2019-07-25

経済成長は「生産性人間をはからせない世の中」と両立する

経済成長と「生産性人間をはからせない世の中」は両立するのか?という問いがあった、

私は経済学博士課程に在籍している。経済成長論は専門ではないが、ここにある

経済成長を維持することを第一に考える社会」というのは、「生産と消費を増やすことを常に人々に強いる社会」なわけです。

という表現があまりにも経済学一般の成長に対する考え方とかけ離れているように思ったので、経済学者が考えている成長について述べていこうと思う。

成長の源泉

経済学において成長の源泉は大きくいえば二つある。一つは資本蓄積二つ目技術進歩だ。資本蓄積とは、端的に言えば人が生産したものを貯蓄し、資本を蓄積することで、1人当たりの生産量(労働生産性)をあげ、豊かになっていくというモデルであるロビンソンクルーソーで例えれば、木を切ってすぐに使わないで貯めていき、それで木を切るための道具を作ったり、船を作ったりすれば、時間あたり(人あたり)の(木、魚などの)生産量が上がる、というような経路を考えればいいだろう。

もう一つの源泉が技術進歩であるロビンソンクルーソーいくら木などの資源を蓄積したところで、そのうち彼には使いきれないほどの資本がでてくるだろう。彼が持続的に豊かになり続けるためには、彼の持っている技術レベルを超えて、電気自動車などの新しい技術発明していく必要がある。持続的な成長のためには資本蓄積だけでは不十分で、技術進歩によって生産性を向上させていくことが必要である、というのが経済学者のコンセンサスであると思う。経済学部でソローモデルなどを習った人にはこのメッセージは聞きなれたものであるかもしれない。

資本蓄積技術進歩の違い

このロビンソンクルーソーの例えだと、資本蓄積技術進歩ってどう違うの?という考えが出てくると思う。どちらも本質的には今期の消費や余暇犠牲にして、将来の生産に役立てる行為のように見えるからだ。これは上にあるような絶えざる我慢努力によって「生産と消費を増やすことを常に人々に強いる社会」のように思えてくる。

資本蓄積技術進歩の大きな違いは、技術知識)が公共財であるということだ。つまりロビンソンクルーソー自動車発明しなくても、誰かが自動車の作り方をみつけ、それを彼に伝えることができれば(理論的には)彼は自動車を作ることができる。このように、他者に渡してもその価値が損なわれないもの経済学では非競合財という。考えてみれば、社会における進歩私たち個人努力殆ど関係がない。一人の人間いくら怠けても鉄道電気の利用、インターネットなどは発明されていただろう。そして私たち努力をしなくてもそれらの恩恵享受することができる。ある人が20年前と今で(同じ金額で)買えるものは大きく異なるだろうが、それはその人が絶えざる努力をしたからではなく、技術進歩してそれが社会に普及していったからだろう。

このように、個人の絶えざる努力を通じて「生産と消費を増やすことを常に人々に強いる社会」という考え方はあまり経済学者の中では一般的ではない。成長論の一般的なモデルでは、社会生産セクター研究開発セクターに分かれている。研究開発セクター発明・開発を行い、その成果が生産セクターに波及することによって経済成長が起こる。研究開発部門特許などを通じて利益を得て、研究者に給料を払い、持続的に技術進歩、成長ができるような経済が実現するようにモデルが組まれている。

生産性人間ははかられているか


この経済成長のある世の中で、人間生産性ではかられているだろうか?この「生産性人間がはかられているか」という表現は極めてあいまいだと思うが、試しに「生産性によって人の待遇(富、名声)などが決まる社会」を考えてみよう。ちょっと考えればこれは度合いの問題こそあれ、経済成長をしている現代では当てはまらないことのように思える。例えば生産性が皆無である乳児の死亡率は下がり続けている。ALS患者の皆様が介助を受け、政治家として活動ができるようになったのはこの経済成長がある現代ではないだろうか。

また経済成長を追い求めないことが「生産性人間をはからせない世の中」に近づくのだろうか?ちょっと考えればそんなことはないと分かると思う。例えば経済成長ほとんどない中世などで人々は生産性で測られていなかっただろうか?乳児死亡率は高かっただろうし、十分に働けない人間は野垂れ死んでいただろう(これはちょっと誇張かもしれないが、少なくとも現代日本よりはそうであろう)。これが果たして生産性人間をはからせない世の中」だろうか?

現代において経済成長を止めた社会が「生産性人間をはからせない世の中」と両立するだろうか?仮想的に研究開発など、技術進歩につながる行為を一切止めた社会を考えてみよう。それで果たして生産性人間ははかられなくなるだろうか?注意すべきなのは、個々人の生産性の差は静的なものであり、経済成長無関係存在するということだ。私が1時間10人をレジでさばくことができ、Aさんが1時間に15人をレジでさばくことができるとしよう。果たして技術進歩が完全に止まったとして、私とAさんの地位は変わるだろうか?引用した議論では、現存している生産性の差と経済成長関係しているように暗に仮定されているが、それは少なくとも私にとっては全く自明ではないと思う。

まとめ

すいません、また後で書きます

http://amamako.hateblo.jp/entry/2019/07/25/105216

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