俺は社会が怖い。
社会の人間は皆が自分の利益のためだけに動いていて、誰一人信用することなどできないと思い込んでいる節がある。
だからこそ俺は高校卒業後就職をせず、だらだらとニート生活を送っているわけだ。
それが本当に思い込みかどうかは実際に社会に飛び込んでみなくてはわからない。
しかしそれはどうしても嫌だ。
会社へ出勤する自分を想像すると、上司に叱責され、同僚に嘲笑われ、後輩に馬鹿にされるイメージが鮮明に浮かぶ。
俺の深い芯の部分が拒否反応を起こす。
ずっと疑問に思っていた。
そもそもなぜ周りの連中は平気な顔をしてそんなところへ飛び込んでいけるのだろうかと。
それで東野圭吾の「変身」を読んだ俺は理解した。っていうか思い出した。
はてななんかを見ている人は東野圭吾の小説を一冊くらいは読んだことがあるだろう。
作風が狭いわけではないが、もっと根本的な部分で東野圭吾の小説には社会に対するネガティブな感情が刻み込まれている。
如何に社会が自分のことを必要としておらず、如何に一人ひとりが自分のことだけを考えて生きているかということを教えてくれる。
子どもの関係から発展したママ友同士のいじめ、旦那の収入で競い合うセレブの争い、優秀な部下に対する上司の陰湿な嫌がらせなどが大好物である。
だが決してそれらの行為を否定し、批判する意味で描かれるわけではない。
結構な確率で主人公自身がそれを実行する側であり、その心理と思想がまるで見てきたかのように詳細に描かれる。
加害者と自分が重なることで、誰かを苦しめる行為がただの悪意によってのみ生まれるものではないということを理解させられる。
それは即ち、差別やいじめやそれ以外の犯罪が人間社会にとって本質的なものであるということである。
読んだことがある人ならわかると思うが、東野圭吾の小説はとにかく読みやすい。
論理明瞭な文章で難しい語彙も表現も少ないため、小学生でも漫画のようにスイスイ読める。
なぜか小学生の俺は東野圭吾の小説を異常に気に入っていて、そればっかり月に何冊も読んでいた。
(白状すると今も昔も東野圭吾以外の小説はあまり読んでいないにわか野郎だ。)
その蓄積が俺の社会に対する恐怖を育んだというわけだ。
これは決して過大な表現じゃない。
子どもの頃に受ける影響というものは計り知れないもののようで、俺は骨の髄まで東野圭吾の社会に対する負の感情に蝕まれ、どうしようもなく社会を恐れている。
と、タイトルからここまで東野圭吾に自分の怠惰の責任を押し付けるニートとして綴ってきたが、まあ実は東野圭吾と小説を憎んでいるようなことは一切ない。
なぜなら別に俺は社会に出ない自分を嫌悪しているわけではないからだ。
東野圭吾に影響を受けたことも、その結果社会を恐れていることも事実だが、だからなんだという話だ。
子どもの頃から教えられてきた正規ルートからは離れてしまうが、それもまた人生であることには変わらんのではないか。