はてなキーワード: 扁桃体とは
パニック障害は脳科学的、解剖学的に見れば大脳皮質の異常です。
この大脳皮質の機能が低下してくると些細なことで混乱し、半狂乱になってしまうパニック障害の症状が出てくることが知られています。
実際にパニック障害の人では、前頭葉が委縮してその活動レベルが低くなっており、逆に扁桃体と言われる情動脳の活動は高まっているということもわかっています。
強迫性障害と言う病気があります。この強迫性障害の症状とは、頭の中に生じる雑念や妄想が常に頭から離れづに、その症状によって社会生活に支障が出るほどになる状態をいいます。
この病気では、たとえばガスの元締めされているかや、ドアのカギをちゃんと閉めたかという言ってみれば思考(=雑念、妄想)が頭から離れないんですね。
それによって、半狂乱になってやはり生活に支障が出てしまっているのです。
このパニック障害もそうでしたが、下の強迫性障害もまた脳を見てみると、大脳が機能低下していて扁桃体の活動が高まっていることがわかっています。
実際に
パニック障害の患者は、強迫性障害も持っていることが多いですし、反対にパニック障害の患者も強迫性障害を持っていることは多い・。重ね着が多いわけです。
というよりも、これらの病気はほとんど同じだとみてまず間違いはないでしょう。
その理由は、上気したとおり、脳機能的に見ればほとんど同じ原因で生じているからです。
ただ、見た医師によって
診断の見解が相違しているということでしょう。
各々の医師では学んできた背景知識に偏りが生じているためにどうしても酷似疾患の分散が容易に生じてしまいやすい。この例の他では、境界性人格障害とADHDなどが同様でしょう。
そういうわけで、重ね着診断されていたとしても悲観されることはなく、
同一の脳の問題で起きているのだなと認識すればいいのではないかというのが、上のリンクページですが、まさにその通りかなと、私自身は考えています。
ホルモンと脳の仕組みにより得られた、
男より2倍鋭い感受性、危機探知アラーム
勘の存在を否定するんじゃなくて、これを勘と定義してもいいんじゃねえのと思った。
女は、女であるだけで男性よりも2倍もうつ病になるリスクが高い。
それは、嫌なことを感じやすく、忘れてさせてくれない、ホルモンのせいだそうだ。
脳の仕組みからいえば、ストレスをためやすいのは男性より女性のほうである。
したがって、女性は昔あったいやな出来事をなかなか忘れることができない。
また、ストレスを促進させる扁桃体の感受性も女性の方がずっと高く、男性の2倍はあるといわれている。
扁桃体の情報は、左右脳をつなぐ前交連へと伝達されるが、この前交連も女性の方がずっと太い。
そればかりか、ささいなことでショックを受け、
それについて勝手な想像をふくらませてまた落ち込む――という悪循環に陥りやすい。
「あのとき、あなたこう言ったでしょ!」
「今の一言、すごく傷ついた!」
「ほんとうは私のことなんかどうでもいいんでしょ!」
しかし、実際に自殺率となると男女比は逆転どころか逆増加して、
これは、男性が、ストレスや愚痴の発散がうまくできずに溜め込みがちなこと、
「妻子には関係ない、迷惑をかけられない」
また、「強い自分」を過信するあまり、ストレスやウツ状態を認められず、
病院にかかりにくいということもあるだろう。
男は「女は愚痴っぽい」と辟易するのだが、
女はしゃべることが得意で、しゃべることや愚痴を言うことでストレスを小出しにするから、
うつ病になってもカウンセリングや投薬の効果が出やすいのだろう。
以上のは前書き。前提。
それを踏まえて思ったことは、これがいわゆる“女の勘”の正体じゃないかってこと。
男より2倍も嫌なことを感じやすい女の脳は、
たぶん、男の仕草について嫌な感じも敏感に感じ取る。
「あの人、なんか目つきがコワイ。近づかないでおこう」
「最近の夫は異様に優しい気がする。何かおかしい。」
「なんだかこの展開はおかしい。私ひょっとして騙されてるのでは。」
だから、“女の勘”と呼ばれたんじゃないかとふと思った。
実際は、勘ではなくて、
そう考えると、いわゆるだめんずも説明がつく。
それは本来なら女に備わっているはずの危機管理アラームが壊れている女のことだ。
だめんずうぉーかーの倉田真由美は、今、勝利宣言ともとれる発言をしている。
「男がどんなに遊んでこようと、自分が最後の女になれればそれでいい。」
フツーの女は、600人斬りとかしてきた男はフツー、結婚相手にしない。
何故なら、浮気癖は治らないものだと知ってるから。
「自分が最後の女になれる」とか思わない。
「この男はビョーキだから、治らない。一生このままだろう」
うろ覚えだが、確か、
いきなり会社をやめてきては自分で事業を立ち上げるどー!とかいいだすような、
会社員が全然続かなかった人のようだ。
子供だった彼女は、父親がそういうことを言い出すたびにドキドキしてきたようなのである。
ある種の吊り橋理論というか、
父親というのは娘にとって最初の異性の像だから、
そのドキドキが、ひいては、
「公務員とかフツーの会社員なんてつまらない、ちょっと危険な香りのする男が好き」
というだめんずにつながっている・・・
気がする。
ま、ともかく、言いたかったことは、
女の勘なんてない。
そーゆーのはシックスセンスとかじゃない。
あるのは、ホルモンと脳の仕組みにより得られた、
男より2倍鋭い感受性、危機探知アラームだけ。
勘なんかじゃなくて、ハードの性能なのだ、と思ったのだ。
自分が自分らしく生きる最大の方法は、自分の身体を知ること、自分の身体を動かすこと、自分の身体で体験することである。
自分の身体なしに(脳なしに)何かを考えられると、あなたは思うのか? 魂がものを考えるのだとでも?
自分の身体なしに(目をなしに)何かを見られると、あなたは思うのか? 魂がものを見るのだとでも?
以下同様に、身体なくして、何かを聞いたり、味わったりできると、あなたは思うのか? 魂がそれを行うのだとでも言うのか?
あなたは身体の外で思考が行われることがあると思うのか? あなたの表皮の外側の空間で思考が起きているとでも言うのか?
ところで、あなたは心があることを信じるのか? 心は表層である。その人とは、行為である。
脳の前頭葉はブレーキの役割を果たす。社会活動に対するブレーキのはたらき。
脳の扁桃体はアクセルの役割を果たす。社会活動に対するアクセルのはたらき。
中庸はあらゆる事の徳である。前頭葉と扁桃体がほどよく、極端にならない程度で機能していることが望ましい。そのためにはそのための、健全な生活が要求される。偏った生活(室内に閉じこもってばかりいる、ゲームばかりしている)は中庸さを失わせるかも知れない。
あなたは、(身体的機能としての衝動抑制が唯一前頭葉にのみあると仮定した場合)前頭葉のはたらきが弱い甲氏が、我慢強いと言うことがあり得るというのだろうか?
あなたは、扁桃体のはたらきが強い乙氏が、何に対しても白黒をハッキリつけないことがあり得るというのだろうか?
この話においては、それらがあり得ると言うことは、脳はいったい何のはたらきをしているというのか? あり得るのだという人は、脳がなくても人は生きてゆけると思っていると言うことだろうか?
ところで、脳は中枢機関である。
あなたとは、あなたの脳ではない。
あなたとは、あなたの右腕ではない。
あなたとは、あなたの臓器ではない。
あなたとは、あなたの皮膚ではない。
あなたとは、あなたの身体である。あなたの身体とあなたは等号で結ばれる。
あなたは身体である。あなたがあなたであるためには、身体を知らなければならない。
身体とは、肉体と等号では結ばれない。身体は収縮拡大される領域である。
あなたは髪型を変えたとき、あなたではなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたは服を着替えたとき、あなたではなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたは装飾品をつけたとき、あなたではなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたとは、あなたの身体である。あなたの身体が変化したとき、あなたは変わる。新しいあなたになる。
あなたが風邪を引いたとき、あなたはあなたでなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたが爪を切ったとき、あなたはあなたでなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたが垢を落としたとき、あなたはあなたでなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたとは、あなたの身体である。万物は生成、変化、消滅の過程を辿る。万物は時間により変化を余儀なくされる。故に時間と共に身体は変化する。
あなたが睡眠をとったとき、目覚めたときのあなたは以前のあなたではない。あなたは新しいあなたになっている。
あなたとは身体である。あなたがあなたとして生きる最良の方法は、あなたが身体を知ることである。あなたは不連続の点である。
身体を知るためには、体を動かさなくてはならない。あなたは物事をどのように知覚していたのかを、体を動かすことで体験しなくてはならない。あなたはあなたの歩幅がいかほどなのか、頭のどこかで知っているべきである。
身体を知るためには、身体との対話が必要不可欠である。身体と対話するのはあなたの意識である。あなたの意識はあなたではない。しかし、あなたの意識を欠いた身体はあなたであり得る。睡眠中も、あなたはあなたである。新しいあなたに移りゆく、不連続の点である。
あなたはあなたの身体に健康的な活発さを与え、持続しなくてはならない。
あなたは身体である。
あなたの前頭葉は中庸あるブレーキのはたらきを持つべきである。
あなたの前頭葉は中庸あるアクセルのはたらきを持つべきである。
それらは偏ることもある。偏っているとき、それはあなたの身体である。すなわち、偏った身体である。偏ったあなたである。偏ったあなたは一体何ものなのか? 偏っているものは良きものか?
あなたは自転車を持っているか? あなたの自転車は両方のハンドルがついているか? ハンドルが片方しかついていない自転車に乗ったことはあるか? それは良き自転車か? それは偏った自転車である。あなたは偏った自転車を好むか?
あなたは一枚のドアの中央にノブがついていることを見たことがあるか? ドアノブは一枚のドアの端についているものである。偏っていることで役割を果たす。偏っていることで、偏りのないはたらきを持つ。
あなたは身体の正面で重たい荷物を持ったことがあるか? あなたは荷物の重さのために、前に倒れそうになるが、身体を後ろに反らしてこれを支える。全体の偏りをなくすためである。荷物を持っているあなたは、荷物も含めてあなたの身体である、荷物はあなたの一部である、あなたは全体の偏りをなくそうとする。あなたは全体である。
あなたは砂時計を見たことがあるか? 砂時計の砂は下方に偏っていく傾向にある。それは自然のことわりである。自然に従うと言うことは偏りをなくすことである。水槽に食紅を流したときに拡散が起きるように、自然は偏りを好まない。
ところで、偏ったあなたは、良きあなたであり得るだろうか?
あなたは身体的に成熟した大人であろうか? そうであれば、子供に回帰することが必要であろうか? 大人よりも子供の方が良きものであろうか?
万物は流転する。生成、変化、消滅する。あなたは生成点から消滅点へ引かれる不連続の点の集合体である。変化することが自然である。子供が大人になることは自然である。
あなたはあなたをそのまま肯定しなくてはならない。これはあなたを正義とするという意味ではない。
あなたは大人になること、大人であることを肯定しなくてはならない。あなたは確かに子供よりも良きものに近づくことができるとして、思考しなくてはならない。
大人は思考できる。子供よりも高度な思考ができる。大人はその点を賛美せねばならない。
子供は未分化である。大人は分化された存在である。大人はその点を賛美せねばならない。
子供はただ自己を肯定するのみである。大人は思考を持続することで、いっそう身体を良く知ることができる。身体を知ることはあなたを知ることである。あなたはあなたを知らずにあなたを賛美、肯定することはできない。存在し得ないもの、明確でないものの賛美、肯定はただ形而上学的なものに過ぎない。あなたはいっそうより良くあなたを知らねばならない。それこそがあなたの生きる最良の方法である。
あなたは身体である。あなたは全体である。あなたは行為である。
若者自立施設とかについて。
よく政治家や保守派論客なんかが、ニートをそういう施設に送り込んで性根を叩き直せ!ということを放言して、それに対してリベラル派の学者なんかが「本質は経済や労働環境、教育制度など構造的な問題だ」って反論したりする。
でも、脳科学的に考えると「徴農」なんかの集団生活を通じて若者の自立心ややる気を引き出そうというのは一定の合理性がある。
規則正しい生活と作業をするという目的を設定すると前頭連合野が刺激を受けて、やる気を司る側座核も刺激される。そして実際に行動をし始めると側座核がさらに動き出し、視床下部・海馬・扁桃体などに信号が送られ、やる気ホルモンと呼ばれるTRHが分泌される。それがさらに興奮物質の分泌を催すことで、さらにやる気が充実していく。
そうなると顔つきも引き締まり、動きもキビキビしていく。作業を達成すると、達成感が快楽として脳に記憶され、自分に自信が持てるようになる。
「服装の乱れは心の乱れ」というのも真実を含んでいると思う。「心の乱れ→服装の乱れ」という因果関係だから、服装の乱れを直しても心の乱れが直るとは限らないように思えるが、あえて形から入ることで、脳に刺激を与えて気持ちを切り替えることができるのか。昔の人は直感的にそういうことを知ってたのかもしれないな。形から入ることの大切さ。
「本人のやる気を引き出したら、構造的問題は放置するのか!」というリベラル派の反論がありそうだけど、そういうことは言ってない。グラミン銀行だって債務者に生活指導したり、生活標語唱えさせたりしてるから、「性根」の問題も経済に負けず劣らず重要なんじゃないかと思ったまで。
また、逆説的に言うと、「目的設定→実行→達成」というプロセスが大事なので、「徴農」でなければダメということでもない。部屋の掃除をしたり、「一日30分英語を勉強する」って目標でもいいだろう。