したくない気持ちはわかりますが、中学生が妊娠したらどれだけ危険かということを考えたら、これは「10代は酒を飲むな」と同レベル以上の話のはずです。決して過剰なパターナリズムではないはずなのに、どうしてこういう反応になるのかわけがわからないわけです。
DVシェルターとは、「ドメスティックバイオレンス(DV)またはジェンダーバイオレンス(GV)に遭った被害者を、加害の原因たる配偶者等から隔離し保護するための施設」である(Wikipediaより)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/DV%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC
それと同様に、集団ストーカー・テクノロジー犯罪被害者の駆け込み寺的な存在として、集スト・テク犯シェルターを提案したい。
イメージとしては、こんな感じ。
http://www.hituji.jp/comret/info/tokyo/kokubunji/kokubunji-guesthouse
所在地:
東京近辺
(求人が多く再就職がし易い場所であり、確認されている被害者が一番多く住んでいることから、連携が取りやすいと思われるため)
家賃:
30,000~60,000円程度+水道光熱費5,000円程度、敷金礼金はなし
設備:
個室・4.5畳~程度。風呂・トイレ・キッチン共同、リビングのような共用スペースあり、防犯カメラ完備、鍵はできれば指紋認証
形態:
(被害者個人よりも、第三者の法人や公的団体が物件の契約者又は保有者であることが望ましい)
入居条件:
・一定期間ブログや日記などをつけており被害状況が確認できるか、テクノロジー犯罪被害ネットワークの会員で一定回数定例会に参加実績があること
・身分証が確認できること、住民票を移すこと
その他:
・入居日から2週間は無料で利用でき、それ以上の期間にわたって入居する場合に家賃・水道光熱費が発生する(家賃は月極め、半端な日数分は日割)
・自己紹介(被害状況など)を記入し、顔写真を張り付けた入居者ノートを作り、どんな入居者がいるかを把握できるようにする
・週1回程度、顔合わせと情報共有のため、入居者全員でミーティングを行う
(2)被害について知っている人ばかりなので、意思の疎通がしやすく、気軽に被害について相談できる
(4)複数人が一緒に住むことで、防犯面でも多少安心。知らない顔の人間が入ってきた時にすぐに分かる
(5)テクノロジー犯罪被害ネットワークが運営すれば、家賃収入をNPOの収入とすることができる
(1)加害者が入居する可能性、ネズミ講や宗教の勧誘をする人が入居する可能性
(2)被害者には金銭的な余裕がない者が多く、高額な家賃を支払い続けることは難しい人もいると思われる点
(3)集中的に加害される可能性
(4)初期投資
(1)については、入居審査でできるだけはじき、もし入居してしまった場合には警察に共同で被害届を提出することで対応する。(被害について、知識と経験が豊富なリーダー格の人物が入居していることが望ましい)
(2)については、できるだけ安い家賃の部屋を作ることで対応する。それでも無理な場合、生活保護を受給してもらう。
(3)については、複数人で被害を確認し、刑事事件にできそうなものであれば小まめに警察に届け出る。ハウスの特性上、集中的な警備をお願いする。(警察にも加害者がいるという話もあるけど、形だけでも)
被害者は一人でいる時に狙われることが多いため、複数人でいることで被害が軽減する可能性も考えられる。
(4)については、新築はお金が掛かりすぎるため、使われなくなった大企業の寮などの中古物件を安価で手に入れる。又はファミリー向けマンションの一室や一軒家を借り上げ、又貸しする(この場合、個室に鍵がかからないとセキュリティが甘いのが気になる)。
ビジネスプランや収益モデルについては、既存のDVシェルターやゲストハウスを参考にする。
規則を作っておき、入居者が遵守することは絶対必要。
・・・以上、妄想でした。
実はまだテクノロジー犯罪被害ネットワークには加入していないのですが^^;;;;;どうにか、被害者のセーフティネットができないものでしょうかね。。。
