はてなキーワード: 食客とは
学問のすすめ 二編 端書
文字は学問をするための道具にて、譬えば家を建つるに槌・鋸の入用なるがごとし。槌・鋸は普請に欠くべからざる道具なれども、その道具の名を知るのみにて家を建つることを知らざる者はこれを大工と言うべからず。まさしくこのわけにて、文字を読むことのみを知りて物事の道理をわきまえざる者はこれを学者と言うべからず。いわゆる「論語よみの論語しらず」とはすなわちこれなり。わが国の『古事記』は暗誦すれども今日の米の相場を知らざる者は、これを世帯の学問に暗き男と言うべし。経書・史類の奥義には達したれども商売の法を心得て正しく取引きをなすこと能わざる者は、これを帳合いの学問に拙き人と言うべし。数年の辛苦を嘗め、数百の執行金を費やして洋学は成業したれども、なおも一個私立の活計をなし得ざる者は、時勢の学問に疎とき人なり。これらの人物はただこれを文字の問屋と言うべきのみ。その功能は飯を食う字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨ぐる食客と言うて可なり。ゆえに世帯も学問なり、帳合いも学問なり、時勢を察するもまた学問なり。なんぞ必ずしも和漢洋の書を読むのみをもって学問と言うの理あらんや。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%98%97%E5%90%9B
宰相を罷免されたことで、田文のもとにいた3000人の食客も立ち去っていったが、馮驩(ふうかん)[5]という食客だけは残った。馮驩は田文を斉の宰相に復職させるため策[6]を用いて宰相に復職させた。田文が斉の宰相に復職すると、馮驩は立ち去った食客たちを呼び戻すように進言した。しかし田文は自分が貧窮していたときに立ち去った食客を詰った。それに対し馮驩は好悪の情で去ったのではなく自分の識見を活かせなくなったので去っただけと諭して呼び戻すことを認めさせた。
「生きているには必ず死がある、これは物の道理です。富貴になれば士が増え、貧賎になれば友が少なくなる、これは事の道理です。そもそも君は朝市に趣く者を見たことはないですか?朝日が出ると、肩を押しあって押しかけます。でも日が暮れると市を過ぎるものは見向きもしません。朝が好きで、夜が嫌いだからではなく、そこに欲しい物がないからです。君が地位を失うと賓客が皆去るのも同じことで、食客を恨んで客をもてなす路を踏み外すほどのことではありません。君には過去と同じく食客を遇していただきたい。」
人の評価が得意としながらも趙楚同盟において毛遂を評価できなかったこと。
長平の合戦以降軍事力を大幅に無くした趙国が秦の天才将軍白起に攻め滅ぼされ掛けた際に一人だけ豪遊し李申という一兵卒に叱咤されたこと。
魏の信陵君(四公子の一人)に言い負かされた上、彼がとりわけ尊敬してたとする二人の賢人(後に判明する)を見抜けず嘲笑した結果信陵君が帰国し更に平原君が養ってた食客の凡そ半数に逃げられる失態を犯す等が代表的なエピソード。
鶏鳴狗盗、食客三千等の逸話のある斉の孟賞君や晩節を汚したとはいえ楚の滅亡を防いだ楚の春申君、当時最強だった昭襄王時代の秦に唯一恐れられた天才軍師の魏の信陵君に比べるとエピソードの殆どが己の無能さを示すものばかりでどうしようもない。
しかしながら、何故かこの無能を何度も助けようとする無償の人材が集まってくる。毛遂や李申がそうだ。
側近を見れば、君主の頭の良し悪しが分かる。
マキャべリ
自分より優れたるものを自分の周りに置きし者ここに眠る。カーネギー
[学閥][閨閥][派閥][藩閥][同調圧力][空気の研究][集団浅慮][企業][就職]
組織内政治、ゴマすりばかりが上手な人物が出世することになれば、実務能力があり判断の優れた人物が無能な人間の指揮下に入ることになり、前線の混乱と敗北は避けられない
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清朝崩壊のキッカケとなった辛亥革命は1911年。かくて生まれた中華民国は間もなく四分五裂。混沌・混乱の時代を経て、共産党一党独裁(というより毛沢東王朝)の中華人民共和国が建国されたのが1949年。
つまり40年にも満たない時間の中で、中国人は封建帝国、民国、人民共和国の3つの異なる政体に身を委ねざるをえなかった。
この三代を生き抜いた《怪人》の筆頭は政治家ならダントツで毛沢東、知識人なら陳寅恪。この本は、その陳寅恪の栄光と悲劇の生涯を描く評伝だ。とはいうものの陳寅恪といったところで、その名を知る日本人は皆無とはいわないまでも、限りなく少ないことだけは確かだろう。
