2017-01-23

絵本の「炎上」で語られるものがどれも的外れ

キングコング西野氏がプロデュースした『えんとつ町のプペル』で、ブログタイトルにつられてみんなが反応した。

そうだ、「お金奴隷解放宣言」という一文は、とても昨今のみんなの気持ちを端的に表しているのだ。

お金を出せば世の中を少しだけ動かせるんだけど、それでも自分の欲しいものもっとお金のかかるもの

生活費以外でのこったお金で皆やりくりしている。趣味に使うお金はいわゆる「娯楽費」だから、毎月毎月少しずつお金を出して買っている。

けれど、昔のゲームや今の書籍雑貨のように「買ったら終わり」の世界ではなく、「買っても次々に課金しなければならないゲーム

「毎月少しずつ払って使うツールセキュリティソフトなど)」にさえも、

毎月なんらかの維持費としてお金がかかる。

それらは少しずつなんだけども、5つ集まれば相当な金額になる。

それは、自分楽しいから出せるお金の中からやりくりする。

自分を少し、楽しませるために欠かせないものから、出して楽しんでいる。

それらには、「自分が」楽しむものから、「自分で」買っているんだ。




でもね、「絵本」については少し事情が違うんだ。

みんな西野氏が出した絵本

「食っていくために出した商品としての『絵本』の内容を、クラウドファンディング出資者イラストレーターさんに許可を取らずに、勝手に見せた」ことに怒ってる。

しかも「描いてくれたイラストレーターさんや、出版社などに利益を出すために金を払うのは『糞ダセー』とは何事だ!!?」なんていってるんだけど。


『糞ダセー』と言ったのは、「イラストレーターさんや出版社」にではなく。



西野氏本人』なんだ。




その発言の矛先は、誰でもない、西野氏が自分自分に言った言葉なんだよ。


責めてるのは、「商品としての作品販売している人たち」でもなく、

「絵を描いて生業としているイラストレーターさん」でもなく、

あるいは「生きてくために値段をつけてモノやコトを売っている大人たち」ではなく、

「買って見たらその善し悪しが分かるよ」と豪語して、中身を見せず表紙で絵本を売ろうとしていた、西野氏が、自分に、自分で、言ったんだ。







ぼくらは、いつのまにか、自分自分が、と自分を先に出してしまう傾向がある。

お金を稼がなきゃ生きていけない」

お金があれば他人が振り向いてくれる」

「ちっぽけな自分が生きていくには身を粉にして働かなきゃ」

と、自分を殺しながら、今日も生きている。

そして、お金を嫌いながらも、お金があるから今日貧乏なんだと叫んで生きている。

お金持ちを見て、今日も羨ましいなんて思ってる。

そして、出した商品の「ココが悪い」に蓋をして、「これでいいんだ」と豪語して、買って使う人たちのことを見ないで、その人たちのもってるお金を欲しがっている。



でも、ちょっと待ってよ。

買って欲しい人って、だれなんだ?

絵本』を買う人ってだれ?

こども?

おとな?

おとうさん?

おかあさん?




絵本という本は、えとぶんで魅せてくれてきれいなのに、それなりにたかくて。

グリム童話日本昔話は、文庫でも見れるものがある。

でも、西野氏が書いたのは、まったく「あたらしいものがたり」だから大人が買うように「買って読んでみる」ができない。

こどもは「おやがしってるものがたり」しか、買い与えられないことが多い。

から、一番絵本を見せたいこどものことを考えないで、絵本は売れるわけがないんだよ。

こどもだって体験したものは、みんなにみせたいしはなしたいし、かたりあいたい。

こどもたちが体験したものって、どれも「はじめて」だから、しったときのよろこびはおおきい。

それなのに、かってくれるおやが「知らないから」っていって、かってくれないんだよ。

「ええ、これしらないんだよな~」で、こどもの「ほしい」がふうじられる。

こどもの「ほしい」に、おとなが「はんのう」してくれないと、こどもは「ほしいものがてにできない」こどもになる。

あるいは、「ほしいものをちからづくでてにいれるためにおやにほうしする」ようになる。

欲しいものを買ってもらうために、親の言いなりになる子供。そうなってほしい?

過剰にお金を追い求めなくてもいいから、お金奴隷から解放するといったのは、こどもたちにたいして、だったのだ。



おこづかいを貯めて買うこともできるけれど、それよりも親に買ってもらうことがこどもにとっては、はやいんだ。

というか単純に、「親に読んで聞かせてもらった」ことの価値は、自分でほしくて買ったときよりも、記憶に残りやすい。

そして、そのときをこどもが思い出す時、親があとで見つけた時に思い出すときの「きっかけ」としての、絵本

その『モノとしての絵本』を西野氏は書店に置いている。

けれど、おやが「買いやすい」ように、「手に取りやすい」ように、「内容がわからないなら見てほしい」ように、

無料化」で内容を公開したことを決めたのは、西野氏だ。

そのことに気付くのが遅かったから、西野氏が自分を『糞ダセー』といったんだ。

しろ、「無料化」ではなく「有料でネットにあげてしまうと大人たちしか見られない」。

ログインパスワードをこどもは知らないと見ていいし、ペアレンタルコントロールでこどもが見れるところを制限するし。

絵本書店からなくしたところで、スマホでもなんでもいいけど、一番見て欲しいこどもたちが、そこまでアクセスできるかな




で、補足。

無料化によるエンドクレジット削除」問題について。

この無料化と、ブログタイトル炎上してしまった事で、みんなは思った?

「参加したイラストレーターは知っているのか?」と。

昨今は個人情報を発信できることができ、逆にアクセスされる時代にもなって。

では、みんながそのイラストレーターさんを知って、Twitterやらブログやらに応援ではなく批判したいがために訪問したら最悪どうなると思う?

イラストレーターさんの氏名をなにも載せずに、絵本の内容だけ公開すると決めたのは西野氏であって、この責任を一人で背負うのは西野なのだ

これを、わたしたちは同じ立場になったとき責任を背負うことができるのか?

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