はてなキーワード: 逆効果とは
まああんなとこかなって感じだったけど
チーズフォンデュは後でアンコール200円のときに食ったけどまあまあうまかった
あれなら肉もしっとりじゃないとねえ
酢キャベツとソーセージは、それだけならよかったんだろうけどぱさぱさカリカリの胸肉フライとじゃ何したいのかわかんなかった
中途半端にすっぱかったので何を狙ってるのかわかんなかった
誰か感想教えて
シャカシャカチキンが余っててそれを流用したのかどうかわからんけど、どうも「手抜き」の文字が浮かんで返って逆効果
これは肉もきちんとしっとりもも肉でうまかったしたまねぎとの相性もよかった
バンズも餅餅しててうまかったな
あれならまた食ってもいい
通して食ってみて
ソース凝ってるのに肉がしっとりもも肉じゃなかったのが一番の敗因だけど
生たまねぎがスパイスの役目を果たしていて最後まで肉のうまみを引き出していた
こういう安い素材をうまく使えばそれだけでリピーター増えるのに
あっさり鶏肉に慣れた体にはこってり牛肉はそれだけで重いな
冬に入るのだけが救い
横だけど、それはやっぱり2種類あると思うよ。
リア充をランキング平均以上としたとき、その中でも上位とその下に分けられる。仮に上をジャイアン、その下をスネ夫とする。
そうした場合、ジャイアンはわりと素直に正直に(だからこそそれなりに傍若無人に自信を持って)生きてるんだよ。そしてそれはなぜかけっこう通用する。
そして子供時代ではジャイアンのほうが上位であったかも知れないが、社会に出ると必ずしもそうとは言えなくなってくる。ただどちらもけっこううまくやっていける傾向は強い。そしてうまくやっていける間は演技をしてても大してストレスにはならない。
ただ世の中の半分は平均以下でできていて、ここにも演技するタイプとしないタイプがいるんだ。
この演技するタイプは、演技がへたくそなんだな。ビクビクしながら相手を伺うような卑屈な笑顔とか。はっきり言ってこういうタイプは演技すればするほど逆効果と言ってもいい。そういう奴らはむしろ自分を出した方がいいんだよ。他人にどう思われてもいい。言いたい奴には言わせておけ。そうするとスッとうまくいくときがある。演技が下手なタイプの演技って「あなたに心を開きませんよ。本当のことはいいませんよ」って言外に言っちゃってるんだよな。本人にその気がなくても。だから周囲もうまく近づきにくいし、本人もストレスがたまる。
そして、下位のタイプで演技すらしようとしない(もしくは本人のつもりとしては演技してるんだけど、全然足りてない)タイプは本当にどうしようもない。よだれ垂らしながらゲハゲハ自分の言ってることで自分で笑ってたりとか、鼻毛伸び放題とか、本人が会話には入れてないのを回りのせいにするとか、そんな奴がほんとたまにいる。
演技が必要なのはこのタイプなんだけど、それはもう言っても無理だよ。上位にいたジャイアンタイプの裏返しなんだけど、自我が強すぎるんだよ。自分に何か原因があるんじゃないかとは心の底では思えないんだ。自己肯定感を持ってるから。
だから「演技しろ」って言うのは、この世界ではほとんど無意味なんだ。スネ夫タイプはそれでうまく行ったかもしれないけど、みんながみんなそのタイプじゃない。
ここから先はアドバイス論に変わるが、そういう「自分がこれでうまく行ったから他人もこうやれ」っていう間違いはよくあるんだ。本当はタイプなりに変えなきゃいけないんだ。
例えば失敗しちゃいけない仕事があったとして、普通に考えればそこは、より精神集中して、より緊張すればできる。
ところが世の中にはそうじゃない種類の人がいるんだ。普段から緊張してるタイプの人たちがいて、彼らに「ここは重要なところだから是対に失敗するなよ!」と言えば失敗の確立は跳ね上がる。どうしてかというと、過剰に緊張してしまうからだ。過剰な緊張は人の能力を30%は下げる。注意力も何もかも。
普段リラックスしているタイプの人間は緊張することで、油断による失敗を防ぐ。これはそのタイプには有効なやり方だ。
しかし普段緊張しているタイプには、むしろ重要な局面であればあるほどリラックスさせる必要があるのだが、普段リラックスしているタイプにはそれがわからない。人間なんてみんな自分みたいなもんだろうと思っている。だから相手をタイプ別に分けて考えずに、緊張を強いる方を選択する。そして失敗したら強く叱責する。しかしその叱責はさらに失敗率を高めるだけなのに。
むしろ、失敗したときほどリラックスさせなきゃいけないんだよ。ところが感覚的に納得がいかない。何で失敗した奴をリラックスさせてやらんきゃダメなんだ。みんな迷惑してるのに、と。
逆もあって、緊張タイプが上に来ると、リラックスタイプをもリラックスさせてしまうことがある。そうするとリラックスタイプはどんどん世の中を舐める。たいした根拠もなくタカをくくる。重大な失敗をするまで気がつかない。こういうのはガツンと言ってなんぼなんだ。
つまりタイプ別にやり方はあるんで、ある人が成功したやり方が他人にそのまま当てはまるわけじゃないということさ。
※演技しないジャイアンタイプも下位演技拒否タイプも、本人の中では演技してると思ってる。ただ本人が「このくらい演技しときゃいいだろ」と思っている量がそれ以外のタイプが考える必要演技量より圧倒的に少ないだけなんだ。
手短に書くと、戦略としてよくないのではないか、というのが俺の感想だ。
元々俺がものを言いたかった相手というのはどこぞのコンサルだの誰かだのの権威に目が眩んで耳を塞いでいるのだから、特にそれが道義的に非難されることではないと思うのだが、いかがか?
これがディベートのようなもので、レフェリーがちゃんといるようなものであれば、それでもいいと思う。
ルールの決まっているゲームならば、ルールを守る限りで、勝てばいいからだ。
だが、実際に相手を説得するような場合には、相手が気にくわない手法を使ったからといって、こちらもそれを使っていいということにはならない。むしろ逆効果になって、目的(説得すること)から遠ざかってしまう。
増田の苛立ちはよくわかるが、それでも相手を挑発していいことにはならない。
意見が対立するであろう相手なら、なおさらだ。
「普段なら聞く耳を持たない連中が今なら持つかもしれないから」
と考えてのことなら、挑発をすべきではないし、細部を犠牲にしてでもシンプルに書くほかないだろう。
海外に出ることに反対だとも言っていないことはわかってもらえるか?
というのは理解した。
だがおそらく、「それほどダメではない」とか、「反対だとも言っていない」ということは、伝わりにくいだろう。
まあ単純に、俺の読解力の問題かもしれないが。他の人のことはわからないからな。
そもそも、知識というのは持っているだけで人生が楽しくなるはずのものだ。お前らはアニメやゲームやITに関する知識を溜め込むことは大好きなのに、自然や社会や人間に関する知識を溜め込むことは無益だというのか?それはただの偏見だ。
という部分だ。
これをもっと挑発的ではない形で伝えられないか、とも思う。
http://anond.hatelabo.jp/20100825012106
ここが人気みたいなので書いてみる。
36歳既婚子供2人。年収1500万強。32歳くらいから1千万超えている。
確かに1千越えは自尊心を満たす。が、そんなに実生活が華やぐことはない。
生活は苦しくはない。余裕はあると思う。
でもだからといって浮気をホイホイ楽しむほどの余裕があるかと言えばビミョー。それほどの金額か?