中国語で怪人とは、たとえば「怪人二十面相」という言葉から連想される“怪しい人”という意味ではなく、己の信念を実現させるためには天下を敵に回しても構わないという鋼鉄の意志・執念の持ち主を指す。
京劇「捉放曹」の舞台で曹操は「寧可我負天下人 天下人不負我(俺は天下に叛いても、天下を背かせはしない)」と大見得を切るが、この台詞が表現する己を恃む志操こそが怪人の真骨頂。
怪人とて政治家なら権力を握れば、コッチのもの。毛沢東のように正々堂々・公明正大・勝手気侭に「寧可我負天下人 天下人不負我」の世界を愉しむことができる。
大躍進も文革も、毛の身勝手な「天下人不負我」の悲惨な結末だろうに・・・。
だが同じ怪人でも、陳は中華文明の精華たる文史(=文学と歴史)を命を賭して守ろうと任じた精神の貴族たる文士、つまり文化・文明を守護する武士だ。そこで政治家と文士の怪人の激突となる。
1953年、共産党政権は中古史研究所所長への就任を陳寅恪に要請した。
建国から4年。毛沢東が進める政策の「倫理的側面」が盲目的に賞賛され、彼の声望は一気に高まっていた。
であればこそ、そのポストは“毛王朝の貴族”への道を確約するもの。
だが陳は!)マルクス・レーニン主義を信奉しない。!)そのことを、最高権力者が公式に認める――を所長就任条件とした。
文史という中華文化の根幹を支える学問領域には権力者であれ容喙を許さず。文士の怪人たる陳は決然として「天下人不負我」といい放ってはみたが、そんな“我侭”を認めるほど政治の怪人は甘くはない・・・冷徹・峻烈・酷薄・残忍・非情。
50年代後半から文化大革命へと続く疾風怒濤の政治の季節の中でも、陳の志操は挫けない。
広東の中山大学に在る彼は、広東を中心に中国南部で強い影響力を発揮していた陶鋳の厚い庇護を受け研究と教育の日々を送る。
陶からすれば、陳は食客ということか。失明、大体骨骨折による両足切断の悲劇にもたじろがない。
全ての中国古典の一字一句まで刻み込んでいるような彼の頭脳が研究を止めることはなかった。ほぼ寝たきりの彼を支えたのは妻、助手、同僚、看護婦――すべて女性である。
怪人は硬骨漢。
だが朴念仁にはあらず。
頼みの綱の陶鋳が文革で失脚し、紅衛兵の攻撃は堰を切ったように激化。スピーカーのボリュームをいっぱいに上げ耳元で悪罵を浴びせ続けると、陳の「全身に震えが来て、ズボンが小便でぬれて」しまう。
窮状を訴えるが、紅衛兵からの反撃を恐れる大学当局は取り合わない。
69年、惨死。79年の生涯だった。清末光緒十六(1890)年、湖南省長沙の産。
陳のような知識人を産み育て生かし尊敬し畏怖しながらも、とどのつまりは笑殺、やがて封殺・謀殺・愁殺・・・中国の社会は、そうやって続いてきたようにも思えるのだ。
彼女はシケモク先生と呼ばれた。風体がいまどき刀などを腰にぶら下げた古い食客然としていて、常に吸いもしないでよれた煙草をくわえているのが理由だ。
そして実際、食客だった。というかうちの居候というべきか。それも招かねざる、である。
あまりに招かねざるので、離れに小屋を建てて、そこに寝泊りしてもらう事にしたのだが、食事にはこちらの家にやってくる。たまに、仕事場にまでやってくる。
今日がそうだった。
「いよう。飯食いにいきまやせんかね、杏奈さん」
そういってシケモク先生は事務所に入ってきた。シケモク先生の顔を知らない、外様の若い衆が色めき立つ。
そのうちの一人が、くってかかった。
「てめえどこのもんだぁ! 姐さんになめた口きいてんじゃねえぞ、ああ!」
「はっはっは。じゃれるなよ若いの。今日のあっしは機嫌がいいから、かまってやるつもりは無いよ」
「何だとっ」
「お止め」
わたしが制すと、若いのは押し黙った。なにかまだ言いたげだが、相手をしてやる暇はないので無視する。まずはシケモク先生の相手をしなくては。
わたしが努めてそっけなく言うと、シケモク先生は得たりとばかりにうなずく。煙草を上下に揺れる。シケモク先生、という言葉に周りの“社員”が再び色めきたった。今度は、明らかに恐れによる緊張が走っている。
そんな雰囲気など知らぬ存ぜぬで、シケモク先生は嬉々として話しかけてくる。
「なになに。今日はそこそこ勝ったんでな。ここはひとつおごってさしあげやんしょ、と思ったんだが」
「どうも、ここはきなくせぇな。あっしの好きな臭いがぷんぷんすらぁ」
やはり、隠すのは無理か。これだけ普段居ない人がいる時点で、隠せるものでもなかったかもしれないが。わたしは腹をくくった。
「あんまり関わって欲しくないんです、赤の他人様には」
「おいおい、そりゃあない。そりゃないですぜ杏奈さん。あっしはこういう時のためにいるようなもんじゃないですかね」
「それは、前で懲りました」
わたしがため息をつく。シケモク先生はなんのことやら、という顔をして白々しくのたまう。
