2017-10-11

東野圭吾が俺をニートにした

俺は社会が怖い。

社会人間は皆が自分利益のためだけに動いていて、誰一人信用することなどできないと思い込んでいる節がある。

からこそ俺は高校卒業就職をせず、だらだらとニート生活を送っているわけだ。

それが本当に思い込みかどうかは実際に社会に飛び込んでみなくてはわからない。

しかしそれはどうしても嫌だ。

会社へ出勤する自分想像すると、上司に叱責され、同僚に嘲笑われ、後輩に馬鹿にされるイメージが鮮明に浮かぶ

周りには敵しかおらず、日に日に自分の心が削られていく。

そんな生活だけは絶対にしたくない。

俺の深い芯の部分が拒否反応を起こす。

ずっと疑問に思っていた。

そもそもなぜ周りの連中は平気な顔をしてそんなところへ飛び込んでいけるのだろうかと。

その理由が判明したので今このエントリを書いている。


そう、ぶっちゃけ東野圭吾だ。

つい昨日ネットを見飽きて珍しく自分本棚に手を伸ばした。

それで東野圭吾の「変身」を読んだ俺は理解した。っていうか思い出した。

こいつが俺の社会に対する恐怖を刻みつけた元凶だと。

はてななんかを見ている人は東野圭吾小説を一冊くらいは読んだことがあるだろう。

作風が狭いわけではないが、もっと根本的な部分で東野圭吾小説には社会に対するネガティブ感情が刻み込まれている。

如何に社会自分のことを必要としておらず、如何に一人ひとりが自分のことだけを考えて生きているかということを教えてくれる。

東野圭吾差別いじめを具体的に描く。

子ども関係から発展したママ友同士のいじめ旦那収入で競い合うセレブの争い、優秀な部下に対する上司陰湿嫌がらせなどが大好物である

だが決してそれらの行為否定し、批判する意味で描かれるわけではない。

主人公は必ずしもそれらに苦しめられる被害者ではないのだ。

結構確率主人公自身がそれを実行する側であり、その心理思想がまるで見てきたかのように詳細に描かれる。

加害者自分が重なることで、誰かを苦しめる行為がただの悪意によってのみ生まれものではないということを理解させられる。

それは即ち、差別いじめやそれ以外の犯罪人間社会にとって本質的ものであるということである


俺はそんな東野圭吾小説小学生の頃に貪り読んでいた。

読んだことがある人ならわかると思うが、東野圭吾小説はとにかく読みやすい。

論理明瞭な文章で難しい語彙も表現も少ないため、小学生でも漫画のようにスイスイ読める。

なぜか小学生の俺は東野圭吾小説を異常に気に入っていて、そればっかり月に何冊も読んでいた。

(白状すると今も昔も東野圭吾以外の小説はあまり読んでいないにわか野郎だ。)

その蓄積が俺の社会に対する恐怖を育んだというわけだ。

これは決して過大な表現じゃない。

子どもの頃に受ける影響というものは計り知れないもののようで、俺は骨の髄まで東野圭吾社会に対する負の感情に蝕まれ、どうしようもなく社会を恐れている。



と、タイトルからここまで東野圭吾自分怠惰責任押し付けニートとして綴ってきたが、まあ実は東野圭吾小説を憎んでいるようなことは一切ない。

なぜなら別に俺は社会に出ない自分嫌悪しているわけではないからだ。

東野圭吾に影響を受けたことも、その結果社会を恐れていることも事実だが、だからなんだという話だ。

子どもの頃から教えられてきた正規ルートからは離れてしまうが、それもまた人生であることには変わらんのではないか

私の人生をひん曲げてくれた東野圭吾感謝の念を込めて、就寝しようと思う。(AM 6:53)


追記:王道すぎてつまらんが私はやはり「容疑者Xの献身」が好きだ。

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