2017-09-15

好きな人に会えなくなるよりつらいこと

10年間、片思いをいたしました。

同じ職場の、違う部署女性でした。

もともとは同じ部署で、そもそも彼女採用したのだってわたしでした。

ある日採用面接のために会議室の扉を開けると、目の前の机に自分の頭の中にしかいないはずの女性が座っていました。

黒くまっすぐに長い髪を後ろで一つに結き、片目を隠すかのように伸びる前髪の隙間から、光のすべてを吸い込んでしまいそうな黒い瞳こちらを見つめていました。

肌は血管が浮き出てしまいそうな程に白く、口紅を付けているかからない程に薄い朱色の口元が淡く浮かび上がるように小さく微笑んでいました。

そのすべてが自分理想通りでした。

彼女をひと目見た瞬間に、「どくん」と大きく心臓が一度だけ鼓動したのがわかりました。

彼女に聞かれてもおかしくないくらい、今まで経験したことのないような大きな鼓動でした。

今にも羽ばたいて飛び立ってしまいそうな彼女の唇が相変わらず微笑んでいるのを見る限り、それは杞憂だとわかりました。

仕事に私情を持ち込む訳にはいきません。むしろ厳しく審査をしなくては、公私の区別曖昧ものになってしまます

そう言い聞かせるように一つ一つ慎重に質問を投げかけるも、彼女の返答は完璧でした。

それどころか、少しでもこちらに伝わるようにと身振り手振りを加えながら一生懸命に答えようとしていました。

その度に、骨にしっかりと吸い付くような艶めいた細く長い指先が優雅に舞い、すらりと伸びた首筋が彼女言葉に応じてまるで一つの生き物のように脈打つ様子に見とれてしまわないようにすることで精一杯でした。

ついに断る理由を見つけることは出来ませんでした。

採用後も、彼女は期待以上の働きをしてくれました。

わたしが言わんとする事を何歩も先を見通していながら、歩調を合わせるように耳を傾けては相槌を返してくれました。

立場も年齢もわたしのほうがずっと上なのに、彼女と話をしているとどこか優しく包まれるような心地よさがありました。

わたしはそれ以上を望みたいとは思いませんでした。

こうして突然理想の人が表れて、毎日をその人と一緒に過ごせるだけで身に余るほどの幸せだったのです。

業績も順調に伸び、気がつけば彼女はこの課では欠かせない存在になっていきました。

わたしはこの気持を他の誰にも気づかれないように慎重に生活をしていました。

誰かのつまらない茶化しなんかでこの幸せを失いたくはなかったからです。

しかし、いつしか自分の中にも欲が芽生え始めてきたことがわかりました。

彼女を独り占めしたい。彼女もっと深い仲になりたいと思う気持ちが芽生え始めたのです。

彼女わたしのことをどう思っているのかが気になったことがないといえば嘘になります

でも、それを聞いてしまうと今のこの奇跡のような時間を一瞬にして失ってしまいそうな気がしてできませんでした。

このままでは仕事もろくに手につかなくなってしまう。次第にそれは焦りへと変わっていきました。

その頃、会社新規部署立ち上げの話が舞い込んできました。

わたしは迷わずそれに挙手をしました。

距離が何かを解決してくれるかもしれない。それが逃げだとわかっていながら、わたしは別の部署へと移ることになりました。

そうは言ってもやり取りが全くなくなってしまうわけではありません。

週に何回か、部署を跨いでは仕事の依頼を持っていきました。彼女ほど、わたし要望理解してくれる人が他にはいませんでした。

でも、距離は何も解決してくれませんでした。

かえって距離が離れてしまったことで、見えない時間の分だけ焦りと不安は増えていきました。

その頃、わたしは心の底から彼女に飢えていることがわかりました。

でも、その気持が強くなればなるほど、この関係が壊れてしまうことを恐れました。

そうしてわたしは、再び逃避という選択肢を選びました。

ついに部署をまたいで仕事をもっていくことをやめました。

通路ですれ違っても、わたしは敢えて目をそらし、会釈も程々に立ち去るようにしました。

それを彼女がどう思っているかはわかりません。

そうしているうちに、彼女が退社するという知らせが届いたからです。

その日が訪れることは、彼女入社した日から覚悟していました。だから悲しいとは感じませんでした。

しろ、この苦しみから解放される安堵感のほうが強かったかもしれません。

会えなくなれば、いつかは忘れることができるだろう。

それは、彼女に思いを伝えて拒絶されてしまうかもしれない恐怖よりもずっとましなことのように思えました。

ひとしきり泣いたあとは、あとは忘れるのを待つだけの日々を過ごせばよいのです。

会えなくなることの辛さを思い出しては泣いて、忘れるまで我慢するだけで良いはずだったのです。

しかし、そんな生活を3ヶ月ほど過ごしていた頃です。何の前触れもなく思いもよらない知らせが届きました。

照れたようなバツが悪いような様子で話があると近づいてきのたのは、同じ会社役員でもある年下の従兄弟でした。

結婚が決まった。ところが相手わたしのよく知る人間なのだといいます

それだけで、全てを察するには十分な情報でした。

彼女退職した後、密かに思いを寄せていた彼は思い切って思いの丈を打ち明けたらしいのです。

大げさな驚きとともにまるで我が事のように喜びながらお祝いの言葉自然と口にする自分を、頭蓋骨の中にいる小さな別の自分が眺めているような、現実自分の間にある分厚い空白を感じていました。

もう一度彼女に会えるかもしれないことに喜びはなく、他人に取られてしまったことにも、彼女幸せになっていくことに自分関係していないことも、特別に何かを感じることはありませんでした。

しかし、心の底にいいようのない不安が確かに蠢いていることがわかりました。

だってわたしは、もう二度と彼女を忘れることができなくなってしまったのですから

彼女妊娠をして、子供が生まれて、子供たちとどのように過ごしていくのかを、聞きたくなくても耳に入ってくることでしょう。

いい話ばかりではなく、うまくいかない話だって聞こえてくるかもしれません。

それに、もしかしたら彼女が体を壊し、さらには命を落としただなんて知らせすら聞こえてくるかもしれないのです。

そう思うだけで、胸は強く締め付けられたかのように苦しくなりました。

あのまま彼女と二度と会うことがなければこんな苦しい思いをしなくて済んだはずだったのに。

これからわたしが辿る人生は、重い砂の中を進むことも戻ることも出来ずにただひたすら歩き続け無くてはならない蟻地獄のような人生に違いありません。

逃げることも触れることも許されずに、流れ落ちていく砂の中心で、彼女の薄い朱色をした唇だけが淡く微笑んでいるのです。

  • やーい、いくじなしー

  • かわいい人。思慮深くて控えめな貴方が幸せになりますように。きっと彼女も貴方を好きだったと思うよ。

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