「まあ、前はわるぅござんした。あっし、人の顔をおぼえるのが苦手でやすから、敵も味方も同じに見えてしまいましてねぇ」
「だからと言って、うちの“社員”を病院送りにしていいわけじゃないでしょう」
「はっはっは。だから後で謝ったじゃねえですか」
わたしは再びため息。だから今回はよそに出払っていたもので増員する羽目になったのだ。おかげで要らぬ苦労が多くなって、わたしの眉間のしわも増員した。これ以上増やされたらたまらない。
だから、わたしはぴしゃりと言った。
「とにかく、シケモク先生。今回はあなたの出番はありません。それに今“他社”との競合で忙しいですから、お食事は一人でなさってください」
そう言えば引き下がるだろうと思っていたわたしの期待を、シケモク先生はあっさり裏切った。それも予想外の咆哮で。
「いやいや。杏奈さんはもうすぐ忙しくなくなりやすよ。なにせ、なんでしたっけ、“他社”との競合? それならあっしが解消しておきました」
「え?」
わたしが何の事か解らず呆けた隙に、若い男が一人、事務所になだれ込んできた。
「あ、、姐さん、大変です! 磐田んとこの奴ら、全員病院送りに!」
「なんだって!?」
そう叫んだ時に気が付いた。
仕事柄、人を覚えるのは得意だ。だから余所から来た者達の顔も既に覚えている。
だけど、この男の顔を、知らない。
“他社”の“社員”だ。
そう気付いた時には男は懐から銃を取り出されていた。
「て、てめえさえやればあああああああっ」
銃口。
こちらに向いている。
唐突過ぎて、誰も、反応できない。
一瞬に死を覚悟する。
銃声。
は、鳴らない。
見れば、銃口はもうこちらに向いていなかった。
ごとり、と音を立てて銃と“付属物”が床に落ちた。
「ぎ」
あああああああああああああああ、と男が悲鳴をあげて手のあった場所を押さえる。
たちどころに止まっていた“社員”が動き出す。男を押さえつけ、余所へと連行した。
それを見届けると、わたしは腰を抜かした。倒れこむ寸前で机に寄りかかり、何とか立ち上がる。
ぃん。
「いやあ。すいやせんね、杏奈さん。全部病院に送ったつもりだったんでやすけど、残りが居ましたな」
と謝った。
わたしはしっかりと立ち上がると、疑問を口にした。
「何故、わかったんですか? あなたには誰もがひた隠しにしていたはずです」
「それは杏奈さん、あんたから家に会った時にも臭ってきたんですよ。ここと同じ、きなくさい臭いがねぇ。ま、あっしをだまくらかすつもりなら、もう少し立ち振る舞いにお気をつけなさい、ってな事です」
「わたしもまだまだ修行が足りない、という事ですね……」
わたしは、三度ため息をつく。シケモク先生はひとしきりカラカラと笑うと、思い出したかのように言った。
「さて、昼飯にしやしょう。今日はあっしのおごりです」
最初の学生さんじゃないけど反応
相手の立場も考えて、自分の利益も考えて、行動してごらん。
組織の体質が自分にとって不利な構造なら変えようとするとか。
これさ、とても正論でごもっとも、最初の彼に対してはまあまあ良いアドバイスなんだけど、今の時代にヒラの従業員に要求するのって昔と違ってとても難しくなってると思う。従業員がこうしてくれれば上はとっても助かるけど。
確固たる終身雇用制度があった流動性の低い時代だと、権限が全くないところからでもボトムアップでアラートが上がってきて組織を改善することを期待できた。だって会社は「終の棲家」だから、自分で積極的に居心地よくしないといけないものね。
だけど、流動化の進んでる現代、自分の属している会社を手間隙かけて改善するよりも自分だけ磨いて転職しちゃったほうが早いケースが出てくる。そういう場合アラートがあがんなくて、サイレントに人がどんどん入れ替わる。転職する時ってのは「ベンチがアホやから野球がでけへん」とか言わない。「もっとやりたいことができました」とか「家庭の都合で田舎に帰ります」とか「給与の面で高く評価していただけたので」とか「オーストラリアに行ってプロサーファーになります」とか無難な理由をつけて転職するから、組織が腐っていても管理部門が気づくのはとても難しい。
今後、管理部門や管理職から見て一般の従業員は「身内」や「味方」ではなくなると思う。「食客」であったり「設備」であるようになる。不都合があればすぐいなくなったり壊れたりするわけだ。
注意深く観察して積極的にケアしないと、「えっなんで部署まるごとやめちゃうの?」「みんなで会社作ります」となったりする。従業員が組織を改善してくれるなんて幻想になっちゃうかもよ。
(台詞はベンチが云々以外は実際に見聞きしたものです。ちなみに過去聞いた中で最も奇妙な転職の言い訳は「寮の周りに蝉が多いので」)