2009-10-20

(酷く入念な)空想の歴史観、つまり個人史について。

過去の栄光にすがるな」とは言え、回想に浸ってみる。ターゲットが未だ定まっていないからだ。

これは何かの自己啓発本に書いてあった「謎解きのヒントは自分過去に必ず在る」という物で、

「先ずは自分を見つめ直せ」といったごく在り来たりなフレーズに耳にタコが出来そうになる物のフロイト的にもオールオッケー。

それがどんなに下らない物であっても一通り書き下すと良い。しかし後で必ず捨てろ。生ゴミは持ち歩かない方が身の為だ。

大文字歴史」と「個人史」の間には必ず偏差が在る。否、「大文字歴史」は宗教と同様「何者かに決められた個人史」の可能性も否めず、

大文字と小文字の間に偏差が在る事は誰にも簡単に理解出来るが、しかしそのバリューは誰にも計れない。

歴史事実はある意味で「ロマンチスト免罪符」という訳だ。

話を戻そう。

2つの「大文字歴史」ここは手軽にウィキペディアの写しを並べ、しばし考えた後、“あえて”片方を逆にした物が前回だ。

これは「進化論」あるいは「疑似科学的なハッタリ」とも言えるカマしだが、進化論からすれば「進化」と「退行」は同じ物である。

(勘ぐるに「大人」とは「退行を良しとしないが、進化も止めた人」と読めるが、それは行き過ぎだろう。)

別にどう読んで頂いても構わないが、「この2つに相当性が見受けられる」という結論に落とし込まざるを得なかった。

これはロマンチストに依る完全なる空想の産物であるが、決定的事実に見せかけるには十分であったと思う。

結局個人史という物は捏造も修正も幾らでも可能だが、大文字歴史は簡単には曲がらない。そこを上手く誤摩化して撹乱させた。

ワタシの偏愛する文章の大半は「どの様にでも読めるが、結局どの様に読んでも同じ」「自由かつ不自由」という不気味な拘束具だったりする。

                           〜T.H.

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