大丈夫か?日本はILOの条約をろくに批准していないので労働者の保護はおざなり。だから他の先進国ならとっくに逮捕されてるレベルのブラック企業がのさばってる。日本企業の競争力は労働者の個人の時間を犠牲にした長時間労働によって支えられているわけで、今すぐにでもこの体制を変えなければ競争力の維持は難しい。
しかし、課題は山積みだ。雇用慣習の改革(就社型から職務型に)、同一労働同一賃金、セーフティネットの充実、就労支援の強化、労働者の教育補助、経営者の育成、社会全体での子育て支援。ざっとこれくらいはやらないと先進国とは言えないだろう。
違うだろ。教育などの問題から、生きていく上で必要な情報が足りなかったために、情報を持った人間からは非合理に見える行動をしているだけのことだ。
なるほど。
・<底辺>は、非合理的人間が多い。
・非合理的人間が生まれるのは、情報が足りないことが主たる原因だ。
ということだね。
教育の改善でこの問題が解決するかというと、無理かなーと思う。
十分な教育のある<底辺>は救えないし、そもそも情報が足りない人間は、学習意欲がないように思える。
# テレビの感想(NHKスペシャル|セーフティーネット・クライシスII 非正規労働者を守れるか)
ttp://pikapika.to/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2866
ぼくが日本で問題だと思うのは、不信があまりにも蔓延していることだ。労働者も役人も、「相手は悪いことをしようとしている。怠慢な人間だ」と不信をもっている。目の前にいる人にかかわることをおそれているし、自分になにかあったときに助けてもらえるとは思っていない。ある種のムラ的構造が保存されていて、身内以外は信用しない。そしてなお悪いことに、核家族化がすすんで身内がとても少なくなっている。失業した労働者たちを見ていると、ぼくなんかは「いったん実家に帰ればいいのに」と思う。でも画面に出てくる人はだれも「実家に帰る」という言葉を口にしない。テレビのコメンテーターたちも、口にしない。
彼らに帰る実家はないんだろうか。ないのかもしれないし、実家がないことが悪いと思わない。ただ、そういった身寄りのない人たちがたくさんいて、どこにも助けを求められずにもがいているのだとしたら、それは問題だろうと思う。家族や地域の構造は、ここ数十年おおきく変化してきた。むかしにおいては、「セーフティネット」というのは、「家族」や「地域」だったのだろう。なにかあったら家族や親戚が助けてくれるし、都会で仕事を失えば地域に帰るという手があった。地域にも仕事があっただろう。しかしいまでは、そういったセーフティネットが失われてしまったのではないか。
番組の終盤で、東京大学教授の神野直彦さんがおっしゃっていたのは、やはり信頼の問題だった。いまの日本には人のあいだの信頼がないと。いくら制度が充実してお金が用意されていても、相互に信頼する関係がないならば、日本人のあいだに幸せは訪れないだろうと。ぼくはこの意見に心から同意する。そして相互信頼が日本に訪れるためには、哲学が必要ではないかと思うのだ。たとえば、問題を解決しようという意志や、問題を解決したいと思わせる人の絆。自立と自律にもとづいた人や地域。そういったものが日本の社会で育ってほしいと思う。
いやいや、若者に起業しろ海外にいけチャレンジしろとかほざき続ける、鉄骨渡りの観客の皆さんはまさに
としか言ってないと思うねぇ。少なくともそれをけしかけまくってる。
「安全な鉄骨渡りなら、カネをもらえる意味がない!カネが欲しかったらどんどん危険な鉄骨をわたれ!」
ってな感じで。
そもそも、若者に鉄骨渡りをけしかけてるような人たちが「セーフティネット」とやらをまともに論じてるのを見たことがないね。
「いかに鉄骨渡りが素晴らしいか」「鉄骨渡りに気軽に挑戦できる社会こそが重要だ」と、鉄骨渡りをやらせることだけに執心で、
命綱やセーフティネットの存在は「まあ、それがなきゃだめだよね。それは今後の課題だろう。」としか言わない。
鉄骨渡りの実現性や未来予想図に関しては色々な学問やら経済学(笑)やらを駆使してけしかけようとするのに、
命綱やセーフティネットの実現には全くといっていいほど興味を示さない。
鉄骨渡りの観客って概念は、二言目には「リスクをとれる社会を」「海外に出ろ」「起業が容易に出来る社会を」などという
経済に詳しいことを自称するようなネットの論客の皆さんすべてに当てはまると思うよ。
具体的に言うと、池田信夫とか、ちきりんとか。