それに、そんなに女遊びが楽しいか?とも思う。
1千越えくらいの仕事をしていれば仕事自体にやりがいがあったり楽しかったりするのだと思うのだが。
1歳と4歳。日々知的レベルが上がっていくのを眺めるのは至高。
仕事と子育てを楽しんでやっていたら浮気までとてもじゃないが気が回らない。
たまに趣味を楽しんだらもう十分。
30代って一般的には気力も体力も充実している。その上経済的余裕があるという素晴らしい状況で
寄りによって女遊びはないだろ…自分の快楽だけにしか目が行かないのはもったいない。
優等生的な物言いだとはおもうけど、普通の生活を本気でやったら相当面白いと思う。
婚活のひとは年収ではなく、目の前の問題に対してどのように取り組んでいるか?
http://anond.hatelabo.jp/20100820215214 にてネトゲでのネナベを薦めている方がいて、かなり同意する所があるので書いてみる。
俺自身は男だけど、今の彼女はネナベをやっていたことがあり、いままでに経験したネトゲでもネナベをやってた知り合いや色んな女性を見ている。彼女らの体験談や自分の体験がソース。
俺のやったことのあるネトゲがPvP(対人戦)可能なものが多かったので少し考えが偏るかもしれないけど、PvPのないネトゲでも基本は同じ。ただ、PvPのあるネトゲより無いネトゲの方が、他人と関わらずオフゲに近い感覚で生きていけるので都会の近所付き合いのように淡白になりやすいかな。
本人にはどうしようもない格差や差別といったものが基本的にない。年齢が評価基準に関わらない。古参でもダメな奴はダメだし、新参でも出来る奴は出来る。加えて頑張りや鍛錬の成果が、数字や勝敗という形で見えやすい。
この傾向を「出来ない奴は根本的に救われないのか」と思う人もいるかもしれないけど、ネガティブな意味で実力主義が使われる事は"リアルに比べると少ない"。他人を叩き貶めても、自分が上手くなったり他人からの信頼を得られないと本質的なメリットがないからね。
例えるなら、スポーツに見られるような信頼関係、自信と信頼の上になりたつ健全な依存関係、そこから得られる充実感がある。
「俺らはよくやった」「君のことを信用していたから、僕は判断できたよ」「君ならあの時ああしてくれるって信じてたさ!」「俺らってすげー!」こんな少年漫画のような充実感がフツーに存在してる。リアルじゃ恥ずかしくて言えない台詞も、ネトゲだと言っちゃう人は結構いる。
ネトゲなんて、皆軽々しくつきあってるんじゃ?いつでもやめられるんだし、リアルな人間関係なんてないよね?信用とか馬鹿馬鹿しい。と思う人もいるかもしれない。確かに画面の向こうに人間がいることを考えずモノのように扱う人もいるけど、とても少数派だ。
ネトゲではなぜ信頼という要素が重要なのか。それは、本当の意味で蓄積される経験値がそこにあるから。
ネトゲでのキャラクターの見た目というのは人間関係の上ではインターフェイスでしかなくて、人間関係の評価の対象になることはまずない。キャラをころころ変える人だっている。ネトゲ歴が浅いうちはアイテムやキャラクターのレベルに価値を感じるかもしれないけど、それもいつかなくなる。全てがかりそめのものであるネトゲでは、本当の意味で蓄積される経験値は、人間関係と自分の経験の中にこそあるんだ。
軽々しくつきあえる、いつでもやめられる。切ろうと思えば簡単に切れちゃう。だからこそ、信頼というパラメタの価値が高いというのかな。これは、やってみないとわかりにくい面かもしれないね。
ここまでで書いたことは少年ジャンプの世界の話みたいで、幾分か男性的に感じられるかもしれない。だけど、女性だからわからないなんてことはないよ。信頼を得たい、信頼したい、仲間と充実したい・・・そんな要求は男女関係なく人間として共通のものだ。
もし、優劣があると感じてるなら「私は女だからこうであるべきだ」「相手は男だからこうであるべきだ」と無意識に背負ってしまっているから。リアルではそういう鎧を着ていないと生きていけない面があるけど、ネトゲでは重荷にしかならないことが多い。でも、"女らしさを捨てろ"という意味ではないんだ。これについては後述するよ。
残念ながらネトゲをやっている全ての人が、先入観を持っていないわけではないんだ。ここではありがちなパターンをあげてみる。
先入観以前に、ネトゲが女漁りの手段になってしまってる人たち。こういう人は、相手を人間としてみる前に男か女かでしか見ていない。そんな付き合いを求めているのでなければ、相手にすることはないよ。
ちなみに、ネトゲだから直結君がいるというよりは、SNSでも職場でも学校でも、コミュニティのあるところには一定数の直結君がいると言った方が正しい。ネトゲは基本が中立的だから、直結君が目立つだけ。
直結君の逆バージョンと言ってもいい。直結君相手に女を売りにしてアイテムを貢がせたりするような人。こういう人は女性が付き合っても疲れちゃう。愚痴ばっかり言われてうんざりしてしまうかもしれない。ぶっちゃけ直結君と遊んでいてもらえばいいと思う。
「女性は実力主義に弱い」「女性はクリティカルなシーンで感情論を持ち出すから面倒だ」というようなものだね。こういう考えを持ってる人は大抵、本当にゲームが上手い女性や人間として信用できる女性にネトゲ内で会った事が無いのだと思う。はっきり言って、同じだけ努力して同じだけ向上心があれば性別は関係ない。
この手の先入観は大抵は悪意から生じてるものではないから、一度考えを改めるきっかけがあると無くなることが多い。
「私は女だからこうであるべきだ」「相手は男だからこうであるべきだ」と無意識に背負われると、女性としてではなく人間として見ようとしていても、それが難しくなってしまう。
男性に対する先入観から、ネトゲでも「男性は怖い。だから防御しなければ。」と身を固めていると逆効果になってしまうんだ。そんな態度は暗に、「私は女性だ!だからそのように扱え!」と発しているのと同じだ。自分から特別扱いを求めてしまってる。
優しい人なら、「本当は他の友達と同じ感覚でざっくばらんに付き合いたいけど、特別扱いしないといけないのかなぁ」と思ってしまう。そうすると、「女だからってそういう扱いしないで!」となって悪循環に・・・まあこれは最悪のケースだけどね。
現実では、「私は女だからこうであるべきだ」「相手は男だからこうであるべきだ」という考え方は身を守る為に最小限必要なものだ。だから、ネトゲでこれをいきなり捨てろといわれても出来ない人は当然いる。それに直結君をいなすのも、ネトゲになれていない女性にはストレスが溜まるものだろう。
ネナベは、そんな人の為の初心者モードだと思う。ネナベという建前が、女性自身にある先入観から開放してくれる。直結君から自動で守ってくれる。自然に振舞えるきっかけを与えてくれる。
当然、ネナベがロールプレイとして面白いからやってる女性もいるけど、本題とずれるからここでは触れない。
男性に対する先入観や女性自身に対する先入観が薄れ、自分の向上心や技術、仲間との信頼に自信を持てるようになったら、ネナベという盾を捨ててもいいと思う。
お互いに人間として評価しあえているなら、女性であることを公言して女性らしい振る舞いをしても、人間としての信頼や友情、評価が揺らぐ事はないよ。
ちょっと難しいかもしれない。だけどこの段階までいければ、素のまま振舞っていても女性である前に人間として評価されるし、男性側にある先入観さえ無くする効果がある。それはその人が"そういう女性だから"ではなくて、人間として魅力的だからなんだよね。
"女らしさを捨てろ"という意味ではない、といったのはそこなんだ。女性らしくあることと、相手に女性として扱うのを要求する事は全然違う。
リアルでは、その学習をするのが難しい。そういう意味で、ネトゲでネナベというステップを踏むのは、かなりアリだと思う。
ネトゲで学んだ先入観を解消する考え方や体験は、リアルへも還元される。たかがネトゲと思うかもしないけど、人間相手の感情や経験は本物だ。生かせるかどうかはその人次第だよ。
俺自身ネトゲを通して色んな女性を立場や縛り無しに見れて、女性に対する先入観がかなり無くなった。
ネトゲという場所に生き生きした女性がいるのは、男性にとっても学ぶ機会になる。もちろん、現実にもそういう場所はある。理想的な職場とか創作活動の場とか。ただ現実では、女性も男性も自分自身を守ることや社会的な要求の為に、先入観や防御や損得の意識を完全に捨て去る事は難しい。ネトゲだと簡単にそれができるってだけ。
異性に対して必要以上の先入観を抱かない事は、相手の警戒心を薄くして素直に振舞ってもらえる余裕に繋がる。
"みんなとセックスレスな恋人でいたい。" を書いた元増田さんは、一人の男性と関係を持つことは、他の男性との友情まで制限すると考えているように見える。俺はそうは思わない。信頼や友情は恋愛関係とは別枠で継続できると思うし、実際出来てる。恋愛関係がなくなっても親友でいる選択ができるということでもある。二組のカップルの異性同士が親友同士なんて、全然おかしくないと思う。
異性との付き合い方が、すべて恋愛の延長になっている人には色々と難しいかもしれない。相手にも異性の親友を認めないとなるとさらに異性との付き合い方の選択肢が狭まる。でも、ずっとそんな考えに縛られるのは、辛くはないのかな。
ギズモード・ジャパンの「自由過ぎるAndroidがユーザーに敬遠され始めてる? 悲劇のガラケー化する懸念まで噴出中...」という記事が話題だけど、コメントでも指摘されてるように超訳ですごいよ。っていうか訳ですらない。翻訳するとき、ちょっと文の構成をいじっちゃったとか、勢いで書かれてないことまでコメントを付け加えちゃったとか、そういう冒険でドキドキすることもあるわけですけども、湯木訳はもう本文以外の電波的ななにかを受信しているとしか思えない。マジでイタコレベル。感動した。イタコ訳と名付けよう。
これがイタコ訳。
http://www.gizmodo.jp/2010/08/android_10.html
「原文」になってるもの。
http://gizmodo.com/5593264/bloatware-creeps-into-android-phones
ちゃんとした訳は下のURLにあるので見比べながら楽しもう。
http://trans-aid.jp/viewer/?id=12179&lang=ja
そもそも米国人の文章なのにガラケー化の懸念が出てくるはずがない。いきなり日本仕様で先制パンチ。百歩譲って米国の非スマートフォンもガラケーなんだと考えたところで、原文には「多機能携帯の再来」とあるだけ。
iPhoneにブロートウェアがないという話はある。原文はそれだけ。対立構造煽りまくり。PV稼ぎまくり。
「大きな苦情の嵐になり始めている」が日本語としてよく分からない。苦情の予測ができるに違いない。すごい。
イタコ訳:実のところ、弊社としましても、本当のところは最初からスマートフォン本体にアプリをプリインストールするのではなく、ユーザーの皆さまが自由に後で欲しいアプリだけをAndroid Marketなどのアプリストアからダウンロードする方式を推奨していきたいと考えています。でも、この点で最終決定権を握っているのは、一般的に携帯電話キャリアのほうでして、弊社もキャリアの方針には従わざるを得ない状況になっています。やはりキャリア側は、ただ単に端末を販売するのみならず、その後の売上げを確保することも含めたビジネスプランを立てていかないといけないでしょうから...
まとも訳:「端末によっても、携帯電話会社によっても十人十色だ」と、HTCの広報担当者であるキース・ノバックは言う。「とはいえ総じて、携帯電話会社の都合でインストールされ、その収益源になっていると言えるのではないか。」(略)「われわれは提携する携帯電話会社と歩調を合わせなければならない。」ただ、「消費者に選択権を委ね、Verizonのように、プリインストールされたアプリを別途ストアに移したいと考えている」
一番戦慄したHTCのコメント部分。原文ではこれだけ。これぞイタコ。HTCの人の心が読める。っていうかHTCの人が「従わざるを得ない」とか言うはずない。インタビュー先が口を割らなくてもなんでも書ける。
イタコ訳:現在、Androidケータイで問題になってきているBloatwareは、フィーチャーフォンの古き良き時代を思い出させるものでもあります。携帯電話メーカーもキャリアも、とにかく他社のモデルとは違う面をアピールしようとするあまり、さまざまな音楽サービスやコミュニケーションソフトなんかを搭載して、かえって多くのユーザーが使わない機能ばかりで膨れ上がった携帯電話の新モデルが次から次へと販売される事態を招きました。それが特にAndroidを搭載するスマートフォンでも生じるようになったということですね。滑稽なことに、メーカーやキャリアは、まさかユーザーがプリインストールされている数多くのソフトウェアアプリを消し去りたいとまではだれも思っていないなどと決め込んでいるのですが、実際にはその逆のようです。アップルのiPhoneでは、最初からキャリアによってプリインストールされているものなんてほとんどありませんけど、Androidならば販売後も売上げを伸ばせそうなソフトウェアアプリを自由に入れられることに着目したキャリア側が極端に走っていることに、ユーザーは不快感すら覚えていますよ。データ通信プランだけでは思ったように利益が伸びないキャリアのジレンマは理解できますが、ここで判断を誤ると、かえって消費者がキャリアから離れていく逆効果になってしまうでしょうね。
まとも訳:「かつての多機能携帯の再来だ」と、Forrester Researchのチャールズ・ゴルヴィンは言う。「端末メーカーやキャリアは、メッセージング機能や音楽機能で多機能携帯の差別化を図ろうとしていた。同様の戦略がスマートフォンでもなされようとしている。」今のところ、これらのプリインストールアプリを削除することは不可能だ。ゴルヴィンは言う。「多くの携帯電話会社は、消費者がそれらに注意を払ったり、削除したいとまで考えているとは思ってもいないのでいだろうか。」
こちらはForrester Researchのチャールズ・ゴルヴィンによるコメント部分。なにこれ。湯木進悟は神か。我々に見えないものが見えるのか。
イタコ訳:どのAndroidケータイを買ってきても、ほぼ間違いなく米国内では多種多彩なソフトウェアアプリがプリインストールされている状態です。
まとも訳:もっとも、全てのスマートフォンがそうだ、という訳ではない。AT&TはiPhoneに余計なソフトウェアを入れないようにしているし、モトローラのDroidには基本的なアプリしか搭載されていない。GoogleやT-Mobileもまた、Nexus Oneにブロートウェアを入れようとする誘惑に抗している。
訳で意味が反対になるパターン。DroidやNexus OneはAndroid。原文読んでない。原文なしでも出来る訳。天才。
イタコ訳:おまけに多くのアプリが、最初の試用期間のみ無料であるものの、一定期間が過ぎると勝手に有料に切り替わって、利用料金を請求される羽目になるというイワクつきだったりもするんですよね...
例えばなに? 書いてない。原文にも書いてない。彼だけが知ってる。本当に翻訳家か。それとも全知全能か。
イタコ訳:現時点では、BloatwareがAndroidケータイのシステム面で与えている影響はストレージ容量の占有くらいに限られていますけど、今後はCPUパフォーマンスにまで深刻な影響を及ぼすレベルになってくれば、もう消費者も黙ってはいないでしょう。そして、とにかくユーザー獲得競争が熾烈な携帯電話業界では、消費者に見限られるほど恐ろしいことはありません。ですから、自然とAndroidケータイのBloatwareも減少傾向をたどって沈静化していくのではないでしょうか。とりわけパソコンよりもリソースの限られるスマートフォンでは、もしBloatwareの問題が根強くなると、一気にユーザーの不満が爆発する方向にだって進みかねませんからね。
まとも訳:現在のところ、携帯端末におけるブロートウェアは、システムリソースではなくむしろストレージを占有するという点で問題である。新規顧客の獲得に鎬を削るAT&TやVerizonが、プリインストールアプリに関して一線を踏み越えてしまうことはないだろう、そうゴルヴィンは考える。「市場は飽和している。顧客の流失を黙って見過ごすことは許されない。」
ふたたびゴルヴィンのコメント。なんかこれくらいならまだ翻訳っぽいかもと思ってくる。日本中の翻訳家歓喜。すごすぎる。
まだまだあるけどきりがない。マジ感動した。この訳を読んだあと、原文を読むとふつうすぎてつまらないもの。これぞエンターテイメント。神の業。湯木イタコ訳に今後とも注目。
基本的に何事も自分が悪いと考える癖ができてしまった。
というか、そう考えることで逆に自分を成長させようとしてる。
とりあえず自分が悪い、もしくは劣ってる→だったらそれを直せばいい、的な感じ。
このやり方が正しいのかどうか分からないんだけど成長はしてると思いたい。
同じことを中高大と10年間続けた経験がある立場から言うと、これはお勧めできない。効果がないというよりも、むしろ逆効果になってしまうからだ。
確かにそのような態度は謙虚に見える。しかし実はこれがさにあらず。これは単なる無責任なのだ。
理由を説明しよう。まず、「常に自分が悪い」と考えることは「常に他人が正しい」と考えることと同じであり、従ってあらゆる他人に判断を依存することになる。そしてその結果、自分でリスクを負って判断する責任から逃れ続けることとなり、自動的に他人におんぶにだっこという態度に無警戒に陥ってしまうのだ。これが実にまずい。当たり前のことだが、「常に他人が正しい」ということはあり得ず、「他人」を信じた結果ひどい目に遭うことだってあり得るわけだが、そうなったときに「安易に判断を他人任せにした自分の責任」という正しい反省ができなくなってしまうからだ。そればかりか、間違った判断をした他人を必要以上に逆恨みしてしまうことになる。
もはやこれは謙虚などというものではない。幼児に全面依存を許す親のような態度をあらゆる他人に要求するようなとんでもない尊大な態度ということになってしまうのだ。
具体的にはどういうものか。例としては厳しすぎるように思えるかも知れないが、オウムやアルカイダの信者がそういう態度の行き着く一番不幸な例だ。彼らの多くは実は自分に厳しく真面目な青年だった。自分を過信せず、世の中に自分をできるだけ適応させるように努めた。だが、世の中には実はかなり酷い面もあった。それを知ったとき、彼らは世の中を憎悪し、次の依存先を求めた。そして行き着いた先が、わかりやすい物語を提供してくれる「尊師」だったのだ。
そこまで行かないにしても、世の中を憎悪するばかりで何も生み出さない人間というのが世の中に結構いることははてなを見ていれば大勢いることはわかるだろう。ああなってはいけない。
俺の場合は、自分の中で恋愛をするまでに超えるべきハードルを設定してるから
それを超えない限り自分の中ではスタートラインにすら立てない。
こんなハードルすら超えられない人が誰かに愛されるわけがないと考える。
実際のところ、宅間守みたいな人間の屑中の屑でも女をとっかえひっかえしているわけで、その時点でこの考えが誤りであることは明らかだ。それに早く気付くべき。
真面目な話、「俺は宅間以下なのか」とまで自分を無意味に責め苛んだあげく、苦しみの他にはなにも得られない非モテははてなあたりを見ていれば大勢いることはわかるだろう。ああなってはいけない。
以上、貴重な青春時代を君みたいな態度を取り続けて浪費した挙句、魔法使いが目前となってしまった元はてな非モテネガティブブックマーカーが実体験をもとに、自分を反面教師として記す。俺の轍を踏まないように、
を心がけて欲しい。
大人になるということは、子供を卒業することだ。精神的に子供だというのはすべて、自分のせいであり、自己責任である。子供であるというのは、親や教師の許可がなければ自分の頭で考えられないということだ。こういう風な子供じみた態度が自分のせいだというのはなぜかというと、それはその態度が、頭が悪いからということではなくて、親や教師の許可を得ずに自分の頭で考えて動く度胸がないところから来ているからだ。だから、「自分で判断しろ」「自分の頭で考える度胸を持て」と私は言いたい。それが大人になるということだ。
出典はどっかのドイツ人だけれど、権威主義みたいになるのが嫌だから敢えて名前は伏せておくよ。もちろん、その「どっかのドイツ人」というのはどこにもいないんじゃないかとか、実はヒットラーなんじゃないかとか色々疑ってみてもいいんだよ。そうやって自分で考えることが「自分で考える」ということなんだから、信用していいかどうかも自分で考えてみてね。
人が自殺をしようとするのを、なぜ人は止めようとするのか。
例えば、ビルの屋上から飛び降りようとしている人を止めようとする人がいる。「自殺するぞ」と言って立て篭もる人を説得しようとする人がいる。
「生」のウィキペディアに『対義語は「死」』と書かれているが、この地球上に産まれた時点で勝手に備わっている生と、その終結である死は同等ではない。確かに生と死は同時に存在しない、表裏一体の現象だろう。
しかし今呼吸をしている瞬間だって「生」を意識していなくても「生」の状態なのに、自殺による死は自然の状態ではない。(老死や病気による死などは除く)
毎日死んでいたけど、ある日突然生きることになりました!的な人なんて居ないし…対等ではない対義語に疑問を抱く。
そんな事を考えていたとき、ふと動物ドキュメンタリー番組の映像を思い出した。
ヌーの群れにライオンが突っ込んで逃げ遅れた1匹をライオンたちが一旦捕まえるけれど、一度逃げたヌーたちが戻ってきてライオンを撃退するっていう内容。
もしかしたら同じ種の生命を守ろうとするのは生き物の摂理なのかもしれない。
しかし人間は複雑に考える脳と感じる心を持った生き物である。
死にたがる人に対して無暗矢鱈に「死ぬな!」と説得するのは逆効果だと思う、なぜ死を選ぼうとしているのか理解してあげることの方が大切かな?
加工貿易でメシを食うしかない以上、新製品・新技術の開発によって、商品を更新していく以外にない。
その為に必要な環境を整えるのが、政治の役割であるが、バブル崩壊後の日本の諸制度は、新製品や新技術の開発のリスクを極大化する方向に進んでしまった。
新製品や新技術を開発することが不合理となるのであれば、高賃金の従業員を抱え込む必要はないし、従業員を抱え込まないで良いのであれば、国内に工場を置く必然性もない。
基軸通貨に挑戦するユーロが現れたという外部事情もあったが、日本国内の産業を弱める方向性で、制度が改廃されていった。
自民党に対して国民が愛想をつかしたのは、このためである。個別の政策においては合理的であっても、全体を通してみると、不合理であったり、必要な施策が欠けている為に、結果的に逆効果であるといった、作為・不作為が続いていた。
しかし、政権交代をさせてみても、新与党は自民党時代よりも状況を悪化させてばかりであった。
日銀をせっついて円売り介入をさせようとしているようだが、単独介入の効果はスムージングであって、相場のモメンタムを変えられるだけの力はない。
協調介入は、新技術や新製品が出てこない以上、円高で困るのは日本だけなので、ドルもユーロも協調する必然性がないし、今の日本政府とは、どんな約束も出来ないと理解している。
円高になってもびくともしない競争力を維持する為には、新製品・新技術が常に必要であり、新製品・新技術の開発力は、加工貿易国家である日本の生命線である。
この観点から、物事を考えるようにしなければ、国民の支持を得られる改革にたどり着く事はない。
[2010.8.13]
http://anond.hatelabo.jp/20100805102351
親不知を除いた28本の歯のうち、80歳までに20本は残しましょうというスローガンだけど、ぜんぜん達成できていない。
たとえば、80歳の時点で、平均して、
アメリカ | 15ほん |
---|---|
スウェデン | 25ほん |
となっているけど、実は日本は、
日 本 | 07ほん |
---|
しか残らない。
歯磨きの習慣も99%普及しているし、みんな健康に対する意識が高いにもかかわらず。
いろんな歯磨き粉も選び放題だし、たくさんの種類の歯ブラシもある。
けど、虫歯に関しては、自分だけの努力でやるのは無理だそうだ。
自分でやる歯磨き自体の貢献度は、そんなに高くない。10~20%ぐらい?
もちろん、自宅でケアするのは非常に大事だが、結局は、定期的に歯医者に診てもらってメンテナンスすることが大事だ。
上の表を見ても、スウェデンはともかく、なんで日本より医療が崩壊してそうなアメリカのほうが、日本よりも残存本数が多いかといったら、異常がなくとも、年二回は歯医者に診てもらっているからだって。
なんでそうなるかというと、むこうの保険は民間で、最終的な支出を抑えるために保険会社は予防に熱心らしい。
というか、外国旅行のガイドなんか見ると、ほぼ必ず、「日本で治してからいけ(外国は高いから)」と書いてある。
アメリカなんて、歯を一本抜けば20万円ぐらいとられるらしい。
だから、歯医者に行くことを保険会社に強制させられる。結果として、歯の喪失が少なくなる。
日本だと、どちらかというと、なにか異常が発生してから、歯医者に行くと思う。
けど、それは実は末期症状で、すでに手遅れの状態だ。ほんとうは、痛くなる前に行くべきなんだ。
だから、定期的にメンテナンスに行くべきなんだ。
何も異常がないことはなく、何かしらは見つかるはずだ。歯石とか。
結局は、そのほうが抜いたり銀歯にするより、安くすむ。もちろんインプラントよりも。
日本では保険制度のせいで、いつでも安心して歯医者に行けてしまう。それが逆効果となって、放置してしまう。
「まだ大丈夫だろう」と思ってしまう。それが落とし穴なんだ。
つまるところ、残る歯の本数は、どんだけこまめに歯医者に行っているか、その回数に比例するようだ。
スウェデンが多いのは、単純な理由で、頻繁に歯医者に診てもらうからだそうだ。
アメリカでは、デブの人は、自己管理ができないとみなされてしまう。
同じように、口をあけたときに銀歯が多いような人は、自己管理ができないとみなされてしまう。
これからグローバルに出世したい人は、英語のみならず、歯のメンテナンスもちゃんとやるべきだろう。
一青窈のお姉さんに診てもらうといいと思う。
大学のころ、私はあるサークルに所属していた。そこは所属人数が多く、いろいろな人がいた。
その人にあったのはそのサークルで、彼女は私の後輩だった。パートの関係で練習の際に顔を合わせることが多かった。
初めてあったときの印象を述べると、真面目で大人しそう、人見知りなのだろうと感じた。
なんとなく、いじめられっ子な気がした。
初対面での印象はおおむね合っており大人しいタイプだったが、人見知りというわけではなくもとから人と接することが下手で受身であった。
そして馬鹿にされる人であった。
普段からおどおどしており、電話すると「はぁい、○○です」といった具合に話し方も間延びしていかにもとろそうなのだ。
頭は悪くないのだが、挙動がとろい人のそれである。
サークルには時々あることだが入って数ヶ月後にはもてなさそうな人同士をくっつけようとするおせっかいな人々のターゲットにもされていた。
もともとほとんど自分から話さないため飲み会では存在感がなく少人数でもあまり口を開かないか、話しても変なことをいう事が時々ありつまらない。
気もきかないし、2人きりだとこちらばかりが話すことになり気疲れする。したがって知り合いはいても友達はほとんどいない。
ときどき大学で会って世間話をしていても途中であらぬ方向をみたりする。
その結果何かした覚えもないのに嫌われたと勘違いされたり、あいつは後輩なのに挨拶しようともしない失礼だとかで先輩にも受けが悪い。
後日聞いたところ本人はそういうつもりがなく、会話が終わったと思ったのでそういう行動を取ったのだそうだ。
あいさつは大事だよと忠告しても、そうかなぁ?とうけとらない。
他にも色々言ったが、的はずれな反論をするので言うのはやめた。
しばらくして彼女は気が強い人や性格の悪い人にきついことをいわれるようになっていた。
「もっとてきぱきうごきなよ」「あんたとろい」「ぱっとしないよね」「なにやってんの?」「ああ、いたの」
周りに人がいれば庇ってくれることもあったが2人きりの時はどうしようもなく、
積極的に庇おうとする友達や先輩がろくにいないうえ彼女に嫌われても特に困ったことはおこらないのだから、きつくしやすい。
歯止めをかける要素がないのだ。
その上本人は無反応で傷ついていないように見えるため、どんどんエスカレートしていった。
そのとき彼女は「中学校でも高校でもいじめられてきた。私は何もしていないのに」と言った。
確かに彼女は「何もしていない」。確かに彼女は悪いことはしなかった。しかし挨拶も世間話も他人への気遣いもしなかった。
他の人がしていることをなにもしなかった。何をされてもおどおどへらへら笑っているだけで言い返しもしなかった。
何もしない人は、自分を守れない。当たり前だ。
彼女が嫌な目にあったことは、彼女のいろいろな欠点がそれを誘発していたのは事実だがそう思う。
人数の多いサークルだからいろいろな人がいて嫌な人もいたけれど、彼女にやさしくしていた人もいた。アドバイスしていた人もいた。
でも彼女は変わらなかった。あまり一緒にいたくない人だった。
たぶんどこにいっても程度は違えど彼女はそういう目にあっていただろう。
誰にも他人に嫌がらせする権利はないけどそれはあくまで理想だから。
ストレスフルな現代社会の人々は常にストレス解消の道具を捜している。
彼女はあまりにもわかりやすい獲物だった。見た目からしてこいつはいじめても安全、というサインを発していた。
「いじめられたりするのは、君は悪くないけど君にも原因があるよ」
本当は言ってはいけない言葉だけど、彼女に言いたくなった。でも言わなかった。
言ったとしても、これまでを考えると彼女がこの一言を受け入れられるほどの信頼を私に寄せているとは思えなかったから。
そう言う場合はいっても逆効果なのはこれまでの経験で分かっている。
とりあえずもう少し明るくなってイメチェンしてみたら?といっておいた。
彼女が今どうしているかは、知らない。
追記
所属しているサークルは技術がいるところで、先輩が後輩に教える必要がある。体育会系や音楽やってるところをイメージして貰えればよいかと。
あとイジメ、いじり、嫌がらせには参加していない。参加していないからこそ相談を受けている。
高校までならいざ知らず、大学生にもなって他人をいじめるような人なんてまともなわけがない。
まともな人間は嫌いな人とは関わらないように過ごすものだ。
私自身、彼女といると気を遣わされる上に無神経な発言などで非常にいらいらした。
顔を合わさなければならない立場でなければ避けていた。
それから彼女の場合、自分が馬鹿に見られやすい、なめられやすいといういじめられる原因は自覚していたが
親しみがもてる、話しかけやすいともいえるとポジティブに捉えていた。
本人は、いじめる相手が根性が悪いのであって(確かにそれは事実だが)
「ハーァ、なんだか最近、力が入ってこない...。」
どんなに人生経験を積んで成長したとしても、私たちは大失敗をしたり、飽きてしまったり、急にすべてが無意味に思えてしまうことがあります。
そんな時、あなたはどうしていますか?
私は、「ここであきらめるのは、もったいない!」と歯を食いしばってがんばるのですが、クタクタに打ちひしがれて、結果的に逃げるように撤退してしまった経験が多々あります。
まるで、ハエが外を目指して見えないガラスの窓に何度もぶつかり、命を使い切ってしまう、そんな状態です。
このように人生について行き止まりのように感じる時、どうすれば良いのでしょうか?
そんな時は、こう考えてみましょう。
神様が「一旦気持ちをゼロにリフレッシュしてから再スタートしたほうがいいよ」というサインがあなたに送っているのです。
今日は、また走りだすための上手なリセット方法をいくつかお伝えいたします。
1.潔く変化を受け入れよう
「気持ちのやり直し」を自分自身に迫られる。
それはどんな状態なのでしょうか。
あなたはもう、昔のあなたじゃない、ということです。
もう、あなたは同じものや人に惹かれてはいないし、あの時立てたゴールだって今や魅力のないものに変わってしまっているのです。
それは仕方のないことです。人は毎日、成長し変化するからです。
一貫性がないだとか、熱しやすく冷めやすいだとか、自分を責めてはいけません。
昔の気持ちを忘れて(捨てて)、今の気持ちを感じなおしてみましょう。、
はじめは難しいかもしれません。昔ほど、モチベーションが湧いてこない!と焦ることだってあるかもしれません。
潔く変化を受け入れよう。
そうすれば、元の場所に新しい自分がカチッとはまる素早さに驚くことでしょう。
2.思いきって、新しい人の輪に入る
私たちは、無意識のうちに見知らぬ人を避けていることがあります。
それがまさに、あなたを退屈や失望、失敗に陥れているのです。
会う人 会う人を少し見たり話したりしただけで「こういう人だろう」と予想してはいけません。あなた自身が奥深いように、他の人だって数分みただけでどんな人かわかるわけがないのです。
変な気負いや遠慮は思いきって捨て、いつもの自分を出して、流れに委ねてみましょう。
新しく出会う人を、フレッシュな気持ちで受け入れて続けていけば、人生は本当に変化していくはずです。
3.しょうがないけど、負けを受け入れる
仕方がないのです。負けを受け入れましょう。
そして、進みつづけるのです。何かを失ったかも知れないし、大切な人ともう二度と会えなくなったかもしれません。
それを受け入れましょう。その現実、そのデータは紛れなく正しいのです。
はい、だからそこで 自分との戦いはそこで終わりです。
思考の空回りはしっかりストップさせましょう。
その空回りをつづけている内は、同じ場所をグルグルまわっているネズミと同じです。時間の無駄、体力の無駄、お金の無駄です。
戦いが終われば、新しい勝利を手にするチャンスがやってくるのです。
腹をきめて、受け入れましょう。
4.まとまってなくても、誰かに話す。
友達じゃなくても構いません、あなたの話を聞いてくれる人ならば。
自分の今の気持ちを、言葉に変えて 外に出してみるのが目的です。
話しているうちに気分が良くなるかも知れないし、リアルタイムで整理しているうちに出てきた矛盾から新しいアイデアが生まれるかも知れません。
5.思いきって、リスクをとってしまう
自分がオロオロしてしまうような、新しいチャレンジをしてみましょう。
何かを踏み出すのが怖いなら、バンジージャンプをしてみたり、恥ずかしくてできないことがあるならば、人前でのスピーチを買って出るのもひとつの手です。
人は、「安全な場所から出たくない!」という思いがあります。だからといって、安全な場所からでなければいつまでも、その中で過ごさなくてはいけなくなってしまいます。
安全な場所を広げるには、安全な場所から思いきって出てみるのが効果的なのです。自分の怖がっていること以上の場所にいってしまえば、その場所はもう安全地帯になるのです。
6.それまでの事を、ワーッと書き出してみる
小説にしようだとか、あわよくば出版しようだなんて、思わないでください。ただ、飾らずに思いついたままを、あなたの言葉で書き綴っていくのです。そして、「どうして今ここに自分がいるのか」を描いてみましょう。
はしょらなくても大丈夫です。急ぐ必要もありません。
あなたは、ひとつひとつ言葉を書いていくごとに、今の現実を認識していくことでしょう。
何が起きているかがわかれば、問題はほぼ解決したも同然です。
あとはスマートな解法を見つけるのみです。
7.勝ち負けはコインの裏表であると知る
勝つ時もあれば、負ける時もある。ずっと勝ち続けることはできない。
反対に、負ける時もあれば、勝つときもある。
勝ち負けをコインの裏表なのです。次はわからない。
だから、勝ち負けに過剰に反応しつづけている内は、幸せにはなれないのです。
勝ち負けの牢獄を出よう。
積み上げてきたものを、楽しんで、次に進めばいいのです。
8.今ここを生きる
今、生きているこの一瞬を受け入れよう。
なぜなら、その瞬間はもう、二度と訪れないから。
過去にはいけない。
もう過ぎ去ってしまった。
「過去」というのは人間のこしらえた一つの考え方。「未来」も同じ。
今にしか生きれない。
だから、それを受け入れよう。
人は、今をがんばることしか、できない。
その過去につながっているものを、全部 捨ててしまおう。
それが目に付くたびに、あなたは憂鬱な気分を思い出す。
それを思い出すたびに、あなたはグッタリとやる気を失ってしまう。
「捨てる」という行為は、自分自身でない物事を認識する作業です。
つまり、「自分は誰か」という認識の強化につながる大事な作業なのです。
不要なものを捨てれば捨てるほど、あなたは軽くなったり明るくなったりする気分を感じることでしょう。
自分自身でない部分を捨てれば、努力はヒィヒィ言うものではなく、もっと自然に熱中するようなものに変化していくはずです。
10.道具をまっさらに一新する
たとえば、コンピューターを再インストールして、真っさらにしてみましょ。iPhoneを復元して、買った時と同じ状態に戻してみましょう。同じ真っ白の手帳を買い換えてみましょう。
いらないもの・必要なかったものは、そのまま忘れ去られるはずです。
(きっと、いらないものがほとんどのはずです。)
反対に、必要なものは必要にかられて、より適切であなたに調和した形で、再構築されるでしょう。一新する前後で、違ったものになったのだとしたら、あなたはそれが必要だったということです。
そんな思い切ったリセットが必要だったということです。
より身軽になって、スピードもあがるはずです。
11.再設計する
そういう部分は廃止してしまいましょう。
12.「小さな」新しいパターンを取りいれる
大きな変化を起こすというのは、小さないくつかのパターンを変えるということです。
理想の自分が取りうる「小さなパターン」を洗い出してみましょう。
それをどんどん部分的に、取りれていくのです。
やがて古いパターンを断ち切られ、新しい自分をつくる着実な一歩が刻まれていくでしょう。変化とはその積み重ねでしか無いのです。
13.昔の友人に連絡してみる
10年以上 連絡をとっていない友達を探しましょう。そして、連絡をとってみるのです。話を聞いて、その友達がどのように人生を歩んできたか理解しましょう。
あなたとその友人は、途中まで同じ道を歩んでいました。
しかし、あるタイミングやきっかけで別々になっていったのです。
そういった共通点もあり異なる生活を送っている友人の話は、新しい視点をあたえてくれるかもしれません。
14.引っ越す
違う場所へ引っ越してみましょう。自分を取り巻く環境というのは、記憶そのものなのです。環境を変えることで、古い記憶は薄れていくことでしょう。
それが難しいなら、毎日訪れている場所をかえる、道をかえる、それでも効果があるはずです。
はじめは不慣れなことや大変なこともありますが、変化を促してくれることでしょう。
15.熱中しているゲームを変える
「キャリアアップ」というゲーム、「家族」というゲーム、「収入アップ」というゲーム。「恋愛」というゲーム。
あなたは今、どんなゲームに熱中していますか?
あなたのゲームの得点は何で、100点満点中 何点を稼いでいますか?
よくよく考えたら無意味なゲーム、退屈なゲーム、自分が死んでいるように感じるゲームは、考えなおしてみましょう。そのゲームであなたが稼ごうとしているスコアは意味がありますか?本当は、どのスコアが欲しいですか?
16.よく笑う・笑いを見つける・笑いを作る
厳しい現実や、退屈な毎日を目の当たりにしているときでも、あなたは毎日の生活の中に「笑い」を取りいれるようにしていますか?
「あんなつまらないことで笑うなんて」と他人をさげすむのはやめましょう。笑っている人はエライのです。
日々の生活に、笑いを見つけるようにする。笑いを作るようにする。
そして、声に出して顔や体全体で笑うようにする。
これだけでも、毎日に大きな違いがでてきます。
それを持つのも大事ですが、行き過ぎると逆効果になることがあります。もしかすると、今の状態も 真面目すぎた逆効果かもしれません。
心から笑えば、心は解き放たれるし、笑いを通して 凝り固まっていた考え方が溶け出すことだってあります。
きっと、周りの人もこわばったあなたより、笑顔のあなたに手を差し伸べるに違いありません。
よく笑うように心がけましょう。
17.他の誰かに、教えてみる
誰にでも才能があります。特別な能力や、面白い考え方、モノの見え方があるのです。それを、友人や家族に教えてあげましょう。
必ずしもそれが、ずば抜けたレベルである必要はありません。
他人に教えるという行為は、自分に教えることに直結しますし、知識の整理や強化、体系化に大きな役割を果たすのです。
そんな時間を共有する中で、あなたは反応や発見を得ることができます。
相互作用こそ、インスピレーションを生み出すカギなのです。
18.「Yes」を言いに行く
新しいことへの抵抗をしている限り、新しい変化は訪れることがありません。
本質的な変化というのは、Yesをいう余裕によって 創りだされていきます。Yesと言いたいのに、Yesが口から出てこない。Yesを言いに行きたいのに、足が動かない。
それはきっと、能力以上のことをやる恐ろしさがあるからだと思います。
世の中には、何の保証もないことが溢れています。保証のないところからスタートして物事を成し遂げる事が求められているし、保証があると思っていても、刻一刻と変化する状況の中で、その保証が無意味になってしまうことだってあるのです。
やりたいのならYesと言って、今 この瞬間にベストを尽くすしかないのです。
19.キッパリと「No」を言う
注力すると決めたもの以外は、キッパリとNoを言いましょう。
不必要なものにYesを言えば、あなたの中に、また「自分ではない部分」が作られていきます。それが足枷となり、あなたのフットワークを奪い、気持ちを暗くし、時間を浪費させるのです。
また、そういった無責任でベストでない状態で、物事を受け入れても頼んだ相手はガッカリ失望するだけでしょう。
責任の質を向上させましょう。けして量を増やしてはいけません。
上手なNo、合理的なNo、思いやりのあるNoをいえるようになりましょう。
20.「バカ」になってみる
失敗の恐怖。これこそが、私たちが新しいチャレンジを阻害する大敵です。笑われたらどうしよう、他人の目が気になる、そんなことが頭の中をグルグル回り始めてしまうのです。
振り返ると、「無知だからこそできた」バカなチャレンジと成功はありませんでしたか?それも今の自分を形作っている大事なチャレンジが。
当たり前の話ですが、はじめる前に全ての道すじや結果を知ることは、できません。
普段、私たちはバカにならないことに意識を集中していますが、もし 新鮮な気持ちで再スタートを切るのならば、「バカ」になってみるのも大事なことなのです。
あなたは、みんながその人気の秘密を知りたがるスターだったとしましょう。この世界を光で照らす、英雄なのです。
栄光をふりかえって、心を開いて 本当のことを正直に、話してみるのです。そして、それを読み返してみましょう。きっと、発見があるはずです。
22.レンズの焦点を調節する
人生を正しく見るためのレンズが曇っていると、大切なことを見過ごしがちです。それは、何を撮ったらいいのか、はたまたどこに焦点をあてたらいいのかがわからないカメラに似ています。
少し焦点をひいてみたり、近づけてみたりして、何を見るべきかしっかりと調整しましょう。
23.一日を「反応 < 行動」にする。
私たちの日々の生活は、何かへの「反応」がほとんどです。
仕事に反応したり、上司やお客さんに反応したり、自分の役割に反応したり、家族に反応したり、広告に反応したり。
何か起きたことに反応をつづけている限り、人生への意識の感度はどんどん鈍っていき、フレッシュな気持ちで再スタートをきることはとてもむずかしくなってしまいます。
反応がメインになると、何かに追われるだけの しんどくて退屈な毎日に飲み込まれてしまうからです。
けして恐怖や拒絶にまけることなく。
一日の時間が、反応 < 行動に変わったら、新しい道が開けるに違いありません。
24.意味のない問題を解きつづけるのをやめる
本当に、本当に、大事で意味があることに集中しましょう。
誰かに言われたことや、対抗心、意地の張り合い、そういうものに囚われるのは無意味です。
目の前に はまりやすい問題が転がっていると、私たちはそれを解きたくなってしまいますが、それが「本当に、本当に、大事で意味があるのか?」しっかりと再考しましょう。
25.「できること」よりも「やること(意志)」を言い聞かせる
それが私たちを形作り、ひいては現在の人生を構成していくのです。
「できること」を言い聞かせ続けていても、変化はありません。
それよりも、自分のやりたい事、そしてやること(意志)を自分自身に言い聞かせましょう。
変化とは、自己との対話です。
生産的な対話が、素晴らしい結果を生み出すのです。
26.完璧主義をやめて、肩の荷を下ろして取りくむ
不完全を避けて、ものごとをやり切ることができなかったり、世に発表できなかったとしたら、それは不完全以下の「無意味」です。
ゼロです。
世界は全体として、助け合って成り立っています。
不完全さを表に出すことで、あなたを補完してくれる何かが集まってくることを信頼しましょう。
執拗な禁煙要求はおかしいとは思うが、このような人を擁護していると思われるので、擁護することすら、難しくなる。
野外での副流煙は事実上問題がないので、子供いない所では問題ないと私は思う。
しかし、子供が失明ししそうになったことを運が悪いとか言うようでは、人の説得は全く出来ない。
自分が失明したときにも、運が悪かったと言うのかな?
仕事(医者ではない)の関係上、メンタルクリニックに通う方々と話をすることがある。
数年前から顕著になってきたのだが、本気で「鬱に頑張れは禁句」と思い込んでいる人が多い。
というより、励まされて憤る患者さんが増えている。
「みんな私に“頑張れ”って言うんですよ。酷いと思いませんか」
いわゆる「頑張ろうとしても頑張れない」という状態に陥ることが多く、
そんな彼らを「頑張れ!」と励ませば余計追い詰められて逆効果になる…
そこから「鬱に頑張れは禁句」という教訓が生まれた。
しかしそれはあくまで鬱の人に接する周囲の心がけであって、本人が気にするようなことではない。
「お客様は神様だろうが!」と店員にクレームを付ける客がいるが、
あれも元は店側の心構えを表した言葉であって、客御自ら振りかざす言葉ではない。
それと同じである。
しかし患者本人がこの言葉を気にしてしまうと、どうしようもない。
特に冒頭の患者さんのように「鬱に頑張れは禁句」→「鬱を励ますことは禁忌」と
“悪意あるもの”となってしまう。これでは治るものも治らない。
たまに患者さんではなく、患者さんの家族から同じケースについて相談を受けることがある。
心の底から心配しているのに、本人がどんな励ましや支援も嫌がるため、
どう接していいか分からず、かと言って敬遠も出来ず、困り果ててしまうそうだ。
頑張れと言われること、励まされることを厭う人へ。
症状をからかうために「頑張れ」を連呼する輩は論外だが、
全ての「頑張れ」が拒絶すべきものではないということを、どうか覚えておいてほしい。
この増田の院卒の人の話を見ていて、なんだか自分と似てるな、と思ったので書く院卒。あくまでも、自分の例なので、的外れかもしれないが。結論から言えば、「向上心がない」というのは違うと思う。「うなづいていれば、そのうち終わると思っている」というのも、違うと思う。
本人は、ものすごく「後悔」をしているのだと思う。逆に、非常に深く後悔しているからこそ、無駄に些細なところに注意してしまって、最低限おさえておかなければならない注意点がおろそかになってしまったり、逆に人の反応に過度に臆病になって、本来は人にやっておくべき連絡事項や根回しなどをしなくなってしまう。こういう人に、「他人の言うことを聞け」というのは、実は、逆効果になる。少なくとも、自分は逆効果だった。逆効果になる理由は、本当は、「些細な点への過度な注意」や、「過度に臆病になる」点を直さないといけないのに、本人は、このような行動を取ることが「人の話を聞く」ことだと思い違いしてしまっているからだ。だから、「人の話を聞け」、「人の反応に注意しろ」というと、なおさら、同じ行動を繰り返すことになる。
なんというかな、本人の中では、言われた注意が全部並列なんだよ。本当は、どんな仕事でも、言われた注意の中には、「できればした方がいい注意」というのと、「守らなければ致命的な注意」ぐらいの区別がある。で、このタイプの人は、いわゆる「無駄に真面目」なので、この二つを区別することができない。言われた注意は、全部、確実に守らなければならない絶対命令だと思ってしまう。そうして、最近注意された「できればした方がいい注意」の方に気をとられて、最初の方で言われた「守らなければ致命的な注意」の方を犯してしまう。他の人が注意すればするほど、配慮しなければいけない注意の量は増えていくが、人間が一度に配慮できる注意の量には限りがあるので、「どの注意も絶対守らないといけない」と思っているこのタイプの人は、キャパ越えして、同じ注意を犯してしまう。
本当は、知識として覚えておかなければならない注意などごく一部で、多くの注意は、論理的に考えれば帰結できるはずなのだ。ところが、このタイプの人は、他人を必要以上に恐れており、他人に言われたことは全て守らなければならないと思っているため、「注意された理由を考える」という概念が欠如している。そして、言われた注意を全部丸暗記しようとする。この方法は、実は、試験では上手くいく。試験では8割とか9割覚えていればよい。論理的な思考力を必要とする部分は、「論理的に考えて記述しろ」と、問題文に書いてある。ところが、現実世界では、論理的な思考と記憶に頼る部分を臨機応変に組み合わせて使い、ほぼ100%正しく行動しなければならない。このタイプの人は、現実世界では、「論理的に考えて記述しろ」と書いていないので、自分で論理的に考えることが許されるとすら思っておらず、注意された理由を考えずに、注意を丸暗記しようとする。そうしなければならないと思い込んでいる。そして、失敗する。
自分は、大学時代に自分のこの性質に気づいた。何度やっても「人の話を聞け」と言われる。自分では、人に言われた事にものすごく気を付けているつもりなのに。ある時、もう、真面目になるのを諦めて、「不真面目になろう」、「人の話を逆に全く聞かないようにしよう」と思った。一旦、全部の注意をまっさらにして、自分が他人だったときに論理的に考えてやられると困るミスから潰していくようにした。他人に共感することはできなくとも、いい大学に入っているのだから、論理的に考えることは一応できる。そうしたら、だんだん、普通に作業できるようになった。
一言で言えば、この元増田の文章にある、院卒の人は、「過真面目」なのだと思う。要するに、本人が「真面目」と思っている方向と、他人が「真面目」と思っている方向がズレているので、本人が自分の感覚で自分を「真面目」な方向に修正すればするほど、状態は悪くなる。本人が自分の感覚で、自分を「不真面目」な方向に修正すると、少しは改善すると思う。で、元増田はどうすべきというと…。うーん、ぶっちゃけ難しい。その人自身が、一旦、自分の感覚で「不真面目」な方向に進んでいいんだ、と思ってくれないことには仕方がない。この文章を見せて、本人の反応を見るしか無いのではないだろうか。