つまり作品そのものに触れずとも、それが褒められているという状況があるだけで、人はとある作品に対して不快感を覚えると思う。
ざっと考えてみても、
・1
誰かが何かを好きだと言う←もうこの時点でアンチになる可能性はある。
多くの人が好きだという必要すらない。たったひとりが好きだと言った時点で例えば以下の感情が生まれる。
「同じ文脈で褒められるべきだと感じていた他の作品よりorをおいて褒められた不快感」
「そもそも発話者に対する不快感(特定の有名人など個人に不快感を覚えてたのみならず、例えば「子供」「女」「腐女子」「リア充」etc、発話者の属性もフックになる)」
・2
多くの人間が何かを好きだと言っている←上述の要素が多重に重なり合う。
相手が多数になったことによって、基本的に不快感が強化される。
「皆もっと褒めるべき自分が好きな作品があるのにそちらは無視されていてる不快感」
「そもそもこの、例えばゆとりども、例えばキモオタども、例えば女ども、あるいは例えばリア充ども……が持て囃すくだらないコンテンツが少なからずその範疇にない人間からも褒められているという不快感」
・3
ムーヴメントになる←このいわばパンデミックとなった段階で、完全に上の反応は最大限強化されるが、さらにここでもうひとつの要素が付け足される可能性がある。つまり……
「何者か(何者ら)の意思によって、計画的に作品の価値以上に褒められている不快感」
もちろんその事実が正しいか間違っているかは、感情の問題なので意味がない。この段階においては、ものすごく安直ながら本人にとってはとても有効なカウンターとして機能していると思っているひとつのワードによって反論されることがままある。もちろん、そのワードとは「ステマ」である。
そして、別の大きな道がある。それは
・4
多くの人に叩かれている。あるいは、叩かれることがムーヴメントになっている←説明不要だろう。作品そのものに触れないアンチを生み出す最大の要因と言ってもいい。
この場合、ムーヴメントになった叩かれる作品に対する批判的情報が実に多くweb上で蓄積され、単にそれを摂取するだけで何かを嫌いになれる。
その理由を考えてみるに、これは一種の娯楽として成立するからかもしれない。例えば、映画なり漫画なりなんなりに「突っ込みを入れる」「おかしなところ指摘する」「批判する」ような芸を楽しんだことはないだろうか? 情報を集めるにつれ、そんな愉しみを覚えられるのだ……作品そのものを見たことがないにも関わらず。批判的な評を見て「逆に見たくなったwwww」のような反応、webで見かけたことはないだろうか?
あるいは他の例を挙げると、その作品のファンによる、「○○厨の悪行」とされる多くは匿名掲示板でこのような言動があったという個別的な事例や、匿名掲示板で報告される散発的なリアルでの振る舞いである。断言するが、それらがすべて事実だとしても、作品そのものの評価とは一切関係がない(なお念のため補足しておくが、自分はそのファンに対するアンチに過ぎず作品そのもののアンチではないとするのであれば、「作品に対するネガティブな評価を表明していない」という条件で射程距離から外しこの増田は完全にあなたを見ていない)。しかし、そんな悪行から不快感を覚えるのことは可能である。
ここまでで既に作品に触れないアンチが生まれるが、上述した一点目から三点目と四点目の組み合わせこそが真の「見もしないのにアンチ」が生まれる理由だと思う。即ち、とても流行っているが同時にとても批判されているというコンテンツに対し、前者の「流行っているから不快感を覚え」後者の「不快感を覚える理由を摂取」(あるいは逆)するためだ。
そして地獄めいた流れだが、実のところ四点目の叩かれている点が、一点目から三点目を理由とした不快感を前提として収集されたものであるなら? つまり普通なら見過ごすような不快なポイントとされる情報も逃さず摂取するなら?
当たり前に当たり前を重ねた話だが、自分にとって不快なものに付き合うのは、不快なことでやりたくない。
アンチとはそんな時間を経てしまった存在なのかもしれない。そういう人間が多いであろうことはわかる。
だが逆に、別に付き合ってはいないんだけど外部の流れから不快だと判断したから、その不快感を垂れ流す人もいるはずだ。
てーかもっと言うなら、わりと普通にまじめにその作品を受容して端的に駄目だと思ったからアンチになった人って、意外とwebで見られるアンチの人たちのなかから多くないと思うんだよね。それが悪いとは言わないけど。
全くもって実際にまじめに時間を割いたことないけどあらかじめイラっとしたり貶めたくなったりする作品だからとりあえずアンチしてるって人、断言するけどかなり多いと思う。