はてなキーワード: アンディ・ウォーホルとは
そんな訳ないだろ
Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀と村上隆の対話。」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267(はてブ)
この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。
なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります。
極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないか、ケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。
人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。
つまり、量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。
つまり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます。
繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです。
むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしています。ふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。
たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです。
今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?
作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL
そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)
今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思います。デュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャンを意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムからの反動ガチ保守な村上隆さえも。
このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎の絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。
これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。
しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。
藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)
そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがないから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです。
それ自体はひとつのリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです。
(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応は矮小化だ」とこきおろしてますが、彼は矮小化の意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化を捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)
まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です。
(8/9 追記)
最近処女の話題がブームなので、時流に乗ってなんで自分が処女を守るに至ったか経緯を書くか。
色々ばれるとやばいので大分ウソも混ぜてるからネタ半分で読めばいいよ。
私が処女に対して考えるようになったのは、祖母の存在が大きい。祖母は三人兄弟の長女で、大学に通っていたようなお嬢様だった。けど、祖母の妹が結構奔放な(当時としては)人間で、彼女は海外に留学してみたり、人の男を寝取ってみたり、なんか散々だったらしくって(祖母自身はこの話を断じて口にしなかった。聞いたのは祖母の弟からちょこっと)いつも祖母が尻拭いをさせられていたみたいだった。
それで、まあ妹にコンプを感じていたらしき祖母は時代の流れで祖父と結婚、そのまま一人息子の父を生み、育てて、父を母と結婚させた。
多分ここから始まった。母が私を産んだ時、祖母が言ったのは「○○さん(母の名前)、この子の世話は私がやるから」。母は勿論大反対したし、私を抱きしめて「何考えてるんですか、私の子供よ!」っていったらしいけど、祖母は頑なに聞かなかった。祖母と母は一緒に暮らしていたし、祖母は本当に私の世話をするようになった。母が私を抱いていたら怒り出す始末。
それで祖母が私を育てることになった。なんていうか、もう時代錯誤も甚だしいようなお嬢様教育の嵐。お茶とかお花とか着付け、踊りとか、浴衣縫えるように教えられたりとかさ。
乗馬はやってたけど、一つ上の女の子が落馬して肋骨折ったって話を聞いたら速攻やめさせられた。まあそれは自分の教養になったし、まあ経験して悪くは無いなって思ったけど、祖母が念仏のように呟いていたのは「処女でいなさい」だった。こんな直接じゃなかったな。なんか「清くいなさい」みたいな。あのババア。
なんというか、祖母は私を三島の「女神」の女みたいにしたてあげたいようだった。残念ながら、中身を持つ人間はそこまでお人形さんにないんだけど。
ほんでもって話は戻る。私が高校に上がる前に祖母は死んだけど、小学校中学校(私が通っていたのは小中高一環の女子校だった)までの六年間、まるで意味のわかっていなかったころから、ようやく意味がわかるようになるころまで、ずーっと「処女でいなさい」って言われた。まるでそれだけが私の価値みたいに言われた。
まあそれで私も処女であることはスペックであると考え出した。というか、トレードできる価値、財産みたいなものって考え出した。でもどこかでねじまがっちゃった気がする。
祖母が死んで、高校に入ってから結構私はモテた。学校は清楚とお嬢様と上の下偏差値でまかり通ってる女子校だったんだけど、中身はガリ勉かキモオタか派手か普通の子って感じの区分だった。それで私は普通の子と派手な子の中間層だったから、派手グループによく合コンにつれていかされた(医者とか、弁護士とか)し、普通に人気があった。道ばたでもナンパもよくされたし、まあ自分の顔立ちは悪くは無いなと思っている。まあ派手だしな。ていうか外見には自信があんだよ(毛深いのがコンプだったけど)。
そんなこんなで高校に入って速攻彼氏も出来た。高校一年のとき。ワセケイのお坊ちゃん。イケメン。そこそこチャラい。キスもしたし、まあ車もってたからデートは楽しかった。湘南行ったり。そんなこんなで、家に誘われた。家はでかい。ていうか、山の手の内側でここだけの土地かよ、と思った。家には普通にお坊ちゃんの両親がいたけど、部屋に通されて、あー、セックスするのか、と思ったとき、はたと気付いた。
「こんな男に私の処女、やっちゃっていいの?」
はっきり言っておくけど、私みたいな美女の処女は安くない。ぶっちゃけ5億円ぐらいの価値があるって思った。非処女はタダってわけじゃない。こんなチャラ男にタダマンさせるほど安くはねぇよ。って思った。
その後即効その男を振って、大学に入って、また何人か彼氏が出来た。でもいっぺんもやらせなかった。なぜなら私は価値がある女だから。処女=絶対無比の価値。なんか変な価値観が凝り固まっていた。その価値に見合う男が出るまでやらせねぇよ、と思った。サークルも飲みサーみたいな感じで、一時期穴なし女みたいにうわさされたけどニヤニヤしてた。
男は私にとって見せびらかすアクセサリーでしか感じられなくなった。本当に好きな男ができない。セックスして愛を確かめる行為も出来ない。男はすぐにセックスを求めてくる。
それに答えられないから嫌がる。分かれて新しいアクセサリーを探す。
セックスを求めてくる男がいる限り、女に処女であれって言うのはなんてナンセンスなことなんだろうね。だってあんたら付き合った女とセックスしたいって言い出すじゃん。結婚するまで我慢しろって女に言う前になんで男が我慢できないの。
大学を卒業した私は商社に勤め始めた。そんで、親友の紹介で来週結婚する医者と会った。
医者、イケメンだった。しかも、ものすごくいいやつ。誠実。親友の紹介だけあって、信頼できる。話も合う。なんでこんな奴に彼女がいないのか、と考えて回りに聞いたら、彼女は事故で死んでた。漫画だろ、セカチューかよ、と思ったけど、まあ、付き合った。楽しい。
それで医者と三ヶ月ほど付き合って(会ったのはそのうち6回ぐらい)くるまのなかで、今からホテル行ってセックスしようかみたいな雰囲気になったとき、私はいつも通りいやだ、って言った。「なんで?」って聞かれたから「結婚するまでセックスしない」って返した。そしたらしばらく考えて、「今日はしないから、結婚しましょう」みたいに言われた。ああ、うん、って答えて、それでなんかとんとん拍子で結婚が決まった。
でもここで一つ怖い話がある。はっきり言ってセックスを結婚してもしたくない自分がいる。私の価値が結婚した瞬間に損なわれてしまう気がする。こんなにいい男でさえ、処女を惜しいと思っている自分が馬鹿だとは思うけど、できれば一生セックスするのが怖いんだ。
処女が好きな男は処女を頑なに守る処女を、まるでユニコーンかなんかみたいに思ってるみたいだけど、ぶっちゃけ、処女は5億円の価値があると見込んだ男にしか処女はやらないと思ったほうがいいよ。だから、美しい処女がほしいと思う男はそれに見合う男でいるの? って思う。私は来週ダンナになる男にさえ、処女をあげるのを惜しんでいる。
私が一番今恐れているのは、自分に娘が出来たらということ。
「処女でいなさい」って発狂しそうなほどいやな祖母の言葉を私も言うかもしれない。
なんか結婚特有の雑務から帰還したらブクマ数が凄くてびっくりした。ある種マリッジブルー的な吐き出し文だからすぐ流れるかと思ってた。
言いたいことを吐き出してレスポンスがいっぱい返ってきて、矮小な自己顕示欲がちょっとだけ満たされて嬉しかったです。コメント? をちらって見て、おっさん扱いされていてなんか不思議な気分になったり、ネタだろ、という言葉に、私自信読み返したらこの文章がネタにしか見えなかったので、ああ、ごめんね、ってなりました。まあここで真実です!なんていったところで何の価値にもならん。だいたい内面の価値などどうでもいい(と教えられてきたしね)。
ただタイトルだけは真実です。まあ信じる信じないにしてもさ。私は処女で、まあ美人で(自分で書いていて結構笑える)、お嬢様だと思います。お嬢様っていう定義が、いわゆる、金持ちテンプレート的な習い事を受けていた経験があり、実家が裕福で、お嬢様学校に通っていたっていう条件ならね。
でも、この三つを満たしていても、私は醜いです。歪んでます。肉体的や経験的には処女で、きっと男性の幻想的な理想であるでしょうよ。私は経験からも「男の理想まんまだなあ」と感じています。正直、チヤホヤされなかったことなんてない。オッサンは特に優しかったし、誰に対しても私はしっとりしたお嬢様を完璧に演じることが出来ます。自慢だけどね。
「清く・正しく・美しく」こんな旧態然とした教育の中(それが悪いとは言わないし言えない)、私は「清くあること」を多大に押し付けられたせいで、内面がその抑圧で歪みきってしまった。
全くもって「みにくいおんな」になってしまったんじゃねーの、と思っています。古い思想は美しい。日本の心は好きだよ。大事だし、守るべきもの。でもさあ、それを現代に無理やり当てはめようとすると、絶対上手くやってけない。それを教育っていって子供に押し付けると、心がどっか変なふうになっちゃうよ。上手く適用するように柔らかくしなきゃ。
たかが処女膜。穴にあるもの。よくわかんない。それをここまで守ってこれても、私は祖母が理想とした幻想の処女でいられなかった。お人形さんになれなかった。
私は処女性を持つことと処女であることは、似て非なることすぎるんじゃないかと思う。マンコをいくら使わせても心の清い女がいる一方(罪と罰すぎて笑える)、こんなに醜くなってしまった私がいる。
「あなたはもう幻想の女しか抱けない 」じゃないけどさ、もう処女を幻想視されて押し付けられて、それを価値観で心の中でガチガチに塗り固めて、それで「私は清らかなんです」なんて外面さげてヘラヘラするのにいい加減疲れてしまった。大事にしていたものが今では重過ぎる。
本当の最後に私が大好きな本の一部を引用する
生きる時間がずっと長くなったおかげで古い価値観がもう使えなくなった。セックスの事を15歳で知り35歳で死んでいたときは明らかに問題は少なかったはずだよね。今は8歳とかそれぐらいで知り、たいがい80歳まで生きる。その間を1つの考えでやっていくのはちょっと長すぎるよ。
しかも同じ退屈な考えで。
「ぼくの哲学」アンディ・ウォーホル
ああ、そういえばそんなのあったね。やっぱ人の気を引きたいんじゃないか?裸になるだけでみんながキャアキャアさわいでくれるんだから。アンディ・ウォーホルじゃないが、女の子であるというだけで少しの間だけ手軽に有名人になれるんだし。