うちの家族はとある宗教に入信していた。全国的に展開している宗教だが、名前を聞いてもパッとイメージできる人も少ないと思う。カルト寄りな宗教というわけではなく、教祖の教えは割と真っ当なものだったように思う。祖母が熱心な信者だったが、祖父と両親も毎日のお祈りなどは欠かさなかった。そして僕も物心ついた頃からお守りのようなものを24時間365日肌身離さず着けているよう言われ、毎日夕飯の前にお経?のようなものを唱え、両親や祖父母の言いつけを守り教祖のありがたい教えを聞いていた。子供の頃はそれが当たり前だったし、どの家でもそうしているものだと思っていた。
両親には「うちは貧乏だから」と言われて育った。誕生日とクリスマスのプレゼントがまとめられ、お小遣いや毎年のお年玉の額には常に不満を持っていたような気がする。もちろんうちより貧乏な家庭は他にごまんとあっただろうし、今思い返せばそこまで生活に不自由を感じたことはなかったと思う。しかし子供ながらに不満に思っていたのは年に一度もらえるお年玉よりも毎月両親や祖父母が宗教団体にしていたお布施の額の方がはるかに多かったことだった。そしてその少ないと感じていたお年玉すら祖母にはお布施するように言われたことがある。祖母いわくお布施をするとそれが何倍にもなって返ってくるよということだった。
祖母は家族よりも自分、自分よりも宗教を優先する人だった。毎月もらっている年金はほぼ全て宗教につぎ込み、毎月県外の総本山に足を運んでいた。家のローンで家計が苦しいのもわかっていながら家にお金を入れることは一切なかった。幼い頃は祖母のことが好きだった。宗教では色んなイベントをしていて、そこによく連れて行ってもらっていた。うちでは旅行なんてほとんど行くことはなかったが、総本山に連れて行ってもらった時は旅行気分で本当に楽しかった。何千人という人が祈りを捧げていて、子供ながらにスケールの大きさに感動したこともあった。しかしいつからか、何もかも宗教を優先して家族のことを顧みない祖母のことが嫌いになっていった。
僕は中学になる頃、思春期真っ只中だった。例に漏れず反抗期を迎え、その頃は前述のお布施のことに気付いた時期でもあった。夕食の前にわざわざ見ているテレビを消してお経を唱えるのが嫌だった。学校で着替える時に同級生にお守りのことを聞かれるのが嫌だった。年末はいつも唱えるお経が長くなるのが嫌だった。祖母に教祖の話を絡めて説教されるのが嫌だった。祖母や両親は宗教の教えに従っていれば必ず幸せになれるよと言った。お守りを持っていれば守ってもらえる、病気も治ると言った。僕は思った。うちは貧乏でお金がないのに本当に幸せなのだろうか?貧乏だというなら、宗教をやめてお布施しているお金を生活費に回したほうがよっぽどいい生活ができて幸せなのでは?お金が全てではないと思うが、お金持ちの家の方が確実に幸せだ。
高校生になる頃、僕はお守りを押し入れの引き出しの中にしまい、身につけるのをやめた。学校帰りに友達と遊ぶようになり、夜中まで帰らないことも多くなった。夕飯前のお経も参加するのをやめた。お布施の入っている箱から数万円抜いたりすることもたびたびした。祖母はそんな僕とほとんど口を聞かなくなり、顔を合わせるたび嫌みを言うようになった。僕はますます宗教が大嫌いになった。
そんな僕も祖父のことは大好きだった。昔から本当に優しくしてくれたし、毎年年末には二人で2000ピースほどの風景写真のジグソーパズルを作り、祖父の部屋に飾っていた。中学になる頃までは毎年欠かさずやっていて、今年は祖父がどんなパズルを買ってくるのかと毎年ワクワクした。高校生の頃、思春期でほとんど話さなくなってしまった時に亡くなってしまったのであの時はもっと話をしておけばと本当に後悔した。祖父が亡くなった後、祖母は邪魔だからと言って飾ってあったジグソーパズルも祖父の私物もすぐに全部処分してしまった。その頃から僕は早くこの家を出たいと思うようになった。
その後は高校を卒業し県外の大学に通うため実家を出た。自由になって実家のありがたみを感じたが宗教についての価値観は今でもあの頃と変わっていない。信者たちはそれぞれ宗教を拠り所にする理由があるのだろうが、僕にはやはり必要ないと思った。大学を卒業して地元に戻ったが、家族で僕だけは宗教に参加しなかった。
20代半ばで結婚してすぐの頃、祖母が亡くなった。その頃はもう実家を出ていて祖母にもたまにしか会うことはなかったが、祖母は最後まで教祖の教えを口にしていて、死ぬことは怖くないよと言っていて本当に幸せそうだった。教祖の教えに「肉を食べると凶暴になる」みたいなのがあった気がするのだが、祖母はそれをみて肉は一切口にしなかった。しかし結局それが根本的な原因の病気で亡くなったんだと聞き、なんとも言えない気持ちになった。遺産はなかった。祖母の通帳の中身もほとんど0に近かった。
しかし、祖母の葬式には本当にたくさんの人が来た。ほとんどが宗教の関係者で、みんな口を揃えて「祖母には本当にお世話になった」と言った。それを聞いて僕は改めて祖母はたくさんの人に愛されて幸せだったんだなと実感することができた。
僕は現在30代になり子供もできて思うのが、たとえ子供だろうと選択する自由はあって然るべきだということ。宗教を信じるも信じないも個人の自由だが、押し付けたりすることは絶対にいけないことだと思う。たとえそれが自分の子供であっても、子供の意見を尊重しないといけないと改めて感じた。子供の頃の体験は僕に、自分にとって何がベストなのかを常に考え行動することの大事さを教えてくれたように